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2025年6月

2025年6月30日 (月)

京都・洛北 半夏生2025 ~三宅八幡宮 6.25~

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三明院から三宅八幡宮に来ました。ここでの目的はこの半夏生。東福寺程では無いけれど、あまり知られていない名所です。この日はまだ少し見頃には早かったかなというところでした。

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三明院と三宅八幡宮は隣同士、山門から5分も歩けばちょっとした森に入ります。ここはもう神社の境内ですが、あたかも里山の小径の様に整備されています。緑に埋もれた様になっている小屋は「村の水車小屋」。かつて別の場所で使用されていた小屋を移設したものですが、老朽化のためか水車は失われています。神社のホームページに依れば上高野には現役の水車が三カ所残っているとか。見た事は無いですが、どこにあるのでしょうね。

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この公園も神社の境内です。てっきり京都市の公園かと思っていたのですが、神社が作って管理しているのですね。池に石橋、ちょっとした石組みもあって、それでいて肩肘の張らないほっこりとする素敵な公園です。それに常に手入れが行き届いていて清潔ですね。きっと地域の人に愛されて大切にされているのでしょう。

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ただ、あれっと思ったのは水が流れていないのですね。それに噴水も止まっている。何か不具合があるのでしょうか。噴水は昭和5年に設置されたそうですから、どこか痛んでいても不思議は無いですね。

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噴水は涼を感じさせてくれますから、出来れば真夏までに復旧していると良いな。なんて事は地元の人が一番思っているでしょうね。蓮華寺から三宅八幡宮までは古い家並みもあり、なかなか風情のある散策路です。反対から歩いて行くのもまた可。電車で行くのがお勧めで、蓮華寺から行くのなら叡叡山本線「三宅八幡」で下車、帰りは鞍馬線の「八幡宮前」から乗るのと良いです。逆もまた有りですね。春は桜、初夏は半夏生、夏は百日紅秋は紅葉と見所一杯なのに人は少ない、まだまだ穴場と言える場所ですよ。

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追伸。今日は夏越の祓。適当な神社が無かったので茅の輪は潜らなかったけれども、水無月は頂きました。お店は俵屋吉富さん、さすが老舗だけあってひと味違う美味しさです。これであと半年頑張れるかな。

2025年6月29日 (日)

京都・洛北 梅雨の合間に2025 ~三明院 6.25~

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蓮華寺を出て上高野の集落を抜け、三明院に来ました。途中、ここでも熊出没注意の看板が出ていました。修学院で出るのだから、山続きのこのあたりに居ても不思議では無いですね。もう京都の山際はどこも安全な場所は無くなって来ている様な。熊の看板を見るのも慣れっこになって来ました。

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三明院もいつの間にかホームページが出来ていました。知る人ぞ知る存在だったこの寺も、もみじが美しいと知られる様になってきたという事かしらん。

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おかげでこれまで判らなかったこの社が香取大明神だと知りました。どういうご縁でここに祀られているのかは判りませんが、香取神宮ゆかりのお社は京都ではあまり見た事が無いような。また、御大師様と思っていた像も、佐竹周海僧正というこの寺の三世住職だと判りました。もしかしたらですが、この佐竹僧正が常陸国を治めた佐竹氏ゆかりの方だとすると、故郷の香取大明神を勧請されたのかも知れませんね。まあ、私の勝手な想像です。

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また、2月1日には節分会、8月1日には盂蘭盆会があるのですね。それぞれぜんざいとひやしうどんの接待があるとか。一度試しに来てみようかしらん。

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三明院は明治39年に山形県から移転して来た寺です。なぜ遠い東北から上高野に来たのでしょうね。廃仏毀釈のせいかなと思ったのですが、山形は廃仏毀釈に依る被害はあまり無かった地域だったそうです。この石垣や白壁の佇まいを見ているとすっかり地域に馴染んでいる様に見えますが、最初は檀家も無かったでしょうし、相当に苦労したんじゃないかな。そのあたり、いつか聞いてみたいものですね。

2025年6月28日 (土)

京都・洛北 梅雨の合間に2025 ~蓮華寺 6.25~

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東福寺から殿舎を乗り継いで蓮華寺に来ました。ここに来るのはおよそ一年ぶりですね。

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山門を潜ると一面の緑の世界。この景色はずっと変わりませんね。

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紅葉時分は混み合う寺ですが、この時期はほとんとど拝観者は居ません。この日も先客が二組居ましたが、すぐに帰られたので独り占め状態になりました。

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誰も居ない蓮華寺は本当に静かです。この日は風も無かったので、葉ずれの音すらしませんでした。もう少ししたらセミの声が賑やかになるのでしょうけどね。紅葉時分もこんな感じだと良いのだけどな、でもまず無理でしょうね。

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庭の片隅ではセンリョウの花が咲いていました。この木の花は初めて見ましたね。これから夏にかけて実が成り、大きくなって秋には色付く事でしょう。その時分にまた来たいと思っています。

2025年6月27日 (金)

京都・洛東 半夏生2025 ~東福寺 6.25~

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光明院から東福寺に来ました。ここでの目的は半夏生。そう多くはありませんが、法堂東側の溝で咲いています。

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例年なら天得院の桔梗と一緒に見に来るのですが、それだと見頃を過ぎている事が多いのですね。なので今年はあえて別々に来る事にしました。

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その甲斐あって状態はまずまずの見頃。少し傷み始めていた葉もありましたけどね、全体としては綺麗でした。

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いつも思うのですが、この花を気に止める人はほとんど居ません。境内の片隅でひっそり咲いているからでしょうか。名所とされる所ほどのボリュームはありませんが、美しさには変わりありません。それに季節を感じさせてくれる花ですしね。

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庫裏の横では蓮が咲いていました。この花も見頃が近くなってきましたね。ただ、放生池の蓮は西側の池で七割方無くなっていました。蓮池ではこういう事がままありますが、意外と管理が難しいのでしょうか。放置しておけばどんどん広がるイメージがあるのですけどね、条件が合わなければ枯れてしまう繊細な植物なのかしらん。

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臥雲橋から見た通天橋です。緑に浮かぶ様は変わらずに風情がありますね。昭和36年に復元された橋ですが、昨年に登録有形文化財に指定されました。橋脚はコンクリート製でちょっと艶消しなのですけどね、冬にしか見えないのでまず気にならないです。

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この日のお土産は鶴屋玄月さんの月輪を買って帰りました。昔ながらの素朴な味わいですね。この玄月さんは2022年まで天得院のお茶菓子として桔梗の生菓子を納められていたのですが、なぜか無くなりました。ちょっと聞いてみたのですが、言葉を濁されてしまいました。代わりに予約すれば売ってくれるとの事。天得院の特別公開は明日からなので、桔梗を見に来るついでに買って帰ろうと思っています。行く前に電話するのを忘れない様にしなくてはね。もう食べられないと思っていただけに、また楽しみが増えました。

2025年6月26日 (木)

京都・洛東 梅雨の合間に 2025 ~光明院 6.25~

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令和7年6月25日の東福寺塔頭・光明院です。この日は梅雨の雨を吸った苔が美しくなったかなと思い、波心庭に来てみました。結果は気持ち綺麗になったかなという程度。もう少し鮮やかな緑を期待していたのですけどね、そう上手くは行かない様です。

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雲嶺庭では桔梗が咲いていました。この花も見頃が近いですね。次は桔梗を追って回ろうかな。

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玄関の衝立は絵柄が変わっていました。思わず縋りたくなるような仏様の救いの手。そしてその前に置かれた桔梗と蛍袋の花。何とも素敵な佇まいです。

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この間梅雨に入ったと思ったら、もうすぐ明けてしまうとか明けないとか。春、秋だけでなく、梅雨まで短いのかな。渇水も心配だけど、木々も大丈夫なのかなしらん。この苔も猛暑を乗り越えられるのかなあ。

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梅雨は嫌われるけど、しっとりした景色も日本らしくで良いもの。梅雨の情緒を味わいに、あえて雨の日を狙って出かけようかと思っていたけれど、降ったら降ったで容赦の無いザーザー降り、風情もなにもあったものではありません。明けたと油断させといて、梅雨末期の豪雨続きなんてならなきゃ良いのですけどね。季節は節操を持って進んでほしいものです。

2025年6月25日 (水)

日本百名城探訪2025 ~一乗谷城 6.18~

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越前大野城から一乗谷城に来ました。正しくは一乗谷城は一乗城山に築かれた中世山城で、近年発掘整備され特別史跡に指定されている一乗谷朝倉氏遺跡の一部です。百名城として選定されているのは朝倉氏遺跡全体ですね。

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朝倉氏遺跡の最寄り駅は九頭竜線の一乗谷駅。写真は駅舎の遠景で、ホームに小さな木製の待合室があります。九頭竜線は福井駅を出た後は越前大野駅までの間にはまともな駅舎は無く、ホーム上に小さな待合室があるだけです。当然全て無人駅で、切符の販売機もありません。ICカードも使えず、無人駅から乗る場合は整理券を示して下車時に車内で精算する事になります。これぞローカル線、初めて乗る者にとっては戸惑う事ばかりですが、他では経験できない事だけに面白くもありますね。

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まず訪れたのが県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館。朝倉氏遺跡の調査・研究のための拠点で、発掘品や一乗谷の復元模型の展示を行い、当時の人々の生活の様子を紹介しています。とてもモダンで新しい施設ですが、2022年に新設されたばかりです。福井県がいかに一乗谷朝倉氏遺跡を重視しているかが判るというものです。

ここで展示を見るのは後にして、まずはレンタサイクルを借りました。遺跡は2km離れた場所にあり、さらに3kmの延長がある事から、徒歩で見て回るのは厳しいのですよ。なお、レンタサイクルは予約制で、博物館のホームページから申し込んでおく必要があります。

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レンタサイクルは全て電動アシストですから楽で良いですね。博物館から遺跡の入り口にあたる下木戸跡までは10分足らずで着きました。この巨石を用いた石垣は谷の北の入り口を守っていた門の跡で、長さが38mあり鍵形に曲がっているところを見ると枡形を形成していた様です。

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ここに来て意外だったのは一面の公園の様になっていると思っていたのですが、中央に県道が通り、集落もあって生活の場でもあるのですね。考えてみれば一乗谷は織田信長によって焼き払われた後は土に埋もれていたのですから、長年の間に新たに集落が形成されても何の不思議も無いのでした。

谷の中央には一乗谷川が流れ、県道は川に沿う様に走っています。川の両岸の多くは公園として整備されており、多分元は田畑だったのでしょうね。発掘調査の結果良好な遺跡が埋まっている事が判り、特別史跡に指定された事から買収を進め、発掘が終わったところを埋め戻して公園とする事で保存しているのでしょう。

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整備の仕方は様々で、武家屋敷跡を平面復元しているところもあれば、この写真の様に一部を城下町として復元しているところもあります。ここにある石垣や建物の礎石は実際に発掘で出土したものを使用しているとの事で、戦国時代の町並みを実感する事が出来ます。

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復元されているのは武家屋敷や商家、染め物屋など様々で、一乗谷が如何に栄えていたかが窺える様になっています。ここは中級武士の武家屋敷で、武士達が将棋を指している姿が再現されています。この屋敷にはスタッフが常駐しているのでなぜ将棋なのですかと尋ねたところ、醉象という駒が発掘されたため、当時の武士の嗜みだったと推定されるからだそうです。ただ醉象は中将棋や大将棋に使われた駒で、今の本将棋には無いのですが、なぜか再現されていたのは本将棋でした。まあ、その辺は愛嬌ですね。

この武家屋敷の見所の一つはトイレが再現されているところで、遺跡でトイレが確認されたのは日本ではここが最初なのだそうですね。それまでトイレと推測される穴は見つかっていたのですが、便器の痕跡が出てきた事から初めて確定出来たのだとか。ちなみに日本でトイレが普及したのは鎌倉時代頃からと推定されており、し尿が下肥として使用される様になったためだそうです。それまでは例えば平安京では貴族の屋敷にはあったようですが、使用後は道の側溝に流していました。また庶民の家にはトイレは無く、道に垂れ流しだったそうですね。今からでは想像出来ない不潔さですが、中世ヨーロッパでも事情は似たようなもので、室内で便器に用を足し、後は窓から道にぶちまけていたと言いますから、鎌倉以降の日本は世界的に見ても群を抜いて清潔な町だった様ですね。

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こちらは上級武士の屋敷跡。門と塀は復元されていますが、屋敷は説明板があるだけで遺跡は埋め戻されています。せめて平面復元してくれれば判りやすいと思うのですが、一面の原っぱではどんな屋敷だったか思い浮かべるのは難しいですね。

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こちらは町家が復元されているコーナーです。武家屋敷と違って塀や門は無く、区画も小さいですね。商家、大工の家、染め物屋などがあり、それぞれ道具類が置かれています。商家はそれなりに広さがありますが、大工の家などは土間と一間の座敷がある程度で、当時の庶民の暮らしぶりはとても質素なものだったと想像出来ます。なお、ここには着付け体験コーナーもあって、甲冑や着物に着替えて散策する事が出来るそうですよ。

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復元町並の向かい側には朝倉館跡があります。朝倉家当主の屋敷があったところで、水堀と土塁に囲まれており、他の武家屋敷とは一線を画していますね。朝倉氏が一乗谷を本拠地としたのは南北朝時代頃と推定されていて、次第に当主のほか重臣が集住する様になり、応仁の乱以降は都から逃れて来た公家や僧侶、文人等が住み着いたため華やかな京文化が花開き、北の京と呼ばれるほど栄えました。最盛期には1万人ほどの人がこの谷に住んでいたそうですね。

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一乗谷には高度な文化があった証しとして、四つの庭園跡が発掘されており、それぞれ国の特別名勝に指定されています。これはその一つ湯殿跡庭園で、豪壮でいて調和の取れた石組みが見事です。ただ、全く資料が無いため、誰がいつ頃作ったかは判らないそうですね。岡本太郎氏がこの石組みを見たとき、感動のあまり長時間動かなかったという逸話も伝わっています。

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これが朝倉館跡です。第五代当主の義景が住んでいた屋敷で、10数棟の建物が並んでいました。南半分が主殿を中心とした接客の場で、足利義昭を迎え入れたとき、豪勢な宴が開かれたと言われます。北半分は日常生活の場で、常御殿、湯殿、台所、花壇などがありました。ところがなぜかトイレが見つからないそうですね。中級武士の家にはあるのになぜと思いますが、たぶんですが京の貴族の習慣に倣って、おまるを使っていたんじゃないかしらん。私の勝手な想像ですけどね。

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これが朝倉屋敷庭園。ここは遺跡の上にアクリル板が張られており、見学者はその上を歩く事で義景が見ていたのと同じ目線でこの庭を見る事が出来るように工夫されています。とても調和の取れた石組みで、文化水準の高さを伺い知る事が出来ます。

なお、入り口の唐門は後世に建てられた松雲院の寺門で、義景の菩提を弔うためのものとされます。

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遺跡の見所はまだまだあるのですが、バスの時間が迫ってきたので博物館まで帰ってきました。残念ながらじっくり見て回る時間は無かったのですが、町の復元模型などが興味深かったです。こうして見るとかなり過密な町だった事が判ります。そして、屋根がことごとく板葺きですね。京の町家も天明の大火までは板葺きだった事が知られており、これが当時の景色だったのでしょう。

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こちらは朝倉屋敷の復元模型。整然とした建屋と広々とした庭が印象的です。ここで弓矢の稽古や蹴鞠などが行われていたのでしょうか。屋根は檜皮葺きだったと推測されていますが、鬼瓦なども出土しているとの事で、部分的には瓦葺きの建物もあったのかも知れませんね。

一乗谷は天正3年(1575年)に信長によって攻められ、義景は城を捨てて大野に逃亡し、町は織田軍によって焼き払われました。その後、越前を与えられた柴田勝家は本拠を北之庄に構えたため一乗谷は放置され、やがて土に埋もれてしまいました。結果として遺構は破壊を免れ、日本でも希な大規模な城下町の遺跡として今に伝わっています。

なお、一つ知りたかったのは、明智光秀はどこに住んでいたのかでしたが、小説やドラマで描かれる様に一乗谷の外れではなく、山を越えた東大昧という地と伝えられているとの事でした。根拠としては、勝家が一向一揆と対峙したとき、光秀がこの地の人々には世話になったので見逃して欲しいと頼んだという伝承があり、実際に勝家が出した安堵状が地元に伝わっています。現在は明智神社という小さな祠があり、光秀の木像が祀られていて、地元の人達が大切にお世話をされているそうです。一乗谷からは5km程離れており、朝倉家には相手にされて無かったんじゃないかと思える場所ですね。実際のところ資料は無いに等しく、朝倉家との関係は良く判っていないとの事でした。

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写真は谷の中程にある一乗谷レストランで頂いた昼食です。当初は越前大野市で頂こうかと思っていたのですが、どう工夫しても時間が取れず断念しました。一乗谷では他に選択肢は無く、唯一の食事処です。選んだのは越前おろし蕎麦とソースカツ丼のセット。どちらも福井を代表する名物で、まずまずの味でした。

帰りはバスの時間に間に合うように博物館を見学し、無事に乗る事が出来しました。これももし一本乗り遅れたら大変な事になるという、ぎりぎりの選択でしたけどね、何とか予定通り帰ってきました。

それにしても、地方の交通事情はほんとうに酷い。自家用車を持たないと自由が効かず、公共交通機関ではもう行けないという所も少なくないようです。京都近郊でも同じで、善峯寺への直通バスが廃止になりました。これからどうすれば良いのですかね。採算が取れない、運転手が居ない等の事情は判りますが、このままでは地方の衰退は加速する一方でしょう。それに免許を手放せない高齢者による車の事故は増え続けています。小さな自治体や事業者の努力だけではもう限界なんじゃないかしらん。国を挙げての対策が必要なんじゃないかと思いますが、そんな声を上げる政治家は居ないですね。票に繋がらないものなあ。なんとももどかしい思いのした福井行きでした。

2025年6月24日 (火)

続百名城探訪2025 ~越前大野城 6.18~

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令和7年6月18日、続百名城の越前大野城を訪れてきました。この日帰り旅行はのっけから躓き続きで、まず福井までの切符を買い間違えていました。京都から福井までの通しで切符を買ったつもりが、乗車賃が入ってなかったのですね。普通に買ったはずなのに、特急券だけになっていたのでした。そのため敦賀で乗車券を買う羽目になったのですが、これに手間取っている間に予定していた列車に乗り遅れてしまいした。自由席がある新幹線は2本後、これで30分のロスです。幸い九頭竜線とは接続していたので、頑張れば城と城下町を回れるはずでした。

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越前大野ではレンタサイクルを借りる予定でした。ところがいざ着いてみると、どこにもそれらしき窓口が無いのです。おおの観光ビューローのホームページには駅前からの観光にと書いてあったのですけどね。スマホで検索してみると少し離れた場所に別の店があると出たので行ってみたのですが、普通の民家があるだけでそれにしき店はありません。仕方が無いので駅に戻って聞いてみようとすると、今度は駅員さんの姿が無い。次は一乗谷城に行く予定だったのですが、11時39分発の福井行きに乗らないと4時間後まで列車は無いので大変な事になる。計画では大野では2時間の余裕があるはずだったのですが、敦賀で乗り遅れた上にうろうろしている間に後1時間と少しとなってしまいました。歩いて城まで行って帰るには時間的に無理だし、どうしようと思っていると駅前にタクシー会社がある事に気が付きました。贅沢だけどこの際仕方が無いと、窓口に行って1台頼むと15分程待ってとの事。間に合わないかなあと思いましたが、とにかく行って見る事にしました。

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越前大野市は豊富な湧き水があるので有名なところです。御清水、本願清水など至る所に名水が出ているのですが、駅前にもこうした水場が設けてありました。予定ではお城に行った後色々回るつもりだったのですけどね、全て吹っ飛んでしまいました。

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こちらは水路に設けられた小さな水車。こうした場所が実際にあるのでしょうか。せっかくここまで来たのに見に行きたかったなあ。

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幸いタクシーは10分足らずで来てくれました。運転手さんに聞くと、登城口まで10分程度、そこから天守まで30分程度、帰りも迎えに来てくれるとの事で10分程度、ぎりぎり列車に間に合うかどうかかなあとの事。無理だと思ったら引き返してくださいと言われました。聞けばレンタサイクルは駅にあるはずなんだけど、駅員さんは列車の間隔が長いので奥に引き込んでしまうのだそうです。静かな町ですねと言うと、ここはもう終わっていると自嘲気味に言われました。最近は天空の城ブームで越前大野は賑わっている、特にインバウンドに人気だと聞いていたのですが、この日は観光客の姿も、地元の人の姿もほとんど見かけませんでした。車を走らせながらこの店も閉まってしまった、あの店も駄目だとぼやく運転手さんの話を聞いていると、本当に衰退しちゃったのかなと思えてきたのですが、実際どうなのでしょうね。

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越前大野城は金森長近が建てた城。亀山と言う小高い山に本丸を置き、山の東側に二の丸、三の丸、外郭を築くという梯郭式で 、西を流れる赤根川を天然の掘とし、外郭の周囲を堀で囲っていました。完成したのは1580年(天正8年)の事で、5年の歳月を要しています。古絵図を見ると山の中には石垣が築かれ、門や櫓で守られていたのですが、明治維新後ことごとく撤去され、わずかに本丸跡の石垣だけが残っています。現在はこのような緩やかな遊歩道が整備されており、市民の散策路となっているようで、およそ城跡らしくは無いですね。

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本来は緩やかな散策路を辿って行けば楽に本丸までたどり着けるのですが、時間の無い私は所々に設けられているショートカット用の石段を見つけては登って行きました。少し疲れましたが、山城跡の険路を行く事を思えば楽なものです。

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何とか天守までにはたどり着きましたが、ゆっくり展示を見ていく余裕はありません。それに館内は撮影禁止ですしね。急いで最上階まで登り、大野市街の景色を撮って降りてきました。時間を掛けて巡れば気持ちの良い街だったでしょうにね、何とも残念です。

越前大野城の天守は、2重3階の大天守、2重2階の小天守、それに天狗櫓が付属した複合連結式でした。しかし、1775年(安政4年)に大野を襲った大火(太郎兵衛火事)によって焼失し、以後再建される事はありませんでした。現在の天守は昭和43年に推定復元されたコンクリート製の復興天守です。史実とは異なりますが、良い雰囲気を醸し出していますね。雲海に浮かぶ姿は写真でしか見たことが無いですが、天空の城と呼ぶに相応しい素晴らしい景色です。

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帰ってから調べたところ、駅前のレンタサイクルは無くなっていたのでした。どうやら七間通というところに移転したらしいのですが、地図には載っておらず、未だに場所は判りません。実は事前に管理者の越前おおの観光ビューロに電話したのですが誰も出てくれず、曜日や時間を変えて何度か掛け直したのですがやはり同じで、結局ぶっつけ本番となったのですが、余所者には判る訳が無いのでした。観光に力を入れているはずなのに、ちょっと不親切に過ぎるんじゃないかしらん。せめて位置図くらい付けてほしいものですね。まあ、タクシーの運転手さんが親切だったので良しとします。

せっかく来たのに駅と城を往復しただけと何とも消化不良に終わってしまいましたが、半分は自分の責任なので仕方が無いですね。写真は九頭竜線を走る列車、恐竜のラッピングが福井らしくて良い感じです。ただ、この路線は一日に8本しか走っておらず、一本逃すと取り返しが付かなくなるというスリリングな所ですね。福井市と結ぶバスも似たようなもので、待合室で少し話をした方もぼやいていました。過疎と車社会が重なるとこうなるという典型で、高齢者が運転免許を手放さないのも無理は無いと思います。天空の城ブーム程度では、ダイヤの改善はされない様ですね。廃線になっていないだけましというのが悲しい現実です。(市内は循環バスが整備され、市民の脚については対策が施されている様でした。ただ、路線が複雑すぎて余所者が乗るにはハードルが高いです。)

2025年6月23日 (月)

初夏の旅2025 ~和歌山市雑賀崎 6.5~

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和歌山市は戦災によって旧市街地はほぼ失われており、城下町散策が出来る様な町並みはありません。そこで昼から行けるところは無いかと探したところ、雑賀崎というところが人気上昇中だと知りました。読み方は「さいかざき」。観光案内所で「さいかみさき」と言ったら訂正されました。万葉集にも詠われた古くから知られた景勝地であると共に、東側は入り江になっていて港に適しており、漁業の盛んな地です。

戦国時代には雑賀孫市で知られる雑賀衆の根拠地であったとされます。その痕跡はほぼ残っていませんが、灯台の下は鷹の巣と呼ばれる崖で、石山合戦後に信長に追われた教如を隠したという洞窟があります。

漁港としての雑賀崎は江戸時代に発展し、最盛期には四千人が暮らす町になりました。今は人口が激減し千人程度の集落になりましたが、平地が無いため山の斜面に築かれた集落は健在で、その独特の景観がイタリアの景勝地アマルフィに似ていることから「日本のアマルフィ」と呼ばれ、最近注目を集める様になりました。

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漁港は集落の東側にあります。この位置に家が建てられたのは、海から帰って来る船を見守るためだったとも言われます。左の屋根のある部分が魚の競り場で、休日には市が立って賑わいます。ここを見て思い出したのですが、岸田前首相が襲われた場所だったのですね。この日はとても静かな日で、こんなところまで首相が遊説に来て、さらにあんな騒ぎがあったとは信じられない思いがしました。

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当初の予定ではバスで来て集落を歩き、またバスで帰る予定だったのですが、本数が一時間に一本しかなく、さらにどれくらい時間が掛かるか読めなかったので、津山の時と同じくレンタサイクルを借りて行く事にしました。距離にして片道9km弱、津山とほぼ同程度です。崎までは平坦な道なのですが、山の中に入るとかなりの坂と聞いていたので、電動アシスト自転車を借りることにしました。ただ、津山ではバッテリー切れに遭い、大変な思いをしたので大容量のバッテリー車があるかを確認し、100kmまでは保証しますとの事だったので、その点は安心でしたね。それに道は曲がり角を間違えなければ後は一直線なので、全く迷わずに済みました。

ただ、集落に自転車で入れる様な道は見つからず、この後灯台まで行く予定だったので集落の散策はあきらめ、先を急ぐ事にしました。この点が今でも心残りですね。

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崎に入ると坂道ばかり、電動アシストでなければ相当苦労した事でしょう。最初に訪れたのは番所公園。紀州藩が海の見張り場を置いた場所です。一時他の場所に移されていましたが、ペリー来航以後この場所に台場が建設され、海防の拠点となりました。現在は芝生が植えられた日本庭園として整備されており、バーベキューも出来る観光スポットになっています。

写真は万葉集にある歌「紀の国の 雑賀の浦に 出で見れば 海女の燈波の間ゆ見ゆ」を刻んだ石碑です。聖武天皇が御幸されたときに、お付きの藤原房前が雑賀の浦の漁り火を見て詠んだとされる歌で、ここが古代から知られた景勝地である証しですね。

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これがその雑賀の浦。思っていた以上に透明な海で、何とも美しかったですね。この写真では判りにくいですが、遠くに淡路島や友ヶ島が霞むようにして見えていました。ただ、和歌山港にある工業地帯がつや消しと言えばそうですね。今は漁り火の代わりに工場の夜景が輝いている事でしょう。それはそれで現代的な美しさかもしれません。

この下の岩場にも降りられるようになっていたのですが、鎖を伝って行かなければならず、歳を考えて無理はしないことにしました。また、プライペートビーチがあるとの事でしたが、行き方が判らず断念しました。せっかく海辺に来ながら水と戯れる事が出来なかったのは残念です。

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番所公園から見上げた雑賀崎灯台です。下から見ると結構遠くにあるように見え、あそこまで行くのかと思うとちっとげんなりしましたね。しかし、案ずるより産むが易しで、いざ上ってみると意外と近く、10分足らずでたどり着きました。電動アシスト自転車の有り難さが身にしみましたよ。普通の自転車だと確実に音を上げていたでしょうね。

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雑賀崎灯台です。説明板も読まずに上ったのですが、普通の灯台のように中の螺旋階段を上がるのではなく、外の階段を登っていくという展望台の様な構造でした。それもそのはず、最初に展望台の計画があり、灯台はその後に乗って来たのですね。何とも珍しい成り立ちです。

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その灯台からの眺めです。右下にさっきまで居た番所公園が見えています。その先にある島が大島、一番向こうが双子島です。

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はるか沖合にはタンカーが停泊していました。面白いシルエットと思い望遠で撮ってみました。

雑賀崎は昭和30年から40年代にかけてにもてはやされた和歌浦の一部で、奥和歌浦とも呼ばれます。和歌浦はまだ子供だった私でも知っていた観光地で、あまりにも開発が進みすぎて自然景観が残っているのは雑賀崎だけだそうですね。和歌浦は海水浴場として依然として人気があるそうですが、景勝地としては聞かなくなったのはそのせいなのでょう。雑賀崎はまだほとんど手つかずの地。アマルフィと呼ばれる景観と共に、素晴らしい自然と綺麗な海を何時までも守ってほしいと願っています。

2025年6月22日 (日)

日本百名城探訪記 2025 ~和歌山城~

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和歌山城 天守と御廊下橋

*大阪から和歌山へ

令和7年6月5日、日本百名城の一つ和歌山城を訪れてきました。和歌山へは大阪の天王寺から阪和線で1時間20分程、わざわざ特急に乗るほどではないのですが、朝の通勤時間帯にあたったため行きはくろしお号で指定席を確保しました。この時期の和歌山行きは空いているだろうと思っていたのですがくろしお号は満席、なぜだろうと思ったのですが、白浜アドベンチャーワールドのパンダ目当ての人がほとんどだった様です。白浜のパンダはそれなりに人気はありましたが、いつても会えるという安心感があったのでしょう、それほど混雑したという記憶は無いです。しかし、今月28日に返還されると決まり、これが見納めとなると急に訪れる人が増えた様ですね。まだ余裕のあったこの日で満席でしたから、最終日となるとものすごい人出となる事でしょう。パンダはまた貸してくれるというニュアンスの発言がありましたが、いつ実現するか判りませんし、どこの動物園になるかも当然判りません。今のうちに見ておこうという人が増えるのも判りますね。

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和歌山城 大手門

*和歌山駅から和歌山城へ

和歌山駅からは電動アシスト自転車を借りました。この後海まで行く予定だったからで、バスだと本数が少な過ぎるためレンタサイクルにしたのです。津山から美作滝尾駅に行ったのと同じ理屈ですね。もっともバッテリー切れには懲りたので、あらかじめ大容量のバッテリー搭載車がある事を確認したのは言うまでもありません。

*和歌山城大手門

駅から和歌山城まで自転車だと10分程度。駅前から伸びる道はけやき大通りと言いますが、緑が多くて気持ちの良い道でした。やがて城が見えてきて、最初にあったのが大手門。普通大手門と言えば大きな櫓門が聳えているか、入り口の門は小さくてもすぐ後ろに櫓で構成した枡形があるのですが、ここは小振りな高麗門があるだけでした。あれっという感じでしたが、後で知ったところではこの奥が連続枡形になっており、ちゃんと防御は考えられていたのですね。なお、オリジナルの門は明治42年に自然崩壊したとの事ですから、廃城後も残っていたけれども、全く補修されずに放置されていたという事なのでしょう。当時城の門が文化財という意識が無かったのでしょうね。その後は一ノ橋だけが残っていたのですが、昭和57年に大手門が復元され、翌年に一ノ橋もまた架け替えられました。

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和歌山城 二の丸広場から見た天守

*他山城 不幸天守と復元された御廊下橋について

大手門は自転車進入禁止だったのでそのまま進むと、和歌山城撮影スポットと書いた看板がありました。そこから見た景色が冒頭の写真です。現在の和歌山城を象徴する景観で、天守と堀、それに御廊下橋を同時に見る事が出来ます。御廊下橋は和歌山城の中枢と言うべき表、中奥、大奥(政庁、藩主の御殿、奥女中の生活空間)があった二の丸と、能舞台や庭園のあった西の丸を繋ぐ廊下で、平成18年に復元されました。藩主や奥女中が通る廊下であるため、雨風を防ぐ屋根と壁で覆われており、斜めに架かっているという他に例を見ない独特の橋ですね。歩いてみると見た目以上の傾斜があり、滑らない様に滑り止めが付いています。実のところ、この滑り止めは結構歩き難いのですが、創建当時からあったものを復元した様です。

上の写真は二の丸広場から見た天守です。三層の天守と小天守、二之御門櫓、乾櫓を多門櫓で繋いだ連立天守で、昭和20年の和歌山大空襲で焼けた後、昭和33年にコンクリート(一部は木造)で古写真などを元に外観復元されました。なかなか格好の良い天守群なのですが、はっきり見える場所は限られており、この位置からが一番良く見えますね。

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和歌山城天守の展示 武具類

*和歌山城の歴史

和歌山城を最初に築いたのは豊臣秀長、1585年(天正13年)に紀州征伐の報償として和泉、紀伊の二カ国を加増され、秀吉から当時若山と呼ばれていたこの地に築城を命じられました。秀長は若山を和歌山と改称して自ら縄張りを行い、藤堂高虎・羽田正親・横浜良慶を普請奉行にして城を築いています。その年の内に天守と本丸部分は完成したようですが、秀長は大和郡山城に移り、和歌山城には城代として桑山重晴を置きました。この当時の城については良く判っていませんが、城内には野面積みの石垣が多く残っており、特に天守台には転用石が多く用いられていて、秀長当時の遺構ではないかと考えられています。

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和歌山城と城下町の古図

*浅野家の入城

秀長の死後は養子の秀保が継ぎ、重晴はそのまま秀保に仕えますが、1595年に秀保が亡くなると和歌山城主となり、城の整備拡張を進めた様です。関が原の戦い後は東軍に属した桑山一晴(重晴の息子)に二万石が与えられ、引き続き桑山氏の居城となったのですが、一晴はすぐに大和新庄潘に転封になり、後に37万6千石で浅野幸長が入りました。

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天守から見た西の眺望

*浅野幸長による改築

幸長は城の整備拡張に着手し、大手門を岡口門から現在の位置に変え、大手筋を基軸とする城下町を整備しました。連立天守を築いたのも幸長で後にまで引き継がれる事になります。ただし、外観は黒板張りで、安土桃山期の様式を色濃く残していた様です。浅野期の痕跡は石垣に多く残っており、石を積む技術の発展期らしく、野面積みから打ち込み接ぎまで変遷を辿る事が出来ます。二の丸に御殿を作ったのも幸長でした。

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本丸跡から見た天守

*紀州藩の本拠地となった和歌山城

元和5年(1619年)になると、浅野家は広島に移封となり、後に徳川家康の十男、頼宣が入国し、紀州藩55万5千石が成立しました。賴宣は幕府から二千貫を賜り、更なる城の整備に着手します。砂の丸・南の丸の造成、二の丸の拡張が行われたのもこの時期です。ただ、御殿など主な施設は二の丸など北部に集中し、南側に拡張した砂の丸、南の丸にはほとんど建物は無かった様です。なぜせっかく拡張しながら空き地のまま放置したのかは判っていません。

写真は本丸御殿跡の展望台から見た天守。浅野家時代には天守や本丸御殿が中心施設だったのですが、徳川家の時代になると本丸御殿は手狭であるとしてほぼ空き家のまま放置され、天守もまた武器庫として使用される程度で、城の象徴として寛政10年(1798年)に白い塗り籠めに改められましたが、普段使いされる事は無かった様です。なお、現在の本丸跡はごく狭い展望台でこれで本丸なのかと思ったのですが、明治期に貯水池が築かれており、現状では木が生い茂って隠れており、往時の面影は無いのでした。

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野面積みの石垣

*変化に富んだ和歌山城の石垣

和歌山城であれっと思ったのは野面積みの石垣が多く残るという事で、これは前述の通り秀長、重晴、幸長の各時代に築かれたものがそのまま残されているためです。このあたりはどうも秀長の時代のものらしいですね。徳川御三家の一つの居城ですから、大阪城の様な打ち込み接ぎや切り込み剥ぎの石垣を想像していただけに意外でした。でも、この長大な野面積みの石垣には時代の乗った味がありますね。

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技術の変遷が判る石垣群

ここは本丸に通じる石段です。下段は野面積みから打ち込み接ぎへの過渡期、上部は打ち込み接ぎと微妙に異なります。徳川家の時代になっても城の改築は断続的に行われており、それを記録した資料も残っている事から、江戸時代以降の城の変遷は追う事が出来ます。

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和歌山城 西の丸庭園

*和歌山城の防御と堀

和歌山城の堀は少し変則的で、大きくは北側に紀ノ川という大河が流れ、当時は城の西側も広い河口になっていました。三の丸を囲む外堀はありましたが、城下町を囲む総構えはありません。内堀は北と東が一続きになっていた他は南に独立した堀があり、西は一部しかなく後は堀に続く石垣が防御壁になっていました。つまり、内郭は堀で囲まれていたわけでは無かったのですね。また、内堀と外堀は繋がっており、さらに紀ノ川とも水路で繋がっていました。北西に船着き場である雁木が置かれており、ここから城内に物資を運び入れる様になっていました。

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徳川八代将軍 吉宗の銅像

*外から見た和歌山城

城を出て外周をぐるっと回ってみました。外からどんな風に見えるだろうと確かめたかったのです。城の南西に行くと紀州藩から徳川宗家を継いで八代将軍となった吉宗の銅像がありました。和歌山でも最も有名な人だと思うのですが、なぜ城内でなく車が行き交う交差点の一角にあるのでしょうね。余所者には判らないけれど、この場所は和歌山市民にとっては馴染み深い場所なのでしょうか。

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南西の歩道橋から見た天守

城の外側から天守が見える場所というのは意外と少ないのですね。城内の木が生い茂っており、天守を隠しているのです。比較的よく見えたのは南西部にある歩道橋の上から見たこの景色でした。ビルの上層階に上ればよく見えるかもしれませんが、部外者がおいそれと入る訳には行きませんからね、北の二の丸以外ではお勧めの場所かと思います。

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和歌山城 東の堀と天守

東側には広い堀が残っており、また雰囲気が違いますね。今はそれほどでもありませんが、かつては水質が悪化していたのでしょう、水質浄化用の施設が目立っていました。

和歌山市では早くから和歌山城の保存計画を策定しており、これまで石垣の調査保存、大手門や御廊下橋の復元などを行ってきました。現在の天守は復元後66年を経過しており、雨漏りがするなど老朽化が進んでいます。コンクリート構造物としては限界に近く、平成の初め頃には木造で復元する計画が策定されましたが、30年以上経過しても手が付けられていません。主として巨額な費用面が問題で、計画自体は残っていますが、超長期的な課題として位置づけが変わっています。それまでの間は現在の天守の耐震化、老朽箇所の補修などを進めていく様ですね。またこれも長期的な計画ですが、二の丸や本丸の復元も予定されています。私は復元された城を見る事は出来そうにもありませんが、孫の代には蘇った姿を見られるかもしれませんね。

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和歌山銘菓 かげろう

*和歌山のお土産

和歌山のお土産で代表的なものは何ですがと観光センターで聞いたのですが、梅干しですという答えが返ってきました。なるほど、和歌山と言えば梅ですよね。でも、梅干しはどこでも買えるので他にはと聞いたところ、かげろうというお菓子を勧められました。駅でも買えるという事なので、売店で見つけたのがこのお菓子です。ふんわりとした食感で、他では味わえないものですね。土地に根ざした名産を探すのも城巡りの醍醐味の一つ、次はどんな名物と出会えるか楽しみです。

令和7年6月5日訪問

2025年6月21日 (土)

京都・洛西 沙羅の落花2025 ~鹿王院 6.20~

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東林院から鹿王院に来ました。移動は嵐電を使えば簡単なのですが、帷子ノ辻で乗った嵐山行きの電車は満員、大半がインバウンドでした。この真夏日に何でと思いましたが、インバウンドにとっては季節関係無く、嵐山は絶対に行くべきスポットなのですね。嵐電の沿線には魅力的なスポットがいくつもあるのですが、途中下車する人はほぼ皆無でした。鹿王院もその一つで、下車したのは私を含めて二人だけ、もう一人の方は仕事絡みだったらしく、すぐに別方向に行ってしまわれました。つまり鹿王院に向かったのは私一人、いつものごとく独り占め状態でした。

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東林院から鹿王院に来たのは、これも毎年恒例になっている沙羅の花を見るためです。ここには大きな沙羅の木があって、沢山の花を咲かせるのです。

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ただ、ピークにはまだ早かったらしく、思ったほどには花は散って無かったです。最盛期には地面が真っ白になるほど積もるのですけどね、ここ何年かは時期を外してばかりです。たぶん東林院に合わせて来ているためで、ここは少し遅めに咲くのですね。判っていながら東林院だけではつまらないと来てしまう、いい加減このパターンは崩した方が良いかも知れませんね。

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鹿王院は足利義満が建てた寺。宝幢寺という天龍寺に匹敵する大寺の開山堂だったのですが、応仁の乱で宝幢寺が荒廃し、かろうじて開山堂だけが残ったのでした。現在客殿に掲げられている扁額は義満直筆のものと伝わります。この写真では判りませんが、近くで見ると左下に准三后と記されています。太皇太后・皇太后・皇后に準ずる地位と待遇を与えられた者という意味で、天皇の外戚以外では義満が最初の例とされます。

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こには2年程前からかな、スタッフという腕章を付けた方が居て、色々と説明して下さいます。パンフレット以上に細かい話が聞けて面白いですよ。例えば沙羅の木が随分と大きいですねと聞いたところ、一度台風で倒れた事があり、おき上げる際に枝を切ったところ、以前よりぐんと伸びてしまったのだとか。要するに切り戻しの効果が出たのでしょうね。

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また、茶室についても面白い話がありました。元々鹿王院にあった茶室「滴水庵」は俳優の大河内伝次郎が惚れ込み、時の住職に頼み込んでもらい受け、大河内山荘に移設されました。ここまではホームページにも記されていますが、その後伝次郎は返礼として現在の茶室を奉納し、この廊下も同時に作られました。全て北山杉の上材を使用しており、一見質素に見えて、実はとても贅沢なものなのですね。時の映画スターの財力を示すエピソードとして興味深いものがあります。鹿王院以外の話には少し怪しい部分もありますが、拝観者がとても少ない事もあって、延々と相手をして頂けますよ。

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この日のお土産は「うずまさふたば」さんで買いました。写真は丹波黒豆大福。ふたばという店名と豆大福と言えば出町ふたばさんを連想しますが、特にこの店とは関係は無い様です。ただ、見た目はよく似ていますね。食べてみるとこちらの方がやや塩味が強く、歯ごたえが柔らかいです。美味しさは甲乙付けがたいですね。

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こちらはフルーツ大福。いちご大福の発展型と言うべきでしょうか、フルーツを丸ごと包んだ大福です。何種類かありましたが、この日はぶどうとイエローメロンを選びました。果物と大福が相性が良いのはいちご大福で証明済みですが、メロンやぶどうもこんなに美味しいとは思いませんでした。本当に和菓子の世界は深いですね。

この店は東映京都撮影所の前にあり、映画に出てくる和菓子はこの店で作っているのだとか。贔屓にしている俳優さんも多いとのことで、店内にはパネルが沢山飾ってありました。場所は嵐電北野線の撮影所前駅の近くです。帷子ノ辻駅から歩いてもすぐですね。出町ふたばは長蛇の列が出来ますが、こちらはごく空いています。嵐山の帰りに寄り道するにも良いところですよ。

2025年6月20日 (金)

京都・洛西 沙羅双樹の花を愛でる会2025 ~妙心寺塔頭 東林院 6.20~

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令和7年6月20日、妙心寺塔頭東林院で行われている「沙羅双樹の花を愛でる会」に行ってきました。以前は拝観料が高いと思って敬遠していたのですが、ここは数年は恒例になっています。なぜって、拝観料1000円の所が増え、抹茶付きで1600円ならそれほど高いと思わなくなっているからです。インフレの世の中に慣れてしまうのって怖いですね。

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会期は22日までと終盤を迎えていましたが、花はこれからが盛りの様ですね。例年の開花状況を基に会期は決めているのでしょうけれど、なかなか自然相手では思うようには行かない様です。

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出来ればもう少し落花が欲しかったところですが、まあ木を相手に文句を言っても仕方が無い。まだ咲いていただけ有り難いという所でしょう。

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2004年に枯れた古木は見た事がありませんが、写真で見る限りとても立派な木だったのですね。きっと最盛期には沢山の花を散らせ、さぞ見事な景色だった事でしょう。

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花としては本堂の西側の方が沢山散っていました。日当たりが無かったのが残念ですが、狛犬と相まって良い風情でした。

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メインの沙羅の木は、葉の数が減っている様に感じました。お寺の人はこんなものですと言われていたけれど、2年前と比べると明らかに違いますね。一時的なものかも知れませんが、少し気になる所です。

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抹茶とお菓子は毎年変わりません。沙羅の花をイメージした生菓子は今年も美味しかったです。花が少なかったのがちょっと残念でしたが、やはりここの風情は良いですね。来年もまた諸行無常の雰囲気を味わいに来たいと思っています。

2025年6月19日 (木)

京都・洛東 紫陽花2025 ~智積院 6.17~

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三室戸寺から智積院に来ました。ここもまた紫陽花の名所として知られる寺です。

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規模としては三室戸寺にははるかに及びませんが、三室戸寺が桁外れなだけであって、智積院が標準的と言えるでしょう。しかも無償ですからね、これだけの花を咲かせるには相当な手間と費用が掛かるはずですし、それを誰でも自由に見られる様にしているのは、素晴らしい取り組みだと思います。

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智積院の紫陽花は、この日がほぼ見頃だったと思います。どこを向いても満開の株ばかり、本当に素敵な空間でした。

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現在の紫陽花は沢山の種類があり、大きめの園芸店に行けば多様な花を見る事が出来ます。それに比べてここは種類が少なくてつまらないと話している人が居ました。まあ、感じ方は人それぞれに違いますね。私的には赤、青、白、ピンクと揃った沢山の紫陽花を、開放的な屋外で見られるだけで十分だと思います。多様性を求めるなら、植物園に行けば様々な種類の紫陽花が咲いていますからね。

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拝観者は平日にも係わらず、結構な人数が来ていました。そのうちインバウンドは二~三割程度。この割合はここ数年変わっていませんね。あまり広がりを見せないのは不思議な気もします。

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ここの紫陽花もそろそろ痛んでくる頃かな。まだ暫くは見頃が続くと思われますので、行かれるなら早めの方が良いとお勧めしておきます。

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この日のお土産は甘春堂さんの「天の川」。少し高かったのですが、あまりに鮮やかだったので買ってしまいました。見た目の美しさは勿論、味も素晴らしい羊羹です。どうやってこの模様を描いているのか判りませんが、とても素敵な仕事ぶりですね。

2025年6月18日 (水)

京都・洛南 紫陽花2025 ~三室戸寺 6.17~

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令和7年6月17日、三室戸寺を訪れてきました。ずっと紫陽花情報を見てきたのですか、今年は例年より気温が低く推移しているとの事で、先週の金曜日時点で5~6分咲き程度でした。もういい加減満開近くになっているんじゃないかと、しびれを切らせてやって来たという次第です。

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体感的には例年より寂しく見え、まだ7分咲き程度かなと思いました。ところが帰ってから公式Instagramを見てみると、やっと見頃になってとあります。えっ、そうなのと思いましたが、お寺がそう言うのならそうなでしょう。つまり、今年は例年より花付きが今一つという事です。

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全体としては少し物足りなかったですが、個々には美しい花が沢山ありました。さすがは紫陽花の寺を名乗るだけの事はあります。

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拝観者はまずまずと言ったところで、開門前から行列が出来ていましたが、20人くらいだったかな、シーズン中にしては知れたものです。時間と共に増えて来ましたが、それでもまだ知れたもので、ゆったりと拝観出来ましたね。

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拝観者のうちインバウドが占める割合は3割程で、年々増えてきていますね。帰り道でインバウンドのグループと何組かすれ違ったので、昼近くになると割合はもっと増えていたかも知れません。

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ニュースにもなったミャクミャクのアートは、早くに撤去されていました。見頃になったら来ようと思っていたのですが、前述のとおりかなり遅れてしまったので、アートの紫陽花が持たなかったようです。

花手水は相変わらず豪華なもので、紫陽花の花で埋まっていました。写真は紫陽花に埋もれた不動明王様。普通炎の光背の前で憤怒の表情をされている事が多いですが、花の中に浮かぶ姿も悪くは無いですね。

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本堂前では蓮が咲き始めていました。こちらは例年より少し早い気がしますが、美しい花に出会えたのは嬉しかったです。最盛期はたぶん7月の初めから中頃、その後も8月の半ばくらいまでは咲き続けます。また、この花が盛りになる頃に来てみたいと思っています。

2025年6月17日 (火)

初夏の旅2025 ~男はつらいよ 寅次郎紅の花ロケ地 美作滝尾駅 5.22~

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津山に来てどうしても行きたかったのが美作滝尾駅。「男はつらいよ 寅次郎紅の花」の冒頭で出てきた駅で、その素朴さを見ていつか行きたいとずっと思っていたのでした。

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今回津山を訪れるにあたって地図を眺めていると、右上の方にこの駅が載っているに気が付きました。意外と近いじゃないかと思ったのが事の始まりです。まず駅ですから、当然列車に乗って行く事を考えたのですが、調べてみると因美線は津山駅発が一日に8本しかなく、じゃあ帰りはどうなんだと検索してみると2時間は待たなければならないと判りました。いくら何でもここまで本数を減らさなくてもと思いましたが、実際行って見て感じたのは確かに需要が無さそうだなという事。乗客が少ないから本数を減らす、本数が少ないからまた乗客が減る、するとさらに本数を減らすという悪循環に陥っている様です。もっとも、平行して走っている国道や県道は結構な交通量があり、本来需要はあるのだけれども、車の方が便利だから乗客がどんどん減ってしまったというところでしょうか。車社会になってしまった地方の良くあるパターンなんでしょうね。

後、第三セクターの智頭急行が1994年に開通し、京阪神や岡山と鳥取を結ぶ特急が流れてしまったというのも大きい様です。1997年までは宇野と鳥取を結ぶ急行「砂丘」が通っていたのですが、智頭急行を通る特急「いなば」に置き換えられたため、津山~智頭間の存在価値が一気に下がってしまったのでした。

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廃止が取り沙汰される津山~智頭間ですが、昔ながらの素朴な駅が多く、鉄道ファンには人気があるようです。特に美作滝尾駅は私のような寅さんファンも訪れるからでしょうか、無人駅にも関わらず駅長室や切符売り場の窓口がそのまま保存されており、一日に何人かは駅を見るためだけに訪れている様です。この日も私の前に一人ベンチに座っている方が居て、次の列車を待っておられました。帰り際に、この先にも良い駅があるよと誘われたのですが、時間が無かったため、丁重にお断りしました。鉄道ファンにすれば、そういう旅も楽しいのでしょうね。私は乗り鉄でも撮り鉄でもないですが、城巡りでローカル線に乗ることが増え、鉄道に乗るだけの旅も面白いかもと思い始めている所です。

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では津山からここまでどうやって来たかと言えば、レンタサイクルを借りて走って来たのでした。津山から美作滝尾までおよそ10km、遠いようですが、普段京都を自転車で巡っているとそれ以上の距離はざらに走っているので、何とかなると考えたのです。それに観光センターに確認すると電動アシスト自転車があるとの事でしたので、これなら楽勝かなと思ったのでした。

ところがいざ自転車を借りようとすると、古いタイプの電動アシストなので電池が往復20km持つかどうか判らないとの事。電池が切れるととても重い自転車になってしまうので、気を付けてと言われてしまいました。それに国道は結構交通量が多く、かつ歩道が無い所もあるので危ないですよとも。地図を見て回り道はどうですがと聞いたところ、国道から外れるとすぐに山道になり、アップダウンがきつく、すぐに電池が切れてしまうので絶対に入らない様にとの事でした。

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不安を抱えていざ走り出してみると、電動アシストはとても軽く、スイスイ走れます。これなら楽勝だと思っていたのですが、すぐにやらかしてしまいました。出雲街道を走って広い道を左に曲がれば良いと簡単に考えていたのですが、広い県道を国道と間違えて曲がってしまったのです。そしてその先は入ってはいけないと言われていた山間部でした。それも思っていた以上にきついアップダウンの道でした。それても最初のうちは電動アシストのおかけで順調に走っていたのですが、ふと手元のメーターを見ると電池の残量が50%になっています。これはまずいと思い、長距離用のモードに切り替えたのですが、その途端に30%になってしまいました。大変な事になってきたと電池を切り、上り坂は自転車を押して上がり、下りは乗って降りるを繰り返したのですが、国道に出るまで実に長かったですね。やっと着いたと思ったのですが、実は国道に出てはいけなかったのでした。その手前で別の県道に入らなくてはいけないところを通り過ぎ、暫く走ったところでこれはおかしいと気が付きました。すぐに引き返したのですが、今度は県道に入る交差点が変則五差路とも言うべき道になっており、どこへ入れば良いのか判らなくなりました。どうやらここらしいと入った道が正解だったのは良かったのですが、この時点で電池の残量は19%、まあ後は平坦な道だから大丈夫だろうと思っていました。ところがこの県道、一見して平坦なのですが、実はゆるやかな上り勾配で、しかも果てしなく長いのですね。暫くは電池無しで走っていたのですが、とても続かなくて押して上りました。そして勾配がきついところたけをアシストに頼り、ようやくこの駅にまでたどり着いたのでした。

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やらかしまくった挙げ句、着いたのは予定より30分遅れ、この駅舎が見えた時は嬉しかったですね。素朴な佇まいは映画で見たまま、違うのは無人駅だった事くらいで、ガラス越しに駅長室を眺めてみたりとか、ホームに出てここで寅さんがトンボを捕まえようとしていた場所だったなとか、単線の線路と誰も居ないホームを見て旅情を感じたりとか、十分に楽しめました。散々な目に遭いましたが、来た甲斐はありました。開き直って言うと、見知らぬ町で道に迷うのも旅の醍醐味の一つ、おかげで色々な景色にも出会えましたしね、終わってみれば実に面白かっです。ただ、若い頃は紙の地図さえあればどこでも迷うことは無かったのですけどね、スマホで現在位置が判るのに、これだけ間違えるという事は判断力が相当衰えているという事でしょう。これから先、心当たりしておかなければならないと感じています。

帰りは下り道で楽だったし、国道を通ったので迷うことはありませんでした。ただ、歩道が途中で無くなってしまうのには弱りました。国道に自転車レーンは無く、車道を走るのは本当に危ないのですね。でもそういうところは大抵反対車線に歩道があり、車が途切れるののを待って右と左を行き来するのを繰り返しながら帰ってきました。その道すがらで見たのは、イオンモールや家電量販店といった大型の店舗。多くの町と同様、町の中心部の商店街を寂れさす構図が、ここにもあったのでした。自転車を返した時には電池残量が3%、まさにぎりぎりでしたね。もう帰りの電車の時間が迫っていたので、西の重伝建の散策は出来ませんでした。

帰り際、森本慶三記念館横にある原っぱでは、高校生たちが歓声を上げで遊んでいました。後で知ったのですが、ここは寅さんで出てきたホテルの跡地で、城下スクエアという名前でわざと芝生地にしてあるそうですね。街中に学生が自由に使える空間があるというのはうらやましい限りですが、ここはまた中高生が中心になったイベント会場になったりするそうで、街中の活性化の一助になっているのだとか。これは一例ですが、津山市はまだまだ中心街の再生は諦めていない様ですね。街中の再生に成功した例として長浜市の黒壁があります。アイデア次第では寂れかけた商店街の復活もあり得なくも無い。いつか津山市にもそんな日ガ来ると良いですね。

2025年6月16日 (月)

初夏の旅2025~津山市 5.22~

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津山市の玄関口は津山駅。津山線、姫新線、因美線が交わるターミナル駅です。かつては鉄道の町として栄え、その名残として駅の隣に扇面車庫があり、これは現存する中では京都の梅小路機関区に次ぐ規模を誇ります。しかし、現在はどの路線もローカル線の常として本数が少なく、津山線で1時間に2本ないし1本、姫新線は朝夕の通勤時間帯に一時間に2本、他は1本、それに姫路までの直通車は無くなっています。高校生の時に来たときは、姫新線の急行列車に乗ったのですけどね、今はもうありません。因美線に至っては一日に8本のみで、昼間は2時間ないし3時間に一本、そして鳥取まで行く列車は無く、津山~智頭間はいつ廃線になってもおかしくないという状況の様です。衰退の理由はお定まりの車社会への転換。午後から自転車に乗ったのですが、国道や主要県道の交通量はかなりのものでした。

三本の路線のうち津山線は赤字ながら比較的良好な路線で、特に法界院駅は岡山大学、岡山理科大学などの最寄り駅であり、岡山駅からわずか一駅ながら朝・夕は学生達で混み合います。このため、朝の数本は4両編成になっており、私が岡山駅から乗った時は前2両が切り離されるタイミングでした。

津山線は最初は旭川水系、途中から吉井川水系沿いを走ります。山間部には違いないのですが、沿線のほとんどに水田と集落があり、とても開けた印象を受けました。江戸時代は水運が盛んで、それで栄えた地域なのかもしれません。また、山中にこれだけの水田があるということは、新田開発の場でもあったのかも知れませんね。路線としては途中の駅舎に昔ながらの味のある所が多く、鉄道ファンならさぞかし楽しい事でしょう。

ただ、農業以外にどんな産業があるかのかと眺めていたのですが、車窓から見る限りでは特にめぼしい会社や工場は無かったです。つまりは農業が主力で、後は岡山市や津山市に勤めている人たちが住んでいるということになるのかな。いわゆる中山間地で兼業農家の米作りが主力だとすると、今後はどうなるのでしょう。上手く農地の集約化を図り、効率化する事が出来るのかしらん。日本の原風景が楽しめる路線と書いたサイトが多いけれど、そんなにのんびりしていられるのかな。車窓を見ていて、素直に楽しめない思いがしました。

何も知らない余所者が判った様な事を書いてごめんなさい。

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そんな山間部を抜けると忽然と現れるのが津山市。人口9万7千人余りの中規模都市ですが、岡山県下では第三の街になります。古代から美作国の中心であり、江戸時代の初めに森忠政が津山城を築き、城下町を整備して繁栄の基を形作りました。18万6千石の領地を持つ上に、吉井川の水運と出雲街道の往還によって津山は発展し、中国山地の一大拠点となります。森家は四代続きましたが、後嗣不在のため改易となり、後釜に松平家が10万石で入りました。森家の年貢は七公三民という厳しいものでしたが、改易となった後の一時期天領となり、五公五民に緩められました。松平家はこれを大名領としては標準的な四公六民に改めましたが、森家当時よりも軽かったにも関わらず、一度五公五民を知った領民達は不満を覚え、一揆を繰り返すようになります。これを松平家は力で抑え込み、財政が悪化するとさらに賦課を加えます。農民は窮乏を極め、松平家の治世は常に不安定なものでした。

その一方で学問は盛んであり、優れた洋学者を輩出しました。中でも有名なのが箕作阮甫で、医学、兵学、宗教学など幅広い分野を修め、数多くの著書を著して世に知られました。幕府が蕃書調所を開くと主席教授に抜擢され、またお玉ヶ池種痘所の開設にも尽力されました。これらの施設は後の東京大学に引き継がれており、東大の基礎は阮甫が作ったとも言われます。阮甫がもたらした西洋の知見は当時の知識階級、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与えました。津山駅前には阮甫の銅像があるほか、城東地区には生家跡が保存されています。

明治維新後は岡山県に編入されますが、三本の路線が交わる交通の要衝として発展を続け、県北の中心都市として存在感を発揮しました。現在は鉄道に代わり中国自動車道を始め道路網が整備され、6つの工業団地を持ち、また郊外では農業も盛んで、岡山県第三の都市としての地位は健在です。

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しかし、全国的な傾向と同様、少子高齢化と人口の減少の波には逆らえていません。また中心部の空洞化も顕著で、駅から続く道沿いやアーケードの付いた商店街はシャッター通り化が進んでいます。郊外にはイオンモールなどの大型商業施設が立ち並び、車社会と化した町はドーナツ化減少が止められないようですね。行政は全くの無策だったかと言うとそうではなく、コンパクトシティ化を目指し、大規模な再開発を行っています。その象徴が写真のアルネ津山、商業施設、コンサートホール、展示場、図書館などの公共施設からなる巨大な複合施設で、1999年にオープンしました。先行した高層住宅街や高齢者交流施設などを繋ぐ拠点となるはずだったのですが、百貨店の天満屋の他はほとんどテナントが集まらず、商業施設ゾーンはがら空きの状態で、賑わいの創出は失敗に終わりました。270億円という巨費を投じた立派な施設がなぜ不発に終わったのかと言えば、計画されたのがバフル期の真っ只中で、あまりにも様々な要素を詰め込み過ぎ、かつ10万都市には大きすぎる商業施設を作ろうとしたためと言われます。現在は維持費を賄うだけのテナント料収入は無く、税金を注ぎ込んで持たせている状態、一時は市長のリコール騒ぎまで起きています。完成当時は官製再生事業の成功例としてもてはやされたのですが、悲しい事に津山市の負の象徴と呼ばれる様になってしまいました。

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アルネ津山に続くこの商店街も実に綺麗に整備されているのですが、半ば以上の店が閉じられており、ご覧のように人通りは全くありません。計画ではアルネ津山と共に繁栄するはずだったのですけどね、こちらも完全な失敗となってしまいました。これだけの商店街がもったいない話ですが、車社会にあっては駐車場の無い商店街は衰退する運命なのかなあ。このまま寂れていくのはあまりにも惜しいと思うのですが、起死回生の一手は無いのでしょうかね。

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津山を訪れるにあたって、名物は何かと調べたところ、畜産業が盛んで津山和牛が美味しいとありました。ホルモン焼きうどんという名物もあるのですが、私的にはちょっとと思いパス。ステーキ丼はどうだろうと調べると、北海という店が人気らしいと判りました。しかし、予約出来ないかと電話してみると、ランチは大人気で行列が出来るらしく、予約は受けていないとの事。次に見つけたのがアルネの近くにある櫓という店。こちらなら予約は要らないだろうと行ってみたのですが、ステーキ丼はメニューから外されていました。ネットだけで調べるとままある話で、古い情報がそのまま残っているのですね。やっぱり面倒がらずに直接確かめるべきだった。仕方が無いので頼んだのがハンバーグ定食。これも津山牛ですかと確かめたのですが、ちょっと判らないとの事。まあ牛肉には違いなく、結構美味しかったので良しとします。

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昼からは電動アシスト自転車を借りて津山市内を巡る事にします。その自転車を借りる観光センターの前にあったのが森本敬三記念館。元は津山基督教区図書館で、大正15年(1926年)に建てられました。三角屋根の時計塔が印象的な重厚な建物で、国の登録有形文化財に指定されています。基督教区図書館は日本唯一の存在で、今でも65000冊の蔵書があるそうです。

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津山には二つの重伝建があり、最初に訪れたのが城東伝統的建造物保存地区。旧出雲街道沿いに残る古い町並みです。商家跡が中心で、江戸時代に津山が繁栄していた事を示す象徴的な町並みです。

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江戸時代には店の間口の広さに応じて税が課される事が多く、篠山の河原町などのように妻入りで鰻の寝床になっている家を良く見ますが、ここは平入りなのですね。税の掛け方が違ったのでしょうか。格子戸や虫籠窓、袖壁などが江戸時代の町家の特徴を良く残しています。

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火の見櫓が象徴的な作州城東屋敷。城東地区の中程にあり、「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」のロケ地の一つです。建物は江戸時代のものではなく、平成5年に城東地区の町家の特徴どおりに再建したもので、無料休憩所、津山祭のだんじり展示場などの複合施設です。建築後30年以上を経過していますが、外観はとても綺麗ですね。たぶん定期的に手入れをしているのでしょうか。

寅さんロケ地は出雲街道の一筋北側にもあるのですが、クーグルマップのストリートビューで確認したところ、多くの家が建て替えないしは取り壊されており、また溝にも蓋がされているなどすっかり様変わりしていました。20数年前に来た時はまだ映画のとおりだっのですけどね、たつの市と同じく時の流れというものは残酷な様です。

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ここが箕作阮甫の旧宅です。駅前に銅像が建つほどの郷土の偉人ですから、旧宅もしっかり保存されていますね。ここも先を急いでいたので入らなかったのですが、無理してでも見てくれば良かったかな。

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城東地区ある伝統的建物は231軒、町並みを守るために新築、増築、改築は無論のこと、看板の出し方、エアコンの室外機の設置に至るまで細かくルールが決められています。重伝建はどこでもそうですけどね、実際に人が住みながら町並みを守っていくのは並大抵の事ではないと思われます。。住民は相当な我慢を強いられているはすで、この町並みに愛着と誇りを持っていなければさっさと引っ越してしまうでしょう。実際に町を守っている人たちには、頭が下がる思いです。

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出雲街道を東に走り、重伝建を抜けたずっと先にイナバ化粧品店があります。B’zのポカール稲葉浩志さんの実家で、ファンにとっての聖地ですね。前回訪れた時は店内はB’z関連の展示で溢れていましたが、今はどうなっているでしょう。前は家族揃って店に入ったのですが、今回は私一人だっので気後れがしてしまい、入らず仕舞でした。時間も無かったし、何を買えば良いのかも判らなかったですからね。以前は買物をしたらメンバーズカードが貰えたのですが、今はどうなっているのかしらん。

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津山の旅はまだ続くのですが、ここでお土産を紹介しておきます。八文字というお菓子屋さんが出している最中で、美作守と書いて「くにまもり」と読みます。観光センターでお土産は何が良いかと聞いた中の一つで、柚子餡・挽茶餡・小倉餡が中に入っています。一つの最中で三種類の味が楽しめる訳で、とても美味でした。以前はお土産と言えばそれなりのものが多く、大して美味しくないという事が常識だったのですが、最近は質が上がって外れという事が無くなって来ました。これは嬉しい変化ですね。観光センターの係員の方、美味しいお土産を選んでくれてありがとうございました。

2025年6月15日 (日)

日本百名城探訪2025 ~津山城 5.22~

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令和7年5月22日、百名城の一つ津山城を訪れてきました。津山城を訪れるのはこれで三度目、一度目は高校生の時、二度目は二十数年前に家族旅行、そして今回が三度目の一人旅です。もっとも、家族旅行の時は冬で、あまりの寒さに登城はあきらめ、登り口の階段で記念写真を撮っただけだったので、登城としては二度目となります。

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津山市は岡山県北部にあたる美作国に属します。かつての国府は市の北西部の総社と呼ばれる地にあり、津山城跡を挟んだ南東部には国分寺がありました。この事から古代にはこの地が美作国の中心部であった事が判ります。ただ中世になると院庄に守護所が置かれ、一時的に中心部から外れることになります。南北朝時代には、美作国は山名氏と赤松氏による勢力争いの地となり、各地に山城や砦が築かれました。鶴山と呼ばれていた津山城跡の地にも山名氏が砦を築いていたことが知られます。そして戦国時代になると安定した勢力の居ない美作は、周辺の戰国大名達の草刈場になり、浦上氏、尼子氏、宇喜多氏、毛利氏などの諸勢力が主導権を巡って攻防を繰り返し、最終的には宇喜多氏の所領となります。しかし、その宇喜多氏も関ヶ原の戦いで敗れて改易となり、代わって戦功を挙げた小早川秀秋に与えられました。しかし、秀秋はわずか2年で病死し、後嗣が居なかったために小早川氏も改易されてしまいます。

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小早川氏に代わって美作国18万3500石を与えられたのは森忠政でした。忠政は長成の末子で、織田信長に小姓として仕え本能寺の変で討ち死した蘭丸の弟に当たります。慶長8年(1603年)の事でした。

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忠政は初め当時の美作の中心であった院庄に入りましたが、そこは水害の恐れがあるなど築城するには不向きの地でした。代わりに選んだのが、吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山です。かつて山名氏が砦を築いた要害の地で、山頂に鶴山八幡宮、西麓に八子町の集落などがありましたが、忠政はそれらを移転させ、慶長9年(1604年)に名を津山と改め、築城を開始しました。

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普請は山頂を削平して平らにし、御殿などの中心部分をを築く事から始められたとされます。その後、順次周囲の石垣や櫓などが築かれていき、完成したのは13年後の元和2年(1616年)の事でした。これだけの時間を要したのは、忠政は江戸城や駿府城、丹波篠山城等の天下普請、さらには大阪の陣にまで駆り出されており、津山城だけに関わっていることが出来なかったためでした。その間、石垣の技術が発達していったため、津山城には野面積みから打ち込み接ぎまで、各段階の石垣が混在しています。

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津山城は南を流れる吉井川、東を流れる宮川を天然の堀とし、東側は断崖、南、西、北には城下町を築き、その周囲を総構えで囲っていました。本丸の周囲を二の丸、三の丸で囲み、南の大手門、北の搦手門は共に連続した枡形を形成し、城内には60基もの櫓を建て、本丸の周囲などは多門櫓で囲むという鉄壁の守りを誇る難攻不落の城でした。

写真は本丸に通じる表鉄門跡で、ここには二階建ての櫓門がありました。この門の二階を通らないと本丸御殿には行けないという、他に例を見ない特殊な構造を持っていました。

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これは本丸から南側を見た景色です。細くて判りにくいですが、緑の帯が吉井川、そしてこの町並みの中を出雲街道が通っています。水運と街道による二つの物流、これが津山藩の経済を支えていたのでした。

津山の繁栄の基を築いた森家でしたが、4代長成に嗣子が無く、迎えた養子も狂心したため、所領を没収されるという憂き目に遭いました。95年続いた森家の後を継いだのは松平宣富で、以後明治維新まで続くことになります。ただし、石高は10万石に減らされていました。この後明治維新まで松平家の治世が続くのですが、決して平坦であった訳ではなく、嗣子が無く末期養子を認めて貰う代わりに5万石に減知されたり、将軍家斉の子を養子に迎えることによって10万石に戻ったりと、波乱に満ちた歴史を辿っています。また、多くの潘と同様財政的に厳しく、領内に苛政を敷いたため百姓一揆が頻発し、特に享保11年(1726年)起こった山中一揆は数千人の農民達が参加したという大規模なもので、結果として鎮圧され51名が処刑されるという凄惨な結末を迎えました。この犠牲者の数は百姓一揆としては江戸期を通じて最も多く、現在も各地に慰霊碑や顕彰碑が残されています。

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明治になると津山城は廃城となり、建物はことごとく破却され、廃材は吉井川を通って海岸部にまで運ばれて、製塩のための燃料にされたと伝わります。これは津山城に限った事では無く何とも惜しい事をしたものだと感じますが、明治政府としては城は反乱の拠点となりかねないと考えており、破却は必要な政策でした。また、前時代の象徴を破壊することで、新時代の到来を知らしめるという意味もあったのでしょう。残念ながら城を文化財として見る視点は乏しかったのですね。

現在は城を復元しようという動きが各地で見られ、津山城でも2004年に備中櫓が復元されています。絵図、古写真、発掘調査などを元に、史実に出来るだけ忠実な復元が試みられています。

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備中櫓は天守に次いで大きな建物で、本丸御殿から渡り廊下を通らないと入れないという特殊な造りになっていました。中に入って驚いたのは全室に畳が敷かれ、一階には違い棚を備えた御座の間、二階には格天井が用いられた御上段の間があります。さらには茶室まであって、一般的な櫓とはまるで異なる御殿そのものの造りなのですね。壁には唐紙が張られており、おそらくは御殿の一部として藩主の家族、それも女性が暮らしていたのではないかと推測されています。

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ここが生活空間であった事を示すものとしてトイレがあります。こんな櫓は初めて見ました。ちなみに取っ手のような物は着物を架けるための衣紋掛けで、奥が後ろで手前側が前なのですね。

不思議なのはこの櫓には幾つもの鉄砲狭間や矢狭間があったと記した資料が多いのですが、室内のどこにも狭間は見あたらないという事です。復元作業のビデオを見ていると、壁にそれらしき形がちらっと見えるのですが、史実に忠実な復元はしてあるけれど、飾り用の壁に隠れて見えないという事でしょうか。だとすると、見えないところまで手を抜かない、凄い手間を掛けているという事になりますね。実戦になると唐紙を貼った化粧壁は外し、外壁に作られた狭間に穴を開けて敵に撃ちかけたという事で良いのかな。

なお、美作国にあるのに備中櫓と呼ぶのは、この櫓は忠政の娘婿である鳥取藩主池田備中守長幸が来た時に作られた事に由来するのだとか。発掘調査で池田家の家紋である揚羽蝶が描かれた瓦が出土しており、森家と池田家の深い繋がりを示す櫓であった事が窺えます。

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備中櫓から細い通路を伝って天守台の地階に入ります。そこにあったのは愛の奇石「ハート石」。無論、石積みの都合上こういう形になったのでしょうけど、今では恋のパワースポットになっているらしいですね。きっと森忠政もあの世で苦笑している事でしょう。

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津山城の天守は最も発達した形とされる、外部に破風を持たない層塔型でした。建築にあたっては小倉城の天守を参考にしたとされ、伝承としては密かに家臣団を小倉に派遣し、海の上から天守を写し取っていたいたところを小倉潘士に見つかってしまったのですが、小倉潘は咎める事をせず、かえって家臣団を城内に招き入れ、天守の細部まで見せて測り取る事まで許したと言われます。小倉城は三重以上の天守を認めなかった幕府の定めをクリアするため、実際は五層なのですが、屋根を省くことで三重の天守だと言い逃れたとされます。津山城の天守も五層五階なのですが、最上階の屋根が極端に小さく、申し訳程度の板が張られたのものでした。ただ、小倉城が最上階が下層よりも張り出した唐造と呼ばれる構造であったのに対し、津山城は一般的な城と同じように逓減しており、完全に真似をした訳ではありませんでした。この天守も沢山の鉄砲狭間を持つ実戦を意識した造りだったのですが、その一方で備中櫓と同じく畳敷きだったとされます。実戦には関係あるとは思えず、いったい何がねらいだったのでしょうね。

左下の写真が津山城の古写真で、天守が層塔型であった事、数多くの櫓などがあった事が知れます。右上は古図とCGで復元した天守、下の写真は昭和11年に産業振興大博覧会が開かれた時、シンボルとして建てられたトタン葺きの模擬天守。この天守はハリボテ天守として市民に愛され、博覧会終了後も残されましたが、太平洋戦争末期に空襲の目標になると陸軍から取り壊すように命じられ、なんのかんのと言い逃れながら持ちこたえていたのですが、遂に抗しきれず撤去されました。その日付が昭和20年8月14日だったというのは皮肉としか言いようがありません。

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模擬天守は割と最近、平成24年にも建てられた事があります。美作建国1300年の記念事業の一環として、発泡スチロール製の天守が作られました。これは短期間で取り壊された様ですが、翌年にも三分の二の大きさの模擬天守が期間限定で建てられました。やはり町のシンボルとして天守再建を願う市民は少なくないようですね。

しかし、今は史跡における再建は極力史実に基づいたものでないと認められず、木製で再建すれば30億円から40億円掛かると推計されています。これは10年前の見積もりですから、今ならその倍以上になるでしょうね。その費用面だけでは無いでしょうけれども、現在のところ再建計画は無い様です。

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何度となく書いていますが、明治初年の日本に城を史跡として保存するという思想が乏しかった事が悔やまれます。まあ、保存していたとしても大半は戦災で失われた可能性が高いですけどね、まともな城跡が姫路城や彦根城、松山城くらいしかないという現状よりは余程ましだった事でしょう。明治日本が急速な近代化を図る必要があったのは確かですが、日本古来の文化を否定し西洋化する事が正義という風潮になってしまった事が残念だと思います。

2025年6月14日 (土)

京都・洛北 初夏の植物園2025 ~京都府立植物園 6.9~

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正門前の花壇は植物園の顔、四季に応じた演出が施されます。ここ何年かの夏はカンナを中心にパパイアなどを植えた立体的な展示だったのですが、今年はペチュニアを使って幾何学的な模様が描かれました。真ん中の背の高い植物は何でしょうね。これから成長して花を咲かせるのかしらん。

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ペチュニアは横へ横へと大きく伸びます。鉢で育てる分には良いけれど、この模様を保つには何度も切り戻しが必要でしょう。それに時間が経つと中心部が枯れてくるのですが、そのあたりどんな手入れをするのでしょうね。相当な手間が掛かりそうですが、そこがプロの腕の見せ所です。

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観覧温室の前で、一際存在感を放っていたのがコルヌスウィルソニアナ。やたらと長い名前ですが、ハナミズキと同じミズキ科の植物です。原産地は中国。2001年に上海植物園から種子で導入されたのだとか。24年で15mもある大木に育つのですから、凄い成長力ですね。

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ハナミズキの仲間と言っても、花は全く違います。白くて十字型の小さな花が密集しています。ハナミズキの様な華やかさは無いですが、ふわふわとした花が大木全体を覆っており、見応えは十分ですね。

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大芝生地の横で、蝋細工の様な綺麗な花が咲いていました。ラベルを見るとザクロの花なのですね。実は何度も見ていますが、花は初めて見ました。日蓮宗の寺の鬼子母神堂の前によく植わっていますが、実の見た目と味ばかりが話題になりますね。でも実際は新緑から花、夏から秋の実、そして晩秋の紅葉と見所一杯の木です。

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今年は紫陽花は遅い所が多いのかしらん。三室戸寺もなかなか満開にならないし、真如堂もまだ寂しい状況です。ここ植物園でもヤマアジサイが少し咲いている程度でした。

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沈床花壇はシックな色の花で統一されていていました。例年ならアリウム・ギガンチウムの大きな花が見られるのですが、今年は無かったです。もう一つ夏の主役となるカンナは植えられていましたが、まだ成長段階にあり、花を付けるところまでは至っていません。

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植物園会館の前ではタイサンボクが咲いていました。大きな花が沢山咲いていて注目を集めていました。ここの方針として低い枝を切っていないので、目の前の高さにも花があり、甘い芳香を楽しむ事が出来ます。タイサンボクと知らなくて集まってくる人も居て、この木は何と結構賑やかでしたね。

夏になると花の種類も激減します。無論そこを寂しくならないようにするのが植物園ですけどね。でも今なら様々な花を見る事が出来ますよ。梅雨の晴れ間に是非訪れてみて下さい。

2025年6月13日 (金)

京都・洛北 薔薇2025 ~京都府立植物園 6.9~

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菖蒲園からバラ園に来てみました。そろそろ盛りは過ぎているかなと思っていたのですが、まだまだ見頃と言える状態でした。

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特にバーゴラ周辺のバラとつるバラは花盛りでした。ここだけでも十分に見応えはありましたね。

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よくよく調べてみると、春バラの見頃は6月まで続くそうで、品種によっては7月に入っても美しいのだとか。そうすると。これだけ綺麗なバラが咲いていたのも当然だったという事になりますね。

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中でも目を惹いたのがこのバラ。ラベルを撮るのを忘れてしまったので品種名はわからないのですが、こんな綺麗な花を作出する人が居るのだから、世界は広いものだと思います。本当にどうやったらこんなグラデーションが出せるのでしょうね。

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個々の花も綺麗だけれど、総体として見ても美しい。花園と呼ぶに相応しい景色がここにはありました。雨の影響が少し気になりますが、まだまだ見応えのあるバラ園ですよ。

2025年6月12日 (木)

京都・洛北 花菖蒲2025 ~京都府立植物園 6.9~

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大徳寺から京都府立植物園に来ました。ここに来た目的の一つは花菖蒲を見る事です。ずっと花菖蒲の開花情報をチェックしていたのですが、平安神宮などが見頃になる中で、植物園はいつまで経ってつぼみのままでした。いったいどうなっているのだろうとしびれを切らして見に来たという次第です。

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実際の状況はこんな感じです。つぼみは確かにありましたが、半ばは咲いており、2番花になっている株もありました。じゃあ五分咲き程度じゃないかと言うとそうでもありません。

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全体を見るとこんな感じ。咲いているのは三分から四分程度、咲いていない株はつぼみが上がっているものもありましたが、半分もあったかな。通常同時に咲く花がばらばらに咲き、半分近くの株はつぼみも無いという状態なのでした。

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この菖蒲園は二年前にも全く咲かないという状況があり、去年はかなり盛り返したのですが、今年になってまた不調に陥ってしまった様です。植物園に問い合わせてみたところ、一部は病気のせいで咲かなくなっているとの事で、現状でピークなのだそうです。他にも要因があるみたいですが、良く判らない様ですね。植物のプロ集団をもってしても、上手く行かない事があるのが花を育てる難しさ。なんとか克服してもらって、また一面の花が咲いた景色を見せて貰いたいところです。

2025年6月11日 (水)

京都・洛北 大徳寺塔頭 大仙院 枯山水の庭 撮影解禁されてます 

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真如堂から大徳寺塔頭の大仙院に来ました。ずっと撮影禁止だった庭園が解禁になったと聞き先日訪れたのですが、中に入ると大勢の外国人で溢れており、この廊下にも座り込んでいる人達が居て撮影を断念したという経緯があります。その時お寺の人に昼間はこんな状態だけど、朝一番なら誰も居ないと聞いたので、開門時間に合わせて訪れてみたのでした。結果として聞いていたとおり独り占め状態だったので、念願の撮影をすることが出来たのでした。

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大仙院の庭が素晴らしいという事はずっと以前から見聞きしており、ブログを始めた当時にも来た事があるのですが、撮影禁止と聞いて以後訪れる事はありませんでした。当時も拝観者はそれなりに多かったのですが、外国人は一人も居なかったですね。それから21年が経ち、すっかり外国人の聖地と化してしまったのですから、世の中どう変わるか判らないものです。

大仙院は永正6年(1509年)に大徳寺76世住職大聖国師によって創建されました。国師は後柏原天皇を始め、公家にして土佐西部を治める戦国大名となった一条房冬等の帰依を受け、後柏原天皇から仏心正統禅師、後奈良天皇から正法大聖国師の号を贈られたという名僧です。その後も大仙院では名僧が続き、中でも第三世の古渓宗陳は千宗易の禅の師であったと共に、茶の湯では宗易の弟子という関係にあり、宗易に利休の号を与えた人物です。このため利休は大仙院と縁が深く、この庭に面した書院(方丈の北東の部屋)で豊臣秀吉に茶を振る舞ったという話も伝わっています。また、吉川英治の小説「宮本武蔵」では、沢庵和尚が同じくこの書院で、武蔵に剣の極意を伝えたという事になっていますね。これは全くのフィクションですが、場面設定としては相応しい場所と考えられたのでしょう。

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この庭を作ったのは開祖の大聖国師とされます。冒頭の石組みが蓬莱山を象ったもので、石の表面にある縦の線が滝の存在を示しています。そして椿や五葉松などの植え込みが深山幽谷である事を思わせ、小さな石橋が滝から続く川が流れている事を暗示しています。砂紋は川の流れですね。面白いのは渡り廊下の下を砂紋が潜っている事で、こういう仕掛けは他の庭では見た事がありません。この壁で区切る事で場面転換を図っているのですね。

砂紋に誘われて渡り廊下の向こう側に来ると船を表す長船石(宝船あるいは釣船石とも言います)があり、滝から流れ出た小さな川が大河となっている事を示しています。この一角だけでも見事な枯山水ですが、壁の向こうに蓬莱山が垣間見える事で、遙かな景色を眺めているような気分になります。壁で遮る事でかえって奥行きを出しているのですね。

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そして川の行き着く先は海。方丈前の白砂の庭がそうですね。蓬莱山は想像上の神山ですが、ここでは方丈を半周することで山から海へと続く大自然を感じる事が出来るようになっています。この庭は室町期を代表する庭として特別名勝に指定されており、要するに庭の国宝ですね。少し気になったのは庭の隅にある沙羅の木の若木で、あまり馴染んでいない感じがします。これは元あった木が枯れたために最近植え替えられたためで、まだ調和に欠けるのも仕方がないですね。後10年もすればこの木も生長し、沢山の花を咲かせて株元に落花を散らせて楽しませてくれることでしょう。

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方丈北側の庭は後付けで、昭和から平成にかけて活躍した庭師の中根金作氏によって作られました。南の大海に対し中海と呼ばれ、蓬莱山から流れ出た西の流れが行き着く先とされます。この庭はこれで素晴らしい調和を示しているのですが、なぜオリジナルに付け加えたのでしょうね。ここが以前どんな具合だったのかは判りませんが、この庭を作る必然性があったのでょうか。

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大仙院はの見所はまだまだあって、方丈もまた国宝で、東福寺の龍吟庵の方丈に次ぐ古いものとされます。付属する玄関は日本最古のもので、やはり国宝です。また、違い棚も現存する中では日本最古とされます。また伝狩野之信、狩野元信、相阿弥筆の襖絵も重要文化財に指定されており見所なのですが、これらは撮影禁止なのでここにはアップ出来ません。

このように大仙院は見所が沢山あり、拝観料も500円と高くはないのですが、昼近くになると外国人で文字通り溢れ返るのが難点です。優れた日本文化を海外に知ってもらうのは良いのですが、それほど広くない寺に比べて人数が多すぎます。出来れば人数と時間を限った予約制にして欲しいところですけどね、なかなか難しいかな。今のところ今回のように拝観開始時間に行くのがベストですが、そうも出来ない人も多いで事でしょう。自衛手段としては出来るだけ早い時間に行くか、いっそ遅く行って拝観終了間際まで粘って空くのを待つかくらいしか思いつかないですね。オーバーツーリズムが程々のところで落ち着く時は来ないかな。

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この日のお土産は、以前から気になっていた百万遍の「かぎや正秋」さんで買ってきた「ときわ木」と「益寿糖」の詰め合わせ。「ときわ木」は粒あんを薄くのばして焼いたお菓子、「益寿糖」はクルミの粒が入った求肥です。しっとりとした柔らかさのときわ木とふんわりとした中にグルミのつぶつぶ感がある益寿糖、どちらも丁度良い甘さでとても美味しかったです。最近はまっている京都の和菓子ですが、選び甲斐があって楽しいですよ。

訪問日 令和7年6月9日

2025年6月10日 (火)

京都・洛東 菩提樹満開2025 ~真如堂 6.9~

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令和7年6月9日の真如堂です。この日は菩提樹が満開になっていました。

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去年は三分の一ほどしか咲かず、どうしてしまったのだろうと心配していたのですが、今年は木全体に花が付き、元通りとなりました。やっぱりこの木はこうでなくてはね。でも樹齢250年と言われる古木で、近年の異常気象もありますから、この先どうなるかは予断を許しません。

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今年の開花は6月3日、その数日後に満開になったとの事ですから、ピークは少し過ぎていた様です。ですので、芳香は弱かったですね。でも花に近づくと良い香りは残っていて、ここに来た甲斐がありました。

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紫陽花園の方にも行ってみましたが、苦沙弥和尚が書かれていたように今年は不調の様です。土壌のせい、あるいはコガネムシの害などと推測されとていますが、原因は良く判らない様ですね。せっかく営々と整備されてきた紫陽花園ですから、是非とも復活してほしいところです。紫陽花園はさらに拡張されており、三井家の慰霊碑の近くにまで苗木が植えられていました。今の不調を乗り越えられれば、10年後くらいには紫陽花の寺として存在感を増す事でしょう。

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放生池の周囲では、さつきがまだ咲いていました。一週間前に見頃だったとの事ですが、半減したとは言えそれなりに綺麗だったのは良かったです。でも昨日、今日の雨で散ってしまった事でしょうね。

一つ気がかりだったのは、沙羅の木(夏椿)の葉がほとんど無かった事で、どうしてしまったのでしょう。これでは今年の花は期待出来そうに無いです。それどころか枯れてしまいかねない様にも見えました。植物は突然枯れてしまう事も良くある事ですが、まだ若い木であり、これからの時期の風物詩でもあるのでなんとか持って貰いたいです。

2025年6月 9日 (月)

京都・洛東 青紅葉2025 ~円山公園 6.4~

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知恩院から円山公園に来ました。かつて京都市民の憩いの場であった円山公園ですが、今はインバウンドが大半を占める様になっています。以前は円山公園でデートするのが京都の若者のあこがれだったのですけどね、そんな雰囲気ではなくなってしまいました。

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園内にある料理屋さんの前で店の人が立っていて何をしているのかなと思っていたら、インバウンドの団体客を出迎えていたのでした。かつては学生のコンパが盛んだった店なのですけどね、今はインバウンドにシフトしている様です。まあ、夜はどうなのか判りませんけどね。

園内の店も随分と変わっていました。昭和の頃から続く店はいもぼう、いころなど数軒のみで、知らない店が幾つも出来ています。時代の変化と客層の変化に付いて行けなかったのか、後継者がいなかったのか、すっかり様変わりしていました。ちなみに老舗の料亭も売りに出していて、売値が1億円とありました。高いんだか安いんだか判りませんが、いずれ資本力のあるところに経営権が移るのでしょう。時代の流れとは言え、学生時代から知っている町が変わってしまったのは寂しい限りですね。

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ここは円山公園の奥の方、池や小川の水源となっている滝です。造園当時は琵琶湖疏水から水を引いて来ていたのですが、今もそうなのかな。導水管は相当年期が入っているはずですが、メンテナンスはしているのかしらん。

この滝、どういう訳かお隣の国の人に人気で、常に写真を撮る人が集まっています。お隣のSNSで広まっているのかな。西洋人はほぼ見かけないので、お隣限定ですね。ブログを始めた頃、何度がトライした事があるのですが、昔のカメラでは暗すぎて上手く写りませんでした。今は高感度に強いカメラになっているのでちゃんと滝として写るのですけどね、スマホでも綺麗に撮れるのかな。技術の進歩は凄いですね。

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実は一番奥にあるもみじを撮りに来たのですが、晴れの予報がすっかり曇ってしまい、光が入らないので断念しました。代わりに咲いていたサツキをパチリ。気が付くと落ち葉で埋もれていた階段が綺麗になっていました。何年も放置されていたのですけどね、ようやくここまで清掃する余裕が出来たという訳かしらん。

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この石組みは、江戸時代までこのあたりにあった六阿爾の一つ、庭阿爾(端の寮)の庭園跡です。在りし日はこの上にあった弥阿爾からの水を受けて滝が流れていたのだとか。六阿爾は屋号を継いだ左阿爾を除いて全て無くなってしまいましたが、安養寺の六つの塔頭にして貸座敷を営む施設で、それぞれに瀟洒な庭園を持ち、京都を一望出来る眺望を売り物に一大歓楽街として賑わっていました。今は公園の中でも最も静かな場所ですけどね、かつてはまるで性格の違う地でした。この石組みは六阿爾の存在を今に伝える貴重な遺構なのですが、知る人はほぼ居ません。京都市も説明板くらい建てれば良いのにね。場所は観光トイレの向かい側、蘇鉄庵(廃業あるいは休業中)に通じる小道の途中にあります。庭阿爾跡は大半が道路になっており、かつての姿を思い浮かべるのは難しいですけどね、探してみられるのも一興ですよ。

2025年6月 8日 (日)

京都・洛東 青紅葉2025 ~知恩院 6.4~

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白川から参道を上って知恩院に来ました。ここでの目的は青紅葉、名所としては黒門から続く参道となります。

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青紅葉もだんだんと濃くなり、夏の色に近づいて来ました。まだわずかに新鮮さを保っていたのでそれなりに綺麗でしたけどね、これからは緑陰を楽しむという事になりそうです。

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知恩院は以前はインバウンドはあまり居なかったのですが、随分と増えていました。日本人が外国に行くと大教会に行くような感覚なのかな。巨大な御影堂は判るけど、経堂に入るツアーもあるのですね。輪蔵を回転させれば一切経を読んだと同じ功徳があると説明していた様ですが、キリスト教圏の人にどこまで判るのかしらん。不思議のは阿弥陀堂には誰も居なかった事で、金色に光る阿弥陀様の方が外国人受けすると思うのだけど、そうでもないのかな。

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青紅葉のもう一つのポイントが放生池の周辺です。石橋ともみじの緑が相まって絵になりますね。

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鐘楼へと向かう階段はまさに緑陰となっていました。何度も通っている階段ですが、改めて見ると結構風情がありますね。次はここから円山公園に抜けて行く事にします。

2025年6月 7日 (土)

京都・洛東 柳並木2025 ~白川 6.4~

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勧修寺から地下鉄に乗って白川に来ました。目的は柳並木ですが、既に新緑の美しさは消えていました。やっぱり五月中に来ないと駄目ですね。

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それでもこの独特の景観はここならではのもの、輝く様な色彩ではないものの、緑のカーテンは美しいものです。

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写真を撮りに来る人もぽつぽつと居ましたね。それに外国人の姿もちらほらとありました。殺到するという事はないけれど、確実にインバウンドの間に知られてきているようです。

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中でも一番人気は一本橋。渡ったり記念写真を撮る人たちが居ましたが、ここが千日回峰の行者が通る橋だと判ってるのかしらん。それとも細くて珍しい橋だという認識なのかな。

最近はバスが混みすぎるためでしょうか、自転車で回るインバウンドも増えていまいすね。また、ガイドが案内する自転車ツアーもある様で、この日も向こうの石橋の上から説明を受けている人たちが居ました。京都観光としては正しい方法ですね。これでバスが空けば良いけれど、まだそこでの効果は無いようです。また、細い道に沢山の自転車が群れるというような新たなトラブルが発生しないかという気もします。余計な心配だと良いのですけどね。

2025年6月 6日 (金)

京都・洛東 花菖蒲2025 ~勧修寺 6.4~

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令和7年6月4日の勧修寺です。この日は花菖蒲が見頃を迎えていました。

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勧修寺の花菖蒲は、氷室池の北岸を縁取るように咲いています。とても綺麗ですが、数的にはそれほど多くはなく、菖蒲園と言う程では無いです。

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池の中には睡蓮が沢山咲いており、また背景の濃い緑とのコラボはここならではの景色ですね。

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ここには朝一番に行ったのですが、既にかなりの数のカメラマンが来ていました。平日なのに、こんなに人気だとは知らなかったです。

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この日は一番花の株と二番花の株が混在していました。花数が一番多いときに来たわけで、タイミングとしてはベストでしたね。見頃は暫く続くでしょうけど、天気が気になります。行かれるなら天気の持ちそうな今週末がお勧めかな。ただ、相当な人出は覚悟しておいた方が良いかも知れません。

2025年6月 5日 (木)

京都・洛中 京都さつき事情2025 ~相国寺 5.28~

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5月のさつき巡り、最後は相国寺に来ました。最初は瑞春院。ここは通り過ぎるつもりでしたが、門内にさつきがちらりと見えたので思わず自転車を止めてしまいました。後ろのもみじは新緑の時に撮っているのに、さつきに気が付いていないとは我ながらうかつでしたね。小さな前庭ですが見事に手入れされており、さつきと枝垂れもみじの青葉とのコラボが素敵でした。非公開になって久しいですが、前庭だけでも新緑にさつき、百日紅、紅葉と楽しませてくれるお寺です。

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少し進むと経蔵の垣根の角にさつきが咲いていました。ほんの小さな植え込みですけどね、とても綺麗だったので色々なアングルで撮ってみました。

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相国寺のさつきの本命は承天閣美術館への通路にあります。ここには通路沿いにさつきの刈り込みが植えられているのですね。

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そして通路が直線で無く屈曲しているのが変化があって良い感じです。三重の石塔もアクセントになってくれます。

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この写真を撮ってから8日、そろそろ花が散っている頃でしょうか。栄摂院や詩仙堂、正伝寺は見頃が続いている事でしょう。さつきは場所によって見頃にばらつきがあり、どこに合わせるか難しいですね。市内が盛りでも山手は早いし、行きたいところを決め打ちにするのが良いのかな。詩仙堂と金福寺には公式Instagramがあるので参考になりますよ。

2025年6月 4日 (水)

京都・洛北 京都さつき事情2025 ~大徳寺塔頭 芳春院 5.28~

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神光院から大徳寺に来ました。本当の目的は庭の写真を撮って良いことになった大仙院を訪れる事だったのですが、入ってみてびっくり、拝観者の100%が外国人でした。それも半端な数じゃ無く、続々とやって来る。まあ、外国人には慣れているので自分のペースで参拝を済ませ、庭を撮り始めたのですが、一番の目的の枯山水の前の廊下に、家族連れらしき人たちがべったりと座り込んで動かない。仕方が無いので他を回って時間を空けて戻って来ても同じ状態。まるで自分の家のようにくつろいでしまっている。まあ、枯山水の庭に日本の情緒を感じていたのかもしれないけれど、そんなに間近でずっと見いてもこの庭の良さは判らない、蓬莱山から流れ出た水がやがて大河となり、方丈前の海を表した庭に繋がっている、その流れを感じるんですよと教えてあげたいところでしたが、そんな雰囲気でもないし第一言葉が通じない。やむを得ないので写真は諦めて出てきました。お寺の人に聞いたところでは、7~8年前から英語の案内が出来る寺として外国人が来るようになり、今ではこの状態になっているとの事。日本人は敬遠してほとんど来ないらしいですね。早朝なら貸し切り状態てすよとの事なのでまた改めて伺うことにしました。

大仙院もそうだけど、清水寺も既に外国人に占領されて日本人はほとんど来なくなってしまっています。日本の文化を海外に知ってもらうのは良いけれど、日本人が寄りつかなくなるというのはどうなんでしょうね。清水寺は平安時代から貴族から庶民にまで信仰されてきた場所。そこに日本人が行かなくなるというのはおかしくないですか。特に桜や紅葉の時期は、夢見坂から清水寺まで外国人の川になってしまっていて、情緒も何もあったものではない。これでは行きたくなくなるのも当然です。インバウドが増えて経済が潤っていると喜んでいる人が多いけれど、このままでは日本の文化が崩壊してしまうんじゃないかしらん。オーバーツリーリズムの対策と地方の活性化のために地方に分散させようとしているらしいですけど、小さな町では住民の生活がおびやかされてしまい、潤うのは外部からやって来た資本だけという結果になるんじゃないかな。そして本来あった良さはかき消されてしまう。清水寺を中心に、東山では既にそうなっています。それどころか、もうそこを通り過ぎて住民が次々と出て行っているのが現状。市民の生活の場であったはずが、外資によってリゾート地と化しつつあります。京都が京都でなくなってしまう前に、いい加減インバウンドに頼るという考えは改めた方が良いのではないかしらん。そうでないと、京都どころか日本中が大資本や外資に食い荒らされて、やがて魅力を失いかえって衰退してしまう、そんな気がします。

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大仙院を出て右に曲がると芳春院。なにやら盆栽庭を公開中と出ていました。久しぶりに吞湖閣でも見ていこうかと思ったら、方丈と共に公開はしておらず、盆栽は別の場所で展示してあるとの事。それでも行って見ようかなと思ったら、拝観料が1000円になっていたので止めました。最近はどこでも1000円が基準となりつつありますね。それでも参道でさつきが咲いていたので、撮らせて貰うことにしました。

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さつきはあまり形が揃っていないけれど、まずまず綺麗でした。青紅葉とのコラボが如何にも初夏らしく、爽やかな風情でしたね。それに赤いもみじが良いアクセントになっています。

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大仙院は次の機会に拝観開始の9時に合わせて来てみる事にします。聞いたとおりに静かな環境で、ゆったり過ごす事が出来れば良いのですけどね。

2025年6月 3日 (火)

京都・洛北 青紅葉2025 ~神光院 5.28~

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正伝寺から坂を下って神光院に来ました。ここでは青紅葉を見るつもりだったのですが、秋に綺麗に紅葉していたのは赤いもみじだったのですね。

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その隣の木は出猩猩という種類かな。新芽が吹く時には赤く、次第に緑に変わるというもみじです。今はその途中という雰囲気かしらん。

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この季節に神光院に来たのは初めてなので、これたけ色々な種類のもみじが植えられていたとは知りませんでした。初めは何色でも紅葉するときは赤く染まりますからね。

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青紅葉は案外少なく、本堂前と蓮月庵の脇にある程度でした。この蓮月庵は太田垣蓮月尼が晩年を過ごしたところで、土間や台所があり、生活の痕跡が残っています。神光院が廃仏毀釈に遭った時もこの庵だけは無事と前回書きましたが、よくよく調べてみると本堂や客殿、山門も江戸時代のものとされていますね。そうすると完全に破壊された訳では無く、本堂の後ろの中興堂が大正時代の再建で、また参道の西側が不自然に空き地になっていますから、その辺りの建物や庫裏が破壊されたのでしょうか。

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一時は廃寺となった神光院でしたが、今はすっかり再興され、東寺、仁和寺と並ぶ京都三弘法の一つに数えられています。また、四国八十八カ所巡礼に出かける際には、まずこの寺にお参りするのが慣わしだそうですね。そんな神光院ですが、いつ来ても静かで、この日も独り占めでした。多分、初弘法やきゅうり封じの日には賑わうのでしょうね。私もきゅうり封じがどんなものか、一度来てみようかな。

 

2025年6月 2日 (月)

京都・洛北 京都さつき事情2025 ~正伝寺 5.28~

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上賀茂から西加茂にある正伝寺に来ました。ここでの目的もさつきでしたが、まだ少し早かった様です。

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参道では真っさらな青紅葉が出迎えてくれました。まだ新緑と言っても良い程の淡い緑はとても美しいですね。

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目的のさつきはと言うとまだ咲き始めたばかりでした。標高が少し高いぶん、市内より咲くのが遅いのでしょうか。

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借景の比叡山は、青空の中にくっきりと見えていました。さつきとのコラボが素敵です。

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拝観者は私の前に一人おられましたが、ほとんど入れ替わるようになり、暫くの間独り占めでした。この庭をひとしきり撮った後は、静かな空間の中で借景に見入っていました。何度となく訪れている庭ですが、見飽きるという事はありません。

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やがて下の方から賑やかな声が聞こえてきて、よくしゃべる三人組の方達がやって来ました。至福の時間もこれまでかなと諦めて、帰路に付く事にしました。

欲を言えばもう少しさつきが咲いていて欲しかったですけどね、盛りの時期を見極めるのは難しいです。来年は上手く行くかしらん。次は紅葉の時に来るつもり、今年の具合はどうなるでしょうね。

2025年6月 1日 (日)

京都・洛北 初夏の上賀茂社家町 2025.5.28

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上賀茂の社家町に来ました。ここに来る前に詩仙堂から岩倉を通って園通寺に寄ったのですが、残念な事に水曜日は拝観休止でした。それにしても園通寺とその周辺の激変ぶりは凄いですね。鄙びた幡枝の地に山寺の様にあった寺が、周辺は新興住宅地と化し、寺もまたコンクリート造りの門が出来ていました。数年前にも訪れており、この変化は知っていましたが、改めて見ると正直興醒めです。中に入れば庭は相変わらず素晴らしいらしいですけど、コンクリートの入り口は頂けないですね。周辺環境の変化は防ぎようが無かったのは知っていますが、お寺までが変貌して欲しくなかったです。田舎じみていた頃の円通寺と幡枝の地が懐かしいなあ。

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話を社家町に戻します。社家町とはかつて上賀茂神社に仕える神職たちが住んだ町の事。明治維新の国家神道策により、神職が国によって管理される事になり、従来の神職は職を追われる事となりました。結果として社家町から神職は居なくなり、代わって民間人が暮らす様になります。そして多くの社家が普通の民家として改築されていきました。

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かつて200軒以上を数えた社家ですが、現在残っているは53軒、うち63%が社家としての特徴を止めているとして、上賀茂伝統的建造物群保存地区に指定さけています。唯一見学出来るのは西村邸だけですが、建物は明治時代に建て替えられており、庭園のみが社家当時のまま保存されています。また少し離れた場所になりますが、梅辻家住宅は社家として良く保続されており、時折特別公開されるので興味のある方は機会を捉えて見に行かれると良いですよ。

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社家町の構成要素として明神川、橋、土塀、妻入りの社家がありますが、もう一つ重要なのが塀越しに見える緑です。樹種はもみじや松、常緑樹など様々ですが、この季節は爽やかな緑に染まっており、とても綺麗ですね。写真は柿の木、この緑もまた美しい。秋になると赤い実を付けるので、なかなか絵になる景色となります。

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明神川沿いを歩くとき、土塀の基礎部分を注意して見ていると、ところどころに穴が空いています。これは庭内に水を引き入れるためで、西村邸に入ると良く判りますが、庭には必ず池があり、水はそこに導かれます。明神川の源流は上賀茂神社の境内を流れるならの小川。神職はこの神聖な水で身を清めてから神社に出仕していたと伝わります。社家町の景観を楽しむと共に、かつての神職の暮らしぶりを想像しながら歩いてみるのもまた一興です。

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