2024 秋の旅 ~岐阜 崇福寺 10.4~
大垣市から岐阜市に来ました。ここでまず楽しみにしていたのが黄金の信長像。平成21年(2009年)に岐阜市政120周年を記念して市民の寄付に依って建てられたもので、台座を含めた高さは11mあります。マントを羽織ってブーツを履き、西洋銃を手にした姿は、信長の進取の気性を現したものなのでしょう。金色は塗料を塗っているのでは無く、金箔を貼っているそうですね。文字通りの黄金の像なのでした。
岐阜を初めて訪れたのはおよそ半世紀前、当時は繊維の町としてとても賑わっていて、活気のある大きな町だなと思いました。今は開発が進み町並みは見違えるほど綺麗になりましたが、なんだか閑散としていますね。聞いたところでは地場産業だった繊維が駄目になり、これと言った産業が無くなってしまったのだとか。今は名古屋市のベッドタウンとしての性格が強くなり、勤め先、買物、遊びのことごとくが名古屋に流れているのだそうです。駅前のタワーマンションも名古屋より割安感が強く、名古屋で買えない人が顧客になっているとテレビで言ってましたね。
繁華街もほとんどがシャッター街と化し、名の知れた柳ヶ瀬も百貨店が閉店して、衰退に拍車が掛かっている様です。なんとか活性化を図ろうとして始めた事業も、わずか三日で破綻したとこの日のニュースが伝えていました。
何だか不景気な話ばかり聞こえて来ましたが、最近の動きとして、繊維問屋街などでは空き家となったところに新しい店が入り、徐々に活性化してきているそうです。柳ヶ瀬も今回は失敗した様ですが、様々な取り組みをしていると聞きます。一足飛びには行かないでしょうけど、また以前の様な賑やかな町に戻ってほしいですね。
岐阜には何も無いと岐阜市民の方は自虐的におっしゃいますが、調べてみるとそんな事は無いですね。ただ、スポットがあちこちに散らばっており、土地勘の無いよそ者が見て回るのは難しいので、観光タクシーを頼みました。
まず訪れたのが崇福寺。織田家の菩提寺です。
パンフレットに依ると崇福寺は臨済宗妙心寺派に属した寺で、永正8年(1511年)に斉藤利匡を開基とし、独秀乾才禅師を開山として開かれました。永禄10年(1567年)に織田信長が美濃に入ると当寺を菩提寺に定めています。
歴史上有名な人物としては第三世住職に快川紹喜が居ます。快川禅師は甲斐の武田信玄に招かれて惠林寺の住職となりますが、天正10年(1582年)に織田信忠が武田氏を滅ぼした時、武田方の残党を匿ったとして引き渡しを要求されますがこれを拒否、信忠は惠林寺を焼き討ちしますが快川禅師は「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の言葉を残して火の中で亡くなりました。織田家は菩提寺の住職だった人を殺してしまった訳ですが、それが戦国時代というものなのかしらん。
崇福寺には信長ゆかりのものが沢山あります。これは信長公の教訓の絵。竹べらの様に曲がった気持ちを捨て、真っ直ぐな気持ちで日夜精進すれば、自然に身も持ち上がるという意味が込められているのだとか。正直言ってどこをどう見れば良いのか判らないのですが、昔の人が見れば理解出来たのかしらん。
このケースの中には信長ゆかりの文書が収められています。「雪月花」は信長自筆の書、左は信雄に宛てた書状、左下はおなべの方が本能寺の変直後に崇福寺に宛てた手紙(折り紙)と、信長が美濃を制した直後に崇福寺のために出した禁制があります。この禁制に書かれた花押は麒麟であり、平和な社会の実現を願って使っていたという説がありますね。大河ドラマの「麒麟が来る」に通じるものがあるのかな。
これは土岐頼髙が描いた鷹図。土岐家は代々画家としても優れた人物が多く、共通して描いた画題が鷹でした。これらを総称して土岐の鷹と呼びますが、本物は初めて目にする事が出来ました。
これは信長が愛用していたポルトガル伝来の品という伝承のある和時計です。百年近く使われていませんでしたが、令和元年に修理され、針は回らないまでも時刻を知らせる音が鳴る様にはなりました。ただ、修理に当たられた方の鑑定では江戸時代のものらしいとの事で、信長の時代にまで遡るのは無理の様ですね。和時計は江戸時代に使われていた不定時法で時を刻む時計で、昼と夜の時間を別々に等分して時を示すのだとか。昼と夜とで針の進み方が異なり、目覚まし機能まで付いているという優れものです。昔の人の技術の高さには驚かされるばかりですね。
廊下の天井は血天井になっています。関ヶ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城のもので、守っていた38名の将兵が命が落とし、彼らの霊を弔うために崇福寺に納められました。
本堂の裏側は織田信長公父子廟と言い、本能寺の変で散った信長と信忠の墓と位牌堂があります。こちらは墓石で、摩滅していてほとんど読めませんが、右側に信長の戒名「総見院殿贈一品大相国泰岩大居士」、左側に信忠の戒名「大雲院殿三品羽林仙岩大禅定門」が刻まれています。ちなみに信長の戒名に贈一品大相国とあるのは、死後に朝廷が正一位太政大臣を贈った事を示しており、その裏には豊臣秀吉の働きかけがあったとされます。
墓石の隣が位牌堂。小振りですが、東照宮を思わせるきらびやかさがありますね。
本堂の前には枯山水の庭があります。手入れの行き届いた美しい庭ですね。遠くに岐阜城が見えているのが判るでしょうか。
梵鐘は稲葉一鉄が寄贈したものでした。ただし、戦時中の金属供出のためにオリジナルは失われており、現在あるのは戦後に鋳造したものです。
崇福寺は信長関係の資料が一杯詰まった寺でした。岐阜には何も無いなんて、いきなりこんな凄いところがあるじゃないですか。ここを見るだけでも岐阜に来る値打ちがあると言うものです。戦国ファンには必見の寺ですよ。
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