洛北

2024年10月 2日 (水)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~実光院 9.24~

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来迎院から実光院に来ました。ここには何度も来ていますが、いつも雪の日ばかりで、本来の庭の姿を見るのは初めてです。

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客殿は大正10年に建てられたもので、欄間には江戸時代に狩野派の絵師によって描かれた三十六詩仙が配置されています。この部屋にはご本尊の地蔵菩薩が祀られており、また声明の練習用の磬石、編鐘(中国の雅楽で用いられていた音律の基準音を定める楽器 )が置かれていて、実際に叩く事が出来ます。

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客殿の南側にあるのが契心園。江戸時代後期に造られた庭園で、律川から水を引いた池泉鑑賞式の庭です。かつてこの地にあり、実光院に併合された普賢院の庭で、春にはシャクナゲが見事です。この日は秋海棠が咲いていましたね。

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西側に広がる庭は旧理覚院庭園。理覚院は普賢院と同様に実光院に併合された寺で、この庭は長く荒廃していましたが、歴代住職によって手が入れられ、四季を通じて花が咲く庭となっています。

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雪景色しか知らなかった庭が、緑で溢れているのはとても新鮮でした。次はシャクナゲが咲く頃に来たいですね。その前に雪が降ったらまた来ようかな。実光院は来迎院と同様に混み合う事は無く、静かな佇まいを楽しめる寺ですよ。

2024年10月 1日 (火)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~来迎院 9.24~

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大原女の小径は三千院までを指しますが、実はまだ奥へと続く道があります。その先にあるのが来迎院、天台声明の根本道場です。

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来迎院へは三千院への分かれ道から300m程坂道を登る亊になります。すぐに着くと思っていたのですが、意外ときつく感じましたね。ずっと以前、その先の音無の滝まで行った事がありますが、こんな道だった事をすっかり忘れていました。

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来迎院は平安時代前期に、慈覚大師円仁が天大声明の道場として開いたのが始まりとされます。その後は一時衰退していたようですが、天仁2年(1109年)に聖応太師良忍が入り復興しました。以後勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、両院を合わせて魚山大原寺と称する様になりました、

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写真は良忍上人の御廟三重石塔です。良忍上人が比叡山を下りてこの寺を再興したのは、当時の延暦寺は白河天皇が嘆いた様に、大勢の僧兵を抱え、宗教的権威と武力を背景に強訴を繰り返す政治的存在になっており、本来の仏堂実戦の場で無くなっていたからだと言われます。

大原で声明を完成させた良忍上人は、その後阿弥陀如来仏の示現を受け、融通念仏宗を開いています。融通念佛宗と言っても関西、それも大阪や奈良以外の人にはなじみが薄いでしょうね。私も京都に居た頃は名前を知っている程度でした。ところが大阪に移住して来ると、結構盛んなのですね。お寺に本尊を拝みに行くのでは無く、本尊が寺を出て檀家の家々を巡るのが特徴で、その時銅鑼を鳴らしながら歩くのですが、初めてその音を聞いたときは何が行われているのかと驚いたものです。調べてみると京都市内には一寺も無く、京都府全体でも5箇寺だけの様です。関東にはほぼ無いのかな。ところが大阪と奈良には350軒以上の寺があるのですね。信者は12万人だとか。これだけ一地域に偏った宗派も珍しいんじゃないかしらん。本山は大阪市平野区にある大念仏寺で、結構大きなお寺の様ですね。平野駅からすぐ近くの様だし、どんなところか一度訪れてみようかな。

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話が逸れました。来迎院の見所は何と言っても本尊にあり、薬師如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像が並んでいます。いずれも平安時代の作で、とても美しい仏様たちですよ。

境内には楓樹が多く、秋の紅葉は綺麗なのでしょうね。また本堂前にはツツジが植わっており、大原観光帆勝会のページでは綺麗な花が見られるのですが、この日見た限りでは半ば枯れた様な株が多く、あまり花は期待できないかも知れません。

三千院や宝泉院は常に賑わっていますが、来迎院まで来る人は少なくとても静かで落ち着いています。拝観料も400円と良心的で、大原を訪れたなら、一度は立ち寄ってみる価値はあると思います。紅葉時分はどうか判りませんけどね。

2024年9月30日 (月)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~寂光院 9.4~

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大原女の小径の西の終点が寂光院。建礼門院ゆかりの寺として有名です。

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創建は古く、寺伝に依れば推古天皇2年(594年)に聖徳太子が開基となり、父の用明天皇のために建てたとあります。初代住職は太子の乳母であった玉媛照姫で、当初の寺名は名にちなんだ玉泉寺でした。パンフレットには、以来代々高貴な姫が住職を務めてきたとありますが、詳細は判らないらしく、第二代住職をおよそ500年後の人、阿波内侍としています。このあたりの割り切り方は豪快という気がしますね。

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阿波内侍は信西の娘にして崇徳天皇の寵姫で、後に建礼門院に女房として仕えたとパンフレットにあります。でも少し調べると色々とややこしい人物で、まず信西の娘ではなく孫とする説がありますね。安井金比羅宮のホームページには、崇徳天皇が金比羅宮の地にあった藤寺に殿舎を整えてそこに住まわせ、1164年に天皇が崩御された後は御尊影を観音堂に祀ったとあります。また、天皇の御遺髪を譲り受けて塚を築き、霊を慰めたとも伝えられ、その塚の跡は崇徳天皇廟として受け継がれています。阿波内侍はその後出家し、1165年に寂光院に入ったとされますが、建礼門院が生まれたのは崇徳帝が讃岐に流された翌年の事で、内侍が出家した時は10歳、平清盛に請われて幼少の娘の守り役として仕える傍ら、崇徳帝の慰霊をしていたのでしょうか。なんだかしっくり来ないですね。

これとは別に醍醐に一言寺という寺があるのですが、そこでは建礼門院に仕えていた阿波内侍が出家して、清水寺の観音様の夢告により開基となったとあります。ただ、そうすると寂光院の住持を務めながら一言寺を建てた事になりますね。でもなぜとても離れた場所に、二つの寺を持つ必要があったのかしらん。さらには系図に記されていないため実在が確認されないという説まであり、どうにも謎の多い人物です。どこから建礼門院や寂光院に繋がるのか理解に苦しむのですが、ここでは寂光院の寺伝を信じて、壇ノ浦で図らずも生き延びてしまった建礼門院が旧知の阿波内侍を頼って寂光院を訪れ、第三代住持となり阿波内侍に看取られて亡くなったとしておきます。

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建礼門院を迎えた阿波内侍は住持の座を譲り、自らは柴刈りや山菜採りなど山仕事に従事し、門院の身の回りの世話をしたと言います。その時の山仕事の衣装が後の大原女のモデルとなったと伝わります。かつて天皇の寵姫だった人が里人の様にして生きたというのは、哀れと言うよりたくましさを感じますね。

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建礼門院の最期は良く判っていませんが、一説には妹によって京に引き取られて岡崎の法勝寺辺りに暮らしたのではないかと言われています。しかし、寂光院では終生をこの寺で暮らしたと伝わっており、陵墓もすぐ隣に築かれていますね。

門院が暮らした庵の跡は本堂から道を隔てた西にあり、今は更地に石碑だけが建っています。敷地はごく狭く、当時の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」と描写されていますから、本当に山の中の庵だったのでしょう。敷地の脇には井戸の遺構が残っており、今でも水が溜まっています。

平家物語「灌頂巻」では後白河法皇がお忍びで女院に会いに来る、いわゆる大原御幸が描かれています。史実かどうかについては見解が分かれていますが、ここで女院と法皇が語らったかと思うと感慨深いものがありまかね。ただ、宝物殿にこの時の絵巻が展示されていますが、お忍びと言いながら数人の公卿のほか大勢の警護の武士達が居て、とても微行という感じでは無く、落ちぶれた女院を見物に来たという具合にしか見えません。女院が気の毒に見えてしまうのは私だけでしょうか。

寂光院は小さな寺ですが、こぢんまりとした様が山里に相応しいとも言え、それでいてどこか雅さも兼ね備えた素敵なお寺です。

2024年9月29日 (日)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~大原女の小径 9.24~

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令和6年9月24日、ようやく秋めいてきた大原の里を坂策してきました。まずまずの好天で、昼近くになると暑くなってきましたが、空気は爽やかで気持ちのよい散策となりました。

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一番の目的は彼岸花だったのですが、今年はどうもおかしいですね。ほとんど咲いていないのですよ。行くのが早すぎたのかもしれませんが、地面から出ている花芽も見当たらなかったです。この翌日に行った嵯峨野でも同じで、これほど咲いていないのは初めてでした。もしかしたら今頃咲いているのかもしれませんが異常であることには変わりなく、今年の猛暑が影響した亊は確かだと思われます。

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彼岸花は残念でしたが、山里の秋の風情は感じる亊ができました。このキバナコスモスやススキなど、秋らしい草花が良い味を出していましたね。ただ、普通のコスモスがほとんど無くなっているのが寂しかったです。以前はコスモス畑なんていうのもあったのですけどね、育てる人が居なくなってしまったのかな。

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大原女の小径は寂光院から三千院まで続く道。特に寂光院側は山里らしい風情に溢れていますね。最近の夏は暑過ぎて歩く気がしませんが、春、秋、冬はそれぞれの季節が感じられる素敵な道です。

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バスターミナルから三千院側は土産物店が並び、山里という雰囲気ではありません。唯一、赤紫蘇畑のあたりにだけ野の雰囲気がありますね。また、大原女の道から逸れて展望台の方に行くと、見晴らしの良いところに出ますよ。

この先には三千院、宝泉院といった人気スポットがあります。そのぶん人も多いですけどね。大原女の小径は山里と観光スポットを結ぶ素敵な散策路です。

2024年8月27日 (火)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~赤山禅院 8.15~

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修学院離宮の前を通り過ぎて赤山禅院に来ました。ここに来るのは2年前の秋以来、紅葉を見に来る事が多いですが青紅葉の参道も素敵な寺です。

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お寺と書きましたが、参道の入り口には鳥居が建っています。そう、ここは今でも神仏混淆の伝統を守っているのですね。ご本尊は赤山大明神、中国の神泰山夫君を勧請して祀っています。どうやって神仏分離令をくぐり抜けたのかは判りませんが、神様を祀っているので分離するものが無かったという事なのかな。

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赤山禪院は都の鬼門を守護する寺。その象徴として拝殿の屋根には鬼門除けの猿が置かれています。猿は申に通じ、鬼門とは反対の西南西を指す事から邪気を払う力があると赤山禪院のホームページには記されていますね。金網で囲われているのは、かつて夜になると暴れたので封じ込めたのだとか。新日吉神宮や幸神社、猿が辻の猿も金網で封じられており、猿というのは暴れるものと相場が決まっている様ですね。

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赤山禪院は千日回峰行と深い関わりがあり、修行が六年目に入ると山中を廻る行程に加えて、雲母坂を通りこの寺に参って花を供する行程が加わるそうです。一日に歩く距離が60キロ、時間にして14~15時間掛かるそうで、それを100日繰り返すのだとか。雲母坂を往復すると考えただけでもぞっとするのに、これは想像を絶していますね。これを称して赤山苦行と呼ぶのだそうです。千日回峰行については赤山禅院のホームページに詳しく記されていますが、すさまじい内容の修行です。これを満行出来る人が居るのだからまた凄い。大阿闍梨と呼ばれ、この寺の住職を務められますが、一度だけ護摩行をされているときにお会いしたことがあります。さぞ怖い人かと思っていましたが、ごく穏やかな優しそうな方で、それでいて内に秘めた迫力は並みではないと感じました。本物とはこういう人の事を言うのかと思った次第です。

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鳥居と共に神仏混淆を示しているのが本殿の狛犬です。初めて来た時、ここはお寺だよねと戸惑ったのを覚えています。鮮やかな色彩の狛犬ですが、下鴨神社の本殿にも同じような狛犬があります。こういう形式を選ぶのには、何か共通項があるものなのかしらん。

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赤山禪院は都七福神のひとつ、福禄寿の寺です。参道にずらりと幟が並んでいますね。福禄寿は泰山夫君を人格化した神様だそうで、商売繁盛・延寿・健康・除災の御利益があるとの事。また集金の神様として五・十払い発祥の地でもあるとか。厳しい修行の場であると共に、現世利益を授けて下さるお寺でもあるのですね。

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境内には立派な地蔵堂もあります。泰山夫君は地蔵菩薩の化身でもあるとか。千年の間に様々な信仰が重なり、一筋縄では行かない寺になっているのですね。これも神仏混淆のなせる業でしょうか。

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赤山禪院は紅葉の名所ですが、訪れる人はそれほど多くは無いです。ただ11月23日には数珠供養が行われ、大勢の参拝者が訪れます。この日は普段とは雰囲気が一変しますね。また、私は来た事が無いのですが、仲秋の名月の日にへちま加持が行われます。ぜんそくや気管支炎を封じ込める秘法だそうで、お悩みの方は一度受けられては如何ですか。

普段は静かだけど、実は様々な顔を持った不思議な寺。知れば知るほど奥深さが判ってきます。夏の洛北周遊はここでゴール、次はまた秋にやって来たいと思っています。

2024年8月26日 (月)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~禅華院 8.15~

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雲母坂から音羽川沿いに下り、後安堂橋を渡ると修学院離宮の広大な敷地が広がります。その離宮の前にある小さな寺が禅華院、臨済宗大徳寺派に属する寺院です。

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ここに来るのは去年の5月以来、予約して庭園を見ようと思っていますが、未だに果たせていませんね。

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平安時代にはこのあたりは西坂本と呼ばれ、延暦寺の末寺が多数ありました。禅華院もその一つでしたが、たぶん荒廃してしまっていたのでしょうね、江戸時代に入り寛政年間(1624年から1643年)に大徳寺の清厳禅師により中興され、臨済宗の寺となっています。

境内で目立つのが石仏群。左の小さな2体が雲母坂地蔵で、かつて雲母坂にありました。おそらく廃寺となった雲母寺縁のものと推定されています。その横の大きな2体は修学院離宮の田の中にあったものを移設したのだそうです。こちらは鎌倉時代のものだそうですが、やはり延暦寺末寺の縁のものなのかな。

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境内では百合が咲いていました。やっぱり少しでも花があると嬉しくなりますね。この寺は何年か年前にご住職が代わり、以来境内や庭園の整備に努められてきたそうです。その甲斐あって、見違える様に綺麗になったと大徳寺だよりにあります。私もこの寺が気になるようになったのは5、6年前頃だったかな。それ以前はあるのは知っていましたが、前を通り過ぎるだけでした。そもそも門は開いてたっけ。

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お金を掛けて整備された庭ではないですが、こつこつと手入れをされた感があって、気持ちの良い前庭です。どんな方かは存じ上げませんが、ご住職の人柄が表れている様な気がします。秋の紅葉はなかなか綺麗ですよ。ここに来る人は希なので、穴場の一つと言って良いでしょう。11月になったら、また訪れようと思っています。

 

2024年8月24日 (土)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~雲母坂 8.15~

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曼殊院から北へ向かうと、道端に雲母坂という看板を見つけました。源氏物語ゆかりの地の案内板で、あちこちで見かける看板ですね。いつの間に立てたのかなと思ったら平成20年とありました。そんなに前からあったとは、これまで気付いていなかったです。

雲母坂とは比叡山への登山道の一つで、京から延暦寺に通じる最短距離の道として知られます。朝廷からの勅使が通ったほか、山法師が強訴の為に山を下ったのもこの道ですね。この名前の由来として京都市中からこの道を眺めると、雲が生じるように見えたからという説がありますが、今は木々に覆われていて全く見る事は出来ません。ガスが普及する以前には、燃料とするために人々が木を伐ったため、京都の周囲の山はほとんどはげ山だったと言われていますが、比叡山も同じだったのかな。それに往来する人も多く、道筋がはっきりしていたのかも知れません。

源氏物語との関係は宇治十帖にあり、行方不明になっていた浮舟の手掛かりを得るために、薫が延暦寺に居る横川僧都に会いに行くという下りがあるのですね。そして、坂本の小野に居た浮舟が、夜道を帰る薫の一行が掲げた松明の火を見ているのです。この坂本の小野については様々な研究がされていますが、概ね西坂本と呼ばれた一乗寺から修学院にかけてのどこかと推定されています。また、赤山禪院の近くに大納言南淵年名の小野山荘があったと言いますから、修学院周辺にまで絞れるかも知れませんね。つまりは、薫が通ったのは雲母坂と想定されるという事になるのです。

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この道は登ったことはありませんが、下りたことはあります。高校の時の遠足先が比叡山で、行きはケーブルカーだったのですが、帰りはクラスの仕切り役(女の子でした)が歩いて帰ると言い出したのです。そんなの聞いてないと文句を言ったのですが、帰りの切符はない、嫌なら自分で切符を買って帰れとの事。どうやらあらかじめ言っておくと参加者が減ると考えてやった確信犯だった様ですね。高校生の遠足ですから大した所持金は無く、騙されたと思いつつも仲間と歩くより無いのでした。

歩き出すと想像どおりの急坂で、砂が多くてざらざらしており、歩くと言うより滑り降りるという感じでしたね。とにかく転ばないようにと前について行くのがやっとでしたが、気が付くと急に道が開け、この音羽川沿いの道に出ていました。もっと時間が掛かると思っていたのですが、意外とあっけなかったです。

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雲母坂の由来にもう一つ、花崗岩が砕けた砂が多いからという説がありますが、実際に歩いた経験からするとこちらの方がしっくり来る気がしますね。千日回峰の行者も通る道とのことですが、確かに修行するには向いた道だと思います。

歴史上の人物としては、藤原道長が比叡山から下りるときに二度この道を通っています。御堂関白記に依れば、道長は何度も比叡山に登っていますが、多くは近江側の東坂、時おり八瀬道を使っており、この道を登ったという記録はありません。馬で登ったとも書いていますから、遠回りだけど緩やかな道を選んだのでしょうか。また、若き日の親鸞聖人が、六角堂に参籠するためにこの道を通った事が知られます。私は見ていませんが、親鸞聖人御旧跡と記した石碑があるそうですね。南北朝時代には楠木正成らが足利尊氏と戦うべく一乗寺、鷺森あたりに陣を敷いた時、軍勢を率いてこの道を下ってきたと言われます。

この道は京都一周トレイルのコースにもなっているので、足に自信のある方は歴史を辿りつつ登ってみられては如何ですか。私はとうてい無理だと思うので止めておきます。

2024年8月23日 (金)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~曼殊院 8.15~

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曼殊院の中に入りました。ここに来るのは2年前の秋以来、夏場に来るのは14年ぶりですね。学生時代から慣れ親しんだ庭ですが、いつ来ても素敵な庭です。でも、年々坂道がきつくなって、足が遠のきがちになりました。学生の頃は自転車で坂を登り切っていたのだけどなあ、今では考えられないはるか遠い昔の話です。

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今の曼殊院を作ったのは良尚法親王、桂離宮を造った八条宮智仁親王の第二皇子です。さすがに親子、たぶん桂離宮を見て育ったのでしょうね、建物の風情から釘隠しや引手の意匠までが似ており、小さな桂離宮と呼ばれます。もっとも、桂離宮には未だ行った事が無く、実物は見たことが無いのですけどね、写真や動画で見る雰囲気とそっくりです。

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庭を作ったのは誰かは判っていません。小堀遠州という説があったのですが、曼殊院がここに移転する前に亡くなっており、誰か別の人物です。たぶん良尚法親王の好みに合わせて造ったのでしょうね、枯山水ながら緑に溢れていて、王朝風の風情が素敵です。

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この大きな松は鶴を表しています。そして目立たないですが、根元にキリシタン灯籠が据えられています。桂離宮にもキリシタン灯籠がいくつもあるそうで、ここも共通していますね。

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殿は2022年に再建されました。なぜこれまで無かったかと言うと、京都府立医科大学の前身が造られた時、殿を売ってその金を寄付したのだそうです。神仏分離令で門跡制度が無くなり、台所事情も苦しかったでしょうに、何とも見上げたものですね。今は白木も美しい殿に、ご本尊の阿弥陀如来と寺宝の黄不動(複製)が祀られています。

ところで今回調べて初めて知ったのですが、曼殊院の門主は北野天満宮の別当を務めていたのですね。曼殊院がまだ比叡山の一坊であった頃、947年に北野天満宮が創建され、四代目住職だった是算国師が菅原氏の出身だった事から別当を兼ねたと言われます。あるいは一条天皇の御幸があった1004年からだとも言われますが、この関係は近世に至るまでずっと続いていたそうです。これで北野天満宮の御手洗祭の際に、御神水を曼殊院に届けていたという謎が解けました。

夏の曼殊院は蝉の声以外は静かで良いですね。本当はヒグラシを聞きに来たかったのだけどな、一番暑いときに家を出なければならないので見送りました。学生の頃はそのためだけに修学院まで来た事もあるのですけどね。あの頃は今みたいな猛暑じゃ無かったから出来たのでしょう。38度や39度なんてあり得なかった、今の太陽はほとんど凶器、焼き尽くされる様な熱さです。地球温暖化、なんとかしなければね。

2024年8月22日 (木)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~清少納言隠棲の地 月輪寺跡 8.15~

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鷺森神社から曼殊院道に戻り、坂を上ります。ここに来るのは久しぶり、2年前の秋以来になりますね。

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この地を訪れたのは清少納言の隠棲地の候補地だと知ったからです。清少納言の晩年はほとんど判っていませんが、その手がかりの一つとして大納言藤原公任御集の中に「清少納言が月輪にかへりすむころ」とあり、和歌のやりとりをした事が記されています。この月輪が清少納言の終焉の地ではないかと推定されており、昔から研究されていて三つの候補地が挙げられています。一つが以前に紹介した泉涌寺のある東山区の月輪、二つ目が愛宕山山中にある月輪寺、そして三つめがこの地にある月輪寺町です。月輪寺町は平安時代に存在した月林寺の跡地で、がつりんじと読み、同じ音の月輪寺とも表記されました。おおよそこの道の北側一帯で、今は住宅地や竹田薬品の薬草園になっています。

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以下この説を提唱された平安文学の研究者、後藤祥子さんの著書「平安文学の謎解き」からの引用が多くなりますが、大要は次の通りです。

東山の月輪を提唱したのは角田文衛氏を始め何人か居られますが、中宮定子の眠る鳥辺野陵に近く、晩年は定子の菩提を弔いながら過ごしたという判りやすいストーリーもあって多くの方に支持されました。泉涌寺境内には清少納言の歌碑が建てられ、今熊野観音寺のホームーページには父の元輔の屋敷がこの地にあり、清少納言はここで晩年を過ごしたとあります。

この説に異を唱えられたのが荻窪朴氏で、泉涌寺付近が月輪と呼ばれたのは、清少納言の死後およそ2世紀経ってから、月輪殿と呼ばれた藤原兼実が、法性寺の一角に月輪殿(現・東福寺塔頭即宗院)という一宇を建てて以来という説を唱えられました。傍証として月輪殿が建てられた以前には、東山の月輪という地名が出てくる文献は皆無であるという指摘もあります。

ただこの説にも弱点があり、兼実が月輪殿と呼ばれる様になった要因に疑義があり、月輪殿を建てた後にその名で呼ばれるようになったと言う可能性があります。そうすると、元々地名として月輪があり、そこに建てたから月輪殿と名付けられたという説も否定仕切れなくなりますね。

荻窪氏が東山に代わる候補地として挙げられたのが愛宕山の月輪寺です。後拾遺集などの資料から、元輔は桂山荘の近くの月輪にも別業を持っていた事が判り、それが今の月輪寺ではないかと推測されています。元輔の桂山荘は松尾大社の北側にあったと推測されており、月輪寺はさらにその上流に位置します。近いと言えば近いですね。月輪寺は聖の住む地とされ、平安貴族の尊崇も深く、伊周が太宰府に流される際に逃げ込んだり、関白頼通が参拝に訪れたりもしています。

話が前後しますが、兼実が出家したのもこの寺とされ、月輪殿と呼ばれる様になったのもそのためだと寺の縁起にあります。ただ、この縁起は信憑性に乏しく、冒頭に天狗が出てきたり、兼実が出家した時に自らの木像を彫ったとあるのですが、寺に現存する像は僧形文殊像であるなど事実と異なる点がいくつもあります。先に兼実が月輪殿と呼ばれた要因に疑義があると書いたのはこのためです。

この月輪寺は愛宕山の中腹にあり、ここに行くには非常に険峻な道を上らなければなりません。修験者が修行に訪れる様な場所であり、麓から登ると慣れた人でも一時間半以上の山道を歩く事になります。現在でも水道やガスは来ておらず、まさに僻遠の地ですね。このような場所に元輔が山荘を建てたり、清少納言が隠棲したりするでしょうか。月輪寺のホームページには清少納言隠棲の地とあり、また元輔や清少納言の墓まであるそうですが、年老いた女性が隠棲するにはあまりにも険し過ぎるというのが後藤祥子さんの見解です。

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第三の候補地として挙げられたのが西坂下(雲母坂の下)と呼ばれた修学院にある月林寺跡です。がつりんじと読みますが、月輪寺と表記される事もあったのは前に記したとおりです。月林寺は平安時代に存在した比叡山三千坊の一つで、勤学会が行われた事が知られます。桜の名所としても知られ、詩歌の会の会場となる事もありました。

ここが清少納言隠棲の地と考えられる根拠の一つは、地名のほか藤原公任の別荘が北白川にあったと推定されることで、和歌のやりとりをするには愛宕山では遠すぎる事が挙げられます。清少納言は身内にトラブルを抱えていたらしく、公任に頼み事をしているのですが、険しい山中に居て、わざわざ都の反対側に居る公任に使いを出すというのも不自然ですよね。

弱点としては元輔の桂山荘からは遠い事で、歌集の詞書きなどには桂に行くつもりが月輪に来てしまったとあり、道を間違えたとするには方角が違う上に遠すぎるのですよね。

後藤祥子さんも確たる根拠を持たれている訳では無く、消去法で行くと東山の月輪という地名は12世紀以前の文献には全く見当たらないこと、愛宕山は道を間違えて行くには険しすぎる山中にあり、かつ老女が閑居する様な場所ではないことから、この修学院の地がふさわしいのではないかと推定されています。

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ちなみに曼殊院もまた月林寺跡に建つ寺院です。山城名勝志(愛宕郡12)という江戸時代に書かれた本に「竹ノ内門跡坊官云う、月輪寺は今曼殊院の地旧跡也」と記されており、当時は未だ月林寺の記憶が残っていた事が判ります。地図で見ると月輪寺と付いた地名は曼殊院から鷺森神社の東まで広がっており、三千坊の一坊と言っても巨大な寺だった事が窺えます。そして、かなり高低差のある境内だったのでしょうね。

もしここに清少納言が住んでいたとしたらどのあたりだったのでしょうか。清少納言の晩年には数多くの落剥説がまことしやかに語られていますが、私的には桜の名所だったという月林寺の傍らで風雅を楽しんでいたと思いたいですね。

2024年8月21日 (水)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~鷺森神社 8.15~

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圓光寺から鷺森神社に来ました。この日は曼殊院道側にある裏道から入って行きます。この森はその名の通り鷺森、神社は赤山禅院から修学院離宮の地を経てこの森に移転してきたのですが、鷺森は元々の地名としてあり、その名を取って鷺森神社となった様です。南北朝時代の記録に楠木正成が鷺森に陣を敷いたとあり、この静かな森に武者達がひしめきあっていた時があったのですね。ちなみに神社の元の名は修学院天王社、牛頭天王を祀っていた事からこう呼ばれていました。

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神社の創建は貞観時代(859年から877年)と古く、現在地に移ってきたのは元禄2年(1689年)の事です。表の参道ももみじや桜の緑で埋まっていますが、この裏道を通ると本当に森なんだと実感しますね。森林浴と言うと大げさだけど、気持ちの良い小径です。この石橋は御行橋、元は修学院離宮入り口の音羽川に架かっていた橋で、後水尾天皇、霊元天皇が行幸された際に通られた事からこの名があります。昭和42年に本殿が改築される際、請願して下賜され、社宝として宮川に架けたとのことです。

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鷺森の名の由来は、神の使いとされる鷺がこの森に沢山住み着いていたからだとか。今は住宅街に囲まれていますが、元は田園地帯だったはずですし、近くには音羽川も流れています。ここで鷺は一羽も見た事はありませんが、かつては鷺の巣がそかしこにあったのでしょうね。

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御祭神は素戔嗚尊、元々の御祭神である牛頭天王はその本地とされます。神号を鬚咫天王(すだてんのう)と言い、鳥居の扁額にも書かれていますね。江戸時代の観光案内所にも鬚咫天王と記されており、かつてはこの名の方が通りが良かったのかな。  

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去年も紹介した八重垣の石です。説明書きにはこの石に触れて祈る事で、良縁に恵まれ悪縁を絶つ事が出来るという有り難い御利益があるとあります。でも横の看板には社務所で黒石を買い求め、その小石をこの上に乗せて祈ってくださいと書かれており、この黒石が700円とちょっと高いですね。なので触れるだけにしておきましたが、それだと御利益は出ないのかな。

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江戸時代の拾遺名所図会を見るとこの参道は無く、今の森の中を通る裏道が唯一の参道だった様です。こちら側は山になっており、何時の時代か判りませんが切り開いたのでしょうか。広々とした参道で、春は桜秋は紅葉で綺麗ですよ。観光客の姿はほぼ無く、地元の人たちが参拝に来る、文字通りの産土神ですね。いつ来ても気持ちの良い空間で、修学院あたりを歩くときには、貴重な休憩場所にさせてもらっています。

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