令和6年8月28日、神泉苑を訪れてきました。ここは入り口に鳥居が立っており、一見して神社かなと思ってしまいますが、東寺派真言宗のお寺です。要するに神仏混淆の名残が残っているのですね。
以前は境内に祗園平八という料亭があり、立派な門と大きな看板があったため、どちらかと言えば料亭の方が主で、神泉苑はその庭という感じでした。この日久しぶりに来てみると無くなっていたのでどうしたのかなと調べてみると、賃料の支払いを巡って神泉苑と揉めていたらしく、去年の初め頃廃業して取り壊された様ですね。大きな料亭だったけど、経営は苦しかったのかなあ。
神泉苑は元を質せば禁苑、天皇のための庭でした。平安京の造立時に古京都湖の名残の池を整備したものと考えられており、南北500m、東西240mに及ぶ広大な庭園でした。乾臨閣、 右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などの諸殿を備えていたと言いますから、今からでは想像出来ない豪華な施設だったのでしょうね。発掘調査で船着き場の痕跡も見つかっているとの事ですから、池に龍頭鷁首の船を浮かべて船遊びも楽しんでいた事でしょう。そう言えばこの日は船を見かけなかったのですが、料亭と共に無くなってしまったのかな。
桓武天皇や嵯峨天皇を始め歴代天皇ががここで遊んだという記録があり、中でも嵯峨天皇に至っては43回も来ているそうですから、相当なお気に入りの場所だったのでしょうね。特に弘仁3年(812年)に行った花宴の節は、日本最初の桜の花見ではないかとされています。
この赤い橋は法成橋。一つだけ願いを込めてこの橋を渡り、善女竜王社で祈ると願いが叶うと言われています。6年前に修復されましたが、まだまだ色あせていませんね。
天皇や貴族の遊興の場だった神泉苑ですが、時代と共に性格を変えていきます。その最初の例になるのかな、天長元年(824年)に弘法大師に依る雨乞いが行われています。日旱の年でも涸れることの無いこの池が選ばれたとの事ですが、境内には嵯峨天皇が命じたと言う弘法大師と西寺の守敏の雨乞い対決を説いた説明板があります。それに依ると、先に雨乞いを行った守敏は雨を降らせたものの都周辺だけに止まり、弘法大師に負ける事を恐れて法力により龍神をことごとく封印してしまいます。しかし、北天竺の無熱池の善女竜王だけは守敏の法力より強く封印を免れており、これを見つけた弘法大師は神泉苑に勧請し、無事に雨を降らせる事が出来ました。弘法大師は位を授かり東寺は栄えたのですが、敗れた守敏は面目を失い、以後西寺は廃れていったとの事です。
無論これは説話の類で、二人が対決したという公的な記録は無く、実際には西寺は官寺として東寺よりも格の高い寺として栄えたのですが、ここでは守敏が徹底的に貶められており、ちょっと気の毒な気がしましたね。
これ以後、この地では雨乞いが屡々行われる様になり、祈雨のための聖地としての性格を帯びるようになりました。有名なところでは第一の歌い手とされた小野小町が雨乞いのための歌「ことはりや ひのもとならば てりもせめ さりとてはまた あまかしたとは」 を奉納したり、後白河法皇の時には静御前が祈雨の舞を踊って見事に雨を降らせ、義経との出会いの場となったとも言われます。
この小さな祠は日本唯一と言われる恵方社。上部が回転式になっており、毎年大晦日の夜に氏子によって翌年の恵方に向けられます。平成29年(2017年)の台風で吹き飛ばされてしまいましたが、大切な施設ですからその翌年すぐに復原され、さらに痛みが酷かった事から平成31(2019年)年に新調されました。
神泉苑は祗園祭の起原とも関わっています。貞観5年(843年)に疫病が大いに流行り、これが御霊(無実の罪で非業の死を遂げた人の怨霊。早良親王、伊予親王など。)のためと考えられたことから神泉苑で御霊会が行われました。経典が唱えられたほか、雅楽や稚児の舞、散楽などが行われ、天皇がご覧になられた上に民衆にも開放されて、大いに賑わったと伝わります。また、貞観11年(849年)には貞観大地震や富士山の噴火など国中で災厄が続いたため、神泉苑に当時の国の数66本の鉾を立てて平安を祈願し、祇園社から厄払いのために神輿が派遣されました。これが後世に町衆に引き継がれ、祗園祭に発展したと言われます。
令和4年(2022年)7月14日からはこの事にちなみ、祗園祭の行事の一環として、神泉苑の阿加井で汲んだ水と八坂神社の竜穴から汲んだ水を交換し、それぞれの井戸と竜穴に注ぐという御神水交換式が行われる様になりました。新たな神仏混淆の儀式の始まりですね。
神泉苑はこうして禁苑から儀式を行う神聖な場となり、四方を壁で囲って四つの門を設けで結界とし、定期的に池は攫われ、境内は芝原が維持される事で霊験を保持される様になりました。ところかそんな聖域であったにも関わらず、藤原道長は法成寺を建てた時、神泉苑から門や乾臨閣の礎石を持ち去っています。そんな無茶な事が許されたのかと思いますが、道長はそれだけでなく、羅城門や大内裏にあった宮司の礎石も持ち出しています。また豊楽殿の鴟尾が鉛製であると知り、緑釉瓦の材料にするため屋根から下ろそうとしたとか。これらの出来事は誰も掣肘出来なかった道長の権勢の凄さと、身勝手な横暴ぶりを示していると言えそうですね。
写真は弁天堂、江戸時代に建てられたお堂で増運弁財天を祀ります。お参りすると諸芸上達、福徳円満、財徳の御利益があるとされます。天明の大火で一度焼失しており、現在の建物はその後再建されたものです。神泉苑にはもう一体、本堂に宇賀弁財天が祀られており、除難、吉祥安穏の御利益があるとの事です。こちらは秘仏であり、普段目にする事は出来ません。
平安時代の末になると大風や火災によって荒廃し、池の水も汚濁したと伝わります。鎌倉時代に入ると源頼朝によって諸殿が復興されますが、承久の乱によって再び荒廃し、北条泰時の命により門垣が築かれて聖域が回復されました。以後室町時代中頃までは東寺の密教道場として管理され、祈雨、止雨祈願が行われていましたが、中期以後は次第に荒廃が進み、長禄3年(1459年)頃には池は汚濁し、苑地には田畑が広がり、汚械不浄物が捨て置かれる有様となっていました。汚れた池からは善女竜王も去ってしまったと噂される始末でした。また、東寺と共に管理に当たっていた室町幕府も衰退と共に支援を放棄し、それどころか足利義政が築いた東山殿(慈照寺・銀閣)の造園のために庭石が運び出されたとも伝えられます。東寺もまた宗教行事は行わなくなり、寺領の一部として田畑の耕作者から礼銭を徴収する様になっていました。
写真は宝篋印塔、貞享元年(1684年)に弘法大師の850回忌に当たり建立されたもので、少しの祈願で菩提の種(悟りを開く機縁)が得られるとされます。
安土桃山期に入り織田信長によって都の秩序が回復されると、正親町天皇の仰せにより信長から東寺に対して再興が命じられています。長年放置されていたため池が半ば埋まるほど荒れ果てていましたが、まだ聖域としての認識は残っていたのですね。この命令がどこまで実行されたかは判りませんが、江戸時代に入ると神泉苑は決定的な打撃を受けます。徳川家康に依る二条城の築城で、苑地の北側の大半が接収され、池の湧水はそのまま堀の水に転用されました。こうして平安時代より続いた神泉苑は終焉の危機に立たされます。
写真は池の東の畔にある社、神泉苑のホームページの境内図に依ると鎮守稲荷社とあります。しかし、御祭神は矢劔大明神となっており、稲荷神ではありません。この矢劔大明神は手に持った矢と剣で参拝者を守護して下さる神様だとの事。稲荷神とは関係なさそうなのですが、なぜ混同されているのかしらん。
およそ10分1までに縮小し、廃絶の危機に立たされた神泉苑でしたが、名苑が喪失してしまう事を惜しんだ筑紫の僧、快雅の発願に板倉勝重や片桐且元といった大名が応え、慶長12年(1607年)から寛政年間にかけて修復が行われ、東寺所属の一寺院として再興されました。この時、東寺、仁和寺、醍醐寺、石山寺などにより神泉苑法要が行われ、去ってしまったと言われていた善女竜王も再び勧請されています。その後天明の大火によって諸殿は全焼してしまいますが、伝統を引き継ぐため数十年を掛けて再建されています。
明治以後は恐らく廃仏毀釈の波をもろに被ったのでしょうね、経済的困窮に陥り、境内の一部を料亭に貸すことで存続を図ったと思われます。とても豪華な料亭で、寺とどちらが主役か判らない程でしたからね。その様子は今でもGooleマップで見る事が出来ますよ。今は空き地となっていますが、今後なんらかの活用が図られるのでしょうか。
神泉苑の東、御池通と黒門通が交わる角に礎石と思われる石があります。説明板に依ると明治時代に御池通の拡幅の際に掘り起こされた石で、左大臣源義明の観子左邸の礎石、もしくは道長が神泉苑から運びだそうとした礎石かと推測されています。決め手は無い様ですが、説明板に書かれていた様に歴史を見てきた石である事は確かで、平安時代がすぐそこにある様に感じます。こうしたものが道端にあるのも京都ならでは、神泉苑に行かれる事があれば是非ご覧になる様にお勧めします。
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