洛東

2024年8月30日 (金)

京都・洛東 百日紅2024 ~真如堂 8.22~

Sinyodou2408281

黒谷から真如堂へ来ました。ここに来たのは午前7時30分頃、さぞかし静かだろうと思っていたのですが、木陰で休むお年寄り達が何人も居ました。境内には座るペンチも多いし、参拝がてら散歩に来る人が多いのでしょうね。老人の憩いの場を提供するのも、お寺としては有意義な事なのでしょう。

Sinyodou2408282

ここでの一番の目的は、墓地に入って見上げる百日紅だったのですが、いざ行って見るとどこにも見当たりません。おかしいなと思って境内に戻ってみると、百日紅は確かにありました。でも以前よりずっと小振りになっており、花付きも悪かったです。たぶん、伸び過ぎたとみて枝打ちをしたのでしょうか。

仕方なく諦めて理正院前に移動しました。ここには放生池の畔に白い百日紅があるのです。少し花付きが悪かったですが、朝日を浴びた花は綺麗でした。

Sinyodou2408283

そして近くの法輪院で良いのかな、外からだと隣との区別が付かないのですが、塀越しの百日紅が咲いていました。中に入りたいところですが、非公開の寺なので残念ながら無理な話です。でも白壁と赤い花の対比は美しいですね。

Sinyodou2408285

そして面白かったのが法輪院の前にあったごく小さな百日紅です。膝丈程度の高さしかありませんが、立派な花を咲かせていましたね。この植物のたくましさと言うか不思議さを感じました。

あと鎌倉地蔵堂の横に古い百日紅があったのてすが、随分前に枯れて伐られてしまい、無くなったのは寂しいですね。とっくに消えてしまったのですが、前を通るとつい目を向けてしまいます。とても古木の風情があってここに来る度に楽しみにしていた木でした。

Sinyodou2408286

地蔵盆はこの二日後に行われたはずですが、それを前に千体地蔵の前掛けが新しくなっていました。2年に一度位の割合かな、取り替えられた直後はとても綺麗ですね。でもどうやって取り替えているのか不思議です。一体ずつ下に下ろして取り替えているのかしらん。なんなしても手間が掛かるであろう事は確かです。

2024年8月29日 (木)

京都・洛東 百日紅2024 ~金戒光明寺 8.22~

Kurodani2408281

知恩寺から黒谷こと金戒光明寺に来ました。山門裏の赤いもみじは薄い褐色になっています。夏の間はこういう色になるのですね。これからだんだんと色の濃さを増して行き、秋が深まると再び赤色に染まります。

Kurodani2408282

ここにも少数ながら百日紅は咲いています。これは塔頭の光安寺(だと思います)の百日紅で、中には入れませんが、塀越しに綺麗な花を見ることが出来ます。

Kurodani2408283

こちらは龍光院になるのかな、塀の外からなので隣との境界が判らないのですが、真如堂へ向かう道沿いで見る事が出来る百日紅です。白壁の上に白い花がとても美しく映えており、黒谷に来たのは八分方この花を見るためでした。

Kurodani2408285

御影堂横にある熊谷直実鎧掛けの松です。11年前に先代の松が枯れてしまい植え替えられたのですが、だんだんと育ってきましたね。まだまだ先代には及びませんが、枝にはそれぞれ添木がされており、大切にされている事が判ります。貫禄が出てくるまでは後10年、いやもっと掛かるのかな。子供の成長を見守っているようで、この寺に来る度に眺めています。私が元気に見に来られる間にどれくらい大きくなってくれるのか楽しみです。

2024年8月28日 (水)

京都・洛東 百日紅2024 ~知恩寺 8.22~

Chionji2408271

令和6年8月22日、夏の終わりの恒例、と言っても5年ぶりかな、百日紅巡りをしてきました。百日紅は7月くいらから咲いていますが、花の少ない今の時期でも彩りを見せてくれる有り難い花です。

まず訪れたのは知恩寺、百万遍の通称で知られる寺で、地名にもなっていますね。普段は静かな寺ですが、毎月(8月は除く)15日には手作り市が行われ、多くの人で賑わいます。また11月上旬に行われる古本市も有名ですね。

Chionji2408272

知恩寺の百日紅は2カ所あり、一つはこの釈迦堂の前で咲いています。それほど大きくは無いですが、枝が地面近くまで垂れており、一面に花が咲いた様はとても綺麗ですよ。

Chionji2408273 

花はまさに満開、近くで見ても痛んだ花はありません。見頃はまだまだ続くと思われます。

Chionji2408275

もう一カ所は勢至堂の裏手にあります。こちらの方はちょっと鬱蒼としていてあまり見栄えが良くないのですが、花そのものは綺麗に咲いていました。

知恩寺の百日紅は5年前とほとんど変わらいな佇まいで迎えてくれました。朝の静かな時間に綺麗な花を楽しむ事が出来て嬉しかったです。

2024年8月14日 (水)

京都・洛東 蓮2024 ~建仁寺 8.7~

Kenninji2408151

六道まいりの帰りに立ち寄った建仁寺です。一番の目的は蓮を見る事でしたが、残念ながら盛りは過ぎていました。花托が沢山あったので、もう一週間早ければもっと綺麗だったでしょうね。つぼみは見えなかったので、この数日後に終了したと思われます。

Kenninji2408152

蓮の咲く放生池の畔に建つのが三門、別名を望闕楼と言います。御所を望む楼閣という意味なのだとか。大正12年に静岡県の安寧寺から移築されました。ではオリジナルの三門はどうなったのかと言うと、これが良く判りません。建仁寺は創建以来何度となく火災に見舞われており、その都度再建されてきたのですが、三門を再建したという記事は見当たりません。という事はいつかの時点で焼失し、長く再建されること無く放置されていたのかな。今の相国寺の様な状態だったのでしょうかね。

Kenninji2408153

望闕楼から放生池越しに見た勅使門です。平清盛邸の門とも教盛邸の門とも言われますが、様式としては鎌倉時代後期のもので、残念ながら時代が合いません。扉や柱に矢の跡が残っていることから矢立の門あるいは矢の根門とも呼ばれます。

Kenninji2408155

左を見ると開山堂。臨済宗の開祖、栄西禅師が眠る場所で、建仁寺で最も清浄な聖域とされます。普段は非公開ですが、時折特別公開が行われます。私も10年前の京の冬の旅で訪れた事がありますが、開放的な建仁寺にもこういう場所があるんだと認識を新たにしたのを覚えています。

Kenninji2408156

境内の西側にある塔頭が久昌院。徳川家康の家臣、奥平信昌が開いた寺で、ここも普段は非公開ですが数年に一度くらいの割合で特別公開が行われます。直近では昨年の秋に開かれていましたね。私も10数年前に訪れたことがありますが、東山を借景にした庭が見事だったのと、長篠の戦いの時に磔にされながら味方に援軍が来る事を知らせた事で有名な鳥居強右衛門の絵が印象に残っています。過去記事は消してしまったので、次に機会があればまた入ってみようかな。

紅葉時分にはこのもみじが綺麗に色づくのですが、ここに来る人は少ないのでお勧めのエリアですよ。

2024年8月13日 (火)

京都・洛東 松原通 愛宕念仏寺元地 

Otaginenbutujiato2408131

六道まいりの帰り道、西福寺から少し松原通を下ったところに愛宕念仏寺元地という石碑を見つけました。今は奥嵯峨にある愛宕念仏寺が元あった場所を示す石碑ですね。この石碑があるというのは知っていましたが、具体的な場所までは判っていませんでした。これまでも探したことはあったのですが見つからず、この日たまたま目に入ったという次第です。なぜ今まで判らなかったのだろう思うくらい、あっさり見つかりましたね。

愛宕と書いておたぎと読みます。かつてこのあたりは愛宕郡と呼ばれていたのですね。創建は奈良時代の事で、766年に称徳天皇によって開かれたとされます。念仏寺と呼ばれるようになったのは後世の事で、創建当時は単に愛宕寺だった様ですね。平安時代に入ると真言宗の末寺となりますが、醍醐天皇(在位897~930)の頃には既に荒れ寺になっていた様です。そして止めは鴨川の氾濫で、堂宇が全て流され、廃寺同然となってしまいました。この石碑がある場所は鴨川から300m程離れておりピンと来ない話なのですが、当時は大和大路の辺りまでが河原だったので、大水が出ればここまで洪水が来る事はあったのでしょう。北隣にある建仁寺にも水害に遭ったという記録があり、鴨川が如何に暴れ川であったのかが判る出来事です。

それはともかく、愛宕寺は醍醐天皇の命により天台宗の千観内供によって復興されます。たぶん天皇勅願の寺ですから捨て置けなかったのでしょうね。この千観内供が念仏信者だった事から、いつしか愛宕念仏寺と呼ばれるようになったそうです。当時は七堂伽藍を備えた大寺だったのですが、その後興亡を繰り返し、江戸時代には本堂と仁王門、それにいくつかの末社が並ぶという程度にまで縮小していたようです。でも都名所図会に載るくらいですから、それなりに名の知れた寺だったのでしょうね。

明治になると廃仏毀釈の波をもろに受け、境内にあった末社は無くなり、本堂と仁王門、それに地蔵堂だけが残りました。大正時代になると松原警察署の建設に伴い敷地の整理に迫られ、現在地に移転して再起を図りますが上手く行かず、遂には無住の寺となって廃墟同然となってしまいました。そして昭和30年に西村公朝氏が住職として入り、懸命な努力の結果、京都一の荒れ寺が奥嵯峨の一名所として蘇ったのは周知のとおりです。

Otaginenbutujiato2408132

愛宕念仏寺があった場所には、移転を惜しんだ地元の人によってお堂が建てられたと聞いていたので、路地の中に入ってみました。たぶん木造の小さなお堂だろうと思っていたので最初は気づかなかったのですが、奥まで行っても見つからなかったので引き返してみたところ、お堂風のコンクリートの建物がありました。これかと思ってフェンス越しに入り口付近を見ると、確かに愛宕念仏寺と書いてありました。かなり綺麗な建物だったので、最近になって建て替えたのかしらん。ただ、どう見ても個人のお宅の中だったので、これ以上詮索するのは止めにしました。周囲は全くの住宅街で、このお堂以外に当時を偲ばせるものは何も無いですね。

称徳天皇はなぜこの場所を選び、この寺を建てたのだろうとか興味は尽きないのですが、残念ながら資料が無くて詳しいことは判りません。創建当時はまだ鳥辺野は送葬の地になっていなかったはずですし、鴨川と東山に挟まれた風光明媚な場所だったのでしょうか。どんな場所だったのか当時の景色を見てみたいものですね。

今年の秋は久しぶりに愛宕念仏寺に行って見ようかな。お寺のお勧めにある様にバスに乗って行き、嵯峨野を逆に歩いてみるのも良いですね。なんだか楽しみが出来た気分です。

(地図をズームすると愛宕念仏寺元地の石碑の標記が出てきます)

2024年8月12日 (月)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~大文字の寺 浄土院 8.1~

Jodoin2408121

銀閣寺の北隣に浄土院があります。大文字送り火の世話をする事から、通称大文字寺とも呼ばれます。浄土宗知恩院派の寺で、ご本尊は阿弥陀如来像。大文字送り火の点火の際に、中央のお堂に祀られている弘法大師像前で、この寺の住職がお経を唱えるのが慣わしとなっています。

Jodoin2408122

浄土院の前身は浄土寺という天台宗の寺だとされています。銀閣寺の記事で書いたように、足利義政は東山殿を建てる際に浄土寺の立地が気に入り、相国寺の西に移転させて山荘を築いたとされます。浄土寺はやがて衰退して無くなりますが、東山の跡地には草庵が残されていました。その草庵に浄土宗の泰誉浄久が入り、浄土院として再興させました。

Jodoin2408123

浄土寺は文献には屡々登場しており、平安時代の初期から存在したと推定さていますが、遺構はほぼ残っておらず、幻の寺と言われます。ただ銀閣寺の西側の広大な範囲に浄土寺と付いた地名が残っており、例えば真如堂や東北院の住所も浄土寺真如町です。これから推定すると、銀閣寺から神楽岡にかけて寺域を有していた巨大な寺だったと考えられますね。後一条天皇の遺骨が一時納められたのもこの寺で、皇室とも縁が深かった事が窺えます。院政期には後白河法皇の下で権勢を振るった丹後局の山荘があった事が知られており、浄土院の境内に等身大の像が置かれています。鎌倉期から室町期にかけても隆盛を誇っていたと思われ、1443年には義政の弟、義尋が門主となっており、幕府とも関係が深かった様ですね。しかし、1449年に伽藍が焼失してしまっており、ここから寺運の衰退が始まった様です。wikipediaなど複数のサイトでは応仁の乱で焼失したと記されていますが、それ以前にほとんどの堂宇を失っていたのでした。義政が移転させたのはわずかに焼け残っていた伽藍だったのかな。あるいは移転させたのは墓地だったという説もありますね。いずれにせよ平安時代より続いていた巨大持院を廃寺に追い込んだのは、義政だったという事になりそうです。なお、浄土院のご本尊は浄土寺より受け継いだものと伝わります。

Jodoin2408125

大文字の送り火の起原については諸説ありますが、大きく分けると弘法大師起原説と足利義政起原説に分かれます。その一つとして、浄土寺が火災に見舞われた時にご本尊が如意ヶ嶽の上に飛び上がり、四方に光を放ったと言われます。弘法大師はこの奇瑞を後世に残すべく、大の字を描いたと伝わります。また別の説として、都に疫病が流行したとき、弘法大師が如意ヶ嶽の中腹に登り、護摩を焚いて玉体の安穏を祈願した事が始まりとも言われます。いずれも江戸時代の観光案内書に書かれた事ですが、地元に伝わっていた伝承を元にしたものなのでしょうか。実際、地元では弘法大師説が支持されており、大の字の中央に御大師様が祀られているのはこの為なのでしょう。

その延長として、送り火の消し炭を半紙に包んで玄関に吊しておくという風習があります。泥棒除け、厄除けになるという俗信があるのですが、この消し炭、本来は翌日に山に上って拾いに行くものなのでのですが、年々争奪戦が激しくなって来た事から、最近では禁止されている送り火当日に山を登って拾いに来る人が増えているそうです。保存会ではその対策に頭を痛めているとか。規則違反をして手に入れたものに御利益があるものなのでしょうかね。

銀閣寺のホームページには、義政が子の義尚の死を悲しみ、供養のために始めたと紹介されていますね。これも江戸時代の地誌などに記された説なのですが、どちらかと言えばこちらの方が信憑性が高い様にも思えますね。しかし、いずれにせよ後世に伝承を元に記されたものには変わりなく、どの説も決定打には欠ける様です。

確かな記録として残るのは小槻忠利という公家が江戸時代の初期に残した日記で、「山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也」と記されているそうです。この頃にはすっかり定着していたらしく、やっぱり始まったのは室町時代と考えるのが妥当なんじゃないかなという気がしますね。

起原はともかくとして、送り火は長年続いてきた伝統で、家にお迎えしていたお精霊さんを、冥土に送り返す為の行事です。今年も護摩木を奉納し、心を静かにしてご先祖の霊を送りたいと思っています。

なお、五山の送り火と言われますが、五という数字に特に意味は無く、かつてはもっと沢山あったものが様々な理由で消えて行き、今残って居るのが五つという事です。各保存会では後継者や費用の確保に苦労されている様で、いつまで五山が維持されるのでしょうか。出来ればずっと残って欲しいところですが、少子高齢化が進む中、いつか限界が来るような気もしますね。今は保存会の方々の頑張りに期待するしかなさそうです。

2024年8月11日 (日)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~銀閣寺 8.1~

Ginkakuji2408111

法然院を出て右へ曲がり、道なりに歩いて行くと銀閣寺の入り口にたどり着きます。あまり知られていない道ですが、銀閣寺の参道の混雑を避けるには良い道ですね。それに哲学の道を経由して行くより、歩く距離がずっと短くて済みます。

この銀閣寺というのは通称で、正式には東山慈照寺と言い、相国寺の境外塔頭です。

Ginkakuji2408112

総門を潜ると現れるのがこの特徴的な参道です。銀閣寺垣と呼ばれる背丈の低い竹垣の背後に、椿などの背の高い常緑樹を配し、緑に囲まれた独特の空間を演出しています。一歩足を入れると急に外界と遮断された様で、特別な空間に入ったと感じますね。冬に来ると、藪椿の赤い花がぽつぽつと咲いているところを見る事が出来ますよ。

Ginkakuji2408113

方丈の前に盛られた広大な砂山は銀沙灘と呼ばれます。創建当時には無く、江戸時代に整備されました。以前放映されたブラタモリでは、長年放置されて埋まってしまっていた錦鏡池を浚渫した際に出てきた砂を、有効利用してここに敷き詰めたと紹介されていましたね。江戸時代に慈照寺が再興された時の記録に「池を穿ち」とあり、戦乱により荒廃していた間に錦鏡池が埋まってしまったのは確からしく、この説を裏付けている様に思われます。

またこれとは別に寛政年間に方丈が再建されているのですが、禅寺の方丈の前には白砂の庭がある事が通例であり、それに倣ったのではないかという説があります。最初は薄かったのですが、錦鏡池を浚渫する度に砂の量が増え、今のようになったという説もあります。他には中国の西湖の景色を再現したのだとも、月の光を反射させるために白砂を敷いたのだとも言われます。

銀閣の手前に見える円錐台の砂山が向月台。これも何の為に作られたのか判っていませんが、俗説としてここに座って月が出るのを待っていたと言われています。もっとも、どうやったら砂を崩さずに上れるんだと思いますけどね。別の説としては、銀沙灘と同じく月明かりを銀閣に反射させるためのものではないかと言われています。そう聞けば丸い形は鏡のようにも見え、一度満月の夜に来て確かめてみたいものですね。真相は江戸時代の作事方に聞くより無いですが、銀沙灘と共に銀閣寺独特の景観を形作っている事は確かです。

Ginkakuji2408117

銀閣寺を築いたのは室町幕府第八代将軍であった足利義政です。建設を開始したのは文明14年(1482年)で、応仁の乱が終結して間もなくの事でした。幕府も京の町も長く続いた戦乱により疲弊しきっていましたが、義政は庶民に段銭や夫役を課す事によって費用を捻出したと言います。庶民に取ってはさぞかし迷惑な事だったでしょうね。

義政が築いたのは寺ではなく自ら住むための住居で、東山山荘あるいは東山殿と呼ばれました。場所は浄土寺があった所で、月待山の山麓という風光明媚な立地が気に入ったのでしょうか、義政は浄土寺を相国寺の西に移転させ、土地を確保して建設に着手したのでした。山荘には超然亭、西指庵、漱蘚亭、御會所、弄清亭、東求堂、観音殿、釣秋亭、龍背橋、夜泊船など多数の建物があったと言われ、今とは随分と違った光景だったと思われます。池も船を浮かべて遊べるほど大きく、発掘調査の結果から裏山の中腹にも庭があった事が知られており、二段式の庭園だったと推定されています。写真はその一つ東求堂で、義政の念持仏である阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。この中の一室「同仁斎」は義政の書斎だったと言われ、付書院、違い棚を備えた四畳半の畳敷きの部屋で、現代に続く和室の原型になったとされます。

Ginkakuji2408118

山荘の工事は8年間続けられましたが、後に銀閣と呼ばれる観音殿が出来上がる前に義政は亡くなっており、完成した姿を見る事はありませんでした。義政の死後間もなく、その遺言により山荘は禅寺に改められて相国寺の塔頭となり、義政の院号「慈照院」にちなみ慈照院と命名されました。しかし、相国寺の塔頭大徳院が義政の塔所影堂になった事で慈照院と名を改めたため、混同を避けるべく慈照寺に改名されています。またこれも同じく遺言により開基は義政、開山は夢窓疎石と定められましたが、疎石は慈照寺が出来る100年近く前に亡くなっている人で、相国寺の例に倣ったいわゆる勧請開山です。

Ginkakuji24081110

義政は武人でありましたが文化人としての側面も持っており、庭師の善阿弥、絵師の狩野正信、土佐光信、能楽の音阿弥などを召し抱え、東山殿を中心に、侘び、寂び、幽玄を基調とする、茶道、華道、能、庭園など後世にまで影響を与えた東山文化を形成しました。日本文化の原型を作ったという意味においては、偉人と言っても良いのでしょうね。

Ginkakuji24081111

義政は文化人としては素晴らしいが、政治家としては無能だったと言われます。しかし、幼少期はともかく成人してからは将軍として親政を行い、彼なりの政治力を発揮しています。ただ屡々飢饉に見舞われるなど世情が不安定であり、何より山名宗全に代表される大大名が多すぎるという室町幕府の根本的な欠陥が響き、十分な統制が出来ませんでした。その結果起ってしまったのが応仁の乱で、義政なりに乱を収めようと手を尽くしましたが功を奏さず、京都中が焼け野原となるという大乱になってしまいました。義政の最大の失敗は中立であるべき将軍が東軍に属してしまった事で、調停機関を失った大名達は戦い続け、遂には戦いの大義名分がどこにあったのかも判らなくなり、疲弊しきった大名達が国に帰るまで戦乱は続きました。

義政はまだ乱が続いていた文明5年(1473年)に子の義尚に将軍職を譲って隠居しており、東山殿を築いたのも政治の世界に嫌気が差した逃避行の様に言われます。しかし、実際には義尚はまだ幼少で、義政は大御所として政治の実権を握り続けていました。義尚は長じても名ばかりの将軍のまま置かれ、二度に渡って出家しようとするなど大いに不満を抱えていた様です。東山殿も単なる隠居所ではなく、政庁としての機能を持っていたと言われます。

Ginkakuji24081112

豪壮を誇った慈照寺でしたが、第十二代将軍足利義晴の頃、将軍家は都の主導権を廻って三好氏と抗争を繰り返しており、慈照寺の周辺でも屡々戦いが行われました。天文16年(1547年)には義晴と三好宗三、天文19年(1550年)には第十三代将軍の足利義輝と三好長慶がそれぞれ戦っており、慈照寺はその都度羅災しています。そして極めつけは永禄元年(1558年)に再び義輝と長慶が戦かった北白川の戦いで、慈照寺は観音殿と東求堂を残してことごとく焼失してしまいました。この最後の戦いの時に白川から浄土寺にかけて火を掛けたのは義輝で、将軍家自らが慈照寺を焼いてしまった事になりますね。なお銀閣寺のホームページには天文19年に長慶と第十五代将軍足利義昭が戦ったとありますが、この年には義昭はまだ将軍になっていないので誤りです。

Ginkakuji24081116

慈照寺の荒廃ぶりは多聞院日記に記されており、元亀元年(1570年)の目撃談として、東山殿の旧跡は名のみで、あばら家の間に一つのお堂だけが見えたとあります。このお堂が東求堂なのか観音殿だったのは判りませんが、まさに廃墟と言って良い有様ですね。しかし、その廃墟に前太政大臣近衛前久が住むようになるですから、世の中何が起きるか判りません。前久は天正15年(1587年)に奈良から移り住んで、亡くなるまでの28年間を東求堂で過ごしています。慈照寺六世の住職が前久の弟だった縁に依るものだったらしいのですが、前久ほどの貴人が荒れ果てた寺にしか住処がなかったのでしょうか。それとも生涯の大半を流浪していた人なので、意外と言うには当たらないかも知れませんね。

相国寺は豊臣家の仲立ちもあって近衛家に慈照寺を貸していたのですが、前久が住んでいる間は住職を派遣する事も出来ず、由緒ある寺が荒れるに任されている事を嘆き、近衛家に何度も返還を申し入れましたが聞き入れられず、そのまま捨て置かれました。そして慶長17年(1612年)に前久が亡くなった事を機に徳川家康に訴え出て、その裁定によりようやく取り戻す事が出来ています。

Ginkakuji24081115

慈照寺の復興に着手したのは慶長20年(1615年)の事で、宮城豊盛を普請奉行に迎えて行われました。豊盛は近江の人で、はじめは織田家臣団にあり、後に秀吉に仕え、豊臣姓を与えられるほど重用されました。目立った武功はありませんが、偵察や前線との連絡、物資の補給などに従事し、時には城の留守を任されるなど、武人と言うより官僚のような存在だった様ですね。秀吉が亡くなった際には、朝鮮に講和の使者の一人として派遣され、無事に全軍を帰国させています。この功により一万石の大名となっており、実務に長けた人だった事が知れますね。関ヶ原の戦いでは西軍に属しますが、早くから家康に内通し、五千石に減知されましたが改易は免れています。大坂の陣の前に家康に仕えるようになり、冬の陣、夏の陣ともに徳川方として参陣しています。冬の陣では手傷を負って秀忠から見舞いを受けており、徳川家でも信頼されていた様子が窺えます。土木建築にも通じていた人で、近江の阿弥陀寺の再建、金戒光明寺の阿弥陀堂再建、知恩院の三門の普請奉行などに従事していますから相当なものですね。慈照寺においては池を穿って庭園を整え、堂宇を一新し、奇観を蘇らせたと記されていますから、大々的な改修を行ったと思われます。現在の庭園はほぼこの時に整備されたと見て良い様ですね。

一つ判らないのは修復の費用は誰が出したかで、慈照寺は寺領として35石を家康から与えられていますが、その程度の経済力でまかなえたのかしらん。普通に考えると本寺である相国寺でしょうけど、するとなぜ豊盛が普請奉行になるのでしょう。資料は無いですが、家臣を普請奉行にしているくらいですから徳川家が援助したのかな。知恩院の三門のケースから考えるとそうなるけど、なぜどこにも書いて無いのでしょうね。ちょっとした謎です。

Ginkakuji24081113

慈照寺を象徴するのが観音殿。その名の通り観音菩薩を祀るためのお堂です。鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿(現存しません)を参考にして設計されたと言われ、初層は住宅風、上層は仏殿風の造りになっています。まるで性格の違う建物を二段重ねにしている訳で、金閣も三層とも造りが異なるところを見ると、これが無町時代の流行だったのでしょうか。今は無い瑠璃殿も同じような造りだったのかな。

初層は心空殿と言い、大きく取られた広縁と開放部の大きい障子戸が印象的ですね。一度ここに座って東山を上る月を見てみたいものです。中には入れませんが、テレビで紹介されていたところでは、障子の向こうは仏間になっていて、小さな地蔵菩薩を千体集めた仏壇、千体地蔵菩薩が収められています。他に二部屋ありますが、後世に改変されたものらしく、使い道は判っていないらしいですね。

上層は潮音閣と言い、三つ並んだ花頭窓にリズム感があり、周囲に廻らされた欄干が格式の高さを感じさせます。内部はこれもテレビからの情報ですが、漆黒の漆塗りの広間の中に金色に輝く洞中観音菩薩が祀られています。テレビの画面越しにしか見た事がありませんが、実に荘厳な空間で、これを考えたのはやはり義政なのかな、素晴らしい発想の持ち主ですね。

観音殿は通称の銀閣の名で知られますが、周知の様に銀色に輝いている訳ではありません。以前は当初貼られていた銀箔が剥がれてしまったのではないかという説もありましたが、2007年から2010年にかけて行われた修復作業の際に調査が行われた結果、銀箔が貼られていた形跡は見つかりませんでした。その代わり、上層部の壁には黒漆が塗られており、さらには軒回りには鮮やかな彩色が施されていた事が判っています。今とは随分と違う印象ですね。修復にあたってこの黒漆を再現しようかという案もあったのですが、慈照寺側が修復前のままで良いと判断したため、元の侘び寂びの効いた風情のまま置かれました。

銀閣と呼ばれるになった理由には諸説がありますが、一説には万延元年(1658年)に刊行された観光案内書の洛陽名所集に、銀箔により彩しければ銀閣と言う、金閣に倣うと記されており、以後の案内書は皆これに倣うようになったと言われす。当時の慈照寺は非公開の寺で、庶民が簡単に見る事ができなかったため、確かめられること無く伝聞として広まったのでしょうね。何故銀箔で彩した様に見えたかについても諸説ありますが、壁面に塗られた黒漆が劣化してしまって白くなっていたため、遠目には銀箔を貼った様に見えたという説が有力な様です。他には金閣に対比する楼閣だから銀閣と呼ばれた、あるいは義政は完成前に亡くなってしまいましたが、計画としては銀箔を貼るつもりだったから銀閣と呼ばれたなどとも言われます。

私的には銀色に輝く楼閣より、東山文化が目指した侘び寂びの境地に相応しい、今の姿が良いなと思っていまいます。

銀閣寺について調べていると様々な説があり、まとめようとすると長文となってしまいました。名刹であるが故に研究する人も多いのですね。相矛盾する説もあり、断片的な事しか書いていない資料もあって何が正しいのか判りませんが、これだけ有名な寺なのに、権威ある説が無いというのも珍しいですね。この美しい寺にも様々な歴史があったという事を踏まえて、また訪れてみたいと思います。

2024年8月10日 (土)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~法然院 8.1~

Hounenin2408101

安楽寺から法然院に来ました。敷地は隣同士なのですが、法然院の墓地が広大なため、随分離れている様に感じます。法然院の魅力はまずこの参道、鬱蒼とした木々に挟まれた道の先に茅葺きの門が佇む風情は、この寺が住宅街に隣接しているとは思えず、あたかも深山に来たかの様です。

Hounenin2408102

山門を潜ってまず目に入るのが砂を盛った二つの山、白砂壇と呼ばれる施設です。ただの修景施設ではなくちゃんと宗教的な意味があって、この間を通る事によって心身が清められるのですね。表面には模様が描かれており、周期的に描き換えられます。この日は水紋を表すのかな、円が描かれていました。この白砂壇を描き換えられているところを見た事がありますが、四角い木切れを使ってまず元の模様を消し、お手本も無しで即興で新しい文様を描かれていました。書き手のお坊様は飄々とした感じで、特に考え込む様子も無かったのですが、毎回見栄えのする文様を描くのは修練の技としか言い様が無いですね。大したものだと見とれていたのを覚えています。

Hounenin2408103

法然院の起原はホームページに依ると、鹿ヶ谷の草庵で法然の弟子、安楽と住連が、後鳥羽上皇の女房、鈴虫と松虫を上皇に無断で出家させた事により上皇の逆鱗に触れ、二人の弟子は死罪、法然は讃岐国に流罪になるという事件が起こりました。その後草庵は荒廃していましたが、延宝8年(1680年)に知恩院第三十八世萬無和尚が法然縁の地に念仏道場を築くことを発念し、弟子の忍澂が受け継いで伽藍が築かれたとあります。でもちょっと待った、松虫・鈴虫の事件は安楽寺で起きた事ですよね。そして安楽寺のホームページには流罪から戻った法然によって草庵は復興され、その後天文年間(1532年から1555年)に本堂が再建されたとあります。何だか矛盾した話で良く判らないのですが、萬無和尚は安楽寺の存在は無視して、隣を法然縁の地として法然院を建てたという事なのでしょうか。寺の縁起には辻褄が合わないことがよくありますが、隣同士でここまで食い違うというのも珍しいと思います。

ここからは私の推測ですが、安楽寺は浄土宗西山禅林寺派(現在は独立して単立寺院)に属していたため、浄土宗総本山の知恩院としては自らの法統に繋がる法然縁の寺が欲しかったんじゃないかしらん。浄土真宗の東大谷と西大谷の様なものなのかな。違っていたらごめんなさい。

Hounenin2408105

法然院の本堂は境内の奥まった所にあります。本尊は阿弥陀如来座像で、観音菩薩、勢至菩薩像が一緒に祀られています。また法然上人像も祀られていますが、立像というのが珍しいですね。立ち姿の法然上人像というのは他にもあるのかな。ご本尊の前には二十五菩薩を表す二十五の生花が散華されています。ただし、普段は扉は閉まっており、中は暗いので外から見ることは出来ません。

原則非公開の寺ですが、毎年4月1日から7日、11月18日から24日には特別公開が行われます。また毎月26日には山山詠唱会という行事が行われる様ですね。たぶん御詠歌を唱う法要なのかな。他にも法然院サンガという催しが月に何度かあり、一般人でも参加出来るそうですよ。内容としては法話や法要などのほか、コンサート、映画の上映、読書会、さらには落語の会など多岐に渡っており、とても開かれたお寺ですね。内向きでない、生きたお寺と言えましょうか。

Hounenin2408106

法然院にはモリアオガエルが生息しており、6月から7月頃に来ると池の畔の木に白い卵塊があるのを見る事が出来ます。このモリアオガエルは全国的に数が減少しており、絶滅危惧種に指定されている府県も多いですが、京都のお寺を廻っていると結構あちこちで見かけます。最近では岩倉実相院泉涌寺御座所庭園に居ましたね。お寺は殺生禁止の場所ですから、生き延びる事が出来ているのかな。そのうち野生種が居なくなって、京都のお寺だけに生息しているなんて事にならなきゃ良いのですけどね。

法然院は外国人にも人気があって大抵何人か来ているのですが、この日は珍しく誰も居ませんでした。ここを独り占め出来たのは初めてじゃないかしらん。蝉しぐれだけの法然院はとても良いですね。次に来るのは紅葉の頃かな。ほっこりとした気分になった後は銀閣寺へと向かう事にします。

2024年8月 9日 (金)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~哲学の道8.1~

Tetugakunomichi2408081

熊野若王子神社から哲学の道に入りました。ここをゆっくり歩くのは久しぶりです。なにしろ人気の高い道ですから普段から人通りが多く、風情を楽しむゆとりは無いですからね。特に桜時分の混雑は酷く、インバウンドの人で溢れかえっていて、桜を楽しむどころの騒ぎでは無かったです。

 Tetugakunomichi2408082

哲学の道は本来遊歩道ではなく、疎水分線の管理用通路でした。出来た当初は芝生が植えられている程度だったのですが、周辺の南禅寺や銀閣寺、永観堂など風光明媚なところを廻るのに便利だったせいでしょうか、自然と歩く人が増えていったそうです。また当時は周辺は田園地帯だったと思われますが、名所旧跡に近く、かつ閑静な環境を求めてか文人が多く住む様になり、文人の道と称されていた様ですね。

大正10年(1921年)には近く(白沙村荘)に住んでいた橋本関雪が、長年暮らして来た京都に恩返しをしようと考えて300本の桜を寄付し、道沿いに植えた事で桜並木の道となりました。これで一気に道の雰囲気が変わった事でしょうね。この桜は関雪桜と呼ばれ、今でも一部が残っている様です。京都市では関雪桜を後世に伝えようと、クローン技術を使って後継木を育てているそうですね。

丁度この頃、京都大学の教授を勤めていた哲学者西田幾多郎が、好んでこの道を歩いて思索に耽ったとされ、その姿を見た地元の人たちが哲学の小径、思索の道などと呼ぶ様になりました。

哲学の道の名が世間に広く知られるようになったのは戦後の事で、昭和47年(1972年)にこの道に砂利を敷くなど保存運動をしていた地元の人々が話し合い、この名前が定められました。私も哲学の道という名を知ったのはこの頃だった様に記憶しています。確か新聞に新しい名所として紹介されたんじゃなかったかな、その頃国鉄が展開していたディスカバージャパンのキャンペーンによる旅行ブームも影響したのでしょう、この道を訪れるのがちょっとした流行になりましたね。昭和53年(1978年)には廃止された市電の敷石を利用して敷石を並べ、450本の桜を植えるなどさらに整備が進められました。昭和56年(1981年)には西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられ、観光地としての地位が不動のものとなりました。

Tetugakunomichi2408083

若王子から少し入った所にあるのが宗諄女王墓。光格上皇の養女で、霊厳寺の最後の門跡となった人でした。1890年没ですから、工事終了前後にここに葬られたと思われます。なぜこの場所が選ばれたのかは判りませんが、民家が多い沿道にあって、京都らしい風情を感じさせてくれるのは確かです。

今の疎水分線は浅い水深しかありませんが、当初の計画ではもっと多くの水を流し、水力に利用する予定でした。水力と言っても発電ではなく水車です。疎水沿いに沢山の水車を作り、その動力を利用してこのあたりを一大工業地帯にしようとしたのでした。何の工場を予定していたのかまでは判りませんが、当時の事ですから紡績工場か何かでしょうか。しかし、工事途中でアメリカに水力利用の実態を視察に行った田辺朔郎技師は、水車は時代遅れでかつ動力としても不足していると知り、計画は変更されました。その結果生まれたのが蹴上発電所です。商業用としては日本初の水力発電所で、市電を走らせる原動力となったのはよく知られるところです。

現在の疎水分線は全くの修景施設ですが、地下には松ヶ崎浄水場に通じる導水管が埋められており、京都市北部の水道をまかなうための大切な施設となっています。

Tetugakunomichi2408085

琵琶湖疎水はその名の通り琵琶湖から取水しているのですが、無料で水を貰っている訳ではありません。琵琶湖疏水感謝金という名目で、毎年2億3千万円という金が京都市から滋賀県に支払われています。当初は滋賀県が使用料として徴収していたのですが、政府から収入の少ない自治体から使用料は徴収しないようにという通達が出されたため、京都市と滋賀県が話し合い、寄付金という形にしたのでした。何かあると「琵琶湖の水止めたかろか」というのが滋賀県民が口にする慣用句ですが、これだけの金を貰ってる以上、止める事は出来ないですよね。

Tetugakunomichi2408086

哲学の道の途中で右に折れ、一本東の道に来ました。ここから左に曲がって法然院道に入るのですが、そのとっかかりにあるのが霊厳寺です。後水尾天皇が開いた尼寺で、代々皇室の皇女・皇孫が住職を務めた門跡寺院です。別名を谷の御所と言い、普段は非公開ですが椿の開花時期に合わせて特別公開が行われます。11年前の京の冬の旅で訪れた事がありますが、手入れの行き届いた気持ちの良い寺ですね。哲学の道沿いに墓があった宗諄女王が住職を務めたのがこの寺です。

この南隣がノートルダム女学院中学高等学校で、その中に和中庵という修道院跡があります。仏教とキリスト教という違いはありますが、出家した女性達が暮らした施設が隣同士にあるというのは、偶然ながら不思議な縁を感じますね。

Tetugakunomichi2408087

法然院道に入って少し歩くと安楽寺があります。紅葉が見事な事で知られますが、境内のさつきも素晴らしく、花の時分には特別公開が行われます。とりあえず次は紅葉を見に来て、来年はさつきの頃に来ようかと思っています。今年は綺麗に色付いてくると良いのですけどね。ここから次は法然院を目指す事にします。

2024年8月 8日 (木)

京都・洛東 六道まいり2024 ~六道珍皇寺・西福寺 8.7~

Rokudoumairi2408071

令和6年8月7日、六道まいりに行ってきました。これはお盆の間、ご先祖の霊、お精霊さんを家に迎える為の行事です。

Rokudoumairi2408072

場所は東大路松原を西に入ったところにある六原一帯、六道の辻と呼ばれる界隈にある三つの寺で行われます。中でも中心となるのは六道珍皇寺、建仁寺の境外塔頭の一つです。

Rokudoumairi2408073_20240808062401

参拝には手順があり、まずはこの高野槙を買います。とても重要なアイテムで、この高野槙にお精霊さんが宿るとされています。

Rokudoumairi2408075

高野槙を買った後は、本堂で水塔婆に連れ帰りたい故人の戒名または俗名を書いて貰います。塔婆とは戒名や経文を書いて先祖を供養する木の板の事で、水塔婆とは特に水を掛けて供養するものを指します。ここではごく薄くて小さい木の板が使われます。

Rokudoumairi2408076

水塔婆を貰った後はこの迎え鐘を突きます。突くと言うより綱を引っ張るのですが、これを二度鳴らすとあの世に居る祖先にまで音が届くとされます。

Rokudoumairi2408077

次にすることは線香の煙で水塔婆を清めることです。この時困るのが、なかなか線香に火が付かないのですよね。待っている人が居るので焦るのですが、容易な事では燃えてくれませんでした。清め終わったら地蔵堂の前に行って、水桶の中に水塔婆を納め、高野槙で水回向をしたら終わりです。後はお精霊さんが宿った高野槙を家に持ち帰り、お盆が終わるまで生けておきます。

費用は高野槙が私が買ったのは600円でしたが、大きさにより変わります。また水塔婆が400円、線香が100円です。初盆や三回忌のように特別な供養をして欲しい場合は別途費用が掛かります。

Rokudoumairi2408078

私が行ったのは早朝という事で人出は少なかったですが、松原通に出店が全くありません。高野槙を売る店が一軒あっただけで、以前の様な賑わいは無いですね。五条坂で行われている陶器市に人が流れてしまうと聞きましたが、それは今に始まった事ではないはずです。やっぱりコロナの自粛が響いているのかな。ちょっと寂しい光景でした。

Rokudoumairi24080710

六道珍皇寺から西へ少し下がったところに六道の辻と書いた石碑があります。六道珍皇寺の門前にも大きな石碑がありますが、辻という意味ではこちらの方が相応しい感じがしますね。ここに建っているのは西福寺、関ヶ原の戦いの後に建った寺ですが、その前には平安時代に遡る弘法大師縁りの地蔵堂がありました。檀林皇后が信仰していたと言われ、今は西福寺の中に子育地蔵堂として受け継がれています。

Rokudoumairi24080711

山門を入ると左手に子育地蔵、正面にこの不動明王が祀られています。後白河法皇が熊野詣の前に地蔵尊に旅の無事を祈り、それが叶った事から御礼として那智の不動尊を勧請したものと伝わります。六道まいりではこの御不動様のお守り(石かな)を授かる事が出来、財布などに入れておくと御利益があるそうです。そしてまた一年後にお参りに訪れた時、御不動様に返えすのが仕来りなのだとか。

Rokudoumairi24080712

本尊は阿弥陀如来。浄土宗の寺らしく、きらびやかな須弥壇ですね。ここでロウソクを供えると名前を聞かれ、先祖代々の供養をして貰えます。100円で拝んでもらえるのですから有り難いものですね。

Rokudoumairi24080713

ここにも迎え鐘が備えられています。誰でも突く事が出来ますが、六道珍皇寺で鳴らしてきたばかりなので、ここでは遠慮しておきました。

Rokudoumairi24080715

西福寺の一番の見所は檀林皇后の九相図会ですが、絵解きの時にだけ見られる様で、この時は扉が閉まっていて見る事が出来ませんでした。絵解きの時間は決まっており、待つには長すぎたのでこの日は諦めて帰ることにしました。これはまた来年ですね。

さて、これで無事にお精霊さんをお迎えする事が出来たので、お盆の間は家で過ごして頂く事にします。次は送り火ですね。今年はどこに行こうかしらん。天気が少し心配ですが、無事に送る事が出来る様に願っています。

なお、六道まいりは明日まで行われます。朝の6時から夜の10時まで、以前は夜も明るくて賑やかでしたが、今年は出店がないぶん、暗くてちょっと物騒かな。私的には早朝に行かれる事をお勧めします。

 

より以前の記事一覧

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ