洛中

2024年9月13日 (金)

京都・洛中 洛中散策2024 ~相国寺塔頭 大光明寺 9.4~

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令和6年9月4日、およそ一年ぶりに相国寺塔頭・大光明寺を訪れてきました。ここは山門は閉じられていますが、小さな潜り戸には鍵が掛けられておらず、扉越しにはなりますかご本尊にお参りする為に、庭までは自由に入る事が出来ます。

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本堂の前にあるのが心字の庭。昭和50年代に当時のご住職が作庭された庭で、バランスの良い石の配置と苔が良く調和した庭です。以前は隠れた名園と言われてましたが、最近はあまり苔が綺麗でなくなっていますね。数年前にはほとんど枯れてしまった事があり、その後植え直されましたが今ひとつ冴えた色になりません。それに白砂の中に雑草が生えているのが見えており、手入れに力が入っていない様にも見受けられます。また背景の檜がますまずスカスカになって来ているのも景観を損ねています。檜は大光明寺のものではないので仕方がないですが、苔と雑草はなんとかならないのかなと思ってしまいます。せっかくの庭が勿体ないですよ。

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ここに来たのはこのツルボを見るため、少し早かった様ですが、まずまずの見頃でした。ただ、以前に比べると生えている面積が半減していますね。なぜかは判りませんが、少し寂しかったです。

このツルボが生えているのは峨眉山の庭と言い、心字の庭と同様に時のご住職の手に依って造られました。植え込みと庭石からなる庭で、調和の取れた良い庭ですよ。

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大光明寺を出て、宗旦稲荷社にお参りに来ました。茶人宗旦に化ける事が上手かった宗旦狐は、その死後縁の深かった相国寺の雲水たちによって葬られ、今は神として祀られています。この宗旦狐の像はいくつかの寺にあり、たとえば圓徳院の書院への入り口で見る事が出来ますよ。

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その宗旦稲荷社の前から見た弁天堂横のもみじです。この木も当然ながら年々大きくなっていますね。毎年綺麗に色づく木で、当たり外れは少ないもみじです。今年も鮮やかになってくれるかな。秋に来るのが楽しみです。

2024年9月12日 (木)

京都・洛中 洛中散策2024 ~下御霊神社 9.4~

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革堂から少し北に上がったところに下御霊神社があります。相国寺の北にある上御霊神社と対をなす神社で、共に貞観5年(843年)に神泉苑で行われた御霊会に起原を持つとされます。この時祀られたのが崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六座で、これに吉備聖霊(吉備真備ではなく和魂とされています)と火雷神(菅原道真ではななく荒魂とされます)の二座を加えて御祭神としています。

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神門を潜ると大きな百日紅が咲いていました。その向こうに拝殿と本殿が見えます。

下御霊神社は、初めは愛宕郡出雲郷の出雲路にあった下出雲寺御霊堂に祀られていました。すぐ北側には上御霊神社を祀る上出雲路御堂があったと言います。後に新町出水に遷り、さらに天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命で現在地に遷っています。

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下御霊神社には幕末の尊皇攘夷思想に影響を与えた垂加神道を唱えた山崎闇斎が祀られているとの事でしたが、この日は探しても見つかりませんでした。後から調べると手水舎の後ろの猿田彦社に合祀されているのだそうですね。どうりで見つからない訳だ。

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また、境内には天満宮もありました。本殿にまられている雷火神は道真公ではないという傍証になりますね。社前には梅が植えられており、毎年3月には梅和祭が行われるとの事です。

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そして稲荷社。探していた山崎闇斎の垂加社はこの隣にあったのでした。下御霊神社はホーページでは皇室との関係を強調されていますか、千年の間に様々な神々が勧請され、地域の産土神としての性格が強くなっている様に見受けられました。実際、5月に行われる神幸祭・還幸祭には大勢の氏子が集まるようですからね。一度は見ておきたいお祭りです。

さて二条界隈の散策はここで終了です。以前この近くには梶井基次郎の小説「檸檬」に縁りのある「八百卯」にがあったのですが、2009年に惜しまれながら閉店してしまいました。私はその3年前に訪れ、小説の場面を思い浮かべながら檸檬を買ったのを覚えているのですが、もう18年も前になるのですね。その代わり、今では丸善が復活し、毎年3月24日を基次郎記念日としてフェアを開催されています。来年は一度行って見ようかな。まだ小説の世界を楽しむ事が出来るのは、とても幸せな事だと思います。

2024年9月11日 (水)

京都・洛中 洛中散策2024 ~革堂 行願寺 9.4~

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法雲寺から行願寺に来ました。ここは西国三十三所の十九番札所、通称の革堂の名で有名ですね。門前に白い木柱が立っていて、「こうどう」と書かれているのが印象的です。

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行願寺は寛弘元(1004)年に行円という僧が、倒壊していた一条北辺堂の跡にお堂を復興したのが始まりとされます。行円は元は狩人だった人で、ある日雌鹿を射止めたときその傷口から子鹿が産まれた事を見て殺生を悔い、比叡山横川にて出家したと伝わります。以来母鹿の革を常にまとっていたいた事から革聖と呼ばれる様になり、行願寺もまた革堂と呼び慣わされる様になりました。

本尊は千手観音で、行円が夢告により得た加茂社の槻木(ケヤキの木)で彫ったものと伝わります。この事を知った一条天皇が一条北辺堂の再興を許し、扁額は藤原行成が書いたのだとも。

寛広2年(1012年)には藤原道長の三男、顕信が行円の下で出家し、比叡山の無動寺に入るという事が起こっています。将来を期待していた息子の突然の出来事に道長と母の明子の動揺は著しく、明子は不覚となり、道長も寝食が常の通りではなかった御堂関白記には記されています。原因は一条天皇が顕信を蔵人頭に任じようとしたところ、道長はその才にあらず、もし任じてしまえば諸人の謗りを受けると言って辞退した事にあると言われます。顕信がその数日前に北野の斎場で、伊周の子と他人を罵り合うという事があり、それを知った道長が、顕信を諫めるために止めたと言われますが、顕信にしてみれば自分が摘妻の子で無いためだと思い込み、将来を悲観したのではないかと推測されています。後に道長は顕信に会いに無動寺を訪ねており、行きは八瀬道を馬で上り、帰りは善師坂(西坂、雲母坂)を歩いて帰ったと記しています。

 

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行願寺はその後は町堂として栄え、庶民の信仰を集めますが、都度都度の火災によって寺域を転々とし、宝永五年(1708年)の大火の後に現在地に落ち着きます。革堂は町衆の寺らしく千年の間に様々な信仰が入り込んでおり、たとえばこれは寿老人堂、都七福神の一つである寿老人をお祀りしています。

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七福神がずらりと並んでいるのは、同じ都七福神の一つである赤山禪院と共通していますね。この七福神の起原は良く判らない様ですが、時代と共にメンバーが替わり、現在の形になったの江戸時代にはってからだとか。また、福禄寿と寿老人は共に南極老人星の化身と言われ、同一視される事もあったそうてす。ちなみに日本の神様は惠比須神だけで、あとは全て外国から来た神様だそうです。今は当たり前と思っている事も遡っていくと色々あったと判り、なかなか興味深いですね。

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こちらは愛染堂。愛染明王が祀られており、恋愛成就、縁結び、夫婦円満などの御利益があるとされています。また愛染を藍染めに掛けて、染め物や織り物の業者からの信仰を集めているそうです。

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この巨大な五輪塔は加茂明神塔。ご本尊の千手観音が、加茂社の槻木を譲り受けた事で出来た事に感謝して勧請されたものと伝えられます。ただし、石塔の形式は鎌倉時代のもので、創建当初から伝えられたという寺伝はあやしい様ですね。火袋の中には不動明王が祀られており、これは後世に入れられたものではないかとされています。また、父母の四十九日の忌み明けにお参りする忌明塔だったとも言われます。

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こちらは百体地蔵尊。扁額には梵鐘再鋳落慶記念と書かれていますね。たぶんですが、廃仏希釈の時に町中から預けられたお地蔵様や大日如来を、戦後になって地蔵堂を作ってお祀りしたんじゃないかしらん。あるいは市電工事の際に出てきた仏様をここに集めたか、どちらかではないでしょうか。確証は何も無いですけどね。

境内には蓮の鉢が沢山置かれていました。ここも街中の蓮の名所だったのですね。来年は蓮が咲く頃に来てみようかしらん。また、夥しい数のフジバカマの鉢が置かれていました。これが大きくなって花が咲いたら壮観でしょうね。アサギマダラも沢山飛んで来るのではないでしょうか。観音様にお参りがてら、花や蝶を見に来るのも良いかもしれませんね。

2024年9月10日 (火)

京都・洛中 洛中散策2024 ~法興院跡 法雲寺 9.4~

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善導寺から法雲寺に来ました。二つの寺は敷地が隣同時なのですが、入り口が随分と離れています。二条通から入れると思っていたのですがどこにも無く、ぐるっと回り込んだ河原町通側にありました。ここもビルに挟まれた狭い参道になっています。

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ここは藤原道長の父、兼家の邸宅である二条第があった場所で、永祚2年(990年)に当時関白だった兼家は病を得て出家し、病気平癒の祈願のために二条第を法興院(ほこいん、又はほうこういん)と言う寺に改めました。しかし、そのわずか2ヶ月後に兼家は亡くなります。法興院は兼家の菩提寺となり、子の道隆、道長によって庇護され栄えました。道長の日記「御堂関白記」には法興院が頻出しており、幾度となくここで様々な法会を行っています。

法興院の法会で最も有名なのが道隆が正暦5年(994年)2月21日に行った一切経供養で、その様子を清少納言が枕草子の中で詳しく記しています。正確には道隆が法興院内に建てた積善寺で行われ、主催した道隆のほか中宮定子、国母である東三条院が臨席し、伊周や隆家といった中関白家の人々、中宮太夫であった道長、その他主立った公卿達がこぞって参加するという大々的な法会でした。清少納言は得意の絶頂にあった道隆、美しく聡明な定子とその女房達、若き貴公子の伊周の様子を活写しており、まさしく中関白家がこの世の春を謳歌した日でした。

しかし、水面下では道隆の専横ぶりに対する公卿達の反感がくすぶっており、7月に伊周が21歳の若さで叔父の道長を飛び越えて内大臣に就くと彼らの不満は頂点に達しました。特に東三条院は伊周の早すぎる昇進を不快に思い、弟の道長への傾斜を深めていきます。これには伊周の妹である定子に対する反感、いわゆる嫁姑の感情のもつれがあったとも言われますね。清少納言も言っています、「ありがたきもの(めったにないもの)、姑に思わるる嫁の君」と。嫁姑の問題は千年前から存在していたのでした。

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栄華を極めていた道隆でしたが、一切経の法会からわずかに一年後、病を得て病没します。道隆は死ぬ前に伊周を関白に据えようとしますが、一条天皇はこれを認めず道兼を関白に指名、その道兼がわずか七日にして亡くなると道長を内覧に据えました。この裏には伊周を嫌う東三条院の意向が強く働いたと言われます。伊周は道長に激しく反発しますが、政治力では道長に及ばす、また人望の無かった伊周は次第に孤立していきます。そして長徳2年1月に伊周と隆家は花山法皇に矢を射かけるという失態を犯し、伊周は太宰の権帥として配流になり、定子は発作的に髪を切ったため出家したとみなされ、内裏からの退出を余儀なくされました。こうして光り輝いていた中関白家は見る影も無く没落してしまいますが、清少納言はその後も定子に仕え続け、定子の死後も枕草子を書き続けました。一切経の法会の段は飛び抜けて長く、在りし日の中関白家の栄光を記していますが、その最後に今の事を思うとこれ以上は書けないと記して筆を置いています。枕草子で清少納言が悲しみの感情を露わにしているのはここだけで、何とも切ない気持ちが伝わってくるような気がします。

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法興院はその後何度か焼失と再建を繰り返しますが、鎌倉時代の焼失を最後に廃絶してしまいました。跡地はいつしか森になり、応仁の乱では合戦場となっています。人々はこの森には鬼が棲んでいると恐れたと言いますが、永禄10年(1567年)に然誉上人が鬼を鎮めて草庵を結びました。この然誉上人は善導寺を建てた然誉和尚と同一人物ですね。そして元和2年(1616年)に二世本蓮社源譽上人が諸殿を整備して法雲寺としました。法興院の南の庭の池があった場所だったとされ、清水が涌いていた事から清水山という山号が付けられています。

この寺で有名なのが菊野大明神、ホームページで縁切りの御利益があるとは知っていましたが、後から検索をかけてみると京都最強のパワースポットというサイトが沢山出てきました。これほどのものだとは知りませんでしたね。ご神体は霊石で、様々な謂われがありますが、この寺では小野小町の下へ百夜通いをしていた深草の少将が、道中に腰を掛けていた石とされています。最後の夜に倒れて願いが叶わなかった少将の怨念が籠もっており、大抵の縁は切れてしまうのだとか。

縁切りの方法はかわらけを持ってこお堂の中に入って祈り、かわらけに願いを書いて厄払いの石の上でたたき割るのだそうです。反対に良縁を結ぶ御利益もあり、その場合はかわらけを三方の上に納めるのだとか。受付でお願いすると、ロウソクと線香、それにかわらけのセットを千円で頂く事が出来ます。私はあまり深く知らずに中に入っただけですが、薄暗くて何かものすごい雰囲気があり、早々に退散しました。

 

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こちらは豊川大明神。火除け、厄除け、災難除けの御利益があるとされます。また、菊野大明神でかわらけの儀式を終わった後は、この社にお参りするようにと指示があります。縁切りと言えば安井金比羅宮の縁切石が有名ですが、ここの御利益はそれ以上に強力で、下手にお願いすると大変な事になると記したサイトが多いですね。興味本位では近づかない方が良い様です。

幕末には長州藩の久坂玄瑞と寺島忠三郎が、開国を唱えた永井雅楽の暗殺を企てた事を咎められて、この寺で謹慎しています。また、脱藩していた吉田稔麿もまた、同じくここで謹慎していたとの事です。このすぐ南に長州藩邸があり、藩邸に収容しきれなかった藩士の宿所ともなっていたそうですね。

また、境内には法興院の遺構として井戸があるそうですが、この時は気付きませんでした。周囲はビルで囲まれており、平安時代をしのぶ事は無理です。しかし、かつて藤原家一族が集った場所である事は確かであり、枕草子に描かれた舞台を一度は訪れてみるのも良いと思いますよ。

 

2024年9月 9日 (月)

京都・洛中 洛中散策2024 ~善導寺 9.4~

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一之舟入から少し北に上がると二条通に出ます。その二条通に面して、ビルに挟まれた竜宮門が建っています。ここにあるのは以前から知っていましたが、これまで入ったことはありませんでした。

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寺名は善導寺、山号は柊南山と言います。院号は真光明院で、浄土宗知恩院派に属する寺院です。門前にある説明板に依ると永禄年間(1558年から1569年)に久留米の善導寺の僧、然誉清善和尚によって六角堂付近に創建されました。寺名は出身の寺のものをそのまま持ってきたのですね。しかし、天明八年(1788年)に天明の大火に遭い全焼、第四世旭誉和尚が長谷川重兵衛の寄進によってこの地に移転しました。

 

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ご本尊は阿弥陀如来ですが、非公開の寺のため本堂の扉は閉じられています。一見するとごく普通のお堂ですが、Goolemapの航空写真で見るとこの右手に一回り大きな書院があり、その背後に広い庭がありますね。外から見るより意外と奥深い寺の様です。

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本堂の左手には自然石を半肉彫りにした釈迦三尊像があります。これも説明板に依ると清凉寺式の釈迦如来で、脇侍は弥勒菩薩と五髪の文殊菩薩だそうです。かなり簡略化されていますが、衣紋の流水紋を見ると確かに清凉寺のものを模していますね。正面からは見えませんが、公安元年(1278年)の銘があるそうで、由来は判りませんが別の寺にあったものが持ち込まれたのでしょうか。調べてみてちょっと驚いたのですが、重要美術品に指定されているのですね。そんな大切な文化財を雨晒しにしておいて良いのかしらん。

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境内にはもう一体石仏があります。こちらも半肉彫りの仏様ですが、調べた限りでは正体は判りませんでした。私見ですが、黒谷のアフロの阿弥陀様に似ていますね。螺髪の形からそう思えるのですが、見当違いならごめんなさい。

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こちらは善導寺型灯籠。火袋に水差し、風呂釜、火箸に茶箒、炭入れなどの模様が描かれています。かなり摩滅していますが、良く見るとうっすらと見えますね。灯籠としては有名なものだそうで、写しが幾つも造られているのだとか。そういう場合、オリジナルの灯籠は本歌と言うそうですね。善導寺にはもう一基灯籠があり、鎌倉時代の石幢を灯籠に改めたもので、白大理石製だそうです。書院の庭にあるとの事で見る事は出来ませんが、画像検索をすると出てきました。本来は六角形の火袋のところに地蔵菩薩が彫られていたのだとか。これもまた重要美術品なのだそうです。

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もう一つこの寺で面白いのは寺の中に「ソワンエステ ティラ」というエステサロンがある事で、境内に入って左側に入り口があります。なぜここにと思うのですが、経緯は判りません。完全予約制で一日一人という事ですから、飛び込みでは利用出来ないですね。もっとも看板は入り口にあるだけなので、あらかじめ知っている人以外は来ないでしょう。

何気ない寺だと思っていたのですが、調べてみると色々と面白い寺でした。綺麗に整えられた前庭と石仏や灯籠だけでも立ち寄る価値はありますが、書院や庭も見てみたいので、いつか特別公開をして欲しいですね。

2024年9月 8日 (日)

京都・洛中 洛中散策2024 ~三条大橋から高瀬川一の舟入まで 9.3~ 

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令和6年9月3日、この日は三条大橋を起点に、木屋町、二条界隈を散策してきました。まずは三条大橋から。

京阪の三条駅を出ると、目の前に百日紅が咲いていました。これって以前からあったのでしょうけど、この時期に来る事はあまり無いので気付いてなかったです。何度も来ている場所なのに我ながらいい加減なものです。

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さて、写真で見て判るとおり三条大橋の欄干が新しくなり、白くなっています。以前のものは昭和49年に取り替えられたもので、半世紀近く経ってさすがに痛みが目立ち、2010年代には見苦しいので取り替えてと結構苦情が入っていたとの事。京都市はすぐにでも着手したかった様ですが、ネックになったのは4億円という事業費、財政難の京都市にとっては負担が大きすぎます。そこでふるさと納税などで寄付を求める事にし、着工を決めたのが2018年の事。そして実際に着手したのが2022年で今年の1月に完成を見ました。それにしても、あれほどインバウンドで賑わっても、まだ財政難だと言うのは不思議です。彼らの落としたお金はどこに行っているのかしらん。

それはともかく、欄干だけでなく、歩道の舗装、車道と歩道を隔てる防護柵も更新されています。欄干は京都市内産の檜を使用、防護柵には魔除けの効果のあるという麻の葉の模様が施されています。舗装は市松模様になっており、京都の入り口に相応しい橋に仕上がってますね。なお、擬宝珠は豊臣秀吉が架橋した当時のものがそのまま残されました。

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とても良い仕事をされたと思うのですが、白すぎるのが気になります。もうちょっと時代を出しても良かったんじゃないかしらん。まあ、風雨に晒されている内に風合いが出てくるのでしょうけどね、慣れるまで時間が掛かりそうです。写真は欄干にあるハートマーク。たぶん傷か穴があった部分を補修したのだと思いますが、ちょっとした名物になっています。

なお、ライトアップも行われているそうで、一度夜に見に来たいですね。

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三条大橋を渡り、木屋町通を北へ向かいます。このあたりは江戸時代に藩邸街だったところで、一種の治外法権的な界隈でした。そのため、幕末から明治維新にかけては尊皇攘夷派の拠点となり、四条から二条に掛けて歩くと、様々な史跡と出会う事が出来ます。これはその一つ、佐久間象山と大村益次郎の遭難碑です。

佐久間象山は幕末において最も優れた兵学者として知られ、吉田松陰、勝海舟、橋本左内、河井継之助、坂本龍馬など尊皇派、佐幕派に関わらず、多くの弟子に影響を与えています。しかし、松陰のアメリカ渡航事件に連座して蟄居を命じられ、8年間を松代で過ごしています。ようやく出ててきた頃には時代が変わってしまっており、象山の感覚は世間とずれてしまっていました。尊攘派がうごめく京都にあって、洋式の鞍を付けた馬を乗りまわしたり、天皇の彦根動座を建言したりしています。象山の言動は尊攘派に取って許しがたいものであり、暗殺の標的とするには絶好の対象でした。そして元治元年(1864年)7月11日に暗殺は実行されます。象山は三条木屋町で刺客に襲われ、馬で逃走したものの御池通を上がったこの地で別の刺客に待ち伏せされて命を落としました。暗殺者は河上彦斎と言われ、あのアニメのるろうに剣心のモデルとされる人ですね。

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大村益次郎は周防国鋳銭司村の医者の出で、大阪の適塾で蘭学を学び、塾頭まで勤めています。しかし、家の事情で国元に帰り、村医として過ごします。長州藩は彼を黙殺しましたが、宇和島藩の伊達宗城に依って見いだされ、蘭学者としての才能を開花させます。その後江戸に出て幕府によって実力が認められ、講武所の教授まで出世しました。この頃、長州藩の桂小五郎と知り合い、これほどの人物が自藩の出身であったと知った小五郎の誘いによって長州藩士に復帰します。ただし、俸禄は幕府よりもはるかに少ない年25俵扶持でした。長州では兵の近代化に邁進し、第二次長州征伐の勝利に貢献しています。明治維新後は上野戦争で彰義隊を鎮圧しましたが、この過程で薩摩藩の海江田信義と対立し、恨みを買ったと言われます。戊辰戦争で官軍を指揮して勝利に導いた後は兵部省に出仕し、更なる軍の近代化を目指します。その一環として明治2年8月に京都、大阪の軍事施設を視察するために入洛し、9月3日には三条木屋町の旅館に宿泊します。翌4日にそこを襲ったのが同じ長州藩の神代直人ら8人の刺客でした。理由は益次郎が進める農兵制が士族を蔑ろにするというものでしたが、背後では海江田が糸を引いていたとも言われます。重傷を負った益次郎は約2ヶ月に渡って治療を受けましたが、手当の甲斐無く大阪府医学校病院で亡くなりました。享年45歳。

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木屋町通を二条通近くまで歩いて行くと一之舟入に出ます。舟入とは高瀬川から街中に突き出た水路の事で、文字通り船を入れて荷物の上げ下ろしに使われました。方向転換をする場所でもあり、要するに運河に作られた港ですね。かつては九之舟入までありましたが、現在残っているのは一之舟入だけです。かつてあった舟入の箇所には石碑が建っていますが、私は全部はまだ見ていません。

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一之舟入の前には句碑が建っています。京都俳句作家協会を設立した那須乙郎氏(1908年~1989年 )の作で「舟入りの灯影に明くる春の雪」と記されています。那須氏は昭和60年に京都文化功労者賞を受賞されていますね。

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一之舟入の近くには高瀬舟が復原されています。ここに船が浮かべられたのは昭和50年頃だったかな、出来た当時は素敵な事をしてくれたと嬉しかったのを覚えています。でもその後年と共に古びてしまい、廃船の様になってしまっていたのですが、いつの間にか新しくなり、それが繰り替えされて今の船は平成25年に造られたもので三代目になる様ですね。私は来た事がありませんが、毎年秋にはここで高瀬川祭りが行われ、舞妓さんに依るお茶の接待、撮影会なとが行われるそうです。一度参加してみたいものですが、きっと相当に混むのだろうな。

高瀬川は角倉了以によって開削された運河で、当初の目的は方広寺の再建のための資材運搬でした。もう少し上流の鴨川からみそそぎ川と共に取水され、暫く河川敷を暗渠で流れた後高瀬川として分流し、角倉了以別邸跡の中を通って暗渠を潜り、ここで姿を現します。

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その角倉了以別邸跡は道を挟んだ反対側に見る事が来ます。巨石が積まれた偉容な壁が目印で、現在はがんこの高瀬川二条苑になっています。庭園は山県有朋の第二無隣庵だった当時のもので、小川治平衛による作庭です。以前入った事がありますが、木々に覆われた中に小川が流れており、素敵な空間でした。この小川が高瀬川の源流なのですね。

高瀬川はここからずっと市街地を南に流れていきますが、東九条のあたりで一度鴨川に合流し、対岸に渡って東高瀬川となり三栖浜で宇治川に繋がります。ただし、現在は河川改修によって東高瀬川への入り口は無くなっています。

ちよっと判らないのが高瀬舟は川を遡る時は人力で引っ張っていたのですが、鴨川を渡る時にはどうしていたのでしょうね。まさか川の中に入って引っ張っていたとか、うーん、想像が付かないです。沢山の船が通っていたのですから、普遍的なやり方があったのでしょうけどね。

運河として重宝された高瀬川でしたが、琵琶湖疎水が出来るとその役割を終える事になります。埋め立てるという計画もあったようですが、地元住民の反対に依って残され、現在は普通河川として管理されています。特に五条から二条にかけては桜の名所として市民に親しまれています。高瀬川の流れる木屋町通は、歓楽街であると同時に歴史と水と緑に親しむことが出来る素敵な道です。

2024年9月 7日 (土)

京都・洛中 百日紅2024 ~京都御苑 九条池 8.28~

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京都御苑の南の端にある九条池に来ました。ここはかつて九条家の邸宅があった場所、池はその庭園の遺構です。

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九条家とは藤原北家の流れを汲む五摂家の一つ。平安末期から鎌倉初期にかけて摂政・関白を務めた九条兼実に始まる家で、さらに祖先を辿れば藤原道長にも繋がります。奠都に伴い東京に移住し、屋敷跡には茶亭である拾翠亭だけが残りました。ただ、屋敷の一部は東京に移築され、現在は東京国立博物館に九条館として保存されています。

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四季を通じて美しい庭ですが、夏は百日紅が綺麗です。九条家が居た当時から植えられていたのかどうかは判りませんが、緑色の池面、拾翠亭との組み合わせが、計算されていた様に見事ですね。

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池の北側にあるのが厳島神社。元は大和田泊の経が島に平清盛が宮島の厳島神社から勧請したもので、宗像三女神(市杵島姫命・田心姫命・瑞津姫命)と祗園女御をお祀りしています。時期は判りませんがこの地に遷座され、九条家が邸宅を構えた後はその鎮守社となり、九条家が東京に去った後もそのまま残されました。特徴的な鳥居は唐破風鳥居と呼ばれ、重要美術品に指定されています。北野天満宮の伴氏社の石鳥居、蚕の社の三本足鳥居と共に京都三鳥居とも呼ばれます。

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拾翠亭の公開日は毎週木、金、土の9時30分から15時30分まで。拝観料は300円です。この日は水曜日だったので中には入っていません。いつもは公開日に来るので雨戸は開いているのですが、閉じられた姿も締まった感じがして良いですね。右に見えているのはたぶん藤棚、ここが咲いているのは見た事がありません。次に来るのは藤の咲く頃かな。その前に紅葉も見に来ようかしらん。もみじが多いし、きっと素敵でしょうね。

2024年9月 6日 (金)

京都・洛中 百日紅2024 ~京都御苑 8.28~

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令和6年8月28日の京都御苑です。この日は百日紅が見頃を迎えていました。

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京都御苑には大きな百日紅がいくつもあります。例えば合之間口から入ってすぐの所にあるこの百日紅。数本の木が植えられていますが、あたかも一本の木が生い茂っている様に見えます。それにしても大きな茂みで、これだけ迫力のある百日紅はなかなか見る事が出来ません。

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花付きも良かったですね。これだけの株が満開になった様は豪華の一言です。まだまだ花期は続き、たぶん10月中頃まで見られると思われます。

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京都御苑は京都御所を中心とした国民公園。元は公家町だったところで、東京奠都により多くの公家が東京に移ったため、空き家となった屋敷街は荒れ果ててしまいました。この廃墟群を整理しようと大内整備事業が行われ、屋敷は全て撤去して跡地に木々を植え、外周の石垣の構築、道路の整備などが行われて現在の京都御苑の原型が出来上がりました。さらに戦後になって国民公園と位置づけられ、休憩所や児童公園、グラウンドなどが整備されて、広く国民に開放されています。

京都御苑の管理者は環境省ですが、敷地内にある京都御所や仙洞御所・大宮御所は宮内庁、京都迎賓館は内閣府の管轄と少しややこしいですね。さらに御所の警備は皇宮警察が行っており、定期的に御所の周囲をパトカーが巡視しています。特に気にする事は無いですが、時々御所の塀に近づいて警報を鳴らした人が居ると近づいて来て注意されます。

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これは建礼門前にある百日紅です。冒頭の写真の様に建礼門と絡めて撮れるので、結構気に入っています。大通りを挟んで東西に植えられていますが、今年は西側の百日紅はあまり咲いていませんでした。結構年によって咲き方に差があるのですが、東側のこの木が当たり年だったのは嬉しかったです。明日は京都御苑の中でも百日紅の名所として知られる九条池の様子をお届けします。

2024年9月 5日 (木)

京都・洛中 平安京の禁苑 ~神泉苑 2024.8.28~

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令和6年8月28日、神泉苑を訪れてきました。ここは入り口に鳥居が立っており、一見して神社かなと思ってしまいますが、東寺派真言宗のお寺です。要するに神仏混淆の名残が残っているのですね。

以前は境内に祗園平八という料亭があり、立派な門と大きな看板があったため、どちらかと言えば料亭の方が主で、神泉苑はその庭という感じでした。この日久しぶりに来てみると無くなっていたのでどうしたのかなと調べてみると、賃料の支払いを巡って神泉苑と揉めていたらしく、去年の初め頃廃業して取り壊された様ですね。大きな料亭だったけど、経営は苦しかったのかなあ。

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神泉苑は元を質せば禁苑、天皇のための庭でした。平安京の造立時に古京都湖の名残の池を整備したものと考えられており、南北500m、東西240mに及ぶ広大な庭園でした。乾臨閣、 右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などの諸殿を備えていたと言いますから、今からでは想像出来ない豪華な施設だったのでしょうね。発掘調査で船着き場の痕跡も見つかっているとの事ですから、池に龍頭鷁首の船を浮かべて船遊びも楽しんでいた事でしょう。そう言えばこの日は船を見かけなかったのですが、料亭と共に無くなってしまったのかな。

桓武天皇や嵯峨天皇を始め歴代天皇ががここで遊んだという記録があり、中でも嵯峨天皇に至っては43回も来ているそうですから、相当なお気に入りの場所だったのでしょうね。特に弘仁3年(812年)に行った花宴の節は、日本最初の桜の花見ではないかとされています。

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この赤い橋は法成橋。一つだけ願いを込めてこの橋を渡り、善女竜王社で祈ると願いが叶うと言われています。6年前に修復されましたが、まだまだ色あせていませんね。

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天皇や貴族の遊興の場だった神泉苑ですが、時代と共に性格を変えていきます。その最初の例になるのかな、天長元年(824年)に弘法大師に依る雨乞いが行われています。日旱の年でも涸れることの無いこの池が選ばれたとの事ですが、境内には嵯峨天皇が命じたと言う弘法大師と西寺の守敏の雨乞い対決を説いた説明板があります。それに依ると、先に雨乞いを行った守敏は雨を降らせたものの都周辺だけに止まり、弘法大師に負ける事を恐れて法力により龍神をことごとく封印してしまいます。しかし、北天竺の無熱池の善女竜王だけは守敏の法力より強く封印を免れており、これを見つけた弘法大師は神泉苑に勧請し、無事に雨を降らせる事が出来ました。弘法大師は位を授かり東寺は栄えたのですが、敗れた守敏は面目を失い、以後西寺は廃れていったとの事です。

無論これは説話の類で、二人が対決したという公的な記録は無く、実際には西寺は官寺として東寺よりも格の高い寺として栄えたのですが、ここでは守敏が徹底的に貶められており、ちょっと気の毒な気がしましたね。

これ以後、この地では雨乞いが屡々行われる様になり、祈雨のための聖地としての性格を帯びるようになりました。有名なところでは第一の歌い手とされた小野小町が雨乞いのための歌「ことはりや ひのもとならば てりもせめ さりとてはまた あまかしたとは」 を奉納したり、後白河法皇の時には静御前が祈雨の舞を踊って見事に雨を降らせ、義経との出会いの場となったとも言われます。

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この小さな祠は日本唯一と言われる恵方社。上部が回転式になっており、毎年大晦日の夜に氏子によって翌年の恵方に向けられます。平成29年(2017年)の台風で吹き飛ばされてしまいましたが、大切な施設ですからその翌年すぐに復原され、さらに痛みが酷かった事から平成31(2019年)年に新調されました。

神泉苑は祗園祭の起原とも関わっています。貞観5年(843年)に疫病が大いに流行り、これが御霊(無実の罪で非業の死を遂げた人の怨霊。早良親王、伊予親王など。)のためと考えられたことから神泉苑で御霊会が行われました。経典が唱えられたほか、雅楽や稚児の舞、散楽などが行われ、天皇がご覧になられた上に民衆にも開放されて、大いに賑わったと伝わります。また、貞観11年(849年)には貞観大地震や富士山の噴火など国中で災厄が続いたため、神泉苑に当時の国の数66本の鉾を立てて平安を祈願し、祇園社から厄払いのために神輿が派遣されました。これが後世に町衆に引き継がれ、祗園祭に発展したと言われます。

令和4年(2022年)7月14日からはこの事にちなみ、祗園祭の行事の一環として、神泉苑の阿加井で汲んだ水と八坂神社の竜穴から汲んだ水を交換し、それぞれの井戸と竜穴に注ぐという御神水交換式が行われる様になりました。新たな神仏混淆の儀式の始まりですね。

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神泉苑はこうして禁苑から儀式を行う神聖な場となり、四方を壁で囲って四つの門を設けで結界とし、定期的に池は攫われ、境内は芝原が維持される事で霊験を保持される様になりました。ところかそんな聖域であったにも関わらず、藤原道長は法成寺を建てた時、神泉苑から門や乾臨閣の礎石を持ち去っています。そんな無茶な事が許されたのかと思いますが、道長はそれだけでなく、羅城門や大内裏にあった宮司の礎石も持ち出しています。また豊楽殿の鴟尾が鉛製であると知り、緑釉瓦の材料にするため屋根から下ろそうとしたとか。これらの出来事は誰も掣肘出来なかった道長の権勢の凄さと、身勝手な横暴ぶりを示していると言えそうですね。

写真は弁天堂、江戸時代に建てられたお堂で増運弁財天を祀ります。お参りすると諸芸上達、福徳円満、財徳の御利益があるとされます。天明の大火で一度焼失しており、現在の建物はその後再建されたものです。神泉苑にはもう一体、本堂に宇賀弁財天が祀られており、除難、吉祥安穏の御利益があるとの事です。こちらは秘仏であり、普段目にする事は出来ません。

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平安時代の末になると大風や火災によって荒廃し、池の水も汚濁したと伝わります。鎌倉時代に入ると源頼朝によって諸殿が復興されますが、承久の乱によって再び荒廃し、北条泰時の命により門垣が築かれて聖域が回復されました。以後室町時代中頃までは東寺の密教道場として管理され、祈雨、止雨祈願が行われていましたが、中期以後は次第に荒廃が進み、長禄3年(1459年)頃には池は汚濁し、苑地には田畑が広がり、汚械不浄物が捨て置かれる有様となっていました。汚れた池からは善女竜王も去ってしまったと噂される始末でした。また、東寺と共に管理に当たっていた室町幕府も衰退と共に支援を放棄し、それどころか足利義政が築いた東山殿(慈照寺・銀閣)の造園のために庭石が運び出されたとも伝えられます。東寺もまた宗教行事は行わなくなり、寺領の一部として田畑の耕作者から礼銭を徴収する様になっていました。

写真は宝篋印塔、貞享元年(1684年)に弘法大師の850回忌に当たり建立されたもので、少しの祈願で菩提の種(悟りを開く機縁)が得られるとされます。

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安土桃山期に入り織田信長によって都の秩序が回復されると、正親町天皇の仰せにより信長から東寺に対して再興が命じられています。長年放置されていたため池が半ば埋まるほど荒れ果てていましたが、まだ聖域としての認識は残っていたのですね。この命令がどこまで実行されたかは判りませんが、江戸時代に入ると神泉苑は決定的な打撃を受けます。徳川家康に依る二条城の築城で、苑地の北側の大半が接収され、池の湧水はそのまま堀の水に転用されました。こうして平安時代より続いた神泉苑は終焉の危機に立たされます。

写真は池の東の畔にある社、神泉苑のホームページの境内図に依ると鎮守稲荷社とあります。しかし、御祭神は矢劔大明神となっており、稲荷神ではありません。この矢劔大明神は手に持った矢と剣で参拝者を守護して下さる神様だとの事。稲荷神とは関係なさそうなのですが、なぜ混同されているのかしらん。

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およそ10分1までに縮小し、廃絶の危機に立たされた神泉苑でしたが、名苑が喪失してしまう事を惜しんだ筑紫の僧、快雅の発願に板倉勝重や片桐且元といった大名が応え、慶長12年(1607年)から寛政年間にかけて修復が行われ、東寺所属の一寺院として再興されました。この時、東寺、仁和寺、醍醐寺、石山寺などにより神泉苑法要が行われ、去ってしまったと言われていた善女竜王も再び勧請されています。その後天明の大火によって諸殿は全焼してしまいますが、伝統を引き継ぐため数十年を掛けて再建されています。

明治以後は恐らく廃仏毀釈の波をもろに被ったのでしょうね、経済的困窮に陥り、境内の一部を料亭に貸すことで存続を図ったと思われます。とても豪華な料亭で、寺とどちらが主役か判らない程でしたからね。その様子は今でもGooleマップで見る事が出来ますよ。今は空き地となっていますが、今後なんらかの活用が図られるのでしょうか。

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神泉苑の東、御池通と黒門通が交わる角に礎石と思われる石があります。説明板に依ると明治時代に御池通の拡幅の際に掘り起こされた石で、左大臣源義明の観子左邸の礎石、もしくは道長が神泉苑から運びだそうとした礎石かと推測されています。決め手は無い様ですが、説明板に書かれていた様に歴史を見てきた石である事は確かで、平安時代がすぐそこにある様に感じます。こうしたものが道端にあるのも京都ならでは、神泉苑に行かれる事があれば是非ご覧になる様にお勧めします。

2024年9月 4日 (水)

京都・洛中 京の小径2024 ~三上家路地 8.22~

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本隆寺からの帰り、久しぶりに三上家路地に寄ってみました。三上家路地とは、西陣織の織元の三上家が、配下の職人達を住まわせていた長屋です。一番奥の家が三上家であり、現在でも大家として店子の面倒を見ておられます。今ここに住んでいるのは、織り子ではなく陶芸家や写真家、養蜂家など、この町の風情に惹かれてやって来た人達が中心になっています。

ちょくちょくドラマの舞台になったり、京都の紀行番組で取り上げられますが、最近はあまり見なくなったかな。

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この前は何度も通っていますが、中に入るのは16年ぶりの事、住民が入れ替わったかどうかは判りませんが、佇まいは全く変わっていませんでした。特にこの大きな瓶は何のために置いてあるのか判りませんが、割れること無く相変わらず存在感を放っています。せっかく来たのだからドラートさんで蜂蜜でも買って帰ろうかと思ったのですが、営業が昼からだったので諦めました。

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16年前の自分の記事を読み直して思ったのは、最近は西陣の町を歩いても機の音がほとんど聞こえて来ないなという事です。それもそのはず、少し調べてみると当時と今では西陣織を生業としている家は半減しているそうです。わずか16年でここまで衰退しているとは、西陣織の将来は大丈夫なのかしらん。かつて京都を支える屋台骨だった西陣がすっかり地盤沈下してしまい、今や希少な伝統産業の地になろうとしているのは何とも寂しい限りです。西陣織は和装の生地を作るだけでなく、能や歌舞伎の衣装など様々な伝統芸能を支える存在でもあります。どうか絶えてしまう事が無いように祈るばかりですね。

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