丹波篠山から福知山線に乗り、福知山へと向かいました。篠山口を出るとすぐに車窓が山里に変わります。まだ大阪の近辺にこんな所があったんだと思うくらい新鮮な景色でしたね。手入れの行き届いた田畑に山林、古びてはいるけれど整った家並みや小径、絵に描いた様な日本の山里です。途中いくつか川がありましたが、大抵の堤防上に桜並木が整備されており、それがことごとく満開、実に見事でした。とある村はずれの辻に咲く一本桜は、あたかも一幅の絵のようです。また駅を通過するごとに光がぱっと輝きを増します。駅の周囲が桜で覆われているのですね。丹波の里は産物の豊かさで知られますが、景色もこれほど美しいとは驚きの連続でした。
これも里人が何代にも渡って営々と里を護ってこられたからだこそでしょう。一足飛びにこんなに豊かな山里は出来ません。大げさでは無く、これはとても貴重な財産、宝物だと思いました。
でも、いつまでここが保つのだろうと不安にもなりました。消滅可能性自治体にこそ入っていませんが、丹波篠山市の人口はずっと減少傾向にあって、現状で四万人を切っており、2060年には二万人程度にまで減少すると予測されています。高齢化率も50%近くになるとか。都心部を含めてこれですから、山間部はどうなってしまうのでしょうね。住む人が居なくなれば田畑が野に帰り、山は荒れ果ててしまいます。貯水機能は失われて雨が降る度に川が暴れて洪水となり、下流の町もただでは済まないでしょう。山里の豊かな恵みと美しい風景、伝承されてきた数々の文化を失い、都会の住民は自然の脅威に晒されながら暮らす、そんな未来は来てほしくないですね。でも今のうちになんとか対策しないと、取り返しが付かない事になってしまいそうです。
そんな事を考えていると、やがて福知山に着きました。今では京都府と兵庫県に分かれていますが、元はと言えば篠山と一続きの丹波国でした。福知山はその丹波の中央部に位置し、古くから交通の要衝として栄えてきました。城下町としての基礎を造ったのは明智光秀、1579年に丹波平定に成功し、その押さえとして福智山城を築きました。城は上の復元模型を見て判るとおり、福知山盆地の中に突き出た台地の上にあって、本丸と二の丸が同じ台地上に置かれました。
実際にこの城に入ったのは光秀の娘婿である明智秀満でしたが、三年後に起こった山崎の戦いで光秀が豊臣秀吉に敗れて明智氏が滅びると、秀吉の養子であった羽柴秀勝が城主となります。さらに城主は何代か代わり、関ヶ原の戦いの後は有馬豊氏が城に入って、近世城郭としての福知山城と城下町を形成しました。最終的には複数の郭と城下町を三重の堀で囲った総構えの城となっています。
福知山城主はその後も変遷を重ね、1669年に朽木氏が入部し、幕末まで続く事になります。
福知山城で面白いのは将棋の竜王戦の舞台となっている事で、2018年と2022年の二度行われています。現代のお城将棋として話題を集めましたね。対局の間は上の写真の様に保存されており、誰でも自由に入れて対局者の気分を味わう事が出来ます。でも天守の中は思っていたよりも狭くて、対局者や立会人の控え室はどうしていたのかなとちょっと不思議でしたね。
明治に入ると福知山城は廃城となり、いくつかの城門が寺に転用された他は徹底的に破壊されました。この写真は天守から西を眺めたところですが、一番右にあるのが福知山市役所、その左にある小高い丘が二の丸跡です。天守からこの丘までは一続きだったのですが、町の発展と共に掘り崩されて原型は止めていません。
本丸と天守台はわずかに残されており、古図を頼りに復原されたのが現在ある天守です。昭和61年の事で、瓦一枚運動という市民から寄付を募ることで資金が捻出されました。コンクリート造りですから外観復原天守と言うのが正しいのかな。でも外観は木造の様に見える巧妙な仕事がしてあります。
この天守は古図だけからの復原だったのでどこまで正しいか疑問視する声もあったのですが、近年古写真が見つかりほぼ原型に近い形だと判かりました。未来に誇れる事業だった事が証明された訳で、何よりの結果ですね。
二の丸跡の丘から眺めた福知山城です。お城の受付の人に写真スポットとして聞いて来たのですが、実際に来てみると入り口が判らなくて困ってしまいました。たまたま近くに市の職員の方がおられたので聞いてみたところ、市役所の裏から登れると教えてくださり助かりました。ところがいざ登ってみると、背丈より高いフェンスで囲われているのですね。仕方が無いので両手を伸ばしてカメラをうんと上げてモニターを見ながら撮ったのですが、なかなか水平が出せなくて手こずりました。何回かトライし直してやっと撮れたのがこの写真です。
この反対側から撮った写真が城のホームページに使われているのですが、どこにそんなスポットがあるのかな。
昼食は福知山で食べる事にしていました。いろいろ探したのですが決め手が無く、ふと思いついたのが竜王戦の勝負飯、藤井竜王にあやかろうと思ってやって来たのが柳町という料亭です。
柳町は結構な人気店、平日でもあらかじめ確かめた方が良いよと観光案内所で聞いていたので、だめ元で電話してみると一席だけ空いているとの事。急いで店に来てみると入り口に本日は予約で満席とありました。いやラッキーでしたね。案内所の方、ナイスアシストでした。
頂いたのは京地鶏の親子どんぶり。藤井竜王は二日目の昼に食べたのだったかな。藤井竜王の勝負飯はとても話題になるので、対局を開催する地元でも力を入れており、毎回名店揃いのメニューが用意されます。これはその中の一つですから美味しいに決まっています。実際とても濃厚な味わいで、選んで正解でした。
福知山にはあまり城下町らしい町並みは残っていません。わずかに柳町のある京街道跡に面影がある程度かな。明治以降、積極的に再開発が行われたのでしょうね。その代わり、広小路、新町など昭和レトロを感じさせる商店街がいくつかあって、懐かしい気分にさせてくれます。ご多分に漏れず、郊外のショッピングセンターに押されてシャッターが目立つようになっていますけどね、まだ健在な店もあってかつての賑わいを感じる事は出来ます。
その一つ、広小路はかつて大火があったとき火除地として広げられた道で、その名の通り広々として気持ちの良い道でした。途中にSLがあったのには驚きましたけどね。その広小路の突き当たりにあるのが御霊神社、明智光秀を祀る神社です。元は稲荷社だったのですが、光秀を名君として慕う領民達の願いにより神として合祀され、名も御霊神社と改めたとの事です。江戸期を通じて謀反人として忌み嫌われた光秀ですが、この町では評価が180度違います。世間の評判が当てにならないのは、近江八幡における秀次に通じるところがありますね。
この神社の前が公園になっているのですが、そこに浸水水位を示す標識がありました。見上げる様な高さで、町中がことごとく湖になったんじゃないかと思える程の水深でした。市内を流れる由良川が氾濫したためで、福知山は水害に苦しみ続けてきているのですね。由良川はやっかいな川で、福知山のあたりは平地ですが、下流に行くと山間部になり、川幅が狭くなるのです。このため、大水が出ると下流でせき止められる形となり、福知山で氾濫してしまうのですね。光秀が名君とされるのは、この由良川の治水に正面から取り組んで成果を上げたためであり、今でも明智藪という光秀が築いた堤防が残っています。治水が進んだ現在でも水害とは無縁ではなく、数年に一度は被害がある様ですね。御霊神社には日本で唯一という堤防神社があり、この町が如何に水害と闘ってきたかが偲ばれます。
福知山は平成の大合併によって市域が広くなっており、かつての大江町なども含まれます。ですので観光名所はまだまだあるのですが、公共交通機関を使って廻るのはかなり無理があり、やっぱり自家用車で訪れるのが現実的かな。あるいは観光タクシーを使うかですね。城下町を廻るだけなら徒歩圏内ですので、電車で来て半日あれば十分です。電車は京都方面に向かう山陰線が一時間に二本程度で、うち一本が特急です。大阪に向かう福知山線も同様ですね。ややこしいのが京都方面として東舞鶴行きの電車が表示されていることで、時刻表だけ見ていると間違えるので注意が必要です。
駆け足の丹波路でしたが、好天に恵まれ、桜も満開で楽しませて貰いました。何人もの人に親切にして頂いたのも嬉しかったですね。今度はどちらか一方に絞って、食べ歩きでもしてみようかな。秋の丹波路も良さそうです。
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