2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

旅行・地域

2024年5月19日 (日)

近江八幡の旅 ~八幡山城跡 3.14~

Hachimanyzmajo2405101

この日近江八幡を訪れたきっかけは、続100名城の八幡山城を訪れるためでした。城に行くためにいろいろと調べている内にこの町がとても面白いという事を知り、城下町散策をしてみる事にしたのです。

八幡山城を築いたのは豊臣秀次、秀吉の甥にあたる人物ですね。子の無かった秀吉は秀次を跡継ぎと決め、関白職を譲って伏見城に隠居しました。しかし、実子の秀頼が生まれると秀次との関係が微妙になり、ついには謀叛の疑いをかけて高野山に追いやって、切腹へと追い込んだのでした。秀次にはその死後、殺生関白の汚名が着せられ、様々な悪評が流布されました。このため世間では秀次を無能で残虐な人物とみなす様になったのですが、実際の秀次は悪逆な愚か者ではなく、とても有能な人だった様です。

Hachimanyzmajo2405102

その最たる証拠はこの近江八幡の礎を築いた事で、城を築くと共に山の下に町割りを行って安土から商人を呼び寄せ、八幡堀を掘って水運を整え、楽市楽座によって町の繁栄の基礎を整えました。決して悪逆無能な人物に出来る事では無く、善政を敷いた名君として今でも地元の人に慕われています。

Hachimanyzmajo2405103

八幡山城は1585年に築かれた山城です。すぐ近くには安土城があったのですが、なぜか安土城を修復して使う事をせず、新たに八幡山の上に城を築いたのでした。理由ははっきり判りませんが、一説には信長の天下を奪った秀吉が、信長の威光の象徴であった安土城を消し去ろうとしたのではないかと言われています。

Hachimanyzmajo2405105

八幡山は安土山と違って険しい山で、山上には広いスペースがありません。このため、山上には純粋に軍事的な施設だけが築かれ、御殿など主要な建物は山麓に作られました。屋敷跡からは金箔瓦が出土しており、大坂城などと同じく豊臣政権の城らしい豪華なものであったと考えられています。

八幡山城は1995年に秀次が切腹して亡くなると廃城となり、秀吉によって徹底的に破却されました。聚楽第もそうでしたが、秀吉は秀次が生きていた痕跡を残したくなかった様ですね。現在山上には石垣だけが残り、城に代わって瑞龍寺が建っています。この瑞龍寺は秀吉の姉にして秀次の母である日秀尼が秀次の菩提寺として建てたもので、当初は嵯峨野、後に堀川今出川に移り、昭和36年に現在地に移されました。

Hachimanyzmajo2405106

八幡山城跡には麓からロープウェイが通じています。このためアクセスは極めて容易で、城跡の中は若干の上り下りがありますが、山城としては最も楽に登城出来る城の一つではないでしょうか。このロープウェイは近江鉄道が運営していますが、元はと言えば安土城跡に設置される予定のものでした。昭和33年に西武グループの堤康次郎氏が安土城の再建と周囲のリゾート地化を計画したのですが、安土城跡が史跡として指定されていたために国からの許可が下りずに頓挫、余ったロープウェイを八幡山に持ってきて設置し、現在に至っているのです。

Hachimanyzmajo2405107

まあ、城跡の保全という意味ではどうかとは思いますが、おかげでこの景色を手軽に楽しむ事が出来ます。現在では恋人の聖地とも言われ、結構賑わっている様ですね。実際、この日も平日でしたが上りのロープウェイは満員、下りたときも結構な人が乗り場で待っていました。そのうち半分以上がインバウンドの方だったのには少し驚きましたけどね。

八幡山城跡には石垣が良好に残っており、城好きの人も楽しめると思います。何より近江平野や比良山系を望む展望が素晴らしい。是非晴れた日を狙って登ってみて下さい。町巡りと絡めたら一日十分に楽しむ事が出来ますよ。

2024年5月18日 (土)

近江八幡の旅 ~八幡堀 3.14~

Hachimanbori2405081

近江八幡で一番有名なのは八幡堀のこの景色でしょうか。八幡堀は八幡山城を守る堀であると共に琵琶湖と繋ぐ事で運河としての機能を持ち、この町が水運の拠点となる事に大いに寄与しました。その後ここが近江商人発祥の地となった原動力と言っても良いのでしょう。

Hachimanbori2405082

この美しい八幡堀ですが、水運が廃れた高度成長期には見捨てられた存在になり、汚水が流れ込み、不法投棄が相次ぐドブ川になっていたそうです。昭和40年代には工場誘致を含めた区画整理事業が立案され、この堀も無用の長物として埋め立てられる事になりました。しかし、昭和47年に地元の青年会議所が故郷の原点を守ろうと立ち上がり、保存運動が始まったのだそうです。

Hachimanbori2405083

最初は顧みる人も無く青年会議所だけが地道な活動をしていたのですが、次第に市民の間に地元を守ろうという空気が生まれて運動が広まり、昭和50年9月に至って遂に市を動かす事に成功し、埋め立て計画は中止になったのでした。そして更に県を巻き込んだ事業に発展し、ヘドロの浚渫、石垣の補修が行われ、往時の姿を取り戻す事が出来たとの事です。

Hachimanbori2405085

今やこの素晴らしい景観は地元の方のみならず、ここを訪れる人にとって掛け替えのないものとなっています。よくぞ保存をして頂いたと感謝の言葉しかないですね。

Hachimanbori2405086

これはかわらミュージアム。その名の通り瓦の博物館です。時間の関係で中には入らなかったのですが、とても風情のある博物館ですね。丁度芽吹きだしたしだれ柳の新緑が白壁に映えて綺麗でした。

Hachimanbori2405087

堀のほとりには桜が沢山植わっていました。花の時期に来たらさぞかし綺麗だった事でしょうね。混雑を避けるため、あえて桜の季節を外したのですが、花の無い枝を眺めながらちょっぴり後悔しました。でも狙い通りゆっくりと散策出来たので良しとします。

2024年5月17日 (金)

近江八幡の旅 ~日牟禮八幡宮 3.14~

Himurahachimangu2405121

近江八幡の中心になっているのが日牟禮八幡宮です。伝記に依れば131年に成務天皇の命によって創建されたという大変古い由緒を持ちます。さらに275年にこの地に行幸された神武天皇が二つの日輪を見るという奇瑞があったため、社を建てて日群之八幡宮と名付けられました。

Himurahachimangu2405122

元はこの地はこの神社にちなんで単に八幡と呼ばれていましたが、昭和29年の市政施行の時に福岡の八幡市との混同を避けるために近江の字を付け、現在の近江八幡市となったという経緯があります。もっとも、市政施行以前から近江八幡という呼称はあり、駅名などに既に使用されていたことから市の名前としたという説もありますね。

Himurahachimangu2405123

991年には一条天皇の勅願により八幡山の上に宇佐八幡宮を勧請して上の社とし、山麓に遙拝所を作り下の社としました。その後、八幡山城の築城に伴い上の社は日杉山に移転される事となったのですが、城主であった豊臣秀次の自害によって計画は頓挫し、下の社だけが残り現在に至っています。

Himurahachimangu2405125

本殿の横にあるのが鏡池。虚偽の心で水面に顔を映すと池に没するという言い伝えがあります。もっとも、水が濁っているので、のぞき込んでも顔が写るという事は無いのですけどね。昔は鏡のように澄んでいたのかな。

Himurahachimangu2405126

鏡池の後ろには鏡岩という大岩が聳えています。神座を守る岩とされる、迫力満点の岩です。ここで参拝を済ませた後は八幡堀周辺を散策する事とします。

2024年5月16日 (木)

近江八幡の旅2024 ~近江商人の家並みとヴォーリーズの足跡 3.14~

Ohmisyounin2405111

令和6年3月14日、近江八幡市に日帰りで旅行してきました。桜の記事を優先していたので今になってしまいましたが、素敵な街だったのでお届けする事とします。

Ohmisyounin2405112

近江八幡は滋賀県の東部、草津市の北、彦根市の南に位置する町です。近江商人発祥の地として知られ、今でも商人達が形作った町並みがそのま残っています。美しい塀と見越しの松に低い町並み、まるで江戸時代にタイムスリップした様な素敵な景色です。

Ohmisyounin2405113

近江八幡市はこの旧市街とJRの駅が離れており、近代的な街が駅周辺で発達した一方、旧市街地は無秩序な開発からは免れたのですね。高度経済成長期には取り残された感があったでしょうけど、今となっては貴重な財産となっています。

Ohmisyounin2405115

現在は国の重要伝統的建物保続地域に指定されており、町並みを損なう店も見当たりません。早朝という事もあってか人通りはほぼ無く、散策路としては言うこと無しです。このまま観光公害に犯されること無く、いつまでも保存しておいて欲しい町並みです。

Ohmisyounin2405117

近江八幡には古い町並みが残っていると共に、建築家として知らせるウイリアム・メレル・ヴォーリズの足跡がそこかしこに残っています。たとえばここはその一つヴォーリズの家であった洋館で、今は記念館として公開されています。残念ながら予約制であったため入る事は出来ませんでしたが、有名な人の住居にしてはこぢんまりしているなという印象でした。元は幼稚園職員のための寄宿舎で、後にヴォーリズ夫妻が移り住み、夫人のための和室を増築した和洋折衷の建物だそうです。

Ohmisyounin2405118

ヴォーリズは建築家のほか実業家、教育家としての顔を持つという多彩な才能の持ち主でした。彼の銅像は八幡堀の南端の広場に建てられており、その優しげな姿はヴォーリズの人柄を現している様でした。

Ohmisyounin24051110

その銅像の背後にはヴォーリズが手がけた近江兄弟社の社屋があります。近江兄弟社と言えばメンソレータムが有名でしたが、1974年に経営が破綻し、メンソレータムの販売権をロート製薬に譲ります。その後自主再建に着手しメンソレータムの販売権を取り戻そうとしますが、アメリカのメンソレータム社が拒否、諦めきれなかった近江兄弟社は成分がほぼ同じ商品をメンタームと名前を変えて販売し、現在に至ります。

Ohmisyounin24051111

社屋の一階は資料館となっており、誰でも無料で自由に入れます。ここではヴォーリズの足跡や近江兄弟社の歩みを知る事が出来ます。数々のヴォーリズ建築の写真やメンタームからの派生品の数々を見る事が出来、なかなか興味深かったですよ。

入り口には滋賀県が発祥とされる飛び出し坊やがあり、メターム版になっていたのが面白かったです。

2024年2月23日 (金)

日本百名城探訪 大阪城

Oosakajo2402231

日本百名城を巡る旅、今回は大阪城を訪れました。大阪城、正しくは大坂城と書くべきなのかな、は言わずと知れた豊臣秀吉が築いた城。1583年に着工し、1598年に完工しています。現在の大阪城公園も広いですが、豊臣氏当時の大阪城は城下町を取り囲む総構えを備えた巨城でした。面積にして今の五倍はあったと言われますね。

Oosakajo2402232

大阪城は実戦を経験した城で、1614年から1615年にかけての大坂の陣で一度灰燼に帰しています。力攻めでは落ちず、一度和睦してから総構えを破壊し、堀を埋めるなどしてやっと落ちた事はよく知られています。この間の駆け引きが巧妙に過ぎ、徳川家康が狸親爺の汚名を着せられる事になったのも有名ですね。

Oosakajo2402233

現在の大阪城は徳川氏によって再建されたもので、豊臣氏時代の城の遺構は地下に埋まっています。豊臣氏の痕跡を跡形も無くしてしまうというのは徳川氏がよくやっている事で、例えば秀吉の神号を奪って豊国神社を破壊し、その墓を暴いて遺骸を晒しものにしたなど徹底しています。大坂城の再建もその一つですね。これだけの巨城を完全に埋めてしまい新たに建設するなど並大抵の事ではありませんが、それを可能にしたのがいわゆる天下普請で、主として西国の大名が駆り出されました。各大名は徳川氏への忠誠を示すために競って築城に参加し、また巨石を差し出しました。この蛸石が大名同士の競い合いの最たるもので、縦5.5m、横11.7m、総重量108トンという巨岩であり、池田氏によって据えられと言われます。

Oosakajo2402235

そうして築かれた大坂城は徳川氏直轄の城となり、大坂城代が置かれて西日本支配の拠点とされました。しかし、その歴史は災難続きで落雷などにより三度に渡って火災に遭っており、その都度再建されています。ただ天守は39年目に焼失してから再建される事は無く、江戸時代のほとんどは天守の無い城でした。そしてとどめを刺すように明治初年に失火があり、本丸御殿など主要な建物はことごとく焼け落ちてしまいました。

Oosakajo2402236

明治以後は陸軍の管理するところとなり、城内には大阪砲兵工廠が置かれました。このため太平洋戦争では空襲の標的となり砲兵工廠の多くは破壊されましたが、今でもレンガ造りの建物は部分的に残っていて当時の面影を偲ぶ事が出来ます。現在の天守は昭和天皇の即位記念事業として再建されたもので、大阪市民からの募金を基に昭和6年に復興しました。その設計にあたっては大阪の陣図屏風に描かれた天守を参考としており、徳川氏が消し去ろうとした秀吉の威光が蘇った事になりますね。ただ、秀吉時代の天守は黒板張りだったのに対し、今は白塗り籠めを基調としているなど様々な点で相違があります。そもそもコンクリート造だしね、最近流行の復元天守とは異なります。

Oosakajo2402237

徳川氏によって築かれた今の大阪城ですが、豊臣氏時代の痕跡はまだ見る事は出来ます。例えば山里曲輪に建てられた秀頼、淀殿ら自刃の跡地の碑がそうですね。平成9年に設置された新しいものですが、悲惨だった大坂の陣の結末を彷彿とさせる石碑です。またほとんど知られていませんが、秀吉以前の石山本願寺の痕跡として、蓮如上人袈裟懸けの松の碑というのもあります。今は松は無く、根だけが残っているそうですが、ちょっと見つける事は出来ませんでした。

Oosakajo2402238

さらに秀吉当時の遺構を求めて発掘調査が進められており、来年春には古い石垣を常時見る事が出来る様になるそうです。もっともその替わりとして、入城料が倍の1200円になるとの事ですけどね。いくら何でも高すぎると思うけどなあ。

Oosakajo24022310

それはともかく、大阪城の人気は凄いものがありました。天守に入るのに20分程度並ぶ必要があり、中に入ってもギューギュー詰めでしたね。この城には何度も来ていますが、ここまで混む事はなかったと思います。昨今の城ブームの影響かしらん。かく言う私も百名城巡りで再訪したのですけどね。暫くの間は値上げ前の駆け込みラッシュでさらに混み合う事になるかも、です。

2024年2月22日 (木)

大阪城梅林2024 2.17

Oosakajo2402221

令和6年2月17日の大阪城梅林です。この日は中咲きの梅を中心に五分咲きとなっていました。

Oosakajo2402222

大阪城の梅林は1200本以上の梅が植えられており、12月下旬から3月中旬まで楽しむ事が出来ます。この梅林を訪れるのは初めてですが、そのスケールの大きさには驚きました。これだけの梅が咲いていて、しかも無料だと言うのですから太っ腹ですね。

Oosakajo2402223

それにしても観梅者の多かった事。これだけの花を無料で楽しめるのですから、そりゃまあ集まりますわね。マスコミもこぞって報道するのもうなずけます。

Oosakajo2402225

園内の至る所から天守閣が見えるので、おのずと天守と梅を絡めた写真を撮りたくなります。反対を向くと京橋ビジネスパークの近代的なビル群が見え、それはそれで都会の中の梅林らしくて面白いですけどね。

Oosakajo2402227

その梅林を俯瞰したところです。ホームページには五分咲きとありましたが、満開と言って良い程華やかですね。まだ遅咲きの花は咲いておらず、200本以上がつぼみのままとの事でしたから、今から行っても楽しめると思いますよ。ここに行くには大阪環状線の大阪城公園駅が便利で、歩いて10分程のところにあります。

2024年2月21日 (水)

続・百名城探訪 ~郡山城~

Koriyamajo2402181

日本にある名城を100集めたのが日本百名城、それに続いて2017年に新たに選定されたのが続・日本百名城です。続と付くだけあってマイナーな城が多いですが、割と知られた城も含まれています。その一つが郡山城、奈良県の大和郡山市にある城です。

Koriyamajo2402182

ここに来るのはおよそ半世紀ぶり、子供の頃に母に連れられて訪れた記憶があります。当時城好き少年だった私のために、母は色々な城に連れて行ってくれました。二条城、大阪城、姫路城、彦根城、岐阜城、名古屋城、犬山城など、郡山城はその最初の城だったかな。当時の郡山城は石垣と堀が残っているだけで、なぜか城とは関係の無いこの城址会館、当時は市民会館だったかな、があるという場所でした。でも初めて見る本格的な城跡はとても魅力的で、私の城好きに火を付ける事となったのてした。

Koriyamajo2402183

今は公園として整備され、門や櫓、城壁、そしてこの極楽橋などが復原されています。桜の名所としても知られ、日本桜の名所100選の一つに選ばれています。桜が咲く頃にはお城祭りが開かれ、大勢の人で賑わう様ですね。実は桜の頃に合わせて来ようと考えていたのですが、あまりに混みすぎると知り、静かな今の時期を選んだのでした。

Koriyamajo2402185

郡山城の歴史は10世紀の後半まで遡ります。地元の有力者、郡山衆によって環濠集落が築かれたのが最初とされ、その後戦乱に巻き込まれるなど変遷を辿りながら1580年に筒井順慶の手に渡り、明智光秀が城の修築に係わったとされます。さらに豊臣氏の天下になると秀吉の弟秀長の居城となり、秀長の手によって二重の堀を持つ本格的な城へと生まれ変わりました。築城が始まったのは1585年の事とされます。写真は天守台で、発掘により金箔瓦が出土しており、豊臣一族の城として相応しい豪奢な天守があったと推定されています。一時は崩落の危険もあったのですが近年修復され、展望台として整備されています。ここからの眺めは意外な程良く、城下は無論の事、遠く若草山や薬師寺、さらには奈良盆地を囲む山々まで見通す事が出来ます。

Koriyamajo2402186

郡山城は近世の城らしく石垣を巡らしていますが、石材を調達するのに苦労したらしく、石仏などの転用石が数多く使われています。中でも有名なのが天守台の逆さ地蔵で、この写真で判るかな、お地蔵様が逆さまに積まれています。以前は供養塔があったのですが今は無く、代わりに卒塔婆が置かれていました。なお、お城祭りは今は花見の会の様になっていますが、本来はこうした転用石の供養をするためのお祭りだったそうです。

Koriyamajo2402187

郡山城は大阪夏の陣の時に豊臣方が攻め落としその際に焼かれたと言われますが、城内にある柳沢文庫の年表には記述は無かったですね。もらった資料に依れば慶長の大地震で天守や櫓が破損し、関ヶ原の戦いの後は城番が居るだけになって荒れるに任され、大坂夏の陣後に水野勝成が入った頃には住む場所が無い程に荒廃していたとあります。あるいは関ヶ原の戦いの後、時の城主の増田長盛が西軍に属していたため戦後に廃され、建物は伏見城に移されたとも。城が旧に復したのは水野氏の二代後の本多氏の頃で、再建にはかなりの時間を要した様ですね。城主はさらに柳沢氏に代わり、明治維新まで続きます。しかし、幕末の頃に火災で多くの建物が失われ、さらに廃城令によって残っていた全ての施設は破却または移設されました。

郡山城は大阪や京都から一時間足らずで行ける場所にあり、古城の雰囲気を湛えた素敵な城です。前回訪れたのが半世紀前なので記憶が曖昧なのですが、この石垣は覚えていますね。市内も少し歩きましたが、昭和と平成が入り交じった様な雰囲気で、どこか懐かしい気がしました。城下町の面影はあまりありませんが、道の狭さが町の古さを物語っています。残念だったのは紺屋町で、以前訪れた時は道の真ん中に水路が流れている古い町並みが印象的だったのですが、今は紺屋という資料館が残るのみで空き地も目立ち、平凡な通りになっています。あのまま保存しておけば良い観光名所になっただろうにな。惜しい事だと思います。

駅から城までの道はまだ少年だった頃母と歩いた記憶が蘇り、懐かしい気分になりました。その母も既に亡く、孝行したい時には親はなしという言葉どおりになっています。考えれば随分と可愛がって貰ったのだし、もっと親孝行しておくんだったな。後悔先に立たす、そんな事を考えさせられた郡山城でした。

2024年1月21日 (日)

2023秋の旅 ~福山城 11.17~

Fukuyamajo2401111

今回の旅行では今治が最初の目的地であったので、福山からしまなみ街道を経由するルートを選びました。帰りも同じルートを使ったのですが、少し時間に余裕があったので福山城に寄って行く事にしました。

Fukuyamajo2401112

福山城は水野氏10万石の城として1622年に完成しました。10万石の城にしては大きすぎる巨城で、徳川氏の援助により西国大名に対する押さえの城として特に築かれたとされます。明治の廃城後城は徐々に壊され、さらに残っていた天守なども戦災により焼失しています。現存するのはこの伏見櫓と筋鉄御門で、共に京都の伏見城から移築されたものとされます。ちなみに伏見櫓と呼ばれる櫓は他の城にもあり、徳川家から特に拝領した信頼の証として大切にされたとの事です。

Fukuyamajo2401113

こちらが筋金御門。門に筋状に鉄板が張られていることからこう呼ばれます。壁が薄い、格子窓が塗り籠めで無いなど、古い形式を留めているという意味でも貴重な存在との事です。

Fukuyamajo2401115

福山城で面白いのは天守の北側が鉄板で覆われている事です。城の北側は丘陵が迫っており、防衛上の弱点だったのでそれを補うために砲撃に耐えるよう鉄板が貼られたと言われます。昭和41年の再建の時には白壁だったのですが、令和3年の改修の時に鉄板が再現されました。

福山城に来たのは二度目で、前回は天守の改修前でコンクリリート製なのにエレベーターも無いのかと驚いたものですが、今回の改修でちゃんと設置された様ですね。それに展示も一新され、体験型の施設も出来たそうですが、時間が遅かったため中を見ることが出来なかったのが残念です。その代わりライトアップの美しい姿を見る事が出来たのですけどね。

今回の旅行は愛媛のまだ見ていない所を訪れようとしたのですが、1泊旅行としては欲張り過ぎた様ですね。主なポイントは押さえる事は出来ましたが、各地の魅力の神髄にまでは触れる事が出来ませんでした。また機会があったら、今度はゆとりを持ってじっくりと町巡りをしたいと思っています。

2024年1月20日 (土)

2023秋の旅 ~大洲市 11.17~

Oozusi2401131

愛媛の旅の最後の目的地が大洲市。ここは初めて愛媛に来たときから候補地には上がるのですが、どうしても決め手に欠けてスルーしてしまっていた町でした。それが今回訪れたのはすずめの戸締まりを見た事がきっかけですね。映画で大洲城がちらっと見えた時、行ってみたいと思ったのでした。

Oozusi2401132

ここはおはなはん通り。昭和41年の連続テレビ小説、おはなはんのロケ地となったところです。無論、このドラマ自体は見た事が無いのですが、初めて愛媛に来た時に見たガイドブックに紹介されていたのがここでした。以来、大洲と言えばこの通りと擦りこまれていて、今回来てみたのです。思っていたより短い道でしたが、よく手入れされている素敵な町並みでした。

Oozusi2401133

大洲市も周辺部は都会化が進んでいますが、中心部にはまだ古い町並みが残っていますね。歩いていてもどこか懐かしい思いのする良いところでした。

Oozusi2401135

これはドラマの東京ラブストーリーで出てきたポストです。実はこのドラマも見てないのですが、大洲の名所という事なので来てみました。もう30年以上前のドラマですが、今でもこのポスト見たさに訪れる人も多いとの事です。

Oozusi2401136

この旅行のきっかけとなった大洲城に来ました。ここに最初に城を築いたのは宇都宮氏で、鎌倉時代の末期の事と言われます。戦国期に入ると毛利氏の軍門に降り、さらに長宗我部氏の支配する所となります。その長宗我部氏も豊臣秀吉によって追われ、大洲は小早川氏に与えられました。さらに城主は戸田氏から藤堂氏に代わり、高虎によって近世城郭に改築されます。それにしても高虎の築いた城は多いですね。そして江戸期には加藤氏が藩主となり明治維新まで続きます。

Oozusi2401137

明治に入ると城は主郭部を残して破却され、さらに天守も老朽化と構造上の欠陥により解体されました。後には四つの櫓だけが残されていましたが、平成16年に市政50周年の記念事業として天守が再建されました。再建にあたっては地元に保存されていたこのひな形や古写真が参考とされ、原型に忠実な形で木造で復原されています。さすがに現存天守には及びませんが、とても意義のある事業だったと思いますね。

面白い事にこの城は泊まれるんですね。宿泊料は55万円と高価ですが、江戸時代さながらの入城体験や臥龍山荘を借り切っての朝食、さらには大洲の名所めぐりなどのイベントなどがセットになっています。興味のある方は如何ですか。私は宝くじに当たった時の夢として取っておくことにします。

Oozusi2401138

1年前ならすずめの戸締まりとのコラボイベントが行われていたそうです。探せばまだ名残はあったのかな。映画と言えば男はつらいよの舞台にもなっていますね。時間が無かったので細かくは回れませでしたが、色々な切り口のある町だと言えそうです。またいつか訪れたいですね。

2024年1月19日 (金)

2023秋の旅 ~内子町 11.17~

Uchikocyo2401121

松山から内子町に来ました。四度目になる愛媛県ですが、内子町に来るのは初めてです。松山の南に位置しますが、ここまで来ると南予になるそうですね。大洲街道の要衝にあり、木蝋と和紙の生産で栄えた町でした。

Uchikocyo2401122

その内子町の繁栄を象徴するのが内子座。大正5年に出来た芝居小屋で、その後映画館に改装され遂には老朽化のため取り壊されるところでしたが、町並みと共に保存運動が起こり、昭和60年頃に元の姿に復原されて現役の劇場としてよみがえりました。まるで時代劇の中に入り込んだようなレトロな雰囲気が素敵でしたよ。

Uchikocyo2401123

ここは内子座の奈落です。人力で回す回り舞台や、やはり人力で上げるせり上がりの仕掛けを見る事が出来ます。今でもちゃんと動くというのが素晴らしいですね。

Uchikocyo2401125

内子町は人口14000人を超える町。都市化も進んでいますが、そこかしこに古い町並みを見る事が出来ます。

Uchikocyo2401126

その最たるものが八日町護国地区。和蝋燭で財をなした商人達の建てた町並みがきれいに保存されています。まるで江戸時代にタイムスリップした様でした。

Uchikocyo2401127

今回は1泊の旅行だったのでどう工夫しても時間が足りず、内子の町並みはざっと見ただけで終わってしまいました。ここはもっと時間をかけてゆっくりと歩いて見て回るべきところですね。見るべきスポットも多いし、季節はちがうけれど、灯籠祭りとか来てみたいです。機会があればもう一度訪れたいと思っています。

 

より以前の記事一覧