旅行・地域

2025年10月27日 (月)

松江・安来の旅 ~安来駅周辺散策~

島根観光キャラクター しまねっこ
島根観光キャラクター しまねっこ

松江市から安来市へ

安来市に来るのは初めてです。これまで松江市に来た時に通過はしていますが、立ち寄る事はありませんでした。改めて安来市について調べてみると、松江市の東南、島根県の一番東に位置し、鳥取県に接しています。松江からはJR山陰線で30分弱と近いですね。人口は34800人程度と、思っていたよりは小規模な町でした。

安来市ホームページ


JR安来駅

JR安来駅

JR安来駅 安来観光交流プラザ

これがJR安来駅。2008年に改築された比較的新しい駅で、観光案内所や特産品の販売コーナー、行政サービスコーナーなどが併設されています。中央に写っているのが足立美術館のシャトルバスで、丁度時間待ちをしているところでした。安来駅には全特急が停車しますが、たぶん足立美術館を訪れる人が多い事が要因になっているんじゃないかしらん。


安来駅前のオブジェ 北前船
安来駅前のオブジェ 北前船

ハガネの町 安来

安来市はハガネと安木節の町と呼ばれます。ハガネに関してはとても歴史が古く、すぐ北側が中海に接しており、安来湊という天然の良港に恵まれていて、古代朝鮮との交流が盛んでした。朝鮮から運ばれてくるのは鉄で、当時の日本にはまだ製鉄の技術が無かったため安来に来る鉄は貴重で、全国から鉄を求めて人々が集まったと考えられています。その流れで安来を中心にたたら製鉄の技術が発展し、ハガネの町として栄えて行きました。ジブリの映画「もののけ姫」でもたたら場が登場しますが、このあたりが舞台なのだそうですね。江戸時代にも玉鋼の供給地として北前船が寄港し、大いに栄えました。駅前のこのオブジェはそういった歴史を伝えるために作られたものですね。

明治以後はたたら製鉄は衰えますが、たたら師たちが日本初の民間鉄鋼会社「雲伯鉄鋼合資会社」を1899年(明治32年)に設立し、たたら製鉄の技法を継いだ高級特殊鋼「ヤスキハガネ」を生み出して、確固たる地位を築き今に至ります。駅のすぐ裏に大きな工場がありますが、これが株式会社プロテリアルで、現在のハガネの町の象徴となっています。



Araessakun
あらエッサくん 石像

安来節とどじょうすくい踊り

もう一つの安来節は江戸時代中期に始まるとされ、最初は安来の民衆の間で唄われていましたが、北前船が盛んに寄港するにつれて全国の民謡の影響を受けるようになり、現在の安来節が確立していった様です。明治時代の終わりには、「渡辺お糸」という唄の名手が現れ、全国を回って好評を博し、安来節は全国に知られる様になりました。唄に合わせた「どじょうすくい踊り」も好評で、私の子供の頃にはテレビで良く放映されていましたね。市では安来節の保存普及に努めており、足立美術館の隣には安来節演芸館があり、土日祝には安来節とどしょうすくい踊りの公演が行われているとの事です。


あらエッサくんとその仲間
あらエッサくんとその仲間

安来市のイメージキャラクター あらエッサくん

安来市のイメージキャラクターもまたどじょうすくい踊りで、あらエッサくんと言います。様々なバージョンがあり、また派生型も沢山あって、駅にはあらエッサくんとその仲間たちという展示がありました。正直知名度は低いですが、可愛らしい良く出来たキャラクターで、どこかでブレイクするかも知れませんね。


安来駅で飼育されているドジョウ
安来駅で飼育されているドジョウ

安来市の新名物 ドジョウ

改札の隣には水槽があり、何が飼われているのだろうと見てみるとドジョウでした。安来はどじょう踊りだけでなく、本物のドジョウの養殖も盛んなのですね。ここに来る前に観光センターに問い合わせたとき、安来の名物は何ですかと聞いたところ、どじょう鍋ですと即答でした。平成18年に始まったとの事で生産量はまだ大した事は無いようですが、「やすぎどじょう」というブランドが確立し、ただいま売り出し中との事です。


炉端かば 海鮮丼
炉端かば 厚海鮮丼

昼食は厚切り海鮮丼

昼食は駅の隣にある炉端かばに寄り、厚切海鮮丼を頂きました。海が近いだけに新鮮な魚や海老が沢山乗っていて、ボリュームたっぷり。これで1000円ですからお値打ちですね。


アンパンマン列車 特急 南風

アンパンマン列車 特急 南風

次は月山富田城

帰りは岡山駅まで出て新幹線に乗り替えました。これは岡山駅で降りたとき、向かいのホームに停まっていたアンパンマン列車です。高知行きとありましたから、特急南風なのでしょう。アンパンマン列車は2020年で一度廃止されていますが、2025年4月に復活しました。たぶんこれも朝ドラの影響なのでしょうね。

予定では安来市でもう何カ所が回るつもりだったのですが、ずっと雨が止まず、時折本降りになる始末で足立美術館と駅周辺だけにしました。岡山まで来ると晴れていたのは何とも残念でしたね。でももう一度月山富田城に来るつもりなので、その時に時間と体力があったら行ってみたいと思っています。

令和7年10月4日訪問

2025年10月26日 (日)

松江・安来の旅 ~足立美術館・日本庭園~

足立美術館 横から見た枯山水庭の風景
足立美術館 横から見た枯山水庭

安来市 足立美術館iについて

令和7年秋の旅の二日目は、安来市にある足立美術館を訪れて来ました。足立美術館は地元の実業家足立全康氏が1970年(昭和45年)に開設した美術館で、横山大観のコレクションを中心に武内栖鳳、上村松園、橋本関雪といった大家を初めとする数多くの日本画を所蔵しています。また北大路魯山人の陶芸や書のコレクションも素晴らしいですね。


足立美術館 枯山水庭の正面風景
足立美術館 枯山水庭

日本で最も素晴らしいとされる庭園

もう一つ足立美術館を特徴付けているのが五万坪に及ぶ日本庭園で、中根金作氏が手がけました。背後に広がる勝山を取り入れた借景庭園で、借景まで含めると16万5千㎡という広大さになり、他に例を見ない壮大な庭ですね。足立全康氏の「庭園もまた一幅の絵画である」という思想に基づき築かれた庭で、2003年に米国の日本庭園専門雑誌ジャーナル・オブ・ジャパニーズガーデニングが、日本全国1000カ所の名所・旧跡の中から1位に選んだ事から一躍有名になりました。この庭はその後も1位を続けており、今年で22年連続その地位を守っています。


足立美術館 生の額絵のような庭園の眺め
足立美術館 生の額絵

七つの庭

庭は7つの区画からなっており、それぞれ枯山水庭、苔庭、白砂青松庭、池庭、鶴亀の滝、生の額絵、生の掛け軸と名付けられています。写真は生の額絵で、正対して正面から撮れば窓が額縁になった様な写真が撮れるのですが、とても混雑していたので上手くポジションを取る事が出来ず中途半端な形になってしまいました。美術館のホームページには綺麗に撮った写真があるので、そちらをご覧下さい。


足立美術館 池庭の静かな水面と緑
足立美術館 池庭

雨で霞んだ遠景

この日も前日に続いての雨だったため、遠くの山が半ば霞んでいます。天気が良ければ綺麗な稜線が見えたでしょうけどね。でも霞んでいる事で返って水墨画の様な味が出ているとも言えます。天気によって見え方が違うというのもこの庭の魅力の一つなのでしょう。


足立美術館 白砂青松庭の明るく広がる景観
足立美術館 白砂青松庭

作庭者 中根金作氏について

作者の中根金作氏は「昭和の小堀遠州」と呼ばれた名作庭家で、生涯に300近くの庭を手がけています。京都にも数多くの作品があり、退蔵院の余香苑城南宮の楽水苑大徳寺興臨院庭園圓徳院南庭などお馴染みの庭が幾つもあります。一番最近に見たのは大徳寺大仙院の書院北庭ですね。

しかし、これだけ広大な庭を手がけられたのは庭師冥利に尽きるというものでしょう。ただ広いだけで無く足立全康氏のこだわりに応えてディテールにまで記を配り、どこを切り取っても絵になるというのですから大したものです。雄大にして繊細、日本一と称えられるだけの事はありますね。


足立美術館 苔庭のしっとりとした緑の世界
足立美術館 苔庭

展示作品について

絵画の方は横山大観の「紅葉」を始め、沢山の名品を鑑賞させて頂きました。有名な大家だけで無く新人の作品まで幅広く展示されており、日本画の奥深さ、素晴らしさを堪能出来ました。ただ、企画展の中に上村松園の名があり楽しみにしていたのですが、展示されていたのは1点だけで松園ファンの私としては拍子抜けでしたね。

入場料とアクセスについて

足立美術館は安来市の中でも外れの方にあり、周囲は水田に囲まれています。えっ、こんな場所にというのが正直な感想ですが、広大な駐車場を有しており、とても大勢の人が訪れていました。あちこちのメディアで紹介されており、有名なだけの事はありますね。スタッフの方の対応も丁寧で、気持ち良く過ごす事が出来ます。
入館料は2500円、開館時間は季節によって異なり、4月から9月までが9時~17時30分、10月から3月までは9時から17時までとなっています。
アクセスは車で来る人が多いようですが、公共交通機関の場合は安来駅から無料のシャトルバスが出ています。ただし、先着順なので満席の場合は次に回されます。まあ、25分に一本出ていますから、それほど長時間待たなくてはならないという事はないでしょうけどね。帰りも安来駅まで送ってくれますが、あらかじめ整理券を取っておく必要があるので注意してください。乗車時間は20分程です。
他に安来市が運行するイエーローバスでも行けますが、一時間に一本程度しか無いので時間に注意が必要です。
令和7年10月4日訪問

足立美術館ホームページ

2025年10月24日 (金)

松江の旅 小泉八雲寓居跡

史跡 小泉八雲寓居跡の玄関。木造の趣ある佇まい。

史跡 小泉八雲寓居跡 玄関

「ばけばけ」の主人公が住んだ家

塩見縄手の一番北に小泉八雲寓居跡があります。八雲はイギリス出身のジャーナリストで、アメリカの新聞社から日本取材のため派遣されて来ました。当時の名はラフカディオ・ハーン。元々日本に興味のあったハーンは日本に惹かれて止まる事を決意し、新聞社との契約を破棄して島根県尋常中学校と島根尋常高等学校の英語教師の職を得、松江にやって来たのでした。ハーン40歳の時でした。


小泉八雲が使用した机と椅子(レプリカ)。書斎の雰囲気を再現。
小泉八雲が使った机と椅子(レプリカ)

ラフカティオ・ハーンと小泉セツについて

ハーンが松江に来たのは1890年(明治23年)7月の事で、最初の三ヶ月は富田旅館で暮らしました。その後宍道湖畔の家に移り、ここで七ヶ月過ごします。この時体調を崩したため身の回りを世話する人が必要となり、雇われたのが小泉セツでした。ハーンは既に優れたジャーナリストとして認められていましたが、幼少期から青年期に掛けては苦労の連続で、両親とは早くに別れて大伯母に育てられ、大伯母が破産するとアメリカに渡りますが、ホームレス寸前の極貧生活を送りました。幸い新聞社に職を得ることが出来、持ちの前の文才を生かして次第に頭角を現して行く事が出来ました。そして一度結婚していますが、程なく離婚を経験しています。一方のセツも没落士族の養女として成長し、幼い頃から織り手として働くなど苦労を強いられました。18歳の時に最初の結婚をしましたが、困窮に耐えかねた夫は出奔し、寡婦となってしまいます。ハーンの下に手伝いとして赴いたのはそうした時期でした。良く似た境遇だった二人はやがて意気投合し、結婚するに至ります。

現在寓居跡となっている家に移ったのは1891年(明治24年)5月の事で、庭のある武士の家に住みたかったハーンの願いによるものです。この家は根岸干夫が所有していましたが、干夫が郡長として赴任して空いていたため、ハーンに貸す事になったのでした。ただ、武士の家とは言っても明治元年に建て替えられたもので、塩見縄手にある武家屋敷とは趣きは異なります。

写真はハーンが使っていた机と椅子(レプリカ)です。ハーンは元々強度の近眼でしたが、15歳の時に遊んでいる最中にロープが左目に当たり、失明していました。このため異様に高い机を特注し、顔のすぐ下に本が来るように工夫したのですね。


小泉八雲が愛した庭。静寂と緑に包まれた空間。
小泉八雲が愛した庭

蛇と蛙

この家はそれ程広くはありませんが、四方に小さな庭がありました。それぞれ趣が違い、ハーンはこれらの庭を気に入り、「日本の庭」という著書を著しています。そのうち蓮池のある北の庭の庭が一番のお気に入りで、そこに蛇が良く出ました。ハーンは蛙が蛇に食べられないように自分の食べ物を蛇に与えてやったと、後にセツが「思ひ出の記」で記しています。たぶんですが、「ばけばけ」のナレーションが蛇と蛙なのはこのエピソードを踏まえているのではないでしょうか。


小泉八雲寓居跡の書斎。畳敷きの落ち着いた空間。
小泉八雲寓居跡 書斎

ヘルンさん言葉

ハーンは来日前に古事記を研究しており、そこに描かれた日本に惹かれていました。これが日本に来た動機の一つともされますが、出雲国に来た事もまた幸いしました。当時の日本は日清戦争前夜でしたが、まだ出雲は軍国主義には染まっておらず、古事記に描かれたような神韻縹渺とした風情を持っていました。ハーンは日本古来の空気を濃厚に残した出雲を気に入り、セツから出雲に伝わる物語を沢山聞き出しました。セツは英語は判らなかったのですが、ハーンの片言の日本語「ヘルンさん言葉」を理解し、沢山話す事で意思疎通が出来たとされます。セツもまた物語が好きで、幼い頃から周囲の大人達から様々な話を聞いていたため、ハーンの希望に応える事が出来たのですね。


小泉八雲寓居跡のセツの部屋。家族の暮らしを感じる空間。
小泉八雲寓居跡 セツの部屋

セツが八雲に与えた影響

後にハーンはセツから聞いた話を元に「怪談」を著しますが、英語では「kwaidan」と表記されます。これはセツから聞いた言葉をそのまま表したものと言われます。ハーンとセツがこの家で暮らしたのはわずか五ヶ月の間でしたが、ハーンに与えた影響は大きなものがありました。それはこの寓居跡に置かれた「日本の庭」の抄文からも窺えます。ハーンは4つの小さな庭を良く記憶しており、その狭い世界の中に日本の情緒を見いだしていたのでした。


小泉八雲の肖像写真。穏やかな表情が印象的。

小泉八雲肖像写真

その後の小泉八雲

ハーンは五ヶ月後に熊本第五中学校へと転勤になり、松江を後にします。しかし、熊本は既に軍国主義の猛々しさに染まりつつあり、ハーンを失望させました。その五年後、神戸での勤務を経て東京帝国大学の英語教師として招かれ上京します。帝国大学におけるハーンの授業は情熱的で、学生達の想像力に訴えかける様な語り口だったとされ、大変な人気を博しました。文学の価値や感情の力を重視し、「魂のレクチャー」とまで言われたそうです。しかし、当時求められたのは実用的、制度的な教育で、ハーンの授業とは相容れないものでした。このため、帝大はハーンとの契約を解除し、後任として夏目漱石を招聘しました。学生達はこれを不満とし、漱石の授業をボイコットする事で抗議を示しました。ハーンはこの間に日本に帰化し、小泉八雲と名を改めています。八雲とは出雲国の枕詞で、さらに遡れば古事記に記された素戔嗚尊の和歌が元になっています。

帝大を辞めた八雲は早稲田大学で教職に就きますが、1904年(明治37年)に狭心症で亡くなっています。セツとの間には3男1女を授かり、セツはそのまま東京に住み続け、1932年(昭和7年)に64歳で亡くなっています。

朝の連続テレビ小説「ばけばけ」ではセツ(役名「松野トキ」)が主役ですが、ラフカディオ・ハーン(役名「レフカデ・ヘブン」)との交流がどんな具合に描かれていくのでしょうね。これから先の展開が楽しみです。


小泉八雲寓居跡にある高浜虚子の句碑。文学の香り漂う一角。
小泉八雲寓居跡 高浜虚子句碑

後進を育てた八雲

寓居跡の入り口脇に高浜虚子の句碑があります。

くはれもす 八雲旧居の秋の蚊に

昭和10年10月7日に虚子が寓居跡を訪れた時に読んだ句です。ハーンは日本を外国に紹介した功績で知られますが、日本の後進たちにも影響を与えていたのでした。

この寓居跡は持ち主だった根岸干夫の息子、磐井が八雲の帝大での教え子でもあったため保存される事となり、1920年(大正9年)から公開されています。入館料は400円、この西隣には八雲やセツの遺品を集めた小泉八雲記念館があり、そちらも入館料は400円です。

令和7年10月3日訪問

国指定史跡 小泉八雲旧居ホームページ

2025年10月23日 (木)

松江の旅 ~松江市伝統美観保存区域 塩見縄手~

松江市 塩見縄手の町並み。武家屋敷が並ぶ歴史的な通り。
松江市 塩見縄手

松江唯一の武家屋敷街 塩見縄手

堀川めぐりを終えた後は塩見縄手を散策しました。塩見縄手は松江市に残る唯一の武家屋敷街で、松江市伝統美観指定地区になっています。名前の由来はこの町に住んでいたた塩見小兵衛という家臣が、異数の栄達をした事に基づくとされます。また、縄手とは縄ほどの細い道という意味で、現在は2車線の広い道路となっていますが、かつてはせいぜい大八車が通れる程度の道幅でした。


松江市 石垣と黒板塀が続く塩見縄手の風情ある町並み。
松江市 石垣と黒板屏が続く風情のある町並み

風情のある散歩道

道幅を広げたのは内堀の一部を埋め立てたのでしょう。江戸時代中頃の地図を見ると既に広い道になっていたようですから、早い時期に行われたのでしょうね。道の左側は松並木の歩道になっており、快適な散策路です。多少松が邪魔な部分もありますが、ハートの潜り松などというスポットがあったりします。また、内堀を次々に通って行く船を見ているのも楽しいですね。小学生や幼稚園児の貸し切り船も多く、船の中からおーいと手を振っていく様子が可愛かったです。


塩見縄手に残る武家屋敷の長屋門。重厚な木造建築。

塩見縄手 武家屋敷の長屋門

松江に古い町並みが少ない理由

松江は山陰最大の城下町。それに戦時中にも市街地が壊滅するような大きな空襲にも遭っていません。にもかかわらず、他に古い町並みが残っていないのは、相次いで水害や大火に見舞われたためです。災害から復興する度に町並みが新しくなり、さらに災害に強い町に作り替えられていった結果、塩見縄手だけが古いまま残ったという次第です。

最近は再開発による高層ビルもぽつぽつと見えます。町が発展するのは良いことですが、松江城近くに建設中の高層マンションは、松江城天守の高さを超えるため、景観を壊すと市民が強く反発しています。見る角度によるでしょうけど、景観も大切な財産、円満に解決して欲しいですね。


塩見縄手にある武家屋敷の玄関。格式ある佇まい。

塩見縄手 武家屋敷の玄関

唯一残る武家屋敷

塩見縄手は中級から上級武士の屋敷だったところ。一カ所だけですが、現存している武家屋敷が公開されています。ここはその武家屋敷の玄関、畳敷きで立派なものですね。主が出入りする度、家臣はこうして出迎えていたのでしょうか。


塩見縄手 武家屋敷の主の間。質素ながらも品格ある和室。
塩見縄手 武家屋敷当主の間

当主の居間

ここは当主の居間。違い棚こそありませんが、床の間、付け書院を備えた立派な書院造ですね。右側の障子を開け放てば庭が見え、お城勤めで気疲れした心も癒やされた事でしょう。なお、この屋敷はかなりの増改築を受けていましたが、2016年から3年を掛けて、各種資料を基に復原されたものです。

塩見縄手 武家屋敷の奥方の間。柔らかな光が差し込む静かな部屋。
塩見縄手 武家屋敷 奥方の間

奥方の間

こちらは奥方の間。主の間に比べるとずっと質素ですね。鏡など各種化粧道具が置いてあるのが、如何にも女性の部屋らしさを演出しています。


塩見縄手 武家屋敷の庭園。苔むした石と緑が美しい和の空間。
遠見縄手 武家屋敷庭園

簡素な庭

こちらが庭園。緑が美しいですが、どちらかと言えば簡素な感じで、質実剛健さを表している様です。なお、ここは歩いてみる事も出来ます。



塩見縄手 武家屋敷 長屋門の裏側。木の風合いが残る歴史的構造。
塩見縄手 長屋門の裏側

長屋門の裏側

最後は長屋門の裏側です。長屋門には門番や中間が住み、屋敷に出入りする人の監視や案内を行い、また表通りの監視や屋敷の防備を行っていたようです。中央の丸い植物はさつきの刈り込み。きっと季節には沢山の花が咲いて綺麗なのでしょうね。

拝観料などについて

なお拝観料は400円、また松江城、小泉八雲記念館とのセット劵(1440円)もあります。なお、開館時間が4月1日から9月30日までが9時から18時、10月1日から3月31日までが9時から17時までと季節によって異なるので注意が必要です。

令和7年10月3日訪問

塩見縄手武家屋敷ホームページ

2025年10月22日 (水)

松江の旅 ぐるっと松江堀川めぐり

松江市 堀川遊覧船 大手前広場乗船口の船着場
松江市 堀川遊覧船 大手前広場乗船口

ぐるっと堀川めぐり

松江に来ての楽しみの一つは、堀川遊覧船に乗る事でした。松江城を囲む内堀、外堀をぐるっと一周するというプチ船旅、古い松江と新しい松江を堀の中から眺められるという趣向です。人気のイベントと聞いていたので混雑を覚悟していたのですが、ご覧のとおり沢山の船が用意されており、混み合うという事はありませんでした。

所要時間は約50分、料金は1600円です。ただ、3カ所ある乗船場のどこで降りても良く、その日の内なら何度でもまた乗れるので、上手く工夫するとタクシー代わりに使って城下町を巡る事も出来ます。


松江市 堀川遊覧船から見た松江城天守の外観

松江市 堀川遊覧船から見た松江城城天守

意外と見えない松江城天守

少し誤算だったのは色々な角度から松江城天守が見られると思っていたのですが、実際に見えたのは大手口の近くの一カ所だけ、あれっという感じでした。このあたりは事前の調査が不足していましたね。でも堀川めぐりの魅力は松江城だけではないので、この先を楽しむことにします。

Matue-kitasoumonhashi

松江城 北総門橋

「ばけばけ」でお馴染みの北総門橋

大手前広場乗船口から乗った場合、最初に潜るのが北総門橋。松江城と武家屋敷街を結ぶ橋で、廃城後は石造りの二重アーチ橋に架け替えられていました。平成6年に至り、史跡松江城環境整備指針に基づき木造橋として復原されています。「ばけばけ」のオープニングでも登場する橋ですね。

松江市 堀川遊覧船から見た塩見縄手の街並み

松江市 堀川遊覧船から見た塩見縄手

船上から見た塩見縄手

松江城に次いで見たかったのが、武家屋敷街である塩見縄手の景色です。ここは後で訪れたのですが、堀の中からだとアスファルトの道が隠れ、石垣の上に古い家並みだけが見えるという江戸時代さながらの景色が素敵でした。


松江市 堀川遊覧船から見た松江城内堀東側の緑と木々

松江市 堀川遊覧船から見た松江城内堀東側

鬱蒼とした緑と水の空間

予想外だったのが鬱蒼とした森があった事で、街中とは想えない景色でした。ここは松江城の西側で、土塁が築かれていた区間です。無論、廃城前はこの様な木々は生えておらず、防御に適した曲輪になっていたのですが、長年放置された結果原生林の様になってしまったのでした。今では市内では貴重な自然区域となっており、様々な動植物の生息地になっているとの事です。


松江市 堀川遊覧船 屋根が下がりハート形に見える様子
松江市 堀川遊覧船 屋根が下がるハートマーク

屋根を下げないと潜れない橋

堀川めぐりの名物が、そのままでは潜れない橋が4カ所ある事で、屋根が下がる事で知られます。その場所を示すのが赤いハートマークで、写真で小さく写っているのが判るでしょうか。最初に船頭さんからハートマークに注意してくださいと説明があるのですが、何のことやら判りませんでした。乗っている内に川の中にある事に気づき、これから屋根が下がるという合図だったのですね。ちなみに屋根を下げるのは奥の橋で、うべや橋と言います。

松江市 堀川遊覧船 屋根を下げて低い橋を通る船の姿

松江市 堀川遊覧船 屋根を下げた姿

屋根を下げた船

こちらは新米子橋。前を行く船がぺったんこになっているのが判るでしょうか。乗船時に屋根を下げる練習があるのですが、半端な下がり方ではなく、這いつくばる様な姿勢を強いられます。嫌だと思っても、屋根で強制的に押さえつけられるのでどうしようもありません。時間にして数分程度なのですが、身体が硬い人には苦痛でしょうね。でも、これが堀川めぐりの醍醐味でもあります。


松江市 江戸時代から残る堀川に降りる石段の風景
松江市 江戸時代から残る堀川に降りる石段

生活用水だった堀川の水

乗船中は屋根が下がっている時以外は、船頭さんがずっと説明してくれます。船頭さんたちが作ったという歌の披露もあって、旅情はたっぷりですね。その説明の一つにあったのが堀端に降りる石段です。今の堀川は濁っていてとても綺麗とは言えませんが、江戸時代には生活用水としても使われており、水を汲む為に堀端へ降りる石段があちこちにありました。現在はほとんど残っておらず、またあっても通行止めになっていますが、かつての松江の生活史を伝える貴重な存在です。

一点疑問に思ったのは、堀川は染色した布を晒すためにも使われたという事で、京都で言えば友禅流しですよね。そうすると水が染料で汚れると思うのですが、生活用水として支障は無かったのかしらん。ちょっと感じた矛盾です。


松江市 堀川沿いにある雪女をモチーフにしたレリーフ
松江市 壕川沿いにある雪女のレリーフ

川沿いにあるオブジェたち

堀端には様々なレリーフやオブジェが置かれています。これは小泉八雲ゆかりの雪女のレリーフ。こうした妖怪(マッックロクロスケなんかもありました)をはじめ、堀川に棲む生き物のオブジェなどを見る事が出来ます。これもまた楽しみの一つですね。

乗船を追えた感想はとにかく楽しかったという事です。船はほとんど揺れる事は無く、船酔いの心配は要りません。乗船中はずっと船頭さんの説明があって、退屈する事も無かったです。ただ、どこを通っているのかは一度乗っただけでは判らず、スマホの地図を活用するのが良いのかも知れません。

船の乗り方

乗船するには3カ所ある乗船口に直接行けば良く、10人までなら予約は不要です。15分から20分間隔で船は出ており、一番近い時間の船の乗船劵を買う事になります。実際には10分も待たなかったかな。旅行の計画にもよりますが、松江でお勧めのイベントです。

令和7年10月3日訪問

堀川遊覧船ホームページ

2025年10月21日 (火)

百名城探訪 ~現存十二天守 国宝・松江城~

国宝・松江城天守

国宝・松江城天守

三度目の松江市訪問

令和7年10月3日、松江市を訪れてきました。目的の一つ目は百名城にして現存十二天守の一つ、松江城に登城するためです。松江に来るのはこれで三回目になるのですが、どういうものか松江城には立ち寄ってなかったのですね。出雲大社や日御碕灯台に行った時に宿泊しただけで、市内の観光はせずに帰ってしまったていたのでした。今回は朝の連続テレビ小説ドラマ「ばけばけ」の舞台になるという事もあって、秋の旅行先に選んだ次第です。


松平直政像

松平直政像

松江城への入り口 国宝松江城県庁前

松江城へ行くには、JR松江駅からバスに乗って10分足らず、国宝松江城県庁前で降車します。わざわざ国宝とバス停にまで付けているとは、よほど国宝指定が誇らしかったのでしょうね。ちなみに運賃は170円、値上げが続く京都や大阪から見るとうらやましい安さです。

バスを降りてすぐ目についたのは「ばけばけ」の横断幕とこの騎馬像。松江城三代目の城主にして雲州松平家の祖、松平直政です。1638年に出雲18万6千石を与えられ、以後明治維新に至るまで松平家が出雲地方を治めました。

なお、このあたりは既に城跡に入っており、かつては石垣と堀に囲まれた三の丸がありました。周囲は多門櫓で取り囲まれ、政庁や藩主の御殿があったとの事です。現在は県庁が建っており、政治の中心地である事には変わりないですね。ただ残念な事に南東から南にかけての堀は昭和24年に埋められてしまっており、現在は県庁前広場となっています。


堀尾吉晴像
堀尾吉晴像

築城者は堀尾吉晴

松江城を築いたのは堀尾吉晴です。厳密には吉晴は既に隠居の身であり藩主は孫の忠晴でしたが、まだ6歳と幼少であったため、吉晴が後見として実権を振るっていました。吉晴は織田家に仕え豊臣秀吉の与力として活躍し、遠江国浜松城12万石にまで出世しましたが、1599年に子の忠氏に家督を譲って隠居しています。関ヶ原の戦いにおいては徳川方に付き、忠氏に対して出雲・隠岐24万石が与えられました。この時の主城は月山富田城でしたが、峻険な中世山城であり鉄砲主体の近代戦には向かなかった事、近世的な城下町を作るだけの土地が確保出来ない事、隣の米子城に近すぎる事などの理由から、新たな城を築くべく適地を探す事としました。しかし、その最中に忠氏が急死したため、孫の忠晴が家督を継いだのでした。時に1604年の事で、吉晴は62歳と当時としては高齢(秀吉の没年と同年齢)でしたが、家を守るために文字通り老骨に鞭を打ったのですね。

松江城 太鼓櫓と中櫓
松江城 太鼓櫓と中櫓

松江城築城の経過

築城の開始は1607年、吉晴が選んだのは中海と宍道湖を結ぶ太田川に近い亀田山でした。この地は戦国時代には末次氏が治めており、末次城があったとされる要害の地で、尼子氏と毛利氏による争奪戦が繰り広げられた要所でした。また、すぐ南には白潟という港が栄えており、亀田山周辺にも集落があって城下町を形成する下地がありました。

今の松江城は独立した小山のようになっていますが、本来は宇賀丘陵の先端部分にあたり、現在の城の北側、内堀と塩見縄手の部分は宇賀山と呼ばれていて、その北側の赤山と一続きになっていたのですが、人力で開削されたのでした。従来はこの時に出た土で松江城下町が埋め立てられたとされていましたが、その後の調査で城下の土質と違う事が判明し、また土量も全く足りない事から現在は訂正されています。なお、この宇賀山の土は松江城築城の際に使われた様ですね。

城の主郭部分は内堀で囲まれた本丸と二の丸、南に独立した三の丸からなり、これらを取り囲むように外曲輪、北の丸、後曲輪などがありました。松江城の特徴として、主郭部分と南東部は石垣が築かれていますが、内堀の三分の二ほどは土塁になっている事です。これは調べた限りでははっきりした理由は判らなかったのですが、石垣を築く計画はあったものの、武家諸法度が制定されたため幕府に遠慮した、あるいは費用対効果が無かったため土塁とした、さらには豊臣家が滅んだためこれ以上城を堅固にする必要が無かったなどの説が囁かれています。ただ、いずれも推測の域を出ていません。

また、低湿地であった事を生かして城下に水路を張り巡らせており、外堀としての役目と水運のために活用されました。

完成したのは1611年1月の事で、吉晴はその五ヶ月後に亡くなっています。幼い孫のために執念で築き上げたという所でしょうか。ただ、この完成は吉晴が生きている内に一応の完成としたと言われ、まだ手を入れるべき箇所は幾つも残っており、松江城は永遠の未完成の城だとも言われます。

忠晴は1633年まで生きましたが、男子に恵まれず、娘婿を末期養子にと願い出ましたが認められなかったため、お家断絶となりました。跡を襲ったのは京極忠髙でしたが、忠髙もまた嗣子に恵まれず、断絶となってしまいます。その後1638年に松江城を与えられたのが松平直政で、以後明治維新まで松平家の治世が続きます。

松江城の普請は松平家の代になっても続けられており、古図などから城内には多くの建物があった事が知れます。現在の広々とした城とは全く違った姿をしていたのでしょうね。

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松江城 二之丸下ノ段から見た天守

現存十二天守 国宝・松江城

松江城の天守は四層五階建てで、附櫓が付属しています。初層と二層は全面、三層と四層の腰壁を黒塗りの下見板張りとしています。2階の四隅と東、西、北側外壁中央部に石落しが取り付き、中に入ったときにその多さに驚きましたね。地階は塩蔵の間と呼ばれて籠城用の食料が保管されていたとされ、また大きな井戸も掘られています。天守の中に井戸があるのは初めて見ました。非常に実戰的な造りで、天守一つになっても戦い続けるつもりだったのでしょうか。なお井戸があるのは現存十二天守の中では唯一で、他には熊本城、名古屋城、浜松城、駿府城などにあった事が知られます。

またトイレも備えていた様ですが、残念な事に昭和の大修理の際に復元が見送られたとの事です。

実際に来てみて驚いたのは思っていたよりも大きな天守だった事で、写真だけ見ていると犬山城くらいかと思っていました。たぶん周囲に比較するものが無いせいでしょうね。現存十二天守の中では2番目の広さを誇り、高さでは3番目との事です。


松江城 大手門後
松江城 大手門跡

明治維新の廃城から現代まで

明治維新後、松江城は廃城となり、陸軍省の管轄となって天守を除く建物はことごとく破却されました。天守も180円で売られるところだったのですが、地元の豪農・勝部本右衛門父子と旧藩士・高城権八らの尽力で買い戻され、難を逃れています。1890年には松平氏に払い下げられ、以後公園とし整備されていくことになります。この時期に興雲閣、武徳殿が作られましたが、それ以外に火力発電所が建設され、さらに炭鉱があって石炭が採掘されていたと言いますから驚きます。明治期の城跡に対する認識の程度が窺える出来事です。1927年に松江市に寄付されると本格的な公園整備が始まり、テニスコートや相撲場、動物園等が設置されました。その後、史跡としての価値が見直され、これらの施設は順次城外に移され、平成5年には史跡松江城環境整備指針を制定し、太鼓櫓や中櫓、一の門などの復元、石垣の補修が行われています。現在も保存修理は進行中で、今は大手門の再建に向けて資料を探している段階の様ですね。いつの事か判りませんが、巨大だったという大手門が復原された姿を見てみたいものです。


松江城 高石柿と天守
松江城 高石垣と天守

現在も続く石垣補修

松江城の石垣は野面積みと打ち込み接ぎが混在しているのが特徴で、歴代城主によって補修が繰り返されて来たためです。現在も老朽化による危険箇所を補修していますが、補修中に二度にわたる地震による崩落に見舞われていて、更なる補修が急がれているところです。本当に切が無い作業ですね。


松江城 一ノ門と武具櫓
松江城 一ノ門と武具櫓

有料区域入り口と拝観料

写真は復原された一の門と武具櫓。この門から先は有料区域になります。料金は大人が800円と少し高めですが、姫路城大坂城に比べるとまだ格安ですね。拝観者数はそれなりで、修学旅行生や地元の小学生が目立ちました。インバウンドの姿はほとんど見かけず外国人だらけの姫路城とは対照的でしたが、ここは余り知られていないのでしょうか。京都や大阪から遠いというのも一因かも知れませんね。

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国宝指定の決め手となった祈祷札

天守に入ってまず目に付くのが祈祷札。城の無事を祈って祀られた札で地階と4階にあり、1937年までは確かに存在していたのですが、その後行方不明になっていました。4階の2枚の祈祷札のうち、1枚には「慶長16年」と記されていた事が知られており、松江市ではこの札の行方をずっと捜していたのですが、2012年になって松江神社から発見されました。

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祈祷札のあった場所の特定

翌年になって調査が行われ、4階の柱から祈祷札の穴と一致する釘穴が見つかり、さらに地階でも祈祷札と同じ形の白い跡が確認され、これらの札が間違い無く松江城にあったものと証明されました。これにより松江城の築城時期が確定し、国宝指定の決め手となったのでした。どういう経緯で外され、松江神社に保管されていたのかは判りませんが、当時の松江市民が喜びに沸いたのを覚えています。やはり城というのは、市民にとって誇りなのですね。なお、現在設置されている祈祷札はレプリカです。


松江城 天守内 包板
松江城 天守内 包板

天守の柱について

天守に入っての第一印象はなんて広いんだという事でした。展示品が少ないという事もあるでしょうけど、現存十二天守中二番目に広いというのは誇張では無かったです。面白いのは柱が板で包まれていることで、包み板と呼ばれる技法だそうです。粗悪材や割れを隠すため、さらには柱を補強するためではないかと考えられており、築城時には無く、天守の補修が行われる度に順次施されていったとされます。天守には308本の柱かありますが、うち108本に使われています。

松江城の特徴として通し柱があり、各柱が二階ずつ支える構造になっていて、その上層階は水平材を置いてまた通し柱を立てています。姫路城は長大な2本の心柱が初層から上層階まで貫いていますが、それとは随分と異なる構造です。強度的に不利な様に感じますが、柱の配置によって巧みに回避しており、かえって強固にしているとの事です。


松江城 天守内 初代の鯱
松江城 天守内 初代の鯱

天守改築説iについて

現在の松江城は望楼式てすが、幕府に提出された絵図では層塔式の天守で、千鳥破風や唐破風が装飾として取り付けられた姿になっています。この絵図がどこまで信用出来るか議論がありますが、明治や昭和の改修の際にこれらの破風の痕跡らしきものが見つかっており、実際に存在した可能性が指摘されています。これらの事から初期の松江城天守は今とは大きく姿が異なっており、江戸時代に何度か行われた改修(どの時期かは不明ですが)の際に千鳥破風や唐破風が取り外され、望楼式の現在の形に変えられたのでは無いかという仮説も存在します。

なお、松江城の別名は千鳥城と呼ばれますが、通常は羽根を広げた千鳥のように見える天守の外観から来ているとされています。ただ、私的にはあまりピンと来なかったのですが、かつて千鳥破風が存在し、それが天守の象徴の様なものであったとすれば、千鳥城の語源になった可能性はありますね。このあたり、更なる研究と考察が待たれるところです。


松江城 天守内 月山富田城から流用した柱材
松江城 天守内 月山富田城から流用した柱材

松江城天守に使用された木材

松江城の築城にあたっては材木の調達に苦労したらしく、後に包み柱が施されたようにかなり粗悪な木材も使われています。周辺の古城からも流用されており、これは月山富田城から運ばれてきた古材です。随分と太くて立派な木ですね。富田城が築かれた頃には、まだ良質な木材が豊富にあった事を物語っているようです。

この古材を見ているときに地元の小学生達が集まってきて、引率の先生が説明していたのですが、月山富田城と聞いた子供たちが平然としているのに少し驚きました。戦国好き、城好きにはよく知られた城ですが、あまり一般的ではない、ややマニアックな城です。たぶん、京都、大阪周辺で聞いても、知らない人の方が多いでしょう。ところが、このあたりでは小学生でも知っているのですね。さずがは地元だけあって、授業などで教えているのでしょう。あるいは、周辺の大人たちから聞かされるのかな。地域性が感じられた一コマでした。

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松江城 天守から見た宍道湖

水都松江と水害の歴史

松江は中海と宍道湖に挟まれた町で、水路が張り巡らされて水の都と呼ばれてきました。これにより水運が発達し、古来から白潟など港町が栄えました。反面、水害に悩まされてきた町でもあり、江戸時代には60回も被害に遭ったとされます。中にはあまりの被害に松江城を移転させようとし、家臣に諫止された藩主も居たとか。水害は現在も続いており、近年では令和3年に浸水被害があったそうです。宍道湖や街中を流れる水路が素晴らしい情緒を与えてくれていますが、異常気象による桁違いの豪雨が頻発する中、どう折り合いを付けるか課題は多い事でしょう。素敵な水の町が守られるように、上手く水害を抑えられる事を願っています。


松江城 太鼓櫓
松江城 太鼓櫓

復元された太鼓櫓

こちらは復元された太鼓櫓です。文字通り中に太鼓があって、かつては時刻を知らせたり、非常事態を知らせたりしていたのでしょう。中に入って太鼓を見る事も出来ますが、半ば倉庫として使用されており、乱雑に物が置かれているのにはがっかりしました。せっかく復原した櫓なのだから、見せ方も考えてほしいところです。なお、黄色い像は地元の小学生の作品。この日は展示会が開かれており、あちこちに作品が置かれていました。


松江城 ちどり茶屋 割子そばセット
松江城 ちどり茶屋 割子そば御膳セット

出雲蕎麦の穴場 ちどり茶屋

松江城を一通り見た後昼食をどうしようかと思っていたのですが、有名なそば処は激混みとの事で断念。ところが城内にあるちどり茶屋が、見た目は今一つの店ながら割子そばが美味しいと知り立ち寄りました。実際昭和レトロ以前の様な店でしたが、蕎麦の味はなかなかのものでした。蕎麦は三段に分かれていて、食べ方が指示されていました。まず一番上の蕎麦につゆを全部入れ、薬味を適宜入れます。食べ終わるとつゆを二段目に移し、また薬味を入れます。三段目も同じ。さすがは出雲そばの本場だけあって、とても美味しかったです。ただ、御膳セットにしたのは余計でした。かやくご飯としじみ汁があまり美味しく無かったのですよね。蕎麦だけにしておけば良かったです。ちなみに割子そばは800円、御膳にすると1300円でした。


松江城 横矢掛かりの石垣
松江城 横矢掛かりの石垣

見応えのある松江城

城外に出て外から内堀を見ました。このあたりはまだ石垣のある部分です。ぽこんと飛び出しているのは横矢掛かりのための張り出し。たぶんですが、かつてはここに櫓があって、内堀を渡って石垣を登ろうとする敵を横合いから迎撃したのでしょう。非常に幅の広い内堀で、ここから攻めるのは至難の業でしたでしょうけどね、そこになお備えをするのが縄張りの妙というものでしょうか。

松江城の見所は何と言っても国宝の天守。現存天守の常として急な階段を覚悟していましたが、思っていたよりは緩やかでした。ほとんど垂直な彦根城を経験した人ならば、なんと楽な階段かと思うでしょうね。他は復元された櫓もありますが、だだっ広い石垣のある公園という感じです。まだ整備半ばという感じですが、天守だけでも見る価値は十分にあると思います。

松江城ホームページ

2025年9月30日 (火)

美山かやぶきの里訪問記 ~蕎麦畑の風景と秋の風情~

美山町 蕎麦畑とかやぶきの里の風景
美山町 蕎麦畑とかやぶきの里の風景

蕎麦の花の季節

令和7年9月26日、秋を求めて京都市の北に位置する南丹市美山町にあるかやぶきの里を訪れてきました。美山町の名産の一つに蕎麦があり、今の時期には広大な蕎麦畑に真っ白な花が咲くのです。この景色は以前から知っていましたが、交通の便が悪く、ずっと見送っていたのです。今回調べてみると観光協会で電動アシスト自転車が借りられると判り、これなら時間に縛られないで済むと出かける事にしたのでした。


美山町 真っ白な蕎麦の花とかやぶきの里

美山町 真っ白な蕎麦の花とかやぶきの里

蕎麦の花とかやぶきの家

これが蕎麦の花。畑の間には通路が作られており、すぐ目の前で花を見ることが出来ます。一つ一つの花は小さくて地味ですが、圧倒的な数が咲いており、辺り一面を真っ白に染めます。その間に緑の葉が色を添え、単調な白一色ではなく、変化に富んだ美しい景色を描いています。畑の向こうにあるのはかやぶきの里。今では観光名所となっていますが、実際に里人が住んでおり、この蕎麦畑が単なる観光施設で無い事を示しています。


美山町 一面の蕎麦の白い花
美山町 一面の蕎麦の白い花

幻想的な白い景色

もっと広角レンズを持って行けば良かったかな。蕎麦畑は広大で、その美しさを取り切るには標準レンズでは画角が狭すぎました。この景色を見られただけでここに北甲斐があったというものですが、せっかくかやぶきの里に来たのだから、集落の中を散策して行く事にします。


美山町センニチコウとかやぶきの家

美山町 センニチコウとかやぶきの家

路傍に咲くセンニチコウ

集落の中には、そこかしこに秋の花が咲いています。これは路傍に咲いていたセンニチコウ。この花は外来種ですから、誰かがここに種を蒔いたのでしょうね。でも、この赤くて小さく丸い花は、かやぶきの里に良く似合っていました。本来南国の花ですが、自然な形で生えており、雪の降る美山の地で冬越しが出来たのでしょうか。


美山町 キクイモの黄色い花と家紋入りの家
美山町 キクイモの黄色い花と家紋入りの家

キクイモの黄色い花

こちらは大原でも咲いていたキクイモです。黄色い花が綺麗ですね。この花は芋が取れ、食用にもなります。葉は家畜の飼料にもなるそうですね。日本には江戸時代に飼料として移入されたのですが、現在では各地で野生化しているとか。秋の山里を彩る風景と思っていましたが、意外にもその繁殖力ま強さから要注意外来生物に指定されているそうです。確かに以前より増えている気がしますが、実際地元の人は迷惑に思っているのかな、だとすれば、秋らしい景色と賞賛するのは無責任かも知れません。

美山町 知井八幡神社神門
美山町 知井八幡神社神門

妖怪退治と神社

かやぶきの里の東のはずれに知井八幡神社の古い社がありました。社殿によると創建は和銅6年(713年)に遡ります。丹波に八頭の大鹿という妖怪が現れ、人々を苦しめていました。時の天皇は丹波三郎兼家という人物に退治を命じ、兼家は見事にやってのけました。この武運に感謝して建てたのがこの神社で、家来の子孫達が集落を形作ったとのことです。八幡神を祀る事から武勇に関係した神社だろうと思っていましたが、妖怪退治だったのですね。

現在の本殿は明和4年(1767年)に再建されたもので、麒麟、獅子、鳳凰などの彫刻が施された見事なものです。


美山町 知井八幡神社鳥居
美山町 知井八幡神社鳥居

神域と俗界の境にある鳥居

かやぶきの里には次から次へと観光バスが訪れ、インバウンドの団体が押し寄せていましたが、ここまで来る人はほとんどおらず静かなものでした。幽邃な雰囲気に満ちており、山里の神社に相応しい風情がありました。丹波を代表するという社殿と共に、如何にも神域という境内は訪れる価値はありますよ。

美山町 コスモスとかやぶきの家


美山町のスモスとかやぶきの家

コスモスのある景色

大原では少なくなったコスモスですが、ここではいくつか咲いていました。この花も外来種ですが、秋桜という素敵な漢字が当てられているように、すっかり日本の風土に馴染んでいます。これぞ山里という風景でした。


美山町 路傍に咲く彼岸花

美山町 路傍に咲く彼岸花

山里の彼岸花

彼岸花もまた秋を感じさせてくれる花ですが、かやぶきの里でもそこかしこで咲いていました。まとまって咲いていたのは一カ所だけでしたが、こうして路傍で咲いているのも素敵な風情を感じさせてくれます。


美山町 色付き始めた柿の実
美山町 色付き始めた柿の実

柿の実とかやぶきの家

柿もまた里山に付きものですが、実は成っていたもののの,まだ色付いてはいませんでした。もう少しすれば赤く色付き、良いアクセントになってくれることでしょう。


美山町 かやぶきの家の屋根裏

美山町 かやぶきの家の屋根裏

かやぶき屋根の裏側

美山民族史料館にいくと、実際に中に入って昔ながらの間取りや暮らしぶりを知る事が出来ます。私的に興味があったのは屋根裏で、白川郷の合掌造りとどう違うが見たかったのです。結果としては、、基本的な造りは一緒ですが、使われている木が白川郷よりずっと細かったです。これは家の規模の違いから来るのか、それとも財力が違ったのかどちらでしょうね。それとも白川郷が太すぎて、これくらいの木が標準的だったのかしらん。

美山町 かやぶきの里の全景
美山町 かやぶきの里の全景

インバウドに人気のかやぶきの里

かやぶきの里を見下ろす展望台もあったのですが、道が険しそうだったので止めておきました。平場で比較的まとまって見えたのがこの場所で、昔ながらの村落の風情が判って貰えるでしょうか。集落の中には放水銃がそこかしこに設置されており、火災に対する備えが厳重に行われていました。関西地方では、放水訓練の様子もニュースで流されるので、ご存じの方も多いでしょう。

先ほども書きましたが、かやふきの里はインバウンド、それもお隣の国の方に大人気です。少し高台から見ていたのですが、ひっきりなしに観光バスがやって来て、その都度に団体客が降りてきていました。その割に集落内が混雑していなかったのは、ざっと見るだけで帰って仕舞うから名でしょうか。白川郷と違って、入れる家が少ないせいかもしれませんね。それにお隣の国の方は日本の民俗には興味が無いらしく、史料館に入る人はほぼ皆無でした。何でも昔の景色が日本には残っていて、それを見に来る人が多いそうですから、外観を見ればそれで満足なのかもしれません。


美山町 北稲荷神社のトチノキの大木

美山町 北稲荷神社のトチノキの大木

トチノキの大木と妖怪

最後にちょっと驚いたのは、北稲荷神社の前にあったトチノキで、こんな大木だとは知りませんでした。実はトチノキを見たのは初めてで、もしかしたら植物園にはあるのかな、この木に実が成るのかと興味深かったです。

トチの実で思い出すのはトーツポテンという妖怪。キノコの妖怪で、トチの実が傘に刺さって痛くてしょうがない。それで夜な夜なトチの実取ってと言いながら歩いて居たのですが、いつしかそれがなまってトーツポテンになってしまったのだとか。それだけの事で全然怖く無いのですが、何だか可愛らしくて印象に残っています。

美山町で昼食に頂いた手打ち蕎麦
昼食に頂いた手打ち蕎麦

美山町の名物 手打ち蕎麦

お昼に頂いたのはきたむらさんで手打ち蕎麦を頂きました。あれだけの蕎麦畑を見ると食べてみたくなったのです。当然新蕎麦ではありませんが、美味しかったですよ。もう少しすれば新蕎麦の季節、きっっと香りが良くて美味しい蕎麦が食べられる事でしょう。ちなみに蕎麦だけなら900円、これに卵丼のセットを付けたので1300円でした。


美山町のお土産 橡洋かん
お土産は橡羊かん

お土産の橡羊かん

お土産は橡羊かんにしました。北稲荷神社で見たトチノキの大木を見たのがきっかけです。トチの実は縄文時代から食べられてきましたが、とにかく灰汁が強く、天日干し、殻むき、水晒し、ゆでる、木灰処理など一ヶ月以上かけないと食べられる様にならないそうです。そこまで手間を掛けても食べたくなるほど美味しいと言うことでしょうか。実際この橡羊かんも実に美味でした。素朴な味わいながら旨みは十分、並の羊かんとはひと味違いました。

かやぶきの里には枝垂れ桜が沢山植わっていました。次は桜の季節に来てみようかな。かなり込むでしょうけど、一見の価値はありそうです。

2025年6月25日 (水)

日本百名城探訪2025 ~一乗谷城 6.18~

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越前大野城から一乗谷城に来ました。正しくは一乗谷城は一乗城山に築かれた中世山城で、近年発掘整備され特別史跡に指定されている一乗谷朝倉氏遺跡の一部です。百名城として選定されているのは朝倉氏遺跡全体ですね。

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朝倉氏遺跡の最寄り駅は九頭竜線の一乗谷駅。写真は駅舎の遠景で、ホームに小さな木製の待合室があります。九頭竜線は福井駅を出た後は越前大野駅までの間にはまともな駅舎は無く、ホーム上に小さな待合室があるだけです。当然全て無人駅で、切符の販売機もありません。ICカードも使えず、無人駅から乗る場合は整理券を示して下車時に車内で精算する事になります。これぞローカル線、初めて乗る者にとっては戸惑う事ばかりですが、他では経験できない事だけに面白くもありますね。

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まず訪れたのが県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館。朝倉氏遺跡の調査・研究のための拠点で、発掘品や一乗谷の復元模型の展示を行い、当時の人々の生活の様子を紹介しています。とてもモダンで新しい施設ですが、2022年に新設されたばかりです。福井県がいかに一乗谷朝倉氏遺跡を重視しているかが判るというものです。

ここで展示を見るのは後にして、まずはレンタサイクルを借りました。遺跡は2km離れた場所にあり、さらに3kmの延長がある事から、徒歩で見て回るのは厳しいのですよ。なお、レンタサイクルは予約制で、博物館のホームページから申し込んでおく必要があります。

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レンタサイクルは全て電動アシストですから楽で良いですね。博物館から遺跡の入り口にあたる下木戸跡までは10分足らずで着きました。この巨石を用いた石垣は谷の北の入り口を守っていた門の跡で、長さが38mあり鍵形に曲がっているところを見ると枡形を形成していた様です。

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ここに来て意外だったのは一面の公園の様になっていると思っていたのですが、中央に県道が通り、集落もあって生活の場でもあるのですね。考えてみれば一乗谷は織田信長によって焼き払われた後は土に埋もれていたのですから、長年の間に新たに集落が形成されても何の不思議も無いのでした。

谷の中央には一乗谷川が流れ、県道は川に沿う様に走っています。川の両岸の多くは公園として整備されており、多分元は田畑だったのでしょうね。発掘調査の結果良好な遺跡が埋まっている事が判り、特別史跡に指定された事から買収を進め、発掘が終わったところを埋め戻して公園とする事で保存しているのでしょう。

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整備の仕方は様々で、武家屋敷跡を平面復元しているところもあれば、この写真の様に一部を城下町として復元しているところもあります。ここにある石垣や建物の礎石は実際に発掘で出土したものを使用しているとの事で、戦国時代の町並みを実感する事が出来ます。

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復元されているのは武家屋敷や商家、染め物屋など様々で、一乗谷が如何に栄えていたかが窺える様になっています。ここは中級武士の武家屋敷で、武士達が将棋を指している姿が再現されています。この屋敷にはスタッフが常駐しているのでなぜ将棋なのですかと尋ねたところ、醉象という駒が発掘されたため、当時の武士の嗜みだったと推定されるからだそうです。ただ醉象は中将棋や大将棋に使われた駒で、今の本将棋には無いのですが、なぜか再現されていたのは本将棋でした。まあ、その辺は愛嬌ですね。

この武家屋敷の見所の一つはトイレが再現されているところで、遺跡でトイレが確認されたのは日本ではここが最初なのだそうですね。それまでトイレと推測される穴は見つかっていたのですが、便器の痕跡が出てきた事から初めて確定出来たのだとか。ちなみに日本でトイレが普及したのは鎌倉時代頃からと推定されており、し尿が下肥として使用される様になったためだそうです。それまでは例えば平安京では貴族の屋敷にはあったようですが、使用後は道の側溝に流していました。また庶民の家にはトイレは無く、道に垂れ流しだったそうですね。今からでは想像出来ない不潔さですが、中世ヨーロッパでも事情は似たようなもので、室内で便器に用を足し、後は窓から道にぶちまけていたと言いますから、鎌倉以降の日本は世界的に見ても群を抜いて清潔な町だった様ですね。

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こちらは上級武士の屋敷跡。門と塀は復元されていますが、屋敷は説明板があるだけで遺跡は埋め戻されています。せめて平面復元してくれれば判りやすいと思うのですが、一面の原っぱではどんな屋敷だったか思い浮かべるのは難しいですね。

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こちらは町家が復元されているコーナーです。武家屋敷と違って塀や門は無く、区画も小さいですね。商家、大工の家、染め物屋などがあり、それぞれ道具類が置かれています。商家はそれなりに広さがありますが、大工の家などは土間と一間の座敷がある程度で、当時の庶民の暮らしぶりはとても質素なものだったと想像出来ます。なお、ここには着付け体験コーナーもあって、甲冑や着物に着替えて散策する事が出来るそうですよ。

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復元町並の向かい側には朝倉館跡があります。朝倉家当主の屋敷があったところで、水堀と土塁に囲まれており、他の武家屋敷とは一線を画していますね。朝倉氏が一乗谷を本拠地としたのは南北朝時代頃と推定されていて、次第に当主のほか重臣が集住する様になり、応仁の乱以降は都から逃れて来た公家や僧侶、文人等が住み着いたため華やかな京文化が花開き、北の京と呼ばれるほど栄えました。最盛期には1万人ほどの人がこの谷に住んでいたそうですね。

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一乗谷には高度な文化があった証しとして、四つの庭園跡が発掘されており、それぞれ国の特別名勝に指定されています。これはその一つ湯殿跡庭園で、豪壮でいて調和の取れた石組みが見事です。ただ、全く資料が無いため、誰がいつ頃作ったかは判らないそうですね。岡本太郎氏がこの石組みを見たとき、感動のあまり長時間動かなかったという逸話も伝わっています。

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これが朝倉館跡です。第五代当主の義景が住んでいた屋敷で、10数棟の建物が並んでいました。南半分が主殿を中心とした接客の場で、足利義昭を迎え入れたとき、豪勢な宴が開かれたと言われます。北半分は日常生活の場で、常御殿、湯殿、台所、花壇などがありました。ところがなぜかトイレが見つからないそうですね。中級武士の家にはあるのになぜと思いますが、たぶんですが京の貴族の習慣に倣って、おまるを使っていたんじゃないかしらん。私の勝手な想像ですけどね。

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これが朝倉屋敷庭園。ここは遺跡の上にアクリル板が張られており、見学者はその上を歩く事で義景が見ていたのと同じ目線でこの庭を見る事が出来るように工夫されています。とても調和の取れた石組みで、文化水準の高さを伺い知る事が出来ます。

なお、入り口の唐門は後世に建てられた松雲院の寺門で、義景の菩提を弔うためのものとされます。

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遺跡の見所はまだまだあるのですが、バスの時間が迫ってきたので博物館まで帰ってきました。残念ながらじっくり見て回る時間は無かったのですが、町の復元模型などが興味深かったです。こうして見るとかなり過密な町だった事が判ります。そして、屋根がことごとく板葺きですね。京の町家も天明の大火までは板葺きだった事が知られており、これが当時の景色だったのでしょう。

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こちらは朝倉屋敷の復元模型。整然とした建屋と広々とした庭が印象的です。ここで弓矢の稽古や蹴鞠などが行われていたのでしょうか。屋根は檜皮葺きだったと推測されていますが、鬼瓦なども出土しているとの事で、部分的には瓦葺きの建物もあったのかも知れませんね。

一乗谷は天正3年(1575年)に信長によって攻められ、義景は城を捨てて大野に逃亡し、町は織田軍によって焼き払われました。その後、越前を与えられた柴田勝家は本拠を北之庄に構えたため一乗谷は放置され、やがて土に埋もれてしまいました。結果として遺構は破壊を免れ、日本でも希な大規模な城下町の遺跡として今に伝わっています。

なお、一つ知りたかったのは、明智光秀はどこに住んでいたのかでしたが、小説やドラマで描かれる様に一乗谷の外れではなく、山を越えた東大昧という地と伝えられているとの事でした。根拠としては、勝家が一向一揆と対峙したとき、光秀がこの地の人々には世話になったので見逃して欲しいと頼んだという伝承があり、実際に勝家が出した安堵状が地元に伝わっています。現在は明智神社という小さな祠があり、光秀の木像が祀られていて、地元の人達が大切にお世話をされているそうです。一乗谷からは5km程離れており、朝倉家には相手にされて無かったんじゃないかと思える場所ですね。実際のところ資料は無いに等しく、朝倉家との関係は良く判っていないとの事でした。

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写真は谷の中程にある一乗谷レストランで頂いた昼食です。当初は越前大野市で頂こうかと思っていたのですが、どう工夫しても時間が取れず断念しました。一乗谷では他に選択肢は無く、唯一の食事処です。選んだのは越前おろし蕎麦とソースカツ丼のセット。どちらも福井を代表する名物で、まずまずの味でした。

帰りはバスの時間に間に合うように博物館を見学し、無事に乗る事が出来しました。これももし一本乗り遅れたら大変な事になるという、ぎりぎりの選択でしたけどね、何とか予定通り帰ってきました。

それにしても、地方の交通事情はほんとうに酷い。自家用車を持たないと自由が効かず、公共交通機関ではもう行けないという所も少なくないようです。京都近郊でも同じで、善峯寺への直通バスが廃止になりました。これからどうすれば良いのですかね。採算が取れない、運転手が居ない等の事情は判りますが、このままでは地方の衰退は加速する一方でしょう。それに免許を手放せない高齢者による車の事故は増え続けています。小さな自治体や事業者の努力だけではもう限界なんじゃないかしらん。国を挙げての対策が必要なんじゃないかと思いますが、そんな声を上げる政治家は居ないですね。票に繋がらないものなあ。なんとももどかしい思いのした福井行きでした。

2025年6月24日 (火)

続百名城探訪2025 ~越前大野城 6.18~

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令和7年6月18日、続百名城の越前大野城を訪れてきました。この日帰り旅行はのっけから躓き続きで、まず福井までの切符を買い間違えていました。京都から福井までの通しで切符を買ったつもりが、乗車賃が入ってなかったのですね。普通に買ったはずなのに、特急券だけになっていたのでした。そのため敦賀で乗車券を買う羽目になったのですが、これに手間取っている間に予定していた列車に乗り遅れてしまいした。自由席がある新幹線は2本後、これで30分のロスです。幸い九頭竜線とは接続していたので、頑張れば城と城下町を回れるはずでした。

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越前大野ではレンタサイクルを借りる予定でした。ところがいざ着いてみると、どこにもそれらしき窓口が無いのです。おおの観光ビューローのホームページには駅前からの観光にと書いてあったのですけどね。スマホで検索してみると少し離れた場所に別の店があると出たので行ってみたのですが、普通の民家があるだけでそれにしき店はありません。仕方が無いので駅に戻って聞いてみようとすると、今度は駅員さんの姿が無い。次は一乗谷城に行く予定だったのですが、11時39分発の福井行きに乗らないと4時間後まで列車は無いので大変な事になる。計画では大野では2時間の余裕があるはずだったのですが、敦賀で乗り遅れた上にうろうろしている間に後1時間と少しとなってしまいました。歩いて城まで行って帰るには時間的に無理だし、どうしようと思っていると駅前にタクシー会社がある事に気が付きました。贅沢だけどこの際仕方が無いと、窓口に行って1台頼むと15分程待ってとの事。間に合わないかなあと思いましたが、とにかく行って見る事にしました。

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越前大野市は豊富な湧き水があるので有名なところです。御清水、本願清水など至る所に名水が出ているのですが、駅前にもこうした水場が設けてありました。予定ではお城に行った後色々回るつもりだったのですけどね、全て吹っ飛んでしまいました。

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こちらは水路に設けられた小さな水車。こうした場所が実際にあるのでしょうか。せっかくここまで来たのに見に行きたかったなあ。

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幸いタクシーは10分足らずで来てくれました。運転手さんに聞くと、登城口まで10分程度、そこから天守まで30分程度、帰りも迎えに来てくれるとの事で10分程度、ぎりぎり列車に間に合うかどうかかなあとの事。無理だと思ったら引き返してくださいと言われました。聞けばレンタサイクルは駅にあるはずなんだけど、駅員さんは列車の間隔が長いので奥に引き込んでしまうのだそうです。静かな町ですねと言うと、ここはもう終わっていると自嘲気味に言われました。最近は天空の城ブームで越前大野は賑わっている、特にインバウンドに人気だと聞いていたのですが、この日は観光客の姿も、地元の人の姿もほとんど見かけませんでした。車を走らせながらこの店も閉まってしまった、あの店も駄目だとぼやく運転手さんの話を聞いていると、本当に衰退しちゃったのかなと思えてきたのですが、実際どうなのでしょうね。

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越前大野城は金森長近が建てた城。亀山と言う小高い山に本丸を置き、山の東側に二の丸、三の丸、外郭を築くという梯郭式で 、西を流れる赤根川を天然の掘とし、外郭の周囲を堀で囲っていました。完成したのは1580年(天正8年)の事で、5年の歳月を要しています。古絵図を見ると山の中には石垣が築かれ、門や櫓で守られていたのですが、明治維新後ことごとく撤去され、わずかに本丸跡の石垣だけが残っています。現在はこのような緩やかな遊歩道が整備されており、市民の散策路となっているようで、およそ城跡らしくは無いですね。

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本来は緩やかな散策路を辿って行けば楽に本丸までたどり着けるのですが、時間の無い私は所々に設けられているショートカット用の石段を見つけては登って行きました。少し疲れましたが、山城跡の険路を行く事を思えば楽なものです。

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何とか天守までにはたどり着きましたが、ゆっくり展示を見ていく余裕はありません。それに館内は撮影禁止ですしね。急いで最上階まで登り、大野市街の景色を撮って降りてきました。時間を掛けて巡れば気持ちの良い街だったでしょうにね、何とも残念です。

越前大野城の天守は、2重3階の大天守、2重2階の小天守、それに天狗櫓が付属した複合連結式でした。しかし、1775年(安政4年)に大野を襲った大火(太郎兵衛火事)によって焼失し、以後再建される事はありませんでした。現在の天守は昭和43年に推定復元されたコンクリート製の復興天守です。史実とは異なりますが、良い雰囲気を醸し出していますね。雲海に浮かぶ姿は写真でしか見たことが無いですが、天空の城と呼ぶに相応しい素晴らしい景色です。

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帰ってから調べたところ、駅前のレンタサイクルは無くなっていたのでした。どうやら七間通というところに移転したらしいのですが、地図には載っておらず、未だに場所は判りません。実は事前に管理者の越前おおの観光ビューロに電話したのですが誰も出てくれず、曜日や時間を変えて何度か掛け直したのですがやはり同じで、結局ぶっつけ本番となったのですが、余所者には判る訳が無いのでした。観光に力を入れているはずなのに、ちょっと不親切に過ぎるんじゃないかしらん。せめて位置図くらい付けてほしいものですね。まあ、タクシーの運転手さんが親切だったので良しとします。

せっかく来たのに駅と城を往復しただけと何とも消化不良に終わってしまいましたが、半分は自分の責任なので仕方が無いですね。写真は九頭竜線を走る列車、恐竜のラッピングが福井らしくて良い感じです。ただ、この路線は一日に8本しか走っておらず、一本逃すと取り返しが付かなくなるというスリリングな所ですね。福井市と結ぶバスも似たようなもので、待合室で少し話をした方もぼやいていました。過疎と車社会が重なるとこうなるという典型で、高齢者が運転免許を手放さないのも無理は無いと思います。天空の城ブーム程度では、ダイヤの改善はされない様ですね。廃線になっていないだけましというのが悲しい現実です。(市内は循環バスが整備され、市民の脚については対策が施されている様でした。ただ、路線が複雑すぎて余所者が乗るにはハードルが高いです。)

2025年6月23日 (月)

初夏の旅2025 ~和歌山市雑賀崎 6.5~

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和歌山市は戦災によって旧市街地はほぼ失われており、城下町散策が出来る様な町並みはありません。そこで昼から行けるところは無いかと探したところ、雑賀崎というところが人気上昇中だと知りました。読み方は「さいかざき」。観光案内所で「さいかみさき」と言ったら訂正されました。万葉集にも詠われた古くから知られた景勝地であると共に、東側は入り江になっていて港に適しており、漁業の盛んな地です。

戦国時代には雑賀孫市で知られる雑賀衆の根拠地であったとされます。その痕跡はほぼ残っていませんが、灯台の下は鷹の巣と呼ばれる崖で、石山合戦後に信長に追われた教如を隠したという洞窟があります。

漁港としての雑賀崎は江戸時代に発展し、最盛期には四千人が暮らす町になりました。今は人口が激減し千人程度の集落になりましたが、平地が無いため山の斜面に築かれた集落は健在で、その独特の景観がイタリアの景勝地アマルフィに似ていることから「日本のアマルフィ」と呼ばれ、最近注目を集める様になりました。

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漁港は集落の東側にあります。この位置に家が建てられたのは、海から帰って来る船を見守るためだったとも言われます。左の屋根のある部分が魚の競り場で、休日には市が立って賑わいます。ここを見て思い出したのですが、岸田前首相が襲われた場所だったのですね。この日はとても静かな日で、こんなところまで首相が遊説に来て、さらにあんな騒ぎがあったとは信じられない思いがしました。

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当初の予定ではバスで来て集落を歩き、またバスで帰る予定だったのですが、本数が一時間に一本しかなく、さらにどれくらい時間が掛かるか読めなかったので、津山の時と同じくレンタサイクルを借りて行く事にしました。距離にして片道9km弱、津山とほぼ同程度です。崎までは平坦な道なのですが、山の中に入るとかなりの坂と聞いていたので、電動アシスト自転車を借りることにしました。ただ、津山ではバッテリー切れに遭い、大変な思いをしたので大容量のバッテリー車があるかを確認し、100kmまでは保証しますとの事だったので、その点は安心でしたね。それに道は曲がり角を間違えなければ後は一直線なので、全く迷わずに済みました。

ただ、集落に自転車で入れる様な道は見つからず、この後灯台まで行く予定だったので集落の散策はあきらめ、先を急ぐ事にしました。この点が今でも心残りですね。

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崎に入ると坂道ばかり、電動アシストでなければ相当苦労した事でしょう。最初に訪れたのは番所公園。紀州藩が海の見張り場を置いた場所です。一時他の場所に移されていましたが、ペリー来航以後この場所に台場が建設され、海防の拠点となりました。現在は芝生が植えられた日本庭園として整備されており、バーベキューも出来る観光スポットになっています。

写真は万葉集にある歌「紀の国の 雑賀の浦に 出で見れば 海女の燈波の間ゆ見ゆ」を刻んだ石碑です。聖武天皇が御幸されたときに、お付きの藤原房前が雑賀の浦の漁り火を見て詠んだとされる歌で、ここが古代から知られた景勝地である証しですね。

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これがその雑賀の浦。思っていた以上に透明な海で、何とも美しかったですね。この写真では判りにくいですが、遠くに淡路島や友ヶ島が霞むようにして見えていました。ただ、和歌山港にある工業地帯がつや消しと言えばそうですね。今は漁り火の代わりに工場の夜景が輝いている事でしょう。それはそれで現代的な美しさかもしれません。

この下の岩場にも降りられるようになっていたのですが、鎖を伝って行かなければならず、歳を考えて無理はしないことにしました。また、プライペートビーチがあるとの事でしたが、行き方が判らず断念しました。せっかく海辺に来ながら水と戯れる事が出来なかったのは残念です。

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番所公園から見上げた雑賀崎灯台です。下から見ると結構遠くにあるように見え、あそこまで行くのかと思うとちっとげんなりしましたね。しかし、案ずるより産むが易しで、いざ上ってみると意外と近く、10分足らずでたどり着きました。電動アシスト自転車の有り難さが身にしみましたよ。普通の自転車だと確実に音を上げていたでしょうね。

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雑賀崎灯台です。説明板も読まずに上ったのですが、普通の灯台のように中の螺旋階段を上がるのではなく、外の階段を登っていくという展望台の様な構造でした。それもそのはず、最初に展望台の計画があり、灯台はその後に乗って来たのですね。何とも珍しい成り立ちです。

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その灯台からの眺めです。右下にさっきまで居た番所公園が見えています。その先にある島が大島、一番向こうが双子島です。

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はるか沖合にはタンカーが停泊していました。面白いシルエットと思い望遠で撮ってみました。

雑賀崎は昭和30年から40年代にかけてにもてはやされた和歌浦の一部で、奥和歌浦とも呼ばれます。和歌浦はまだ子供だった私でも知っていた観光地で、あまりにも開発が進みすぎて自然景観が残っているのは雑賀崎だけだそうですね。和歌浦は海水浴場として依然として人気があるそうですが、景勝地としては聞かなくなったのはそのせいなのでょう。雑賀崎はまだほとんど手つかずの地。アマルフィと呼ばれる景観と共に、素晴らしい自然と綺麗な海を何時までも守ってほしいと願っています。

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