洛西

2024年9月14日 (土)

京都・洛西 桂離宮 2024.9.14

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令和6年9月14日、桂離宮を訪れてきました。以前から来たいと思っていたのですがなかなか機会に恵まれず、今日やっと念願が叶ったという次第です。

桂離宮は八条宮智仁親王によって建てられた別荘です。当初は桂山荘と呼ばれ、元和元年(1615年)に建設に着手し、数年の内に完成されました。この時は古書院だけが建てられたようですね。智仁親王が亡くなってからしばらくの間は荒廃してしまいましたが、二代智忠親王が前田家より妻を迎えられた事で財政的裏付けを得る事が出来て、中書院を始めとする山荘をほぼ現在の様に整備されました。そして、寛文2年(1662年)に後水尾天皇の行幸に際して新御殿が増築され、書院群が現在の姿となっっています。書院が雁行しているのは三つの建物が時期をずらして建てられたからなのですね。

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拝観時に最初に案内されるのが御幸門から見た表門です。写真では判りにくいですが、一番奥に門があり、外国からの賓客があったときにだけ使われるそうです。もっともおよそ50年前にエリザベス女王がお越しになったなった時以来開いていないそうで、その後はお客様は来ていないとの事です。何でも宮内庁からは積極的に働きかける事は無く、外務省からも要請が無いからとの事で、両省庁はあまり繋がりがないのかしらん。それはともかくとして、この道は手前が広くて奥に行くほど狭くなっているそうです。要するに遠近法で、入って来るときは御幸門が近く見えて早く入りたくなり、帰るときは正門が遠く見える事で名残惜しくなる様になる仕掛けだそうです。

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御幸門から続く道は御幸道と呼ばれ、小石が敷き詰められています。近くを流れる桂川から拾ってきた石を敷き詰められたそうで、平たい面を上にして埋め込んであるのだそうです。地味ですが、とても手が込んでいますね。

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御幸道から苑内に入ると外腰掛けがあります。次の茶室松琴亭のための待合で、左手に雪隠が付いています。雪隠と言っても主な用途は着替えるための部屋だった様ですね。この腰掛けだけではなく、離宮内の縁側には実際に座らせて貰えます。貴重な文化財なのに太っ腹ですね。

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その腰掛けの前には蘇鉄が植わっています。日本庭園には場違いな様でいながらたまに見かけますが、江戸時代以前には珍しい植物だった事で、好んで植えられたそうです。

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州浜の先にある小さな灯籠は灯台を表しているそうです。桂離宮には沢山の灯籠がありますが、総じて小さく、灯りを灯した時に月の邪魔にならない様に配慮されているのだとか。この離宮の主題は月見にあるのですね。

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池の中にある石橋と細長い半島は天橋立を模しているそうです。それにしても良い景色で、日本庭園の最高峰と言われるだけの事はありますね。時間があれば何時間でも眺めていたくなるような庭でした。

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次に案内されるのは茶室の松琴亭です。離宮の中でも最も格式が高い入母屋造りで、大きな建物ですが後ろ側に三畳台目の茶室があり、にじり口から入る様になっています。ここに行くには切石で出来た一本橋を渡る必要があり、手摺りも無く不安定で、高貴な人に対しては不親切な感じがしますが、それも侘び寂びの趣向というものなのでしょう。

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表側の建物には大きな市松模様が施してあり、ちっょと唐突感がありますが、離れてみるとこの模様が丁度良い感じに見えるのが不思議ですね。右下の襖には狩野探幽が描いた水墨画が施されており、中には炉が切られていて、冬には炭が焚かれて暖房が施されていたとの事です。

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苑内で最も高い位置にあるのが賞花堂。とても開放的な建物で、夏を過ごすためにつくられたのだとか。眺めがよいはずなのですが、木が茂っていてあまり見通しは利かなかったです。

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離宮内で唯一瓦葺きなのが園林堂。歴代の位牌が納められた持仏堂です。現在は全ての位牌は相国寺に預けられているとの事でした。これは笑意軒前から見た姿ですが、前の土橋と調和して何とも良い感じですね。

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最期に案内されるのが笑意軒。切石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した茶庭です。この写真では判りませんが、軒下に六つの円い窓が並ぶという面白い意匠が施されており、そのどの窓も形が違っています。この奥に大きな窓があり、離宮の外が見えるようになっています。この地はかつて瓜の栽培が盛んで、瓜見(瓜を食べながら散策する行楽)の名所だったそうです。今は瓜畑は無くなっており水田が見えますが、宅地化されないように国で買い上げて、地元の農家さんに耕してもらっているそうですね。

また、その窓の下には三角形に金箔が貼られており、田舎風の建物の中に唐突感があって、面白い意匠になっています。

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あと月波楼があるのですが、現在補修中で見られなかったのは残念でした。そのため拝観経路が違っており、書院の前を通れなかったのは心残りです。

なお、平面的な庭でもっと歩きやすいと思っていたのですが、意外と凹凸があり、道が飛び石になっていたりして、足の弱ったお年寄りなどには結構きついです。そういう趣向を楽しむ庭なのは重々承知なのですが、出来れば庭を一周せずに平坦な書院周りだけを巡るなど、誰でも歩けるコースを作ってもらえないものかしらん。なかなか難しい相談とは思いますが、足に自信の無い人にも素晴らしい庭の一端に触れて貰いたいです。また、ヒールの付いた靴ではつまずく恐れがあり、平たい運動靴を履いて行かれる事をお勧めします。

桂離宮は日本の誇りとも言える素晴らしい施設です。どこをとっても絵になる庭で、もっと早く来れば良かった。書院の中に入れないのが残念ですが、いつか公開される事があったら是非見てみたいです。

なお、拝観料は千円、他の離宮などは無料なのになぜかここだけ有料ですね。それだけ維持費が掛かるのかしらん。でも千円以上の値打ちがある事は確かです。

2024年8月25日 (日)

京都・洛西 安倍清明墓所 ~嵯峨野~

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今日の「光る君へ」で安倍清明が亡くなりました。御年85歳、当時としてはとても長生きですね。もっとも生まれについては921年説と944年説があり、それによって年齢も変わってきます。若い頃は出世に縁が無くぱっとしない経歴でしたが、961年に内裏の火事で焼失した霊𠝏を鋳造した功績が認められて陰陽師に就任し、971年に51歳にして天文博士に任じられました。花山天皇を皮切りに一条天皇、藤原道長からの信任を集め、一条天皇の御悩を癒やした事、道長の求めに応じて雨乞いに成功した事などにより順調に官位は昇進し、最終的には従四位下にまでになっています。

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その墓所とされるのはいくつかありますが、正式なものとされるのは嵯峨野にあります。晴明の墓は陰陽師らしく本物を知られないようにあちこちに造られた様ですが、昭和47年に晴明神社奉賛会によってこの墓が正式なものと定められ、荒廃していたものが整備されて現在に至ります。根拠と言えるものは無い様ですが、中世から伝承としては伝えられていた様ですね。

場所は嵐電嵯峨駅から歩いて数分、住宅街の中にあり、えっ、こんな所にという感じですね。訪れたのは春でしたが、墓所には桜が咲き、墓前には花が供えられており、大事にされているという印象でした。晴明神社は有名ですが、この墓を訪れる人はあまり居ない様です。少し歩けば観光客で賑わう渡月橋がありますが、ここは極めて閑静な場所であり、晴明に関心のある方は一度参られては如何ですか。

2024年7月30日 (火)

京都・洛西 蓮2024 ~大沢池7.19~

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清凉寺から大沢池に来ました。ここまで歩きでしたが、午前中にも関わらず暑い上に日差しもあって、着いた時にはバテバテになっていました。

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ここに来たのは蓮を見るためでしたが、池を前にして愕然、何にもありません。あれほど咲いていた蓮はどこへ行ってしまったのだろう。

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わずかに見えていた水草は、近づいてみると睡蓮でした。これはこれで綺麗でしたが、目当てにしていたのは一面に咲いていた蓮です。なぜ無くなったのかはわかりませんが、大覚寺のホームページを見ても大沢池の花として紹介されているのは睡蓮だけ。という事は、意図的に除去したのでしょうか。

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わずかに咲いていたのはもみじロードの近くの水路だけでした。ここは以前から咲いていた場所ですが、蓮はこれで十分という事なのかな。まあ、白い花に赤い欄干が良く映えて、絵になってくれたのは嬉しかったです。

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大沢池は嵯峨天皇が作った離宮嵯峨院の林泉庭園の跡。現存する中では日本最古の庭池とされます。嵯峨天皇当時の離宮がどんなものだったかは判りませんが、現地にはずっと時代が下った後宇多天皇(鎌倉時代末期)が復興した頃の大覚寺の絵が設置されています。それによると当時は今と違って池の北側に伽藍があり、池の周辺には今と同じようにいくつかのお堂がある程度で、特に庭園として整備されていた様には見えません。この頃には現在の様に主として水面を眺めるためのもので、時として船を浮かべる池になっていたのでしょうか。

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現地で見る事が出来る離宮当時の名残が名古曽の滝の跡です。滝殿と呼ばれた御殿にあったとされる庭の痕跡で、今昔物語に百済川成が作ったとあるそうですね。百人一首の一つ「滝の音は絶えて久しくなりぬれどなこそ流れてなお聞こえけれ」という歌で知られていましたが、かつてはそれらしき石組みがあるだけではっきりした事は判っていませんでした。昭和50年代から平成にかけて行われた発掘調査で、石組みは一部が平安時代のもので他の多くは後世の手が入っている事、また石組みから続く遣り水の跡が残っている事が判り、現在の様に復原整備されています。以前は石組みだけだったと思うのですが、この日見ると実際に水が流れていましたね。

ちなみに百人一首の歌を詠ったのは藤原公任、光る君へでも登場している平安時代の政治家であり歌人です。藤原道長と同い年で若い頃は出世のライバルでしたが、道長が抜きん出るとその政権を支える存在として権大納言となり、一条朝の四納言の一人に数えられています。今後ドラマの中でどう描かれていくか楽しみですね。

2024年7月29日 (月)

京都・洛西 源氏物語ゆかりの地 2024 ~清凉寺 7.19~

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小倉池から嵯峨野路を歩き、清凉寺に来ました。ここに来るのは桜を見に来て以来、3ヶ月ぶりになりますね。境内の様子はすっかり様変わりし、緑で溢れていました。

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清凉寺は平安時代末期に東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が開こうとした寺です。奝然は都で比叡山延暦寺が隆盛を極め、相対的に南都仏教の地位が低下していることを嘆き、愛宕山の麓に大清凉寺を開いて延暦寺に対抗しようとしたのです。奝然はまず寛和元年(985年)に中国に渡って五台山を巡礼し、インドから伝わった釈迦に生き写しの尊像を模刻して、永延元年(987年)に日本に持ち帰りました。この尊像を本尊とした寺を開こうとしたのですが、延暦寺の反対などによって果たせず、奝然はそのまま亡くなってしまいます。その遺志を継いだ弟子達によって、この地にあった棲霞寺 (せいかじ)の釈迦堂に尊像が安置され、釈迦堂は華厳宗天台山清凉寺と改められました。

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寺に伝わる縁起では、中国から尊像を持ち帰るとき、奝然の夢枕に仏が現れ、我の台座を取り替えよとお告げがあり、奝然は模刻と真像を入れ替えたとあります。つまり今の清凉寺にある釈迦像は、古代インドで彫られたものという事になりますね。この伝承から尊像はインド、中国を経て日本に伝えられた三国伝来の釈迦像と呼ばれます。まあこれはあくまで伝承で、実際にはその後の調査で中国の仏師の名が刻まれた銘板が見つかっており、模刻である事が確認されていますが、江戸時代までは本当にあった事だと信じられていました。しかし模刻ではあっても非常に優れた仏像である事には変わらず、国宝に指定されています。また、清凉寺式釈迦如来像として尊崇を集め、百体近くの模像が作られています。また面白いのは、この像の胎内から五臓六腑の模型が見つかっている事で、生身のお釈迦様に対する信仰があった事を示しています。この五臓六腑は写しが作られており、本堂を拝観すると見ることが出来ますよ。

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元々ここにあった棲霞寺は、その後の清凉寺の発展により飲み込まれてしまい、塔頭になったと伝わります。言わば庇を貸して母屋を取られたという事ですね。現在はその塔頭も無くなり、ご本尊とされていた阿弥陀三尊像だけが残ります。その三尊像を祀っていたのがこの阿弥陀堂。いわば棲霞寺の末裔と言えるのかな。

棲霞寺は元は平安時代前期の左大臣源融の別荘で、棲霞観と呼ばれていました。源融は類い希な美男であったとされ、源氏物語の主人公、光源氏のモデルになったと言われています。融は別荘に阿弥陀堂を建てようと発願しましたが、果たせぬうちに亡くなり、息子達が遺志を継いで融の一周忌(寛平8年 896年)に阿弥陀三尊像を造って阿弥陀堂を完成させ、別荘を寺に改めました。この阿弥陀様が融の面影を伝えるものと言われ、非常に綺麗なお顔立ちをされています。現在は宝物館に安置されており、4月と5月、10月と11月の公開日に行けば拝観する事が出来ますよ。

また、棲霞寺は源氏物語の中で光源氏が築いた嵯峨の御堂にも比定されています。場所は大覚寺の南、大堰川の近くとされており、棲霞寺とよく符合するのですね。物語の描写を事実に基づいたものと仮定すれば、棲霞寺は大覚寺に匹敵する大寺だった事が窺えます。

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清凉寺には何度も来ていますが、この日はこれまで前を素通りして来た塔頭が目に入り、前庭が美しい事に気づいて立ち寄ってみる事にしました。寺名は薬師寺、清凉寺とは別の起原を持ち、嵯峨天皇の勅願寺として開かれました。弘法大師が自ら刻んだと伝わる薬師如来を本尊とし、江戸時代までは大覚寺の保護下にありました。明治に至り浄土宗に転じ、清凉寺の塔頭となって今に至ります。

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本堂はこの隣にあるのですが、その片隅に生の六道小野篁遺跡と記した石碑が建てられていました。何の関係があるのかと思って調べたのですが、薬師寺そのものではなく、今は廃寺となり薬師寺と合併した福生寺に縁のあるものでした。小野篁は昼は現世で参議を務め、夜は冥府で閻魔大王の下で補佐をしていたという伝説を持つ人物です。冥府に行くときに通ったとされるのが六原にある六道珍皇寺の井戸で、現世に帰って来る時に通ったのが福生寺の井戸だったと伝えられます。篁は地獄で亡者を救う地蔵菩薩の姿を目の当たりにし、その尊さに打たれて地蔵菩薩像を刻み福正寺にお祀りしました。このお地蔵様を生六道地蔵菩薩像と言い、今も薬師寺に伝わっているとの事です。

この福正寺がどこにあったのかと調べたのですが、清凉寺から大覚寺へと向かう道の途中、府道との交差点にありました。今は小さな公園として整備され、地蔵堂が建っていますね。以前から気になっていた場所で、何のことはないこの日も通ってきたのですが、それとは知らずに素通りしてしまいました。この次行くとき、たぶん彼岸花が咲く頃、じっくりと見てくる事にします。なお、井戸の跡は宅地化されていて、今は残っていないとのことです。

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(左:紫式部墓 右:小野篁墓)

ちなみにこの小野篁は紫式部とも縁があって、墓が隣同士なのですね。場所は紫野西御所田町水火天満宮の近くです。なぜ隣同士なのか不思議なのですが、篁が建てた千本ゑんま堂に式部の供養塔がある事が関係しているようです。式部はその死後、嘘の物語で世を惑わしたとされ、地獄に落ちたと言われた時期がありました。それを救うために供養塔が建てられたのですが、それだけで事は済まず、式部をさらに救うために篁の墓を式部の隣に移したのではないかと言われています。逆に式部の墓をここに移したという説もありまりますね。どこまで信憑性があるのかは判りませんが、源氏物語は色々なところに影響を残していますね。それだけ長く愛されて来た名作なのだという事なのでしょう。

2024年7月28日 (日)

京都・洛西 蓮2024 ~小倉池 7.19~

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常寂光寺の前を左に入り、小倉池に来ました。すると期待通り蓮が水面一杯に広がっていて、沢山の花が咲いていました。

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何の変哲も無かった池が蓮池に変身したのに気づいたのは2019年でした。当時はまだ水面の三分の一程度を埋める程度でしたが、年々広がりを見せ始め、とうとう池全体を覆い尽くす様になりました。今や嵯峨野の蓮の名所として知れ渡るようになりましたね。

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この池、なんでこんなところにあるのだろうと調べてみたのですが、ネット上では判らなかったです。どう見ても自然に出来た池には思えず、人工的に作った様に感じますね。池の南側は低くなっており、一部は堤の様にも見えます。ため池だったのか、あるいは寺院か別荘の庭園の池だったのか、正体はいまのところ不明です。ずっと以前は釣り堀だった頃もあったとか。色々と変遷を遂げてきたことは確かな様ですね。

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小倉池の北側の入り口です。青紅葉が綺麗だったので撮ってみました。この先には人形工房アイトワさんがあり、以前は木に作品を飾られていました。初めて見たときは暗がりの中に突然現れた人形を見て、何これと驚きましたけどね、最近は見ないけど展示は止めたのかな。一度カフェにも寄せて頂いた事もありますが、静かな良い店でしたね。もう10年以上前になるのかな。今度また立ち寄ってみようかしらん。

2024年7月27日 (土)

京都・洛西 新緑2024 ~落柿舎 7.19~

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野宮神社から次は小倉池を目指していたのですが、竹林の小道は外人さんでいっぱいそうだったので、回り道をして落柿舎の前に出ました。鳥居形を背景にした柿の木の緑はいつ見ても美しいものですね。

この前の空き地ですが、東半分は害獣除けなのでしょうか、フェンスが張り巡らされていました。でも、特に何かを栽培している様子でもなかったのですけどね。西半分は春先に耕されていましたが、ご覧の通り何もありません。てっきり以前の様な古代米の栽培を再開するのかと思っていたのですが、期待外れでしたね。

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ここで背後を振り向くと土佐四天王の像があります。2010年に設置されたもので、初めて見たときは唐突感がありましたね。ここに置かれた経緯を調べてみると、元は土佐稲荷・岬神社にあったのですが、何かの理由で近くのビルに移され、さらに再開発によってそのビルが取り壊されて居場所を失い、ここに引き取られてきたという事になる様です。何とも不自然な像なのですが、経緯を知るとまあ仕方がないのかなという気がしますね。

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落柿舎の主は向井去来、松尾芭蕉の門人です。落柿舎の背後に小さな墓地があるのですが、そこに去来の墓があります。いつもは素通りするだけだったのですが、この日は時間があったのでお参りする事にしました。小振りな石に去来とだけ彫った簡素な墓で、俳人に相応しい潔さという気がしますね。なお、去来の墓は真如堂にもあり、こちらはもしかしたら供養塔なのかも知れません。

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落柿舎から小倉池へと向かう事にします。いつもは逆に歩いてくるので、この景色はなんだか新鮮ですね。奥に見えているのは常寂光寺。まだ拝観開始前なので門は閉まっています。紅葉時分だと撮影目当ての人がこの時間から列を作っているのですが、この日は静かなものでした。青紅葉も綺麗なのですが、それはまた今度の機会とする事とします。

2024年7月26日 (金)

京都・洛西 源氏物語縁りの地 2024 ~野宮神社 7.19~

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天龍寺から野宮神社に来ました。途中の道は外国人の方達が沢山行き交っていたのですが、この神社は空いていましたね。ほとんどの人が竹林の小道に流れて行き、ここに来たのは数人だけでした。

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野宮とは伊勢神宮に奉仕する斎王が潔斎を行う場所の事を指します。飛鳥時代より存在し、天皇が代替わりする都度に斎王も代わることから、野宮もその都度場所を選んで作られていました。やがて都が平安京に移り、嵯峨天皇の代になると、現在の野宮神社の場所に作られるようになりました。斎王の制度は後醍醐天皇の代に南北朝の騒乱によって途絶えてしまいますが、野宮は天照大御神を祀る神社として残りました。しかし、その後も続く戦乱の中で次第に衰退してしまいます。

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その後、後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が出され、復興を遂げる事が出来たとの事です。でも疑問なのは後奈良天皇の頃は朝廷も衰退しきっており、大覚寺もまた応仁の乱で焼き払われ、その後も続く騒乱の中で放火されていて、野宮神社を助ける余裕なんてあったのかなあという事です。この辺りは調べた限りでは判らないですね。それはともかくとして、皇室との縁は深いことは確かで、今の天皇陛下、皇太子殿下ともに参拝されていますね。きっと当時は凄い騒ぎだった事でしょう。

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野宮神社は源氏物語の舞台としても描かれています。光源氏の正妻を生き霊となって殺した六条御息所が罪を悔い、斎王となった娘と共にここで暮らしていたという設定になっています。物語に描かれた野宮は小柴垣に囲われた簡素な造りながら、丸木の鳥居は神々しいとあり、今の神社のしつらえを彷彿とさせますね。ただ、建物は寝殿造りのように描かれていて、敷地も今よりずっと広かったのでしょう。光源氏が訪ねていったのは秋の夜、周囲は野原、虫の声とかすかな楽曲の音だけが聞こえる艶な趣と紫式部は書いていますね。昔の嵯峨野、歩いてみたい気がします。

写真はじゅうたん苔と呼ばれる庭です。嵐山、嵯峨野の風景を再現したものと言われ、小さな橋は渡月橋ですね。普段は大勢の人で賑わうので落ち着いて見る事が出来ませんが、この日はゆっくりと鑑賞する事が出来ました。まだ夏の日に焼けていないせいか、苔もとても美しかったです。

日中はインバウンドの団体だらけで源氏物語の世界感どころではありませんが、早朝なら静かに参拝する事が出来ます。きっと物語の一端に触れる事ができると思いますよ。

2024年7月24日 (水)

京都・洛西 蓮2024 ~天龍寺 7.19~

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令和6年7月19日の天龍寺です。この日は放生池の蓮が見頃を迎えていました。

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この日訪れたのは8時過ぎ、まだ拝観開始前なので誰も居ないだろうと思っていたのですが、外国人の方が何人も来ていました。やっぱりこの蓮を見に来ていたのでしょうね。どこで情報を拾ってくるのかしらん。あの人達の情報収集能力はあなどれないものがあります。

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これまで天龍寺の蓮は何度も見に来ていますが、いつも早すぎたり遅すぎたりで、見頃の時期に間に合ったのは初めてですね。これだけ咲いているのを見ると嬉しくなってしまいます。

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ここの蓮は息が長くて、8月の中旬に入っても咲いていた事があります。この日も蕾が沢山上がっていてまだまだ見頃は続きそうでしたが、今年の暑さだとどこまで保つでしょうね。一気に咲いてあっという間に終了と言うこともあり得なくは無いです。

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北側の池に来ました。こちらの方は花が少ないですね。つぼみもあまり無かったし、これ以上増えるという事はなさそうでした。同じ環境なのにこれほど差が出るとは面白いですね。日照時間の関係?、うーん、良く判らないです。繁り方は一緒なんですけどね。花は人の思惑通りにはなかなか行かないのは確かな様です。

2024年6月13日 (木)

京都・洛西 青紅葉2024 ~鹿王院 6.11~

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妙心寺から嵐電を乗り継いで鹿王院に来ました。1年前に来た時は補修中だった舎利殿も作業が終わり、仮覆いが取れてすっきりしました。

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鹿王院はみこじが多く、初夏の青紅葉、秋の紅葉共に素晴らしいものがあります。でも嵐電の駅名になっているにも関わらず訪れる人は少なく、いつ来ても静かなのは不思議ですね。まあ、それが良い所でもあるのですが。

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鹿王院が建てられたのは1380年(康暦2年)の事で、開基は足利義満、開山は春屋妙葩です。正確には義満が建てたのは宝幢寺という大きな寺で、鹿王院は春屋妙葩のための塔頭でした。このため鹿王院の本堂は宝幢寺の開山堂でもあったのですね。

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義満が宝幢寺を建てたのには次の様な逸話が残されています。ある日、義満はもうすぐ病となりやがて死ぬ、しかし、宝幢如来を本尊とした寺を建てれば命は永らえるだろうという夢のお告げを受けたのでした。これを信じた義満はすぐさま寺の建立に着手し、十刹の第五位に位置する大寺を造ったのです。夢一つで一大事業を起こしてしまうとは、当時の人の霊異に対する恐れというのは、平安時代とさほど変わらぬものだったのですね。また、義満の権力と財力の凄さを物語っているとも言えそうです。

宝幢寺は応仁の乱によって灰燼と帰しますが、開山堂だけは焼け残り、寺籍を継いでいくことになります。鹿王院はその後慶長年間に起こった地震によって荒廃してしまいますが、寛文年間に酒井忠知によって再興され、今に至っています。

庭の中心になっているのが舎利殿、お釈迦様の歯、いわゆる仏牙舎利が収められているのでこの名があります。歯というのは言葉が発せられる一番近い位置にあるため、舎利の中でも最も尊いと言われ、天下太平の霊仏とされています。普段は非公開ですか、毎年10月15日にご開帳され、一般人でも目にする事が出来るそうです。

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この日鹿王院を訪れたのは沙羅の花を見るためでした。舎利殿の横に大きな沙羅の木があり、最盛期には一面に花が散って、それは見事なのですよね。でもこの日はまだ咲き出したばかりで、ほとんど花はありませんでした。この本堂脇にある小さな沙羅の木が、わずかながら咲いていたのがせめてもの救いでしたけどね。

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帰りに気が付いたのですが、参道の脇に竹林の小径が出来ていました。これっていつ整備されたのでしょうね。ただ良い趣向だと思いますが、嵯峨野の竹林の小径や化野念仏寺の竹林には遠く及ばす、もう少し手入れが必要かなという感じでしたね。それに通路のあちこちに竹の子が生えており、歩き難いのが残念でした。でも後何年か手入れを続けていけば、きっと良い散策路になる事でしょうね。もみじと共に鹿王院の名所となって行く事でしょう。

2024年6月12日 (水)

京都・洛西 初夏の境内散策2024 ~妙心寺 6.11~

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妙心寺がある地域は花園と呼ばれます。かつては公卿の邸宅が建ち並び、お花畑があって文字通り花が咲き乱れる地だったのだとか。妙心寺の前身はその邸宅の一つ、花園法皇の離宮でした。法皇は禅に傾倒し、宗峰妙超禅師に参禅して悟りを得、印可を授けられたと言いますから、その信心たるや相当なものですね。花園法皇は離宮を禅寺に改めようと考え、宗峰妙超禅師の弟子、関山慧玄禅師を開山に迎えて妙心寺を開きました。時に1337年、建武4年の事でしたから、後醍醐天皇による建武の中興が綻びを見せ始めた頃ですね。

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その後寺は順調に発展を遂げますが、1399年(応永6年)に大内義弘が幕府に対して起こした反乱、応永の乱の時、当時の住持であった拙堂宗朴禅師が義弘との関係を疑われたために寺領を没収され、ここに一度法統が途絶えてしまいます。寺領が返還されたのは三年後の事で、日峰宗瞬禅師が妙心寺を中興しました。

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その後も妙心寺の法難は続きます。1467年に起こった応仁の乱に巻き込まれ、堂塔伽藍がことごとく焼失してしまったのですね。再建が始まったのはその10年後、雪江宗深禅師が後土御門院から妙心寺再興の綸旨を受け、復興に着手しました。

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妙心寺が発展を遂げるのは1509年(永正6年)の事で、利貞尼という人が土地を買い集め、妙心寺に寄進したのですね。現在の広大な境内はこの時に出来上がったとされます。ちなみに利貞尼は関白一条兼良の娘にして美濃の豪族斉藤利国の妻で、利国の死後その菩提を弔うために妙心寺の住持であった悟渓宗頓禅師に師事して出家し、私財を投じて妙心寺に尽くしたのですね。

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現在の妙心寺の境内は約10万坪、甲子園8個分に相当します。戦国から江戸期にかけて大名たちによる塔頭寺院の建立が相次ぎ、現在でも46の塔頭が存在します。これほどの規模を持つ寺は京都では他にありませんね。明治期には廃仏毀釈や上地令などにより境内地の20%を失ったとされますが、それでも現在の規模を保っているのは余程上手な運営を行って来たのでしょう。

妙心寺には何度か訪れていますが、塔頭が多すぎて未だに把握出来ているのはごく一部です。常時拝観出来るのは妙心寺の法堂と庫裏、塔頭の桂春院と退蔵院だけですね。大雄院は日時限定での座禅体験(要予約)、大法院は毎年春と秋に特別公開が行われます。昨日紹介した東林院も沙羅双樹の花を愛でる会など年に何度か公開されますね。他の塔頭は京の夏の旅、冬の旅での特別公開の対象となる事があるので、チャンスがあれば訪れてみてください。

ここに掲げた写真の様に妙心寺は周辺の環境とは別世界で、境内を歩くだけでも日常を離れた風情を感じる事が出来ますよ。

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