2024 秋の旅 ~岐阜市 常在寺・正法寺・川原町 10.4~
美濃の戦国期のもう一人の主役、斉藤道三の菩提寺、常在寺にやって来ました。とても小さな寺で、タクシーは正面では無く横の道に駐まったので、えっ、ここという感じでしたね。
常在寺が創建されたのは宝徳二年(1450年)の事で、守護代だった斉藤妙椿が日蓮宗の本山の一つ、妙覚寺から日範上人を招いて開かれました。
第四世の日運上人と道三の父、西村新衛門は妙覚寺で机を並べた仲であり、日運上人が住職となると新衛門は常在寺を訪ね、上人の計らいで長井家、斉藤家への出入りが許される事になります。以後権謀術作の限りを尽くし、子の道三と親子二代をかけて長井家、斉藤家を乗っ取り、ついには美濃守護であった土岐頼芸を追いおとして国主となります。いわゆる国盗り、下剋上の典型ですね。
道三は常在寺を斉藤家の菩提寺として庇護して領地を与え、往時の常在寺は「庫裏方丈鐘楼堂塔に至るまで金銀珠玉をちりばめ造立しぬる」と形容されたように、隆盛を誇っていたようです。その道三も子の義龍に討たれ、義龍もまた若くして亡くなり、後を継いだ龍興は織田信長に敗れて斉藤家は事実上滅びます。
信長が国主となっても常在寺は健在だったらしく、おそらく舅の菩提寺として大切にしたのでしょう。しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの時、岐阜城が落城した際に常在寺も類焼してしまい、以後寺運は衰えてしまいます。それでも途絶える事無く現在に至っているのですから、支える人は居たのでしょうね。
常在寺は撮影禁止のため堂内の写真はありません。拝観料は200円と格安ですね。ここだけで無く、岐阜の拝観料はどこも安い。千円が基準となりつつある京都が高すぎるのですよね。
常在寺の見所は何と言っても絹本著色斎藤道三像と絹本著色斎藤義龍像です。それぞれ濃姫、義興が寄進したものと伝えられ、重要文化財に指定されています。残念ながら展示されているのはオリジナルではなく写真ですが、是非見たいと思っていたものなのでまあ良かったです。面白いのは二人があまり似ていない事で、義龍が道三の実子で無いという説は、こういうところから出てきたのかなという気はしましたね。また、二人の家紋が道三が二頭立波、義龍が五三の桐と異なり、義龍が斉藤姓を捨て一色姓を名乗った事を示しているのも興味深かったです。
他には大きな六道生死輪廻図が壁面を飾り、文殊菩薩像が祀られているほか、道三が使用した印鑑のレプリカ、禁制などの資料が展示されています。また、境内には写真の道三公供養塔がありますね。帰ってから知ったのですが、近くには道三を葬った道三塚があったらしく、見に行けなかったのは残念でした。
常在寺は小さな寺ですが、戦国ファンにとっては中身が濃いですね。特に国盗り物語を読まれた方は、是非行かれる事をお勧めします。
稲葉山の麓を走っていると、住宅街の中に異様に大きな建物が見えてきました。何だあれはと思っていると、他でもない、目指している正法寺でした。通称岐阜大仏殿、日本三大大仏に数えられる釈迦如来像を納めるお堂です。
入ってみると、思わず「でかっ」と言ってしまった程大きな大仏様がおわしました。像高13.63mですが、須弥壇の上に座っておられるのでそれ以上に大きく見えますね。通称は岐阜大仏。
構造は周囲1.8mの銀杏の木を真木とし、内部は木材で骨格を組んでいます。この真木は大仏殿の小屋組を支えており、御堂と大仏が一体となっているという他に例を見ない構造となっています。そして、表面は竹材で編み、粘土を塗った上に阿弥陀経、法華経、観音経等の一切経が書かれた美濃和紙を貼り付けて漆を塗り、さらに金箔を貼っているとの事です。乾漆仏としては日本最大級だとか。別名を籠大仏とも呼ばれます。
正法寺は天和三年(1683年)に大休禅師の命を受けた廣音和尚が、金華山山麓の当地に草庵を開いたのが始まりとされます。1692年に大休禅師の希望から萬福寺の千呆禅師を開山とし、黄檗宗に改宗したとの事ですが、じゃあその前は何宗だったんだと調べてみたけれど、良く判りませんでした。
今は大仏殿と地蔵堂くらいしかありませんが、パンフレットには開創時には獅子窟の様相が伺えたとありますから、禅道場としての伽藍を備えていたのでしょうね。
第11代惟中和尚の時、天明七年(1787年)に度重なる災害の被害者の追善のために、大釈迦如来像の建立を思い立ちます。しかし、この寺の門徒は少なく、費用を集めるため各地に托鉢を重ねて浄財の寄進を求めました。寛政六年(1794年)には頭部が出来上がり、文化七年(1810年)には大仏殿の上棟式に漕ぎ着け、堂内では大仏の建立が始まっていましたが、文化十二年(1815年)に惟中和尚は志半ばにして遷化してしまいます。後を継いだ第12代肯宗和尚は文化十二年(1829年)に大仏を完成させ、天保3年(1832年)に尾張尾州候の使者を迎えて開眼供養を行いました。それは信長公居住以来の盛儀だったと伝えられます。(以上パンフレットより抜粋)
大仏の周囲には五百羅漢が祀られています。実際には108躯で、明治に行われた大仏・大仏殿の修理事業の際に新調されたものだとか。雰囲気としては本山の萬福寺に通じるところがありますね。また、今は使われていませんが堂内を巡る回廊があり、かつてはその上から大仏を拝観する事が出来、大変人気を博したそうです。
それにしても岐阜も大空襲を受けており、市内は焼け野原となったと聞きますが、良く残ったものですね。苦労の末完成した大仏様が後世にまで残す事が出来て、本当に良かったと思います。
最後に訪れたのは川原町、長良川の河畔にある昔ながらの町並みが残るエリアです。岐阜市の中心部にありますが、幸いな事に戦災からは免れた様ですね。
細かく言えば湊町・玉井町・元浜町からなります。長良川の水運の拠点の一つで、信長の時代から川湊として栄えた町でした。
水運で運ばれたのは木材や和紙など、美濃の特産品ですね。これらを扱う材木問屋や紙問屋が集まり、この美しい景観が形作られたのでした。
いわゆる重伝建には指定されていませんが、川原町まちづくり会が結成され、この町並みを守る取り組みが行われているそうです。実際新しい店がいくつもあるのですが、町並みに相応しい構えになっており、風情を壊すという事は無いようですね。でもこれたけの町並みがなぜ重伝建にならないのかしらん。
川原町は鵜飼いの拠点にもなっています。この町並みを楽しんだ後鵜飼いに興じる、なんて素敵な場所ではないですか。聞くところによると、インバウンドを呼び込むための活動もしているとか。確かに外人さんはほとんど見かけなかったですね。私的には外人さんは京都だけでお腹いっぱいなのですが、地元にしてみればもっと大勢の人に来てほしいのでしょうね。
ここにも松尾芭蕉の像がありました。芭蕉は大垣だけでなく、岐阜にも門弟が居て滞在した事があるのですね。その時に中川原新田(岐阜市湊町)の油屋、賀嶋善右衛門の長良川畔の水楼で遊び、主人の求めに応じて十八楼(中国の洞庭湖の八景と西湖の十景を合わせた風景がこの中にあるという意味)という楼名を付けたのだそうです。
通りの端には灯台がありました。かつてここが川湊だった事を示すものですね。これはたぶん復原したものなのかな。結構大きなもので、かつての栄えを彷彿とさせるものがあります。
その先には鵜飼い見物のための屋形船が沢山浮かんでいました。長良川の鵜飼いは皇室御用達で、宮内庁が管轄しているのだそうですね。屋形船の屋根の色が違うのは、緑色のが皇室関係者が乗った船なのだそうです。色が違うだけで中のしつらえは一緒なのですけどね、皇族の方が乗ると格が上がるという事なのかな。まあその辺は郷に入れば郷に従えで、そういうものかと聞いておくのが吉でしょうね。
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