湖東の旅2024 西国三十三所 三十二番札所 観音正寺 10.24
安土から能登川経由で観音正寺に来ました。能登川に移動したのは安土の駅前で食べるところが無かったのと、タクシーがつかまり易いと聞いたからです。観音正寺は繖山(きぬがさやま) の山頂の下、370mの地点にあり、安土から徒歩で登るルートもありますが、650段の石段プラス山道を歩くか、1200段の石段を登るかの2択しかなく、とても無理なのでタクシーを選んだのです。そのぶん費用も掛かりましたけどね、背に腹は代えられないのでした。
ただ、タクシーに乗る前に山頂から帰りのタクシーを呼べますかと聞くと、台数が少ないのでつかまるかどうか判らないとの事でした。しかし、ここまで来た以上引き返す訳にはいかず、仕方が無いと乗り込みました。でも走り出してみると、やっぱり遠いし、坂道がきついのですよね。不安になって運転手さん相手にぼやいていると、時間を決めて迎えに来てくれると言ってくれたのです。いや、で助かりましたね。時間に制約が出来ましたが、帰りの足が確保出来てほっとしました。良い運転手さんに巡り会えて良かったです。
観音正寺に直接車で乗り着ける事は出来ず、手前の駐車場までしか行けません。そこから10分程歩くのですが、なだらかな坂道なのでそれほど大した事はありません。ところどころに小さなお地蔵様などが置かれており、格言めいた言葉が書かれた立て札が建っていました。それを読みながら歩いて行くのも面白かったですね。
途中何人かとすれ違いましたが、こういう山の中ではみなさんあいさつを交わしていきます。でも中にはけげんな顔をして素通りをして行く人もいました。色々な人が居るもんだなと思っていたら、お隣の国の人だと気付きました。南無観世音菩薩と書いた白衣を着ていたところを見ると、西国三十三所巡りをしているのでしょう。お隣の国ではかつて廃仏運動があり、仏教は滅んだと思っていたのですが、調べてみると今でも一億人以上の信者が居て、宗教勢力としては最大なのだとか。これは我ながら勉強不足でした。でも、仏教が健在なら、お隣の方が本家なのでは。わざわざ日本に来て三十三所巡りをするとは、仏様の功徳に国境は無いという事なのかしらん。
暫く歩くと、巨岩の前に鳥居が建っており、奥の院と書かれていました。この時は知らなかったのですが、ここが観音正寺の発祥の地なのですね。
観音正寺を開いたのは聖徳太子とされます。湖東を訪れ繖山の山頂に紫雲が棚引くのを見た太子は霊山に違いないと悟り、頂上にあった巨岩の上で天人が舞うのを見ます。そして天人に導かれるままに巨岩が重なり合った岩室に入り、瞑想していると天照大御神と春日大明神が現れ、山上に湧く水で墨を擦り千手観音のお姿を書くようにと告げます。太子がそのとおりにすると今度は釈迦如来と大日如来が現れ、繖山の霊木で千手観音を彫りなさいと告げます。太子は言われたとおり尊像を刻み、天人が舞っていた巨岩に安置し、その岩を天楽岩と名付けました。この伝説の天楽岩がこの奥にあるのですね。
観音正寺にはもう一つ伝説があり、近江国を遍歴していた聖徳太子は、琵琶湖の湖面に浮かんできた人魚と出会います。人魚が言うには、私は漁師として沢山の魚を獲り、無益な殺生を繰り返したためこの様な姿になりました。日々湖中を彷徨い苦しんでいます。どうか私を人間の姿に戻し、成仏させて下さいと頼みました。太子はその願いを聞き入れて千手観音像を刻み、寺を建てました。これが人魚伝説で、本堂が焼失するまでは人魚のミイラがあったそうです。
神仏混淆の走りの様な伝説と民話を思わす伝説が併せて伝わっているのが興味深いですね。寺伝に依れば創建は推古天皇十三年(605年)との事ですが、実際の創建時期は不明です。でも西国三十三所に含まれているということは、少なくとも平安時代前・中期には存在し、名の知られる寺となっていたのでしょう。
鎌倉時代になると佐々木(六角)氏が繖山に観音寺城を築き、観音正寺を庇護するようになり、寺運は隆盛します。最盛期には七十二坊三院を抱えたと言いますから、相当な大寺ですね。しかし、観音寺城が拡張されるにつれ寺域は縮小し、ついには麓に移設される事になります。そして永禄十一年(1568年)に起こった観音寺城の戦いに巻き込まれて焼亡してしまいました。その後慶長二年(1597年)に至り再び山上に再建され、江戸時代には西国三十三所の霊場として栄える事となります。
明治になると廃仏毀釈により衰退し、本堂以外の塔頭は一坊を残して廃絶してしまいます。明治十五年(1882年)には彦根城の欅御殿を譲り受けて本堂としました。その後は西国三十三所三十二番霊場として命脈を保ってきましたが、平成5年(1993年)に本堂が焼失し、本尊の千手観音像と寺に伝わっていた人魚のミイラも燃えてしまいました。大変な損害を受けてしまいましたが、時の住職は諦めずに奔走し、平成16年(2004年)に再建に漕ぎ着けました。
千年以上の歴史を持つ観音正寺には、様々な御堂や仏様があります。この茅葺きの珍しい御堂は一願地蔵、またの名を北向地蔵とも呼ばれます。名前の通り、このお地蔵様の前で真言を七度唱えると一つの願いが叶うと言われています。
こちらは釈迦如来座像、またの名を濡れ仏と言います。御堂が無く、雨に濡れるからでしょうか。元は江戸時代作の仏像があったのですが、第二次世界大戦の時に供出によって失われ、昭和58年(1983年)に再鋳されました。見るからに姿の良い仏様ですね。
これは護摩堂に祀られている不動明王像です。ただ護摩行を行うにしては綺麗すぎますね。もしかしたら最近新調したものなのかしらん。
こちらは大日如来と子授け、子育て地蔵。近江平野を背景に、良い感じで佇んでいます。
札堂の中にある千手観音像です。ご本尊によく似ているのですが、もしかしてひな形なのかしらん。
本堂前から見た近江平野です。近江八幡城や安土城からも見た景色ですが、近江米の産地らしく豊かさを感じさせる水田風景ですね。
これが再建された本堂です。これだけ立派な御堂が出来たのですから、奔走された甲斐はありましたね。
そしてご本尊の千手観音像です。この像の再建については、焼失した翌年に時の住職が香木の白檀で丈六で行うと発願し、何度もインドへ行って輸出禁止の白檀を輸出してくれないかと懇願されました。その熱意が通じたのでしょう、現地でも貴重な白檀の輸出を許可してもらい、原木1200本、重量にして23トンの白檀を手に入れる事が出来ました。その貴重な原木を使って像を完成させたのが、京の大仏師松本明慶師です。この観音様、内陣にまで入って間近で拝むことも出来た様ですが、時間の関係で外陣から拝むだけに止めました。
こちらは本堂横の石積みです。夥しい巨石が並べられ、一大景観をなしていますね。きっとこれは何か特別な意味があるに違いないと思ったのですが、実は火災でもろくなった斜面の土が崩れないようにするために石を並べただけなのだそうです。これだけの景観なんだから何か意味を持たせれば良いと思うのですが、土止めと言い切るところが潔良いですね。
観音正寺では、令和4年が聖徳太子の1400年の御遠忌にあたるため、様々な事業を行ってきました。その総仕上げが観音堂の再建と、老朽化した諸堂の修理なのだそうです。平成22年に火事で焼けてしまったと思われていたお前立ちが見つかり、それを修理して秘仏として祀るのだとか。今はその資金集めの最中だそうで、上手く行くことを祈っています。
なお、焼けてしまった人魚のミイラについては、写真が本堂にあるそうです。拝見したかったのですが、時間の関係で見られなかったのが残念でした。
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