日本百名城探訪2024 ~観音寺城 10.24~
観音正寺から観音寺城跡に入りました。日本五大山城の一つに数えられる巨城で、下から登ると大変ですが、観音正寺からだと階段を少し下りるだけで城跡に入ることが出来ます。正確には繖山全体が城跡であり、観音正寺も城の拡張と共に麓に追いやられ、城が廃城となった後に山上に再建されているので、駐車場から先は既に城跡に入っているのですけどね。その証拠に参道脇でも石垣を何カ所か見る事が出来ました。
境内から階段を下りると暫く山道が続きます。この道は観音寺城の古図には無く、観音正寺が再建されたときに作られた様ですね。お寺の受付で伺ったところでは、この先に本丸跡、平井丸跡、池田丸跡、大石垣と言った城跡の主郭部に通じる道が整備されており、全て回るとおおよそ一時間程半くらいとの事とでした。ところがですね、最初は平坦だった道が突然急な階段になったり、道が半分崩れていて滑り落ちそうなところがあったりと、およそ遊歩道と言うような生易しい道では無かったです。これ大丈夫かなと思ったのですが、案内板には次の曲輪まで5分とか7分とか甘い事が書いてあるのですよね。それを見るともう少し頑張ってみようと言う気になって先へ進んだのですが、道は険しくなる一方で、今の私にとっては厳しすぎる道でした。もっと若いときに来るべきでしたね。
観音寺城が歴史に登場するのは南北朝時代、太平記に北朝方であった佐々木氏頼が、南朝方の北畠顕家軍に備えて籠もったという記述が見られます。もっともこの当時は今のような大城郭ではなく、観音正寺を利用した砦程度のものだったと推測されています。室町時代には佐々木氏の嫡流である六角髙頼の居城となっており、応仁の乱においては三度戦いの舞台となって、攻防戦が繰り返されました。応仁の乱の後は幕府による二度にわたる六角氏討伐、長享・延徳の乱があり、髙頼はその都度城を放棄して山間部でゲリラ戰を展開し、幕府軍を撤退させています。
本格的な築城が行われたのは十六世紀前半と考えられ、天文十三年(1544年)に連歌師谷宗牧が観音寺城を訪れており、御二階に案内されて数寄家造りの茶室でもてなされたと記していて、要塞と居住空間を兼ね備えた城であった事が伺えます。昭和44年と45年に行われた本丸・池田丸等の発掘調査で、大量の土師器や陶磁器、庭園跡や礎石が見つかっており、山上が優雅な生活の場であった事を裏付けています。
髙頼は経済政策にも長けており、天文九年(1540年)、織田信長に先立つ事27年前に城下の石寺で楽市楽座を施行しています。この髙頼の頃が六角氏の最盛期だった様ですね。
観音寺城は石垣を多用した山城として知られますが、これは鉄砲が伝来した後、戦術が変わった事に対応するためと考えられ、当時としては最先端を行く城でした。大石を多く使用しており、最大で6mの高さがありますが、隅石が算木積みになっていないなど、初期の石垣の特徴を良く止めています。現在は鬱蒼とした木々で覆われていますが、往時は山上に石垣を巡らせた壮大な姿が見えた事でしょうね。
観音寺城は石垣造りではあっても切岸や竪堀といった山城ならではの施設が無く、見かけより防御力は低かったと言われますが、中には食違い虎口が見られるなど一応の工夫も見られます。良く言えば発展途上の城、身も蓋もない言い方をすれば中途半端な感じがしますね。
本丸や平井丸、池田丸にはこうした平場があり、それもかなり広いです。それぞれに庭園や住居を備えており、どこに御二階があったかは判りませんが、はるかに近江平野を見渡しながらの茶会は他所には無い、さぞ爽快なものだったのでしょうね。
観音寺城は永禄十一年(1568年)に信長に攻められた際、支城の箕作城が一日で落ちたのを見た時の城主六角義賢、善治親子は戦わずして城を放棄し、甲賀へと逃れています。六角氏は髙頼の代から籠城はせず、ゲリラ戰に持ち込むのをお家芸にしており、この時もそれに倣ったのでしょうか。これだけの城を勿体ないという気はしますが、いずれは取り戻せると考えていたのかな。しかし、その後は信長の背後を脅かしはしたものの復権は叶わず、親子共に晩年は豊臣家に御伽衆として仕えています。
無傷で城を手にした信長ですが、どう処分したのかは良く判っていません。城跡にあった説明板には手を着けずに佐々木氏に守らせたと書かれていましたが、それはあり得ませんね。あの説明板はかなり古いもので、内容が支離滅裂で取り替えるべきだと思いますが、誰も指摘しないのかな。それはともかく、落城後に改変したと思われる部分もあるそうで、直ちに廃城となった訳では無く、暫くは城として使われていた可能性はあります。確かなのは安土城が出来ると存在価値は無くなり、石垣の一部は転用されたという事です。
池田丸から先は大石垣を目指したのですが、どんどん道が悪くなっていきます。こんな石段はまだ良い方で、遂には小石を並べた石段とも呼べないような細い道、というより溝の様になります。足の置き場にも困る様になり、大石垣に下りるところはほとんど垂直になっていて、とても無理と思い引き返しました。でも地図を見ると散策路となっており、ネット上でも大石垣の写真や動画は沢山あるので、もしかしたら道を間違えたのかしらん。
これは大石垣を上から見下ろしたところです。このあたりは木が伐採されており、下から見ても石垣が見える様に整備されています。目印として幟が立っているので、新幹線の車窓からでも見えるのだとか。でも、本当にどうやって下に降りるのかしらん。
このあたりまでが城の主郭部ですが、山の北側にも郭跡があり、地図上では散策路が繋がっていますね。どんな道か判らないので行こうとは思いませんが、熱心な山城ファンの人達はぐるっと歩かれている様です。私はここまで来るだけで精一杯、足がパンパンで息が上がってしまいました。この先百名城にはもっと遠い高取城や千早城などがあるのですが、どうしたものでしょう。果たして無事にたどり着けるのかしらん。
なお、観音寺城に残る沢山の郭跡には、かつての観音正寺の宿坊跡も混じっている可能性があり、現状では区別が付かない様です。今後調査が進み、全容が明らかになる時が来るのかな。バーチャルで良いので、復原した姿を見てみたいものです。
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