旅行・地域

2024年7月 5日 (金)

岸和田市探訪2024 ~だんじり会館・紀州街道 6.27~ 

Kisiwada2407061

岸和田と言えばだんじり祭で有名ですが、同じ様な祭りは泉州一円で行われています。さらに目を広げれば近畿、中国、四国の各地方にもありますね。中でも岸和田が有名なのは、昭和47年にNHKの全国放送で紹介されたためで、一気に全国区になりました。岸和田の中でも地区によって三つの祭りがあり、9月に二カ所、10月に一カ所行われます。最も知られるのが北西部で行われるだんじり祭で、春木地区のだんじりと合わせて9月の敬老の日の前の日曜日を本宮とし、試験曳き、宵宮と合わせた三日間行われます。一般に岸和田だんじり祭として報道さけるのはこの祭りですね。

見物人はコロナ前は50万人を超えていましたが、二年間の中止の後は20万人台に止まっている様です。規制が緩和された今年は、また以前の様な活気が戻ってくるんじゃないかな。

岸和田だんじり祭の起原は城の三の丸にあった稲荷社に五穀豊穣を願って参拝したのが始まりで、当初はにわかや狂言を奉納していたそうですが、それがいつ今の形態になったのかは、調べた限りでは判りませんでした。

Kisiwada2407062

岸和田城の近くには、だんじり祭を紹介するだんじり会館があります。だんじりの実物の展示や法被、旗などが展示されており、特に三階には大屋根が置かれていて、実際に乗る事が出来ます。どうぞと勧められるままに乗ってみましたが、丸くなっていて何とも不安定なものですね。屋根の上に乗る人を大工方と言い、疾走するだんじりの上で飛んだり跳ねたりしますが、とてもじゃないけど真似は出来ません。立っているだけでも無理ですね。大工方を務める人は本当に凄いと思います。

だんじりは総檜造りで、見事な細工が施されています。これを大勢の曳き手が全力で曳き回す訳ですが、ミニシアターでその様子を見る事が出来ます。狭い道をだんじりが疾走していくのですが、まあ凄い迫力ですね。人気が出るのもうなずけるというものです。

Kisiwada2407063

岸和田が舞台となった連続テレビ小説がカーネーション。主人公は幼い頃からだんじりを見て育ち、いつかは大工方になりたいと夢を描きますが、大人の女性がだんじりに乗る事は許されず、夢は挫かれました。主人公はだんじりをミシンに変え、これを駆使して行く事でファツション界のリーダーとなり、後のコシノ三姉妹を育て上げます。主役を務めたのは尾野真千子さん、晩年は夏木マリさんでしたね。ミシンをだんじりに見立て、その上で大工方を務める尾野さんの姿が印象的でした。

Kisiwada2407065

岸和田は早くから開発が進み、城下町の面影はあまり残っていません。唯一名残を止めているのが紀州街道沿いで、ここには江戸時代からの町家や寺院が残っています。こうした昔ながらの道が残っていたのは嬉しかったですね。だんじり祭りの時にはここもだんじりが疾走する訳ですが、城下町らしく真っ直ぐな道ではなくところどころで曲がっており、そこを通る様はさぞかし見応えがあるでしょうね。

Kisiwada2407066

とにかく激しい祭りですから毎年のようにけが人が出ており、ニュースでよく流れます。それでも中止の声が出ないのは、それ程地元で愛されているという事でしょう。動画でしか見たことはありませんが、熱狂するのは良く判りますね。事故は無いに越したことはありせんが、末永く続いてほしい祭りだと思います。出来れば他の地域の祭りも取り上げてほしいですね。きっと岸和田に負けない熱気を持っている事でしょう。泉州の祭りが盛り上がるのはとても素敵なことだと思います。

2024年7月 4日 (木)

続100名城探訪2024 ~岸和田城 6.27~ 

Kisiwadajo2407051

続百名城探訪、今回は岸和田城を訪れました。岸和田城のある岸和田市は大阪府の南西部、いわゆる泉州に属する街です。大阪湾から和泉山脈に至る細長い市域を持ち、臨海部に工業地帯がある一方、丘陵部では農業も盛んで、山間部には豊かな自然も有しています。交通は至便で、鉄道では南海本線、JR阪和線が通り、道路では阪和道路、第2阪和道路、外環環状線、阪神高速道路湾岸線などがあり、非常に都市化が進んでいますね。私的には長年大阪に住んでいますが、通過したことはあっても街中を探訪するのは初めてで、どんな町が楽しみにして来ました。

Kisiwadajo2407052

岸和田の始まりについて少し調べたのですが、Wikipediaには、南北朝時代に存在した楠木正成配下の岸和田治氏という武将がこのあたりを開拓したのではないかとあります。ただし、この時には城は無く、15世紀後半に岸和田古城が築かれたと記されていますね。

一方で岸和田に伝わる伝承では、建武元年(1334年)に岸と呼ばれていたこの地に、やはり正茂の家臣和田髙家が代官として派遣されて照日山に要塞を築き、岸の和田、つまり岸和田と呼ばれる様になったとされます。

さらに別の説として、1378年頃にこの地の守護であった山名氏の家臣、信濃康義が岸和田城を築き、和田氏を名乗ったともあります。

諸説ありすぎてどれが正しいのか判りかねますが、平成18年に実施された発掘調査によれば、岸和田古城の築城は15世紀後半と判明したとの事ですから、Wikipediaの記述が正しいのかなという気はしますね。

Kisiwadajo2407053

その後、戦国期には細川氏、三好氏、織田氏と城主は入れ替わり、信長亡き後は豊臣秀吉の支配するところとなって、紀州攻めの拠点として中村一氏を入れました。

この一氏の時代に根来衆、雑賀衆らの軍勢三万が襲来し、八千で守っていた一氏は苦戦しますが、蛸に乗った法師が現れて紀州勢をなぎ倒し、窮地を救いました。そして態勢を立て直した紀州勢が再度押し寄せると今度は海から無数の蛸が現れ、紀州勢を追い返したと伝えられます。その後一氏の夢枕に蛸法師が現れ、我は地蔵菩薩の化身であると告げたため、一氏は堀に埋まっていた地蔵菩薩像を掘りだし、天性寺に祀りました。これが蛸地蔵伝説で、岸和田では古くから伝わっている説話の様ですね。現在の南海電車にも蛸地蔵という駅があり、今も市民に親しまれている事が伺えます。

岸和田城を近代城郭にしたのは秀吉の伯父にあたる小出秀政で、五層の天守を持つ本格的な城に改築しました。そして大坂夏の陣の後、1619年に松平康重が城主となり、城と城下を拡幅し、三重の堀を持つ総構えの城として完成させます。ちなみにこの康重公、どこかで聞いたと思ったら、篠山城を築いた人でもあったのですね。

1631年になると高槻城から岡部宣勝が入り、以後岸和田藩六万石(後五万三千石)として明治維新まで続く事になります。

Kisiwadajo2407055

明治以後、岸和田城は廃城となり、堀と石垣以外は全て破却されました。再建されたのは戦後の事で、まず昭和28年に重森三玲氏によって枯山水庭園、八陣の庭が整備されます。この庭は平面上で見ていると全容が判らないのですが、天守に登って上から見るとその独特の造形を見て取る事が出来るようになっています。この八陣とは諸葛孔明の八陣法をイメージしたものだそうで、平成26年に国の名勝に指定されました。

翌昭和29年には現在の天守が復興されていますが、なぜか本来の五層ではなく三層とされており、このあたりの経緯は謎ですね。昭和44年には多門櫓、櫓門などが復興され、平成4年には天守の屋根の葺き替え、外壁の塗り替えが行われて現在に至っています。

Kisiwadajo2407056

今の天守は耐震基準を満たしていない事が判っており、令和12年度を目指してリニューアル計画が進められています。耐震化のほかバリアフリー化のためにエレベーターの設置が計画されていますが、天守の中は意外と狭く、展示スペースが少なくなります。このため、現在の展示品の多くは観光交流センターなどに移設する事を考えている様ですね。他にも石垣の保全など課題は多いようですが、未来への遺産の継承として是非実現して下さい。

なお拝観料は300円と格安で、だんじり会館、きしわだ自然資料館との3館共通券なら700円となります。

2024年6月17日 (月)

丹波紀行2024 ~福知山市 4.10~

Fukuchiyama2405271

丹波篠山から福知山線に乗り、福知山へと向かいました。篠山口を出るとすぐに車窓が山里に変わります。まだ大阪の近辺にこんな所があったんだと思うくらい新鮮な景色でしたね。手入れの行き届いた田畑に山林、古びてはいるけれど整った家並みや小径、絵に描いた様な日本の山里です。途中いくつか川がありましたが、大抵の堤防上に桜並木が整備されており、それがことごとく満開、実に見事でした。とある村はずれの辻に咲く一本桜は、あたかも一幅の絵のようです。また駅を通過するごとに光がぱっと輝きを増します。駅の周囲が桜で覆われているのですね。丹波の里は産物の豊かさで知られますが、景色もこれほど美しいとは驚きの連続でした。

Fukuchiyama2405272

これも里人が何代にも渡って営々と里を護ってこられたからだこそでしょう。一足飛びにこんなに豊かな山里は出来ません。大げさでは無く、これはとても貴重な財産、宝物だと思いました。

でも、いつまでここが保つのだろうと不安にもなりました。消滅可能性自治体にこそ入っていませんが、丹波篠山市の人口はずっと減少傾向にあって、現状で四万人を切っており、2060年には二万人程度にまで減少すると予測されています。高齢化率も50%近くになるとか。都心部を含めてこれですから、山間部はどうなってしまうのでしょうね。住む人が居なくなれば田畑が野に帰り、山は荒れ果ててしまいます。貯水機能は失われて雨が降る度に川が暴れて洪水となり、下流の町もただでは済まないでしょう。山里の豊かな恵みと美しい風景、伝承されてきた数々の文化を失い、都会の住民は自然の脅威に晒されながら暮らす、そんな未来は来てほしくないですね。でも今のうちになんとか対策しないと、取り返しが付かない事になってしまいそうです。

Fukuchiyama2405273

そんな事を考えていると、やがて福知山に着きました。今では京都府と兵庫県に分かれていますが、元はと言えば篠山と一続きの丹波国でした。福知山はその丹波の中央部に位置し、古くから交通の要衝として栄えてきました。城下町としての基礎を造ったのは明智光秀、1579年に丹波平定に成功し、その押さえとして福智山城を築きました。城は上の復元模型を見て判るとおり、福知山盆地の中に突き出た台地の上にあって、本丸と二の丸が同じ台地上に置かれました。

実際にこの城に入ったのは光秀の娘婿である明智秀満でしたが、三年後に起こった山崎の戦いで光秀が豊臣秀吉に敗れて明智氏が滅びると、秀吉の養子であった羽柴秀勝が城主となります。さらに城主は何代か代わり、関ヶ原の戦いの後は有馬豊氏が城に入って、近世城郭としての福知山城と城下町を形成しました。最終的には複数の郭と城下町を三重の堀で囲った総構えの城となっています。

福知山城主はその後も変遷を重ね、1669年に朽木氏が入部し、幕末まで続く事になります。

Fukuchiyama2405275

福知山城で面白いのは将棋の竜王戦の舞台となっている事で、2018年と2022年の二度行われています。現代のお城将棋として話題を集めましたね。対局の間は上の写真の様に保存されており、誰でも自由に入れて対局者の気分を味わう事が出来ます。でも天守の中は思っていたよりも狭くて、対局者や立会人の控え室はどうしていたのかなとちょっと不思議でしたね。

Fukuchiyama2405276

明治に入ると福知山城は廃城となり、いくつかの城門が寺に転用された他は徹底的に破壊されました。この写真は天守から西を眺めたところですが、一番右にあるのが福知山市役所、その左にある小高い丘が二の丸跡です。天守からこの丘までは一続きだったのですが、町の発展と共に掘り崩されて原型は止めていません。

本丸と天守台はわずかに残されており、古図を頼りに復原されたのが現在ある天守です。昭和61年の事で、瓦一枚運動という市民から寄付を募ることで資金が捻出されました。コンクリート造りですから外観復原天守と言うのが正しいのかな。でも外観は木造の様に見える巧妙な仕事がしてあります。

この天守は古図だけからの復原だったのでどこまで正しいか疑問視する声もあったのですが、近年古写真が見つかりほぼ原型に近い形だと判かりました。未来に誇れる事業だった事が証明された訳で、何よりの結果ですね。

Fukuchiyama2405277

二の丸跡の丘から眺めた福知山城です。お城の受付の人に写真スポットとして聞いて来たのですが、実際に来てみると入り口が判らなくて困ってしまいました。たまたま近くに市の職員の方がおられたので聞いてみたところ、市役所の裏から登れると教えてくださり助かりました。ところがいざ登ってみると、背丈より高いフェンスで囲われているのですね。仕方が無いので両手を伸ばしてカメラをうんと上げてモニターを見ながら撮ったのですが、なかなか水平が出せなくて手こずりました。何回かトライし直してやっと撮れたのがこの写真です。

この反対側から撮った写真が城のホームページに使われているのですが、どこにそんなスポットがあるのかな。

Fukuchiyama2405278

昼食は福知山で食べる事にしていました。いろいろ探したのですが決め手が無く、ふと思いついたのが竜王戦の勝負飯、藤井竜王にあやかろうと思ってやって来たのが柳町という料亭です。

Fukuchiyama24052710

柳町は結構な人気店、平日でもあらかじめ確かめた方が良いよと観光案内所で聞いていたので、だめ元で電話してみると一席だけ空いているとの事。急いで店に来てみると入り口に本日は予約で満席とありました。いやラッキーでしたね。案内所の方、ナイスアシストでした。

頂いたのは京地鶏の親子どんぶり。藤井竜王は二日目の昼に食べたのだったかな。藤井竜王の勝負飯はとても話題になるので、対局を開催する地元でも力を入れており、毎回名店揃いのメニューが用意されます。これはその中の一つですから美味しいに決まっています。実際とても濃厚な味わいで、選んで正解でした。

Fukuchiyama24052711

福知山にはあまり城下町らしい町並みは残っていません。わずかに柳町のある京街道跡に面影がある程度かな。明治以降、積極的に再開発が行われたのでしょうね。その代わり、広小路、新町など昭和レトロを感じさせる商店街がいくつかあって、懐かしい気分にさせてくれます。ご多分に漏れず、郊外のショッピングセンターに押されてシャッターが目立つようになっていますけどね、まだ健在な店もあってかつての賑わいを感じる事は出来ます。

その一つ、広小路はかつて大火があったとき火除地として広げられた道で、その名の通り広々として気持ちの良い道でした。途中にSLがあったのには驚きましたけどね。その広小路の突き当たりにあるのが御霊神社、明智光秀を祀る神社です。元は稲荷社だったのですが、光秀を名君として慕う領民達の願いにより神として合祀され、名も御霊神社と改めたとの事です。江戸期を通じて謀反人として忌み嫌われた光秀ですが、この町では評価が180度違います。世間の評判が当てにならないのは、近江八幡における秀次に通じるところがありますね。

この神社の前が公園になっているのですが、そこに浸水水位を示す標識がありました。見上げる様な高さで、町中がことごとく湖になったんじゃないかと思える程の水深でした。市内を流れる由良川が氾濫したためで、福知山は水害に苦しみ続けてきているのですね。由良川はやっかいな川で、福知山のあたりは平地ですが、下流に行くと山間部になり、川幅が狭くなるのです。このため、大水が出ると下流でせき止められる形となり、福知山で氾濫してしまうのですね。光秀が名君とされるのは、この由良川の治水に正面から取り組んで成果を上げたためであり、今でも明智藪という光秀が築いた堤防が残っています。治水が進んだ現在でも水害とは無縁ではなく、数年に一度は被害がある様ですね。御霊神社には日本で唯一という堤防神社があり、この町が如何に水害と闘ってきたかが偲ばれます。

Fukuchiyama24052712

福知山は平成の大合併によって市域が広くなっており、かつての大江町なども含まれます。ですので観光名所はまだまだあるのですが、公共交通機関を使って廻るのはかなり無理があり、やっぱり自家用車で訪れるのが現実的かな。あるいは観光タクシーを使うかですね。城下町を廻るだけなら徒歩圏内ですので、電車で来て半日あれば十分です。電車は京都方面に向かう山陰線が一時間に二本程度で、うち一本が特急です。大阪に向かう福知山線も同様ですね。ややこしいのが京都方面として東舞鶴行きの電車が表示されていることで、時刻表だけ見ていると間違えるので注意が必要です。

駆け足の丹波路でしたが、好天に恵まれ、桜も満開で楽しませて貰いました。何人もの人に親切にして頂いたのも嬉しかったですね。今度はどちらか一方に絞って、食べ歩きでもしてみようかな。秋の丹波路も良さそうです。

2024年6月16日 (日)

丹波紀行2024 ~丹波篠山市 篠山城跡~

Sasayamajo2405261

篠山城跡は町の中心部にあり、河原町からも御徒町からも歩いてすぐのところにあります。ここに来る前に兵庫県屈指の桜の名所と聞いていたのですが、実際に来てみて驚きました。御徒町から河原町までは南の堀端を歩いたのですが、見事な桜のトンネルでした。そして北側に目を向けると、石垣のそこかしこで桜が咲いています。兵庫県屈指という表現は伊達ではなかったですね。

Sasayamajo2405262

篠山城が築かれたのは1608年の事、徳川家康の命により八上城主であった松平康重が築きました。縄張りを行ったのは東堂高虎、普請に当たったのは十五カ国二十大名で、いわゆる天下普請です。目的は豊臣氏の大坂城包囲のため、及び西国諸大名に対する備えとしてでした。築城に掛かったのはわずかに六ヶ月ですが、二重の堀と三つの馬出を持ち、総石垣造りの非常に堅固な城でした。外堀沿いには土塀と隅櫓、内堀上には多門櫓を廻らせ、各虎口は枡形で固めたまさに鉄壁の構えだった様ですね。写真の正面に見えるのが天守台ですが、ここに天守が築かれる事はありませんでした。これはあまりに堅固に造りすぎたために、幕府から天守は建てるなと止められたとからと伝わります。あるいは天守は大砲の目標になるだけで無用の長物だと家康が言ったからだとも、実は名古屋城の建設のために人手を取られたからだとも言われます。

Sasayamajo2405263

篠山城は第八代まで三家の松平氏が入れ替わり、九代目からは青山氏の居城となっています。石高は最初は五万石、後に六万石に加増されました。明治に入ると廃城となり、施設のほとんどは破却されました。唯一二の丸の大書院だけが解体に多額の費用が掛かるために放置され、これを旧藩士の一人が入手し保存される事となります。その後は大書院は小学校から公民館として活用され、二の丸御殿跡には女学校が建てられました。そして本丸には青山氏の祖先を祀る青山神社、三の丸は小学校や中学校、幼稚園、農学校などが建てられた様です。

Sasayamajo2405265

この石碑には農学校発祥の地とありますね。現在の三の丸には篠山小学校が残るだけで、他の幼稚園などは城外に移され、多目的広場や駐車場として整備されています。それにしても石垣に桜は良く似合います。こんな景色がそこかしこにある訳で、名所と称えられるだけのことはありますね。

Sasayamajo2405266

唯一遺構として残っていた大書院ですが、残念ながら昭和19年に焼失してしまいます。平成12年に至り、市民の寄付によって創建当時の姿で再建されました。内部を見学する事も出来、忠実に再現された上段の間など見応えがありますよ。その手前が二の丸御殿があった場所で、平面的に再現されています。

Sasayamajo2405267

ここが現在青山神社となっている本丸跡です。創建当時は石垣の上に多門櫓が廻らされていましたが、内部には何も無かった様ですね。本来は天守を護る郭だったのですが、天守が建てられなかったため、無用の区画になってしまったのかな。

Sasayamajo2405268

これは天守台からの眺望です。城下町や遠く丹波の山並みが見渡せる素敵な景色ですね。江戸時代には天守の代わりに平屋の櫓があったとの事です。

Sasayamajo24052610

この日は篠山の代表的な三つの名所を訪れただけですが、城下町だけなら徒歩で廻れる範囲であり、見るだけなら半日掛かりません。ショッピングやグルメ、歴史館などを楽しんでも一日掛からないかな。ただ、公共交通機関を使う場合はバスと電車の時間に制約があるので、注意が必要です。実はこの日はスマホのアプリでダイヤを確認していたのですが、なぜか電車の時間が違っており、数分の差で乗り遅れてしまいました。アプリの情報が古かったのかな。おかげで次の電車まで一時間待つ羽目になり、そんなに待っていられるかと特急に乗ってしまいました。あれは余計な出費だったなあ。

自家用車ならそんな心配は無く、周辺の名所もドライブがてら楽しめるのでお勧めですね。

2024年6月15日 (土)

丹波紀行2024 ~丹波篠山市 河原町妻入商家群 4.10~

Kawaramachi2405251

御徒町武家屋敷群からお城の堀端を歩く事10分程、河原町妻入商家群の入り口に着きました。ここから600m程の長さで、江戸時代さながらの町並みが続きます。

Kawaramachi2405252

妻入とは屋根の端側に入り口があるという意味です。この通りの商家の多くは家の端を通りに面して建ててあるのですね。これは京都の鰻の寝床と同じく、家の間口の大きさで税金が決まったため、家を横向きに建てる事により間口を狭くしているのです。そのぶん奥行きは長くして、居住空間を取っているのですね。その結果、この独特の景観が形作られました。

Kawaramachi2405253

これだけの商家が栄えたのは、篠山が西丹波の中心であった事、京都や大阪に通じる交通の要衝であった事などに依るものと思われます。塗り籠めの壁などを見ていると、相当に豊かな町だった事を伺わせますね。

Kawaramachi2405255

この町並みが今でも残っているのは、上級武士たちが東京に去って行った後、空き地となった城北の武家屋敷街が開発の対象となり、河原町や御徒町は手が付けられなかったからなのだとか。もう一つは町の中心に鉄道の駅が無かった事により町自体の発達が阻害されたためですが、よく聞くのが篠山の人たちが城下町の静謐を破る鉄道の建設に反対した結果だという説です。しかし実態は逆で、町の多くの人は鉄道が町に来るのを切望していたのだそうです。ところが明治時代に二つあった篠山への鉄道計画のうち、一つは駅の予定地の地権者が反対した事により挫折し今の篠山口駅に変更、もう一つの計画は資金の不足により立ち消えになってしまいました。それでも篠山の人たちは鉄道をあきらめず、大正時代になって篠山口から街中へと繋がる篠山軽便鉄道が敷設されたのですが、それも昭和19年に廃止になり、とうとう鉄道の無い町となってしまったのでした。こうして戦後の高度成長期にも取り残される事となり、大きな発展も無い代わりに古い町並みが残されたのですが、今となっては貴重な文化財、そして観光資源となっているのですから何が幸いするか判りませんね。

Kawaramachi2405256

このようにとても綺麗に保存されている町並みですが、実際に住んでいる人は少なくなっている様ですね。大洲でも見ましたが、一棟貸しのホテルになっている家が結構あり、元から居る人は減っている様子です。またカフェや土産物店に改装されている家も多く、それが観光客を引き寄せる要因にもなっているのでしょう。この時は平日の早朝だったので開いている店はほぼありませんでしたが、土日や休日はこの通りも結構賑わう様です。

次は篠山の中心、篠山城へと向かいます。

2024年6月14日 (金)

丹波紀行2024 ~丹波篠山市 御徒町武家屋敷群 4.10~

Okachimachi2405241

かなりアップが遅れましたが、4月に丹波地方を日帰りで旅行して来たので、その様子をお届けします。まず訪れたのは丹波篠山市。大阪側から丹波地方への入り口にあたる町です。

Okachimachi2405242

大阪からは快速電車に乗れば一時間と少し、最近は観光スポットとして人気を集めている所です。ただ行く前に調べて判ったのですが、JRの丹波篠山口から旧市街まではかなり離れているのですね。バスに乗って篠山本町まで約20分、歩くには遠すぎます。それに大阪から篠山口まで行く普通列車が一時間に一本程度しかありません。公共交通機関で行くにはかなり不便ですね。なので、自家用車がある方は、車で行った方がずっと自由が効きます。

Okachimachi2405243

丁度桜の季節だったので混雑するのは避けて早朝に行ったのですが、大阪から出て行く列車なのに意外と混んでいました。尼崎を過ぎれば空くだろうと思っていたのですが、三田まで満席で、通路に立っている人も結構居ましたね。三田って大阪のベッドタウンだと思っていたのですが、大阪から通勤する人が結構居るんだと認識を新たにしたところです。

Okachimachi2405245

篠山でまず訪れたのは御徒町武家屋敷群です。御徒とは馬に乗らずに戦う武士の事で、平たく言えば下級士族ですね。上級士族の屋敷は城の北側にあり、廃藩置県の時に藩主に従って東京へ移住したのだそうです。しかし、御徒の人たちの多くは篠山に残る事を選択したため、武家屋敷群はそのまま残る事となりました。ご覧のように土塀と茅葺きの屋根が特徴的で、街灯が無ければ江戸時代そのものという佇まいでした。金沢の武家屋敷街とはまた違った趣ですが、早朝という事もあってか誰も居らず、とても静かだったのは良かったです。

家が側溝から離れていて道が広く見えるのも特徴的ですが、これは1830年に大火があり、再建するにあたって火除地を確保するために後ろに引いて建てたからとの事です。

Okachimachi2405246

それにしても我ながら情けないのですが、あらかじめ観光地図をダウンードし、予習もしていたのですが、バスを降りた途端方向を見失ってしまいました。バス停のすぐ前が武家屋敷群だと思っていたのですが、ごく普通の町並みなのですね。いきなりどうしようと困ってしまったのですが、丁度すぐ側のお寺の人が掃除をされていたため、もう少し奥の方だと教えて貰う事が出来ました。以前だと時刻表とガイドブックがあればどこへ行っても迷うことは無かったのですけどね、今はスマホ一つで何でも出来るのに返って判らなくなる事が増えました。デジタルに頼りすぎかな。でも、親切に教えて貰って助かりました。ここからお城の南側を通って河原町妻入商家群を目指す事にします。

2024年5月26日 (日)

北陸旅行2024 ~福井 丸岡城・福井城 4.1~

Fukuieki2405071

北陸旅行の二日目は福井に立ち寄りました。福井に来るのは40数年ぶりになりますね。久しぶりに見た福井駅は大きく変わっていました。新幹線の開通に会わせたのかな、超近代的なビルになり、駅前には沢山の恐竜が居ました。この恐竜がまた動くのですね。メンテナンスが大変だと思うのですが、この先ちゃんと管理されていくのかしらん。

Fukuieki2405072

これが3月に開通した北陸新幹線のホームと車両です。金沢からは35分、あっという間でしたね。半世紀前に金沢を訪れたときは帰りが夜行となり、福井までは一時間くらいだったかな。その間、車窓の景色が真っ暗になり、何も見えなかったのを覚えています。本当に灯りの一つも無く、全くの闇の中でした。こんな事は初めてで、車内は明るかったにも係わらず、とても怖くて不安でした。今となっては笑い話ですが、貴重な経験でしたね。

Maruokajo2405071

福井で途中下車したのは百名城の一つ、丸岡城を訪れるためでした。丸岡城へのアクセスを色々調べたのですが、福井駅からバスに乗るのが一番簡単と判り、新幹線とバスの時刻表を調べてどの列車に乗るのかを決めてやって来ました。全ては予定通りだったのですが、思わぬアクシデントが待ち受けていました。丸岡城行きのはずが、終点までは行かないと言うのですね。よく聞いてみると丸岡城で桜祭りが開かれており、バスは入っていけないとの事でした。後で判ったのですが、丸岡城のバス停は城前のロータリーの中にあり、そのロータリーを含めて祭りの会場となっていたのですね。

Maruokajo2405072

乗ってしまったものはどうしようもなく、手前の丸岡バスターミナルで下ろされてしまいました。そこから城までは1.5kほど、歩くかタクシーですが、タクシー乗り場はあるけれど車の姿はありません。どうしたものかと途方に暮れていると、タクシーを呼ぶなら案内所に専用電話があるよと教えてくれる人が居ました。いや、親切な人は居るものです。窮すれば通ずとはこのことですね。お陰様で無事にタクシーに乗れて、城までたどり着く事が出来ました。

Maruokajo2405073

丸岡城を築いたのは柴田勝豊、柴田勝家の甥ですね。1576年の事で、福井平野の中に独立する小高い丘の上に築かれた平山城です。近世に山麓部分が増築され、五角形の堀に囲まれた姿となりました。天守は現存十二天守の一つで、現地に残る唯一の遺構です。望楼式という古い形式や、通し柱が無く一階の多数の柱が上部を支えるという構造などから、以前は築城当時のものと考えられていて、日本最古の天守とされていました。しかし、平成31年に至り、柱材の調査などから1624年以降の寛永年間の建造と判明し、日本最古の座は犬山城に明け渡す事になりました。

Maruokajo2405075

日本の城としては新しい部類に入るのに、古い形式になっているのは不思議ですよね。今の天守を築いたのは本多成重の時代と考えられるのですが、成重はこの地を平定した柴田勝家の由緒を尊重し、その功績を顕彰するために勝家の居城であった福井城を模して、あえて望楼式としたのではないかというのが一つの説です。あくまで推測で、これが真実かどうかは判りませんけどね。

Maruokajo2405076  

丸岡城は明治以後廃城となり、ほとんどの施設は用材として売り払われ、天守も売却される運命にありました。しかし、地元から地域の象徴である天守の保存運動が起こり、破却を免れます。その後は寺として使用され、さらには町の公会堂になったりしましたが、昭和9年に国宝に指定され、その条件として補修が求められました。補修には莫大な資金が必要とされましたが、地元出身の実業家などから寄付が寄せられて昭和17年に作業が完了し、創建当初の姿を取り戻します。ところが昭和23年に福井地方を襲った福井大地震により倒壊してしまい、修復からわずか6年で瓦礫と化してしまいました。あまりの惨状に再建は無理と思われましたが、地元の熱心な運動により町が再建に着手、全国から寄付を募るなど資金集めに奔走し、昭和30年に再建に成功しました。この再建にあたっては70%が元の用材を使用し、先の修復時の資料を生かして元通りの姿とする事が出来ています。

現在の丸岡城は住宅や水田に囲まれた丘の上に天守があるだけですが、坂井市では城の復元計画を策定しており、今後内堀の再生や城門、櫓の再建、さらには城下町らしい町並みの整備などを目指すとしています。完了は2070年の予定という先の長い計画ですが、是非実現させて欲しい事業ですね。

Fukuijo2405071

丸岡城から福井駅に帰ってきました。予定では帰りの新幹線の時間まで二時間以上あり、余裕で福井城に行くことが出来るはずでしたが、バスターミナルまでの移動などに手間取り、二本後のバスになった事から一時間程しか時間が無くなりました。食事の時間を考えると20分程しか時間が取れません。

Fukuijo2405072_20240429063701

福井駅から福井城まではごく近く、歩いて5~6分程度なのですが、ゆっくり見ている暇はありません。福井城は現在県庁となっており、堀や石垣が残っているほか一部が再現されているのですが、続百名城のスタンプをもらうのが精一杯で、見て回る事が出来なかったのは残念です。

帰りは北陸新幹線とサンダーバードを乗り継いで来たのですが、危惧していた敦賀駅での乗り換えもスムーズに行き、無事に旅行を終える事が出来ました。ホテルの予約の手違いなどちょっとしたハプニングはありましたが、様々な人に助けられて楽しい旅となりました。いつか能登地方が復興したら、次は和倉温泉などに行きたいですね。北陸は歴史と文化に富み、食事も美味しい良い所です。

2024年5月25日 (土)

北陸旅行2024 ~金沢 金沢城・金箔体験 3.31~

Kanazawajo2405061

近江町市場から金沢城までは歩いて五分程。ただ入り口までは近かったのですが、思っていた以上に中は広く、結構歩く事になりました。

金沢城の前身は浄土真宗の寺、尾山御坊であり、一国を支配した加賀一向一揆の拠点でした。寺とは言っても石垣を廻らせた要塞で、織田信長に十一年間抵抗した大阪の石山本願寺に似た堅固な造りだった様ですね。尾山御坊は1580年に信長によって攻略され、一揆の鎮圧に功のあった佐久間盛政が跡地に入り、金沢城を築きました。しかし盛政は3年後の賊ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れ、金沢城は前田利家に与えられます。利家は1592年から本格的な城の改修を始め、五層六階の天守を持つ近代的な城に作り替えました。その後は加賀百万石の城として代々受け継がれていきますが、江戸期を通じて幾度となく大火に見舞われており、その都度再建されています。ただ、天守は1602年に焼失して以来、再建される事はありませんでした。

Kanazawajo2405062

城に入ったのは黒門口からで、すぐに広大な新丸広場に出ました。ここは築城当時は重臣の屋敷や藩の役所が立ち並ぶところであり、その屋敷群は城の防御施設も兼ねていたそうですね。しかし、時代が進むと共に重臣が増えて手狭になり、屋敷と役所は全て城外に移され、跡地には武具の修理、製造を行う細工所が建てられました。その細工所も1759年の大火で焼け落ち、その後は再建される事は無かったとの事です。現在は芝生の広場として整備されており、西側の一角では早咲きの桜(コシノヒガンザクラ)が咲いていました。

Kanazawajo2405063

金沢城は明治以後は陸軍省の管轄する所となり城の破却は免れたのですが、明治14年に火災に遭い石川門など一部の施設を残して全焼してしまいます。戦後は金沢大学が置かれ、長くキャンパスとして使用されました。城の中にある大学というのは世界的に見ても珍しかったそうですね。昭和53年になると金沢大学の移転が決定され、平成7年に全ての施設が城外へと移されました。そして城は国から石川県へと移譲され、翌年から金沢城公園としての整備が開始されます。

写真は右側が菱櫓、左側が橋爪門続櫓、間を繋ぐのが五十間長屋で、平成13年に木を使った伝統工法で史実どおりに再建されたものです。そう聞くと身体の不自由な方は近寄りがたい感じがしますが、ここはちゃんとバリアフリーが完備されており、足の悪い方でも内部に入って櫓の上部に上がれる様エレベーターが設置されていました。本来吹き抜けの場所を活用したのですね。史実には無い設備ですが、この事でこの城の値打ちが落ちるわけでは無く、むしろ史実に沿った再建をしながら福祉を両立させたという意味で高く評価されるべきでしょう。金沢の象徴として長く輝き続けるでしょうね。

Kanazawajo2405065

これは同じく平成13年に復原された橋爪門一の門です。平成27年にはこの奥にある二の門が復原され、枡形が蘇りました。この門を潜っていくと二の丸に出る事が出来、そこでは二の丸御殿の復原に向けた作業が行われています。本丸はそのさらに奥にあり、大学があった頃は植物園が設置されていたため、今でも鬱蒼とした森となっています。

Kanazawajo2405066

金沢城で焼失を免れた数少ない遺構の一つがこの石川門。一の門と二の門、続櫓、石川櫓からなる枡形です。かつては観光客が見る事が出来る唯一の建物で、金沢城の象徴的な存在でした。そのせいでここが表門と思われがちですが実は裏門で、大手門はこの反対側にありました。

金沢城内には玉泉院丸庭園という池泉回遊式の庭園があり、石を縦に積んだ色紙短冊積石垣などの見所があるのですが、1月の地震によって石垣の一部が壊れたため、立ち入る事が出来ませんでした。楽しみにしていたところだけに残念です。いつかまた見に来られると良いのですけどね。

Kinpaku2405061

金沢城の後は兼六園に寄るのが順序ですが、混んでいたのと過去に二度来ているので今回はスルーする事にしました。その兼六園の入り口で売っていたのがこの金箔ソフトクリームです。巻いてあるのは本物の金箔で、このまま食べる事が出来ます。もっとも金箔に味は無く、見た目を楽しむものですね。

Kinpaku2405062

兼六園の前の坂を下っていったところに石川県観光物産館があります。ここに来たのは金箔体験をするためで、せっかく金沢に来たのだからここならではの事をしたいと思い、試してみる事にしました。

まずは絵柄を決め、お皿の上に型紙を置き、型抜きの要領で絵の部分を剥がします。そして専用の接着剤を塗り、型紙の上から金箔を貼って、丁寧にこすりつけます。

Kinpaku2405063

暫く置いて、接着剤が乾いたら型紙を外して出来上がり。これが最終形ですが、途中の難しいところは担当の方がやってくれるので、大過なく仕上げる事が出来ました。子供の工作の様でしたが、なかなか楽しめましたし、良い記念品になりました。

この後ホテルに向かったのですが、そこでは給水車が駐まっていました。ナンバーを見ると奈良とあります。おそらく奈良市から応援に来ているのでしょうね。こんな具合に各自治体、国の機関から石川県に応援が来ています。目立つことの無い地道な作業ですが、慣れない土地で頑張っている人たちが居ます。ほとんど報道される事はありませんが、そんな人たちの事も知らせてあげてほしいなと思った次第です。

2024年5月24日 (金)

北陸の旅2024 ~金沢 卯辰山山麓寺院群・尾山神社・長町武家屋敷跡界隈・卯辰山・近江町市場 3.31~

Myourituji2405051

西茶屋町の東側に寺院街があります。多くの城下町に見られる様に城の防御拠点として寺が集められた場所で、いざと言うときには砦として機能することが期待されていました。その中に隠し階段や落とし穴、金沢城への抜け道があったという井戸など様々な仕掛けを持った妙立寺があります。通称忍者寺。時間の関係で拝観はしませんでしたが、次に機会があれば見に行きたいですね。今回は綺麗な枝垂れ桜が咲いていたので、本堂前で写真だけ撮らせてもらいました。

Onoejinja2405051

妙立寺から中心部に戻って尾山神社に来ました。ここで見たかったのがこの神門。明治8年の建築で、一見石造りの様に見えますが、主な躯体は木造なのだとか。伝統的な楼門にしなかったのは明治という時代を反映しているのでしょうか。三層目には色ガラスがはめられており、かつてはここに灯りが灯され、灯台の役目を果たしていたとの事。屋根の上にある避雷針は現存する中では日本最古のものです。

Onoejinja2405052

尾山神社は藩祖の前田利家公を御祭神としています。ただ創建当初は徳川幕府をはばかり、物部八幡宮と榊葉神明宮を遷座するという名目で卯辰山山麓に卯辰八幡宮を建て、利家公を合祀しました。この神社は幕末まで続き、今もひがし茶屋街の奥に宇多須神社として残っています。

Onoejinja2405053

明治に入り金沢藩は無くなりますが、元藩士たちは利家公を慕い、新たに現在地に尾山神社を建てました。もはや幕府の目をはばかる必要も無く、堂々と利家公を御祭神とする事が出来たのですね。境内には若き頃、織田信長の母衣衆として活躍していた頃の利家の銅像が建っています。

Onoejinja2405055

平成10年には妻のお松の方も合祀されました。これはお松の方の石のレリーフ。利家公に比べると扱いが小さいですね。これって当初は御祭神でなかったからなのかな。

Nagamachi2405051

尾山神社から少し西にある長町武家屋敷跡界隈に来ました。ここは金沢藩の上・中級藩士たちが暮らした町です。

Nagamachi2405052

ここには土塀や長屋門、昔ながらの武家屋敷が残っており、石畳の道もあいまって江戸時代にタイムスリップした様な風情を感じる事が出来ます。

Nagamachi2405053

見学可能な武家屋敷もあったのですが、外国人観光客で一杯だったので入るのは見送り、散策だけする事にしました。屋敷街の中程で桜が咲いているのを見つけたのは嬉しかったですね。

  Udatuyama2405051

予定では武家屋敷街までで終わるはずだったのですが、少し時間が余ったという事で卯辰山展望台までサービスで連れていってくれました。素晴らしい眺望で、晴れていれば日本海まで見えるそうです。

Udatuyama2405052

この日お世話になった運転手さんは能登出身の方で、今回の地震で実家が被災したとの事でした。家は無事だったそうですが、停電に断水で、ご家族は暫く避難所で暮らしていたそうです。電気は間もなく回復したのですが、上下水道が寸断されており、この時はまだ復旧の目処は立っていないとの事でした。水はまだ給水車から貰えるのですが、下水が流れないのはどうしようもなく、とても困っているのだそうです。この話を聞いてから二ヶ月近くが経ち、水道の幹線はかなり復旧している様ですが、家に引き入れる管がなかなか繋がらない様です。下水道の復旧はまだこれからの様ですね。倒壊した家屋の撤去もあまり進んでいない様で、復興と言うにはまだまだ時間が掛かりそうです。私の住む京阪神でも東南海地震の発生が警告されており、能登の災難は他人事ではなく、明日は我が身です。一日でも早く被災した人たちが日常を取り戻せるよう願っています。

Oumichou2405051

卯辰山を下りて近江町市場まで送ってもらい、タクシーを降りました。ここは170もの店が集まる、金沢の台所と言われる大規模な市場です。市民が買物に来るだけでなく、観光客も多く集まる金沢名所の一つです。

Oumichou2405052

金沢に来る前に昼食はどうしようかと色々調べていたのですが、金沢名物と検索すると金沢カレーと出てくるサイトが多かったです。なので、当初はこの近くにあるカレー店に行くつもりだったのですが、ここに入ってしまうと歩いて行くのが面倒になり、市場の中で食事を済ますことにしました。市場の中には飲食店も多くあり、下調べもしていなかったのでどこが良いか判らなかったですが、とりあえず目に付いたひかりやと言う海鮮丼の店に入りました。表の看板に海鮮丼だし茶漬けとあったのでそれを選んだのですが、これが絶品でした。山盛りの海鮮丼はネタが新鮮で、シメに出しを掛けて残ったご飯を頂くのですが、実に美味しかったですね。なぜこんな店が空いているのか不思議だったのですが、後から調べてみると結構な人気店だったらしく、予約で満席になる事も珍しくはない様です。たまたまた空いている時に当たったらしく、とてもラッキーだったのでした。

Oumichou2405053

近江市場には鮮魚、野菜、果物など様々な店がありますが、やっぱり日本海の幸に目が行きますね。買物目的ではなかったですが、北陸ならではの食材を見て歩くのは楽しかったです。ここからは歩いて金沢城へと向かうことにします。

2024年5月23日 (木)

北陸の旅2024 ~金沢 三茶屋街 3.31~

Kanazawaeki2405051

随分と間が空いてしまいましたが、3月の末に行った北陸旅行の様子をお届けします。きっかけは北陸応援割、能登地震で打撃を受けた北陸の復興の手助けに観光に訪れようという企画です。この企画、想像以上に大人気で、受付開始と共に大手旅行会社の枠はあっという間に一杯になり、旅館やホテルに個別に電話する羽目に。半ば意地になり掛け続けること十数件、やっと空きを見つけて予約を取ることが出来ました。

Kazuenochou2405051

行き先は金沢、三度目の訪問となりますが、兼六園以外の名所はほとんど回った事が無く、本格的な観光は今回が初めてとなります。金沢の観光は周遊バスで巡るのが基本ですが、今回は北陸応援割で浮いた予算で観光タクシーをお願いしました。少し駆け足になりますが、主な観光地を半日で回ろうという作戦です。

まず案内してもらったのは三つある茶屋街の一つ、主計町茶屋街です。浅野川のほとりにあり、江戸時代に富田主計の屋敷があった事から主計町と呼ばれる様になりました。茶屋街が形成されたのは明治時代の事で、今でも現役の茶屋があります。ここに来た一番の目的は川沿いの桜並木を見る事で、町家とのコラボはさぞかし風情があるだろうなと思ったのです。しかし、予約した時点ではこの日あたりにまずまずの見頃となる予報だったのですが、例によって金沢でも桜の開花は遅れてしまい、残念な結果になったのでした。

Kazuenochou2405052

主計町は川沿いも風情がありますが、路地裏にも趣きがあります。旦那衆がこっそり通ったというくらがり坂、五木寛之氏が命名したあかり坂などもみどころですね。写真は検番所で、前で写真を撮っていると中から三味線の音が聞こえてきました。まだ午前中でしたが、茶屋街らしい風情を感じた一時でした。

Higasichayamachi2405051

主計町から橋を渡ってすぐのところにあるのがひがし茶屋街。ここは藩政時代に出来た茶屋街で、城下に点在していた茶屋を浅野川の東と犀川の西に集めて新たに町割りをしたのが始まりです。当時は90軒もの茶屋が建ち並んでいたと言いますから、一大歓楽街だったのですね。三茶屋街の中では最も広く、兼六園と並ぶ金沢観光の名所です。初めて金沢を訪れたのは40数年前の事ですが、正直言ってどこをどう回ったのか記憶は曖昧です。このひがし茶屋街にも来たとは思うのですが、こんなに綺麗に整備されていたっけと言うのが感想です。

Higasichayamachi2405052

ここには昔ながらのお茶屋も残っていますが多くは観光客向けの店で、割烹、カフェ、伝統工芸品の売店、金箔貼りの体験が出来る店など様々なジャンルが揃っています。その気になれば半日はここで過ごせるほど店が多彩でかつ広く、金沢観光の中心として人気を集めるのもうなずけます。

Higasichayamachi2405053

金沢に来る前に1月頃の動画を見て予習をしたのですが、地震の影響で本当に閑散としたものでした。しかし、この日は大勢の観光客で賑わっており、元の賑わいを取り戻したかのように見えました。北陸応援割の効果があったのでしょうかね。

Nisichayamachi2405051

三つ目の茶屋街はにし茶屋街、ひがし茶屋街と同時期に出来た茶屋街で、犀川大橋を渡って少しの所にあります。三茶屋街の中では一番小さく、直線距離にして100m程の道の両側に昔ながらの町家が並んでいます。ここには4軒の現役のお茶屋があり、十五人の芸妓さんが所属しているとの事です。

Nisichayamachi2405052

これは通りの中程にあった検番所。ここで芸妓さん達がお稽古をしているのですね。金沢のお茶屋は京都の祇園と同じように一見さんお断りだそうで、観光客がお茶屋遊びをするのは無理みたいです。お茶屋体験という企画もありますが、開催日が限られているのが難点です。

Nisichayamachi2405053

ここでは夕方になると通りを歩く芸妓さんに出会えるそうで、風情を求めるなら日暮れ時が良いかも知れません。祇園の様にインバウンドで溢れるという事はなく、ゆったりとした時間が流れているのがにし茶屋街です。

より以前の記事一覧

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ