鷺森神社から曼殊院道に戻り、坂を上ります。ここに来るのは久しぶり、2年前の秋以来になりますね。
この地を訪れたのは清少納言の隠棲地の候補地だと知ったからです。清少納言の晩年はほとんど判っていませんが、その手がかりの一つとして大納言藤原公任御集の中に「清少納言が月輪にかへりすむころ」とあり、和歌のやりとりをした事が記されています。この月輪が清少納言の終焉の地ではないかと推定されており、昔から研究されていて三つの候補地が挙げられています。一つが以前に紹介した泉涌寺のある東山区の月輪、二つ目が愛宕山山中にある月輪寺、そして三つめがこの地にある月輪寺町です。月輪寺町は平安時代に存在した月林寺の跡地で、がつりんじと読み、同じ音の月輪寺とも表記されました。おおよそこの道の北側一帯で、今は住宅地や竹田薬品の薬草園になっています。
以下この説を提唱された平安文学の研究者、後藤祥子さんの著書「平安文学の謎解き」からの引用が多くなりますが、大要は次の通りです。
東山の月輪を提唱したのは角田文衛氏を始め何人か居られますが、中宮定子の眠る鳥辺野陵に近く、晩年は定子の菩提を弔いながら過ごしたという判りやすいストーリーもあって多くの方に支持されました。泉涌寺境内には清少納言の歌碑が建てられ、今熊野観音寺のホームーページには父の元輔の屋敷がこの地にあり、清少納言はここで晩年を過ごしたとあります。
この説に異を唱えられたのが荻窪朴氏で、泉涌寺付近が月輪と呼ばれたのは、清少納言の死後およそ2世紀経ってから、月輪殿と呼ばれた藤原兼実が、法性寺の一角に月輪殿(現・東福寺塔頭即宗院)という一宇を建てて以来という説を唱えられました。傍証として月輪殿が建てられた以前には、東山の月輪という地名が出てくる文献は皆無であるという指摘もあります。
ただこの説にも弱点があり、兼実が月輪殿と呼ばれる様になった要因に疑義があり、月輪殿を建てた後にその名で呼ばれるようになったと言う可能性があります。そうすると、元々地名として月輪があり、そこに建てたから月輪殿と名付けられたという説も否定仕切れなくなりますね。
荻窪氏が東山に代わる候補地として挙げられたのが愛宕山の月輪寺です。後拾遺集などの資料から、元輔は桂山荘の近くの月輪にも別業を持っていた事が判り、それが今の月輪寺ではないかと推測されています。元輔の桂山荘は松尾大社の北側にあったと推測されており、月輪寺はさらにその上流に位置します。近いと言えば近いですね。月輪寺は聖の住む地とされ、平安貴族の尊崇も深く、伊周が太宰府に流される際に逃げ込んだり、関白頼通が参拝に訪れたりもしています。
話が前後しますが、兼実が出家したのもこの寺とされ、月輪殿と呼ばれる様になったのもそのためだと寺の縁起にあります。ただ、この縁起は信憑性に乏しく、冒頭に天狗が出てきたり、兼実が出家した時に自らの木像を彫ったとあるのですが、寺に現存する像は僧形文殊像であるなど事実と異なる点がいくつもあります。先に兼実が月輪殿と呼ばれた要因に疑義があると書いたのはこのためです。
この月輪寺は愛宕山の中腹にあり、ここに行くには非常に険峻な道を上らなければなりません。修験者が修行に訪れる様な場所であり、麓から登ると慣れた人でも一時間半以上の山道を歩く事になります。現在でも水道やガスは来ておらず、まさに僻遠の地ですね。このような場所に元輔が山荘を建てたり、清少納言が隠棲したりするでしょうか。月輪寺のホームページには清少納言隠棲の地とあり、また元輔や清少納言の墓まであるそうですが、年老いた女性が隠棲するにはあまりにも険し過ぎるというのが後藤祥子さんの見解です。
第三の候補地として挙げられたのが西坂下(雲母坂の下)と呼ばれた修学院にある月林寺跡です。がつりんじと読みますが、月輪寺と表記される事もあったのは前に記したとおりです。月林寺は平安時代に存在した比叡山三千坊の一つで、勤学会が行われた事が知られます。桜の名所としても知られ、詩歌の会の会場となる事もありました。
ここが清少納言隠棲の地と考えられる根拠の一つは、地名のほか藤原公任の別荘が北白川にあったと推定されることで、和歌のやりとりをするには愛宕山では遠すぎる事が挙げられます。清少納言は身内にトラブルを抱えていたらしく、公任に頼み事をしているのですが、険しい山中に居て、わざわざ都の反対側に居る公任に使いを出すというのも不自然ですよね。
弱点としては元輔の桂山荘からは遠い事で、歌集の詞書きなどには桂に行くつもりが月輪に来てしまったとあり、道を間違えたとするには方角が違う上に遠すぎるのですよね。
後藤祥子さんも確たる根拠を持たれている訳では無く、消去法で行くと東山の月輪という地名は12世紀以前の文献には全く見当たらないこと、愛宕山は道を間違えて行くには険しすぎる山中にあり、かつ老女が閑居する様な場所ではないことから、この修学院の地がふさわしいのではないかと推定されています。
ちなみに曼殊院もまた月林寺跡に建つ寺院です。山城名勝志(愛宕郡12)という江戸時代に書かれた本に「竹ノ内門跡坊官云う、月輪寺は今曼殊院の地旧跡也」と記されており、当時は未だ月林寺の記憶が残っていた事が判ります。地図で見ると月輪寺と付いた地名は曼殊院から鷺森神社の東まで広がっており、三千坊の一坊と言っても巨大な寺だった事が窺えます。そして、かなり高低差のある境内だったのでしょうね。
もしここに清少納言が住んでいたとしたらどのあたりだったのでしょうか。清少納言の晩年には数多くの落剥説がまことしやかに語られていますが、私的には桜の名所だったという月林寺の傍らで風雅を楽しんでいたと思いたいですね。
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