
国宝・松江城天守
三度目の松江市訪問
令和7年10月3日、松江市を訪れてきました。目的の一つ目は百名城にして現存十二天守の一つ、松江城に登城するためです。松江に来るのはこれで三回目になるのですが、どういうものか松江城には立ち寄ってなかったのですね。出雲大社や日御碕灯台に行った時に宿泊しただけで、市内の観光はせずに帰ってしまったていたのでした。今回は朝の連続テレビ小説ドラマ「ばけばけ」の舞台になるという事もあって、秋の旅行先に選んだ次第です。

松平直政像
松江城への入り口 国宝松江城県庁前
松江城へ行くには、JR松江駅からバスに乗って10分足らず、国宝松江城県庁前で降車します。わざわざ国宝とバス停にまで付けているとは、よほど国宝指定が誇らしかったのでしょうね。ちなみに運賃は170円、値上げが続く京都や大阪から見るとうらやましい安さです。
バスを降りてすぐ目についたのは「ばけばけ」の横断幕とこの騎馬像。松江城三代目の城主にして雲州松平家の祖、松平直政です。1638年に出雲18万6千石を与えられ、以後明治維新に至るまで松平家が出雲地方を治めました。
なお、このあたりは既に城跡に入っており、かつては石垣と堀に囲まれた三の丸がありました。周囲は多門櫓で取り囲まれ、政庁や藩主の御殿があったとの事です。現在は県庁が建っており、政治の中心地である事には変わりないですね。ただ残念な事に南東から南にかけての堀は昭和24年に埋められてしまっており、現在は県庁前広場となっています。

堀尾吉晴像
築城者は堀尾吉晴
松江城を築いたのは堀尾吉晴です。厳密には吉晴は既に隠居の身であり藩主は孫の忠晴でしたが、まだ6歳と幼少であったため、吉晴が後見として実権を振るっていました。吉晴は織田家に仕え豊臣秀吉の与力として活躍し、遠江国浜松城12万石にまで出世しましたが、1599年に子の忠氏に家督を譲って隠居しています。関ヶ原の戦いにおいては徳川方に付き、忠氏に対して出雲・隠岐24万石が与えられました。この時の主城は月山富田城でしたが、峻険な中世山城であり鉄砲主体の近代戦には向かなかった事、近世的な城下町を作るだけの土地が確保出来ない事、隣の米子城に近すぎる事などの理由から、新たな城を築くべく適地を探す事としました。しかし、その最中に忠氏が急死したため、孫の忠晴が家督を継いだのでした。時に1604年の事で、吉晴は62歳と当時としては高齢(秀吉の没年と同年齢)でしたが、家を守るために文字通り老骨に鞭を打ったのですね。

松江城 太鼓櫓と中櫓
松江城築城の経過
築城の開始は1607年、吉晴が選んだのは中海と宍道湖を結ぶ太田川に近い亀田山でした。この地は戦国時代には末次氏が治めており、末次城があったとされる要害の地で、尼子氏と毛利氏による争奪戦が繰り広げられた要所でした。また、すぐ南には白潟という港が栄えており、亀田山周辺にも集落があって城下町を形成する下地がありました。
今の松江城は独立した小山のようになっていますが、本来は宇賀丘陵の先端部分にあたり、現在の城の北側、内堀と塩見縄手の部分は宇賀山と呼ばれていて、その北側の赤山と一続きになっていたのですが、人力で開削されたのでした。従来はこの時に出た土で松江城下町が埋め立てられたとされていましたが、その後の調査で城下の土質と違う事が判明し、また土量も全く足りない事から現在は訂正されています。なお、この宇賀山の土は松江城築城の際に使われた様ですね。
城の主郭部分は内堀で囲まれた本丸と二の丸、南に独立した三の丸からなり、これらを取り囲むように外曲輪、北の丸、後曲輪などがありました。松江城の特徴として、主郭部分と南東部は石垣が築かれていますが、内堀の三分の二ほどは土塁になっている事です。これは調べた限りでははっきりした理由は判らなかったのですが、石垣を築く計画はあったものの、武家諸法度が制定されたため幕府に遠慮した、あるいは費用対効果が無かったため土塁とした、さらには豊臣家が滅んだためこれ以上城を堅固にする必要が無かったなどの説が囁かれています。ただ、いずれも推測の域を出ていません。
また、低湿地であった事を生かして城下に水路を張り巡らせており、外堀としての役目と水運のために活用されました。
完成したのは1611年1月の事で、吉晴はその五ヶ月後に亡くなっています。幼い孫のために執念で築き上げたという所でしょうか。ただ、この完成は吉晴が生きている内に一応の完成としたと言われ、まだ手を入れるべき箇所は幾つも残っており、松江城は永遠の未完成の城だとも言われます。
忠晴は1633年まで生きましたが、男子に恵まれず、娘婿を末期養子にと願い出ましたが認められなかったため、お家断絶となりました。跡を襲ったのは京極忠髙でしたが、忠髙もまた嗣子に恵まれず、断絶となってしまいます。その後1638年に松江城を与えられたのが松平直政で、以後明治維新まで松平家の治世が続きます。
松江城の普請は松平家の代になっても続けられており、古図などから城内には多くの建物があった事が知れます。現在の広々とした城とは全く違った姿をしていたのでしょうね。
松江城 二之丸下ノ段から見た天守
現存十二天守 国宝・松江城
松江城の天守は四層五階建てで、附櫓が付属しています。初層と二層は全面、三層と四層の腰壁を黒塗りの下見板張りとしています。2階の四隅と東、西、北側外壁中央部に石落しが取り付き、中に入ったときにその多さに驚きましたね。地階は塩蔵の間と呼ばれて籠城用の食料が保管されていたとされ、また大きな井戸も掘られています。天守の中に井戸があるのは初めて見ました。非常に実戰的な造りで、天守一つになっても戦い続けるつもりだったのでしょうか。なお井戸があるのは現存十二天守の中では唯一で、他には熊本城、名古屋城、浜松城、駿府城などにあった事が知られます。
またトイレも備えていた様ですが、残念な事に昭和の大修理の際に復元が見送られたとの事です。
実際に来てみて驚いたのは思っていたよりも大きな天守だった事で、写真だけ見ていると犬山城くらいかと思っていました。たぶん周囲に比較するものが無いせいでしょうね。現存十二天守の中では2番目の広さを誇り、高さでは3番目との事です。

松江城 大手門跡
明治維新の廃城から現代まで
明治維新後、松江城は廃城となり、陸軍省の管轄となって天守を除く建物はことごとく破却されました。天守も180円で売られるところだったのですが、地元の豪農・勝部本右衛門父子と旧藩士・高城権八らの尽力で買い戻され、難を逃れています。1890年には松平氏に払い下げられ、以後公園とし整備されていくことになります。この時期に興雲閣、武徳殿が作られましたが、それ以外に火力発電所が建設され、さらに炭鉱があって石炭が採掘されていたと言いますから驚きます。明治期の城跡に対する認識の程度が窺える出来事です。1927年に松江市に寄付されると本格的な公園整備が始まり、テニスコートや相撲場、動物園等が設置されました。その後、史跡としての価値が見直され、これらの施設は順次城外に移され、平成5年には史跡松江城環境整備指針を制定し、太鼓櫓や中櫓、一の門などの復元、石垣の補修が行われています。現在も保存修理は進行中で、今は大手門の再建に向けて資料を探している段階の様ですね。いつの事か判りませんが、巨大だったという大手門が復原された姿を見てみたいものです。

松江城 高石垣と天守
現在も続く石垣補修
松江城の石垣は野面積みと打ち込み接ぎが混在しているのが特徴で、歴代城主によって補修が繰り返されて来たためです。現在も老朽化による危険箇所を補修していますが、補修中に二度にわたる地震による崩落に見舞われていて、更なる補修が急がれているところです。本当に切が無い作業ですね。

松江城 一ノ門と武具櫓
有料区域入り口と拝観料
写真は復原された一の門と武具櫓。この門から先は有料区域になります。料金は大人が800円と少し高めですが、姫路城や大坂城に比べるとまだ格安ですね。拝観者数はそれなりで、修学旅行生や地元の小学生が目立ちました。インバウンドの姿はほとんど見かけず外国人だらけの姫路城とは対照的でしたが、ここは余り知られていないのでしょうか。京都や大阪から遠いというのも一因かも知れませんね。

国宝指定の決め手となった祈祷札
天守に入ってまず目に付くのが祈祷札。城の無事を祈って祀られた札で地階と4階にあり、1937年までは確かに存在していたのですが、その後行方不明になっていました。4階の2枚の祈祷札のうち、1枚には「慶長16年」と記されていた事が知られており、松江市ではこの札の行方をずっと捜していたのですが、2012年になって松江神社から発見されました。

祈祷札のあった場所の特定
翌年になって調査が行われ、4階の柱から祈祷札の穴と一致する釘穴が見つかり、さらに地階でも祈祷札と同じ形の白い跡が確認され、これらの札が間違い無く松江城にあったものと証明されました。これにより松江城の築城時期が確定し、国宝指定の決め手となったのでした。どういう経緯で外され、松江神社に保管されていたのかは判りませんが、当時の松江市民が喜びに沸いたのを覚えています。やはり城というのは、市民にとって誇りなのですね。なお、現在設置されている祈祷札はレプリカです。

松江城 天守内 包板
天守の柱について
天守に入っての第一印象はなんて広いんだという事でした。展示品が少ないという事もあるでしょうけど、現存十二天守中二番目に広いというのは誇張では無かったです。面白いのは柱が板で包まれていることで、包み板と呼ばれる技法だそうです。粗悪材や割れを隠すため、さらには柱を補強するためではないかと考えられており、築城時には無く、天守の補修が行われる度に順次施されていったとされます。天守には308本の柱かありますが、うち108本に使われています。
松江城の特徴として通し柱があり、各柱が二階ずつ支える構造になっていて、その上層階は水平材を置いてまた通し柱を立てています。姫路城は長大な2本の心柱が初層から上層階まで貫いていますが、それとは随分と異なる構造です。強度的に不利な様に感じますが、柱の配置によって巧みに回避しており、かえって強固にしているとの事です。

松江城 天守内 初代の鯱
天守改築説iについて
現在の松江城は望楼式てすが、幕府に提出された絵図では層塔式の天守で、千鳥破風や唐破風が装飾として取り付けられた姿になっています。この絵図がどこまで信用出来るか議論がありますが、明治や昭和の改修の際にこれらの破風の痕跡らしきものが見つかっており、実際に存在した可能性が指摘されています。これらの事から初期の松江城天守は今とは大きく姿が異なっており、江戸時代に何度か行われた改修(どの時期かは不明ですが)の際に千鳥破風や唐破風が取り外され、望楼式の現在の形に変えられたのでは無いかという仮説も存在します。
なお、松江城の別名は千鳥城と呼ばれますが、通常は羽根を広げた千鳥のように見える天守の外観から来ているとされています。ただ、私的にはあまりピンと来なかったのですが、かつて千鳥破風が存在し、それが天守の象徴の様なものであったとすれば、千鳥城の語源になった可能性はありますね。このあたり、更なる研究と考察が待たれるところです。

松江城 天守内 月山富田城から流用した柱材
松江城天守に使用された木材
松江城の築城にあたっては材木の調達に苦労したらしく、後に包み柱が施されたようにかなり粗悪な木材も使われています。周辺の古城からも流用されており、これは月山富田城から運ばれてきた古材です。随分と太くて立派な木ですね。富田城が築かれた頃には、まだ良質な木材が豊富にあった事を物語っているようです。
この古材を見ているときに地元の小学生達が集まってきて、引率の先生が説明していたのですが、月山富田城と聞いた子供たちが平然としているのに少し驚きました。戦国好き、城好きにはよく知られた城ですが、あまり一般的ではない、ややマニアックな城です。たぶん、京都、大阪周辺で聞いても、知らない人の方が多いでしょう。ところが、このあたりでは小学生でも知っているのですね。さずがは地元だけあって、授業などで教えているのでしょう。あるいは、周辺の大人たちから聞かされるのかな。地域性が感じられた一コマでした。
松江城 天守から見た宍道湖
水都松江と水害の歴史
松江は中海と宍道湖に挟まれた町で、水路が張り巡らされて水の都と呼ばれてきました。これにより水運が発達し、古来から白潟など港町が栄えました。反面、水害に悩まされてきた町でもあり、江戸時代には60回も被害に遭ったとされます。中にはあまりの被害に松江城を移転させようとし、家臣に諫止された藩主も居たとか。水害は現在も続いており、近年では令和3年に浸水被害があったそうです。宍道湖や街中を流れる水路が素晴らしい情緒を与えてくれていますが、異常気象による桁違いの豪雨が頻発する中、どう折り合いを付けるか課題は多い事でしょう。素敵な水の町が守られるように、上手く水害を抑えられる事を願っています。

松江城 太鼓櫓
復元された太鼓櫓
こちらは復元された太鼓櫓です。文字通り中に太鼓があって、かつては時刻を知らせたり、非常事態を知らせたりしていたのでしょう。中に入って太鼓を見る事も出来ますが、半ば倉庫として使用されており、乱雑に物が置かれているのにはがっかりしました。せっかく復原した櫓なのだから、見せ方も考えてほしいところです。なお、黄色い像は地元の小学生の作品。この日は展示会が開かれており、あちこちに作品が置かれていました。

松江城 ちどり茶屋 割子そば御膳セット
出雲蕎麦の穴場 ちどり茶屋
松江城を一通り見た後昼食をどうしようかと思っていたのですが、有名なそば処は激混みとの事で断念。ところが城内にあるちどり茶屋が、見た目は今一つの店ながら割子そばが美味しいと知り立ち寄りました。実際昭和レトロ以前の様な店でしたが、蕎麦の味はなかなかのものでした。蕎麦は三段に分かれていて、食べ方が指示されていました。まず一番上の蕎麦につゆを全部入れ、薬味を適宜入れます。食べ終わるとつゆを二段目に移し、また薬味を入れます。三段目も同じ。さすがは出雲そばの本場だけあって、とても美味しかったです。ただ、御膳セットにしたのは余計でした。かやくご飯としじみ汁があまり美味しく無かったのですよね。蕎麦だけにしておけば良かったです。ちなみに割子そばは800円、御膳にすると1300円でした。

松江城 横矢掛かりの石垣
見応えのある松江城
城外に出て外から内堀を見ました。このあたりはまだ石垣のある部分です。ぽこんと飛び出しているのは横矢掛かりのための張り出し。たぶんですが、かつてはここに櫓があって、内堀を渡って石垣を登ろうとする敵を横合いから迎撃したのでしょう。非常に幅の広い内堀で、ここから攻めるのは至難の業でしたでしょうけどね、そこになお備えをするのが縄張りの妙というものでしょうか。
松江城の見所は何と言っても国宝の天守。現存天守の常として急な階段を覚悟していましたが、思っていたよりは緩やかでした。ほとんど垂直な彦根城を経験した人ならば、なんと楽な階段かと思うでしょうね。他は復元された櫓もありますが、だだっ広い石垣のある公園という感じです。まだ整備半ばという感じですが、天守だけでも見る価値は十分にあると思います。
松江城ホームページ
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