« 2024年9月 | トップページ | 2024年11月 »

2024年10月

2024年10月31日 (木)

湖東の旅2024 西国三十三所 三十二番札所 観音正寺 10.24

Kannonsyouji2410311

安土から能登川経由で観音正寺に来ました。能登川に移動したのは安土の駅前で食べるところが無かったのと、タクシーがつかまり易いと聞いたからです。観音正寺は繖山(きぬがさやま) の山頂の下、370mの地点にあり、安土から徒歩で登るルートもありますが、650段の石段プラス山道を歩くか、1200段の石段を登るかの2択しかなく、とても無理なのでタクシーを選んだのです。そのぶん費用も掛かりましたけどね、背に腹は代えられないのでした。

ただ、タクシーに乗る前に山頂から帰りのタクシーを呼べますかと聞くと、台数が少ないのでつかまるかどうか判らないとの事でした。しかし、ここまで来た以上引き返す訳にはいかず、仕方が無いと乗り込みました。でも走り出してみると、やっぱり遠いし、坂道がきついのですよね。不安になって運転手さん相手にぼやいていると、時間を決めて迎えに来てくれると言ってくれたのです。いや、で助かりましたね。時間に制約が出来ましたが、帰りの足が確保出来てほっとしました。良い運転手さんに巡り会えて良かったです。

Kannonsyouji2410312

観音正寺に直接車で乗り着ける事は出来ず、手前の駐車場までしか行けません。そこから10分程歩くのですが、なだらかな坂道なのでそれほど大した事はありません。ところどころに小さなお地蔵様などが置かれており、格言めいた言葉が書かれた立て札が建っていました。それを読みながら歩いて行くのも面白かったですね。

途中何人かとすれ違いましたが、こういう山の中ではみなさんあいさつを交わしていきます。でも中にはけげんな顔をして素通りをして行く人もいました。色々な人が居るもんだなと思っていたら、お隣の国の人だと気付きました。南無観世音菩薩と書いた白衣を着ていたところを見ると、西国三十三所巡りをしているのでしょう。お隣の国ではかつて廃仏運動があり、仏教は滅んだと思っていたのですが、調べてみると今でも一億人以上の信者が居て、宗教勢力としては最大なのだとか。これは我ながら勉強不足でした。でも、仏教が健在なら、お隣の方が本家なのでは。わざわざ日本に来て三十三所巡りをするとは、仏様の功徳に国境は無いという事なのかしらん。

Kannonsyouji2410313

暫く歩くと、巨岩の前に鳥居が建っており、奥の院と書かれていました。この時は知らなかったのですが、ここが観音正寺の発祥の地なのですね。

観音正寺を開いたのは聖徳太子とされます。湖東を訪れ繖山の山頂に紫雲が棚引くのを見た太子は霊山に違いないと悟り、頂上にあった巨岩の上で天人が舞うのを見ます。そして天人に導かれるままに巨岩が重なり合った岩室に入り、瞑想していると天照大御神と春日大明神が現れ、山上に湧く水で墨を擦り千手観音のお姿を書くようにと告げます。太子がそのとおりにすると今度は釈迦如来と大日如来が現れ、繖山の霊木で千手観音を彫りなさいと告げます。太子は言われたとおり尊像を刻み、天人が舞っていた巨岩に安置し、その岩を天楽岩と名付けました。この伝説の天楽岩がこの奥にあるのですね。

観音正寺にはもう一つ伝説があり、近江国を遍歴していた聖徳太子は、琵琶湖の湖面に浮かんできた人魚と出会います。人魚が言うには、私は漁師として沢山の魚を獲り、無益な殺生を繰り返したためこの様な姿になりました。日々湖中を彷徨い苦しんでいます。どうか私を人間の姿に戻し、成仏させて下さいと頼みました。太子はその願いを聞き入れて千手観音像を刻み、寺を建てました。これが人魚伝説で、本堂が焼失するまでは人魚のミイラがあったそうです。

神仏混淆の走りの様な伝説と民話を思わす伝説が併せて伝わっているのが興味深いですね。寺伝に依れば創建は推古天皇十三年(605年)との事ですが、実際の創建時期は不明です。でも西国三十三所に含まれているということは、少なくとも平安時代前・中期には存在し、名の知られる寺となっていたのでしょう。

鎌倉時代になると佐々木(六角)氏が繖山に観音寺城を築き、観音正寺を庇護するようになり、寺運は隆盛します。最盛期には七十二坊三院を抱えたと言いますから、相当な大寺ですね。しかし、観音寺城が拡張されるにつれ寺域は縮小し、ついには麓に移設される事になります。そして永禄十一年(1568年)に起こった観音寺城の戦いに巻き込まれて焼亡してしまいました。その後慶長二年(1597年)に至り再び山上に再建され、江戸時代には西国三十三所の霊場として栄える事となります。

明治になると廃仏毀釈により衰退し、本堂以外の塔頭は一坊を残して廃絶してしまいます。明治十五年(1882年)には彦根城の欅御殿を譲り受けて本堂としました。その後は西国三十三所三十二番霊場として命脈を保ってきましたが、平成5年(1993年)に本堂が焼失し、本尊の千手観音像と寺に伝わっていた人魚のミイラも燃えてしまいました。大変な損害を受けてしまいましたが、時の住職は諦めずに奔走し、平成16年(2004年)に再建に漕ぎ着けました。

Kannonsyouji2410315

千年以上の歴史を持つ観音正寺には、様々な御堂や仏様があります。この茅葺きの珍しい御堂は一願地蔵、またの名を北向地蔵とも呼ばれます。名前の通り、このお地蔵様の前で真言を七度唱えると一つの願いが叶うと言われています。

Kannonsyouji2410316

こちらは釈迦如来座像、またの名を濡れ仏と言います。御堂が無く、雨に濡れるからでしょうか。元は江戸時代作の仏像があったのですが、第二次世界大戦の時に供出によって失われ、昭和58年(1983年)に再鋳されました。見るからに姿の良い仏様ですね。

Kannonsyouji2410317

これは護摩堂に祀られている不動明王像です。ただ護摩行を行うにしては綺麗すぎますね。もしかしたら最近新調したものなのかしらん。

Kannonsyouji2410318 

こちらは大日如来と子授け、子育て地蔵。近江平野を背景に、良い感じで佇んでいます。

Kannonsyouji24103110

札堂の中にある千手観音像です。ご本尊によく似ているのですが、もしかしてひな形なのかしらん。

Kannonsyouji24103111

本堂前から見た近江平野です。近江八幡城や安土城からも見た景色ですが、近江米の産地らしく豊かさを感じさせる水田風景ですね。

Kannonsyouji24103112

これが再建された本堂です。これだけ立派な御堂が出来たのですから、奔走された甲斐はありましたね。

Kannonsyouji24103113_20241025145201 

そしてご本尊の千手観音像です。この像の再建については、焼失した翌年に時の住職が香木の白檀で丈六で行うと発願し、何度もインドへ行って輸出禁止の白檀を輸出してくれないかと懇願されました。その熱意が通じたのでしょう、現地でも貴重な白檀の輸出を許可してもらい、原木1200本、重量にして23トンの白檀を手に入れる事が出来ました。その貴重な原木を使って像を完成させたのが、京の大仏師松本明慶師です。この観音様、内陣にまで入って間近で拝むことも出来た様ですが、時間の関係で外陣から拝むだけに止めました。

Kannonsyouji24103115

こちらは本堂横の石積みです。夥しい巨石が並べられ、一大景観をなしていますね。きっとこれは何か特別な意味があるに違いないと思ったのですが、実は火災でもろくなった斜面の土が崩れないようにするために石を並べただけなのだそうです。これだけの景観なんだから何か意味を持たせれば良いと思うのですが、土止めと言い切るところが潔良いですね。

Kannonsyouji24103116

観音正寺では、令和4年が聖徳太子の1400年の御遠忌にあたるため、様々な事業を行ってきました。その総仕上げが観音堂の再建と、老朽化した諸堂の修理なのだそうです。平成22年に火事で焼けてしまったと思われていたお前立ちが見つかり、それを修理して秘仏として祀るのだとか。今はその資金集めの最中だそうで、上手く行くことを祈っています。

なお、焼けてしまった人魚のミイラについては、写真が本堂にあるそうです。拝見したかったのですが、時間の関係で見られなかったのが残念でした。

2024年10月30日 (水)

日本百名城探訪2024 ~安土城 10.24~

Azuchijo2410281

令和6年10月24日、安土を訪れてきました。目的は安土城と観音寺城の登城、それに観音正寺の参拝です。

Azuchijo2410282

安土を訪れれるのは学生の頃以来、約半世紀ぶり。駅舎はすっかり様変わりして、近代的になっていました。安土は以前訪れた時は独立した町だったのですが、2010年に近江八幡市と合併し、近江八幡市安土町となっています。この合併にはすったもんだがあり、一度は合併に同意したものの、安土という歴史的な町名が消える事に反発する町民が多く、時の町長がリコールされ、町議会も解散再選挙の結果反対派が多数となり、合併撤回の決議が行われるまでに至っています。しかし、それ以前に県議会で合併が承認されており、総務省告示まで行われていたため反対決議は無効とされ、安土町は消滅しました。この事は当時結構話題となり、関西では盛んに報道されていましたね。Wikipediaに依れば、今でも分離独立を望む動きがあるとか。織田信長が開き、かつては天下人の町だった事に誇りを持つ人が多いのでしょうね。

Azuchijo2410283

その事を示すように駅前には信長の銅像が建っています。岐阜の信長像は黄金に輝いていますが、こちらはオーソドックスなブロンズ製です。派手さは無いですが、歴史を感じさせる佇まいですね。

Azuchijo2410285

安土城は信長によって築かれた城です。長篠の戦いで武田氏に大勝した翌年、天正4年(1576年)に着工し、3年の月日を掛けて完成しました。最大のライバルであった武田氏に痛撃を与えた事で、信長の天下取りに目処が立ってきたという事なのでしょうか。安土という地を選んだのは京に近く、東海、北国を結ぶ要衝の地であった事、そして琵琶湖の水運を押さえる要の位置にあったためと言われています。今でこそ安土山は平地に囲まれていますが、築城当時は大中の湖という琵琶湖の内湖に突き出た半島でした。水軍をここに置き、坂本城、長浜城、大溝城と共に、物流の大動脈である琵琶湖を押さえる拠点としたかったのですね。

安土城は石垣を使った最初の城と言われていましたが、実際には他ならぬ信長自身が作った小牧山城、岐阜城、六角氏の観音寺城、三好長慶が築いた芥川城、飯盛山城など先例がいくつもあります。これらの石垣は、鉄砲の伝来による戦術の変化に対応するための備えだった様ですね。ただ、ここまで大規模に使ったのは安土城が最初だったと思われます。また天主についても諸説があり、松永久秀の信貴山城、明智光秀の坂本城などに先例があるとも言われますが、規模においては他を圧していたと思われます。また、天主という標記は、天下人の信長が住んだ建物だからという説がありますが、戦国期には天主という表現は他の城でも普通に使われており、城の中で重要な建物を示していたと考えられています。天守という表記が一般化するのは近世以降の様ですね。

安土城の天主が後世の天守と決定的に違うのは、安土城には天下人の信長自ら住まいしたのに対し、後世の天守は領主の権威の象徴であると共に物見台としての性格が強く、城主は普段は御殿に住み、天守は主として武器庫として使用されたという点にあります。そして、安土城は宗教的な装飾が施された豪華絢爛な内装であったのに対し、後世の天守は外観は立派ではあるものの、内部の装飾はほぼ皆無で、居住性は考慮されていませんでした。

安土城はそのほかの点でも変わった城で、大手門から真っ直ぐに広い階段が伸びています。階段の横には家臣団の屋敷が建ち並び、砦の役目も兼ねていたと言いますが、どう考えても戦闘向きではないですよね。一説に依ると安土城は籠城するのではなく見せるための城で、特に大手の階段は城下からよく見える様に幅広く作ったのだとか。信長は天主に住んでいましたが、朝夕家臣を引き連れてこの階段を上り下りし、その姿を人々に見せて天下人である事を誇示しようとしたのだと言います。まあ、これは一つの説でどこまで正鵠を射ているかは判りませんけどね。

ちなみにここは羽柴秀吉の屋敷跡と説明がありましたが、本当にそうだったかについては根拠はありません。他にも前田利家、武井夕庵等の屋敷跡がありますが、いずれも伝承の域は出ない様です。

Azuchijo2410286

安土城は防御に向かないと書きましたが、大手道を上りきると急に道が曲がりくねり、一応の備えがあった事が判ります。大きな黒金門跡や虎口らしき跡もありましたしね。でも、ここまで攻め込まれたら落城寸前で、防御仕切れないんじゃないかしらん。

ここは黒金門跡の手前にある平地で、織田信忠の屋敷跡と伝えられます。他の家臣達の屋敷より広く、嫡男に相応しい規模ではあります。ただ、跡継ぎを門より外に住まわせるのはどうなのかなあという気はしますけどね。

Azuchijo2410288

階段を歩いていると仏石がいくつも見つかります。いわゆる転用石ですね。織田・豊臣配下の城には良く見られますが、安土城もそうなのでした。中でも巨大なのがこの仏足石で、発掘調査で出てきたそうです。お釈迦様の足形で、寺の中に大事に祀られていたろうに、お構いなしに持ってきたのですね。他にも近くの観音寺城からも持ち出したのだとか。急峻な山から運び出すのは大変だったろうに、大量の石を手っ取り早く集めるには手段を選ばなかったのでしょう。

また、徴発したのは石だけでなく建物もだった様で、甲賀市水口町の大池寺のホームページには、安土城建設のために寺ごと持って行かれ、仏像だけが残ったとありますね。たぶん、こうした例は他にもあったのでしょう。

Azuchijo24102810

ここが天主跡です。前回来た時はこんなに綺麗に整備されてなかった様に思うのですが、数次の発掘調査によりこの形になったそうです。でも廃城になった際に豊臣秀吉によって大きく破壊されていたらしく、また昭和になって積み直されている事もあって、オリジナルとはほど遠い様ですね。石垣の上部は失われているそうで、もっと高く囲まれていたと推測されていますが、どんな形や高さだったのかは研究者によって見解が分かれています。

この下に本丸があり、発掘調査により礎石が見つかっていて、立派な御殿があったと推測されています。信長公記には天皇を招く御幸の間があったと記されているそうですね。さらに一説には御所の清涼殿と同じ造りで、信長は天皇をここに住まわせ、自らは御殿を見下ろす天主に住み、どちらが本当の実力者かを形で示そうとしたのだとか。本当かどうかは判りませんが、相当に強引な構想ではありますね。

Azuchijo24102811

安土城の天主は本能寺の変の直後に焼失してしまいますが、その原因には諸説あり、織田信雄が焼いたという説、明智秀満が焼いたという説、城下の火災から類焼したとする説などが唱えられていますが、正確なところは判らない様です。ただ、燃えたといっても守郭部分だけで、城の大部分は残っており、すぐに廃城になった訳ではありませんでした。本能寺の変の後は信雄、秀信らが城主として入っており、依然として織田家の象徴として存在していました。城が廃されたのは小牧・長久手の戦いの後、秀吉が名実共に天下人となってからで、天正13年(1585年)に秀次に八幡山城を築くように命じ、前時代の象徴であった安土城は破壊され、城下町はまるごと近江八幡に移されました。

滋賀県では安土城の整備計画を策定していますが、現状の石垣の整備保存が主目的で、大手門などは再建する様ですが、何度となく取り沙汰されてきた天主の再建は見送ったとの事です。天主に関しては明確な資料が無く、復原案も複数あってどれが正しいかは判らないそうですね。安土城は国の史跡であり、正確さが確定出来ないと建てることは出来ません。そこでデジタル技術を駆使した再現を考えているそうですが、福岡城や姫路城の様に、スマホを使ったバーチャルで見せる方式になる様です。アプリの公開は来年を目処にしているそうですが、出来上がるのが楽しみなことです。

Azuchijo24102812

滋賀県の再建計画では、城下町の整備にまで触れていますが、正直言って今の町に城下町の雰囲気はありません。なにしろ近江八幡に全て持って行かれてますからね。町割りは残っているそうですが、どう整備するのでしょう。ちょっと見当が付かないのですが、いつか整備が終わったら見に行きたいものです。

Azuchijo24102813

ここは少し離れた場所にある信長の館です。この中に実寸大に復原された天主の上部が収められています。残念ながら写真をネットに上げるのは禁止なので掲載出来ませんが、赤い漆塗りの柱や床、金箔が貼られた壁、極彩色の壁画など、豪華絢爛な天主は必見ですよ。信長公記やルイスフロイスの書簡などの記述から推測して復原したもので、どこまで正確かはともかく、まばゆいばかりの城だった事は判ります。

それにしても、学生の頃に来た時は全て歩きで、城に登っても疲れたという記憶は無いのですが、今回は足がガクガクになり、息が切れました。岐阜城でも思ったのですが、若い頃の記憶は当てになりませんね。足腰が如何に弱っているかを思い知らされました。整備された安土城でこれだから、観音寺城はどうしようかと思ったのですが、この機会を逃したら次は無いと思ったので、予定通り向かうことにします。

2024年10月29日 (火)

京都・洛東 京の夕景2024 ~黒谷・金戒光明寺 10.21~

Kurodani10271

この日意図的に遅く家を出たのは、夕景を撮るためでした。以前なら高台寺の駐車場に行ったのですが、新しい御堂が建ち、さらに裏側に回っても高木が伸びてしまい見通しが利かなくなってしまったのです。あと清水寺も見晴らしは利きますが、あまりにも人出が多すぎるので行く気がせず、黒谷までやって来たという次第です。

Kurodani10272

黒谷で見晴らしが利くのは三重塔前。その登り口にあるのがアフロの阿弥陀様です。正式な名は五効思惟の阿弥陀仏。衆生を救うため、気の遠くなるような時間を掛けて思惟をこらして修行した結果、髪が伸びて螺髪が重なりあって盛り上がった姿を現しています。ここに来たら挨拶せずに通り過ぎる事は出来ませんね。

Kurodani10273

平日にここに来る人は居ないだろうと思っていたのですが、ぽつぽつと階段を上ってくる人が居ました。中にはどこかのスタッフらしき人たちもいて、今頃は京都を紹介するサイトにアップされているのかな。

Kurodani10275

この日はずっと晴れの予報だったのですが、夕方になると雲が出てきました。夕焼けが面白い形になるのは良いのですが、ブルーモーメントまで粘るつもりだったのに、雲に覆われてしまったのは残念です。でも、この景色を見る事が出来たのは、来た甲斐がありました。次は紅葉を見て回っているうちに夕景に出会えるのを期待しています。

2024年10月28日 (月)

京都・洛東 秋の境内2024 ~黒谷・金戒光明寺 10.21~

Kurodani10261

真如堂から黒谷に来ました。ここは真如堂と違い、よく西日が当たっていましたね。

Kurodani10262

いつも手を合わせて通る阿弥陀様。見慣れた仏様ですが、西日を受けるとより神々しく見えます。不思議なものですね。

Kurodani10263

こちらは納骨堂。普段あまり気に掛けた事の無い御堂ですが、秋の西日を受けた姿はどこか懐かしさを感じさせました。

Kurodani10265

阿弥陀様の前に居ると、ニャーニャーと鳴きながら近づいて来た猫です。餌でも貰えると思ったのかしらん。そう言えば最近お寺で猫を見る事が少なくなりました。以前は真如堂でミーコという猫が居たし、その後も暫く後釜に座った猫が居ました。金福寺に居た猫は随分なついてくれていたのですが、亡くなってしまいましたしね。この子は久しぶりに見た猫です。お寺にいると、人慣れするものなのかしらん。

Kurodani10266

勅使門前の梅は色づいており、西日を受けてすっかり秋の風情でした。この景色を見ただけでも黒谷に来た甲斐がありましたね。明日は黒谷に来た目的、京都の夕景色をお届けします。

2024年10月27日 (日)

京都・洛東 秋の境内2024 ~真如堂 10.21~

Sinyodou2410251

迎称寺から向かいの真如堂に来ました。時刻は既に午後4時過ぎ、秋の西日に照らされたもみじと山門が綺麗です。

Sinyodou2410252

ここでも入り口の萩が見頃になっていました。この萩って、遅咲きだったかなあ。境内では茶処前の萩は既に終了していましたが、本堂南側ではまだ咲いていました。まあ、ここの萩は元々それ程咲かなくて、ちらほら咲きという感じでしたけどね。

Sinyodou2410253

境内は思っていた以上に日陰になっていましたね。もう少し明るいかと思っていたのですが、参道のもみじが西日を遮っていました。

Sinyodou2410255

それにしても、この時間に真如堂に来る人は居ないだろうと思っていたのですが、意外と参拝に来る人や犬を散歩させる人が多かったです。近所の人たちは、観光客が居なくなった時間帯に訪れる様にしているのですね。そう言えば本堂と書院を繋ぐ通路は開いていました。あれっと思ったのですが、午前9時から午後4時までは閉鎖しますと書かれていました。とすると、やっぱり有料区域に勝手に入ってしまう人が居たという事なのかな。建仁寺でも同じような事をしていますが、性善説が通用しなくなっている様で、何だか寂しい限りですね。

Sinyodou2410256

天寧寺では咲いていなかったホトトギスが、ここでは咲いていました。と言っても一分咲きといったところでしたけどね。秋明菊はちらほら咲きでしたが、大幅に数が減っています。群落という感じで沢山あったのですが、刈り取ってしまったのですかね。それとも自然に減ってしまったとか。沢山の花が見られるところてだっただけに、少し残念です。

2024年10月26日 (土)

京都・洛東 萩2024 ~迎称寺 10.21~

Koustouji2410261

京都府立植物園から神樂岡の迎称寺に来ました。ここに来たのは萩を見るため、いくら何でも遅いかと思っていましたが、まだ見頃と言える程度には咲いていましたね。

Koustouji2410262

さすがに盛りは過ぎていましたが、綺麗なところを探せばこんな感じで、如何に今年の萩が遅かったかが判ります。元々迎称寺の萩は遅咲きではありますけどね。

Koustouji2410263

迎称寺は一時無人の寺になりかけていましたが、掲示板の様子などからすると後任の住職の方が入っておられる様ですね。この萩もどうなる事かと想っていましたが、これから先も続けて見る事が出来る様です。

Koustouji2410265

例年に比べると半月近く遅いのかな。この調子だと紅葉はどうなるのでしょうね。予想では例年並みらしいですが、11月も気温は高いらしいですから相当遅くなるかも、ですね。いつどこへ行けば良いのか、これまでの経験が全く役に立たず、本当に困りものです。

2024年10月25日 (金)

京都・洛北 コスモス2024 ~京都府立植物園 10.21~

Kotofuritusokubutuen2410251

京都府立植物園に行ったもう一つの目的はコスモスを見るためでした。例年ほどではなかったですが、まずまずの数が咲いていましたね。

Kotofuritusokubutuen2410252

コスモスが咲いているのは主として三カ所、植物園会館の前の花壇とバラ園横の通路、それに沈床花壇でした。特に植物園会館の前は見事でしたね。

Kotofuritusokubutuen2410253

バラ園横の通路は少し物足りなかったですね。例年2列植えられているのですが今年は1列、それに花付きが今ひとつでした。

Kotofuritusokubutuen2410255

つぼみが多かったところを見ると、まだ早かったのかな。他のコスモスは綺麗に咲いていたのに、ここは種を蒔くのが遅かったのんしらん。

Kotofuritusokubutuen2410256

沈床花壇でコスモスを見たのは初めてかな。数は少ないけれど、とても綺麗に咲いていましたね。未だ少し暑かったけれど、秋の深まりを感じた一時でした。

2024年10月24日 (木)

京都・洛北 秋バラ2024 ~京都府立植物園 10.21~

Kotofuritusokubutuen2410231

天寧寺から京都府立植物園に来ました。ホームページに秋バラが見頃とあったので楽しみにしていたのですが、実際に見てみるとうーん、としいう感じでしたね。

Kotofuritusokubutuen2410232

確かに咲いてはいるのですが、例年よりも花数がずっと少ないのですよ。春バラの様には行かないのは承知しているのですが、それにしても寂しすぎました。

Kotofuritusokubutuen2410233

これも猛暑の影響らしいですね。京都だけで無く、他府県のバラ園でもあまり咲いていないとの事です。単に遅いという訳でもなさそうで、つぼみもあまり見当たらなかった所を見ると、これで今年の秋バラは目一杯という事の様です。

Kotofuritusokubutuen2410235

まあ、秋バラらしく花色は美しかったですね。沢山の花は期待してはいけないけれど、綺麗な花を楽しみに行くぶんにはお勧めです。

Kotofuritusokubutuen2410236

どれくらい寂しいかと言うと、こんな感じです。バラ園にほとんど花が無いのが判るでしょう。まるで夏場のバラ園の様ですね。これから毎年こんな感じが続くのかな。秋が消えてしまった様なこの気象、一時的な異常である事を願うばかりです。

2024年10月23日 (水)

京都・洛中 秋の境内2024 ~天寧寺 10.21~

Tenneiji2410251

令和6年10月21日の天寧寺です。比叡山が一幅の絵のように見える額縁門がある寺として知られますが、この日も秋空の中にくっきりとした山の姿が見えていました。

Tenneiji2410252

天寧寺は元は会津にあった寺。当地を支配していた芦名氏の菩提寺で、最盛期の十六世紀初頭には12の僧堂を備え、末寺を33寺、雲水を1000人抱えるという大寺でした。しかし、芦名氏と伊達氏の争いで芦名氏が敗北し、天寧寺も焼亡してしまいます。時の住職も会津を追われて京都に避難し、天台宗松陰坊の跡地に草庵を建てたのが現在の寺の始まりとされます。

Tenneiji2410253

その後会津の門人の援助を受け寺容が整えられますが、1788年の天明の大火で諸堂は焼失してしまいます。現在の建物はその後再建されたもので、本堂は文化七年(1810年)、書院は弘化二年(1845年)、表門は安政四年(1857年)に建てられました。実に70年近くの歳月を要したのですね。現在はそれぞれ京都市の有形文化財に指定されています。

なお、会津の天寧寺は地元の人々の手に依って再建され、現在も会津に存在しています。また、角館に移った芦名氏によって菩提寺として天寧寺が創建されており、日本にはルーツを同じくした天寧寺が三つ存在しています。

Tenneiji2410255

境内にあるこの鶏の像は諫鼓鶏の灯籠。古代中国、堯の時代に悪政があった時には民がそれを知らせる様に太鼓を置いたのですが、堯はずっと善政を敷いたため太鼓を叩く者はおらず、いつしか鶏が太鼓の中に巣を作ったという故事を表したものです。平和の象徴、祗園祭の鶏鉾と同じ起原ですね。

Tenneiji2410256

境内にはススキが生え、秋の風情で溢れていました。残念だった事はまだホトトギスが咲いていなかった事で、今年は彼岸花と同じく秋の花は咲くのが遅くなっていますね。秋明菊もやっと咲き始めたばかりのところでした。10月も半ばを過ぎたと言うのに夏日が続くという異常な気候ですから、植物もさぞ戸惑っているのでしょう。こんな状態は今年限りだと良いのですけどね。

2024年10月22日 (火)

秋の旅2024 ~たつの市 赤とんぼの里・男はつらいよ夕焼け小焼けロケ地 10.10~

Resize0160

昨日は竜野の様々な顔のうち、城下町、重伝建の町、醤油の町、素麺の町をお届けしましたが、忘れていけないのが赤とんぼの里であるという事です。そもそもここに来ようと思い立ったのは、秋にふさわしいところに行きたいと思ったからで、赤とんぼの里を検索したら龍野だと判ったからでした。たつの市でもそのあたりは意識しており、駅前には童謡あかとんぼのふる里と記した銅像が建っています。

Resize0151

童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風は龍野の人。明治22年(1889年)の生まれで、五歳の時に両親が離婚し、祖父に引き取られて育てられます。この経過があるせいなのですね、龍野には露風の生家と住居跡の二つの住まいがあります。私はこれを知らなかったので、住居跡だけを目指して行き、生家の方はそれと気付かずに通り過ぎてしまいました。グーグルののストリートビューで確かめると、入り口に大きく三木露風の生家と書かれているのですが、その前の道の突き当たりに検察庁があるのですよ。周囲に役所は無く、住宅街の中に唐突に検察庁が現れたため何んでこんな所にとそちらに気を取られてしまい、肝心の生家の方を見てなかったのです。我ながらうかつな話ですね。こちらは住居跡、当時の家は既に無く、立て札だけがありました。

Resize0161

露風は早熟の天才で、17歳で処女詩集「夏姫」を、20歳で代表作とされる「廃園」を出版し、北原白秋と並び称され、白露時代と言われました。などと知った風に書いてますが、このあたりはwikipediaを見て得た知識です。自前で知っているのは鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加して童謡を作詞する様になり、その流れで「赤とんぼ」が出来たと言う事くらいですね。露風が竜野に居たのは中学一年生の時までで、その後は上京して早稲田、慶應で学びます。そして北海道に渡り修道院で文学講師を務めますが、「赤とんぼ」を作ったのはこの北海道時代なのですね。そして東京に戻って三鷹に住まいを構え、昭和39年に亡くなるまで住み続けました。しかし、龍野を忘れた訳では無く、龍野城の別名「霞城」にちなみ、自宅を「遠霞荘」と名付けていたそうです。

この銅像は龍野公園の前にあり、聚遠亭の方から続く文学の小径を辿ってくれば判りやすかったのですが、武家屋敷通りの方から回り道をしたため場所が判らなくなり、見つけるのに苦労しました。

Resize0155

その銅像の横に赤とんぼの歌碑があります。ここも一度それと気付かずに通り過ぎてしまい、おかしいなと思ってスマホで検索し、すぐ近くと判ってほっとしました。龍野に来たそもそもの目的がこの歌碑を見るためでしたからね。この前に立つと赤とんぼの曲が流れる仕掛けになっており、それを聞きながら、ああ赤とんぼの里に来たんだなとしみじみと感じました。ちなみに文学の小径には八つの童謡の碑があり、同じ仕掛けがしてあるそうです。

Resize0129

龍野での最後の目的は、映画「男はつらいよ 夕焼け小焼け」のロケ地巡りをする事でした。観光案内所でロケ地を記した地図を貰ったのですが、かなり簡略化されていてなかなか場所が判らず、探すのに時間が掛かりました。それに48年前の映画ですからさすがにあちこち様変わりしており、見つけるのには苦労しました。

そんな中で一番簡単だったのが、橋のたもとから見た鷄籠山のこの風景。市の課長さんが、ここから見た鷄籠山が一番良いと力説していた場所で、確かに格好良いですね。ただ、この近くで子供たちが河原で遊ぶシーンがあり、それを参考に水面すれすれから鷄籠山を撮るつもりだったのですが、こんなに草が生えていたのではとても川縁までは近づけず諦めました。

Resize0130

映画からは逸れますが、ここの堤防は変わっていて、格子状にすかすかになっています。これは畳堤と言って、水位が上がってくればこの隙間に畳を入れて堤防にするのです。ここは川岸ぎりぎりにまで家が建っているので普通の堤防は築く事が出来ず、かと言ってコンクリートの壁にしてしまうとせっかくの景観が見られなくなるため、こういう形にしたのだそうです。昭和30年代に築かれて以来長く畳の出番は無かったそうですが、平成28年に大きな出水があり、その時初めて使ったのだそうですね。そして、見事に効果が立証されたのだそうです。こんな珍しい堤防はここだけかと思ったら、岐阜の長良川と宮崎の五ヶ瀬川に先例があったのだとか。この間行ったばかりの長良川にもあるとは知りませんでした。

Resize0178

映画のロケ地に戻ります。ここは角度が違いますが、芸者さん達が出勤時に歩くシーンで使われました。竜野芸者は今は居なくなりましたが、昭和30年代頃までは実際に居たそうです。どこが花街だったのかは判りませんが、10数年前までは元芸者さんが経営する定食屋さんが存在していました。今はもうその方は亡くなり、店も閉店していますが、建物と「ふるさと」と言う看板は残っていました。

Resize0158

そして、どうしても見たかったのが、ラストシーンで使われた醤油蔵です。残念ながら左側にあった醤油工場は無くなっていましたが、右側の特徴的な塀は健在でした。

他にはマドンナのぼたんさんの家は既に取り壊されて更地になっており、もう一つ見たかった清観が昔の恋人志乃さんに見送られる場所は、向かい側の家が取り壊されて金属の塀で囲われており、前までいったのに、あまりに雰囲気が変わっていてこの時は判りませんでした。帰ってからストリートビューで見て確かめましたけどね。他にも梅玉旅館とかあったのですが、重要なところはすっ飛ばしていました。総じて言えるのは、あれもこれもと欲張ったせいで、余計な時間と体力を浪費して、どっちつかずになってしまいましたね。もう少しテーマを絞って訪れるべきでした。まあ、それほど龍野は見所が多いという事なのですけどね。

Resize0178_20241019140301

最後は夕方5時に流れるという赤とんぼのメロディーをバックに、夕焼けの動画を撮るつもりだったのですが、あまりにも疲れてしまったので夕方まで待たずに帰る事にしました。よく晴れていたので綺麗な夕焼けがみられたろうに、ちよっと心残りですね。

Resize0179

竜野は桜時分や紅葉時分には混むそうですが、それ以外の時期ならとても空いていて、ゆっくりと楽しむ事が出来ます。姫路から姫新線に乗って本竜野まで20分、姫路までは新快速が通っていますから、それ程交通費も掛かりません。距離的にも京都、大阪からなら十分に日帰り圏内です。小京都の名にふさわしい、というか京都よりも余程素敵な町並みが楽しめる穴場の観光地ですよ。沢山歩く事になりますが、それただけの値打ちがある事は保証します。足に自信の無い人は、観光案内所で電動アシスト自転車を借りるのも手ですね。3時間の制限付きですが、テーマを絞っておけば十分回れると思います。

2024年10月21日 (月)

秋の旅2024 ~たつの市 重要伝統的建造物群保存地区・竜野醤油・揖保乃糸・龍野城・武家屋敷通り 10.10~

Resize0131
たつの市 小京都と呼ばれる町並み

播州の小京都 たつの市

姫路から秋を求めてたつの市へ来ました。以前は竜野市、新宮町、御津町、揖保川町に分かれていましたが、2005年に合併してひらがな市名の街が出来ました。中でも旧竜野市街は龍野藩五万三千石の城下町で、古い町並みが多く残る事から、播州の小京都と呼ばれます。

Resize0133

たつの市 醤油蔵し水路のある道

江戸時代さながらの町並み

旧市街地の半ばが重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されているとあらかじめ調べてはいましたが、実際に来てみて城下町がまるっと保存されているのが判り驚きましたね。無論、江戸時代そのものではなく、新しい建物や更地になったところもありますが、どこを歩いても風情たっぷりで、こんな素敵な街があったんだと嬉しくなりました。

Resize0135

たつの市 うすくち龍野醤油資料館

淡口醤油発祥の地

竜野は3時間もあれば歩いて回れるほどのこぢんまりとした町ですが、実は様々な顔を持っています。その一つが醤油の町ですね。醤油の中でも淡口(うすくち)醤油発祥の地で、今でも生産量は日本一なのだそうです。木造二階建てがほとんどの街中に、突然現れるレンガ造りの建物がうすくち竜野醤油資料館。ビカシマル醤油の本社だった建物で、今は竜野醤油の情報発信地となっていて、ここに入れば淡口醤油の全てが判ります。ちなみに入館料は10円、冗談かと思いましたが、ちゃんとパンフレットも貰えたし、展示内容も充実していて。竜野に来たら必見の場所ですね。

Resize0136

うすくち龍野醤油資料館内部

龍野醤油が栄えた理由

竜野醤油の発祥は1500年代後半まで遡ります。竜野は播州平野の西の端に位置し、醤油造りに欠かせない播州の小麦、赤穂の塩、揖保川上流の新宮、山崎の大豆が容易に手に入り、さらに揖保川の伏流水にも恵まれていました。最初造っていたのは濃口醤油だったのですが、1666年に淡口醤油が開発され、それが京・大阪で受け入れられて、藩が保護奨励するところとなり、一大産業として発達する事となりました。ちなみに淡口となるのは塩分濃度を濃くする事で発酵・熟成を抑え、色が濃くなる前に完成させるからなのだとか。また揖保川の水が軟水であった事も発酵を抑えるのに有利だったそうです。そして竜野醤油の特徴として甘酒を加えており、辛らさだけでなく、ほんのりとした甘みが感じられるのですね。

また、揖保川は原料水としてだけで無く、水運にも使われました。竜野で造られた醤油は高瀬舟に乗せられて揖保川を下り、室津で千石船に乗せ替えて大阪に運び、京には三十石船で淀川を遡り、最後はまた高瀬舟に乗せて高瀬川から運び入れられました。私的には、慣れ親しんだ高瀬川と竜野が繋がっていたのが興味深かったです。

なお、現在旧市街に醤油醸造所跡はいくつかありますが、実際に操業を行っているのは末廣醤油一社のみ、ここは今でも伝統的な製法を守っているとの事です。

Resize0138

たつの市 醤油蔵が並ぶ町並み

八つの重要伝統的建造物群保存地区

竜野の重伝建は八つの地区に分かれます。それぞれに特徴があり、ここは大手と上河原の境目あたりになるのかな。大手の中でもこのあたりは醤油蔵が多く、うすくち竜野醤油資料館もこの先にあります。また、寺院も多くあり、右手は如来寺という比較的大きな寺です。また、市内に水路が多いのも特徴で、城の堀にしてはごく狭いので山から流れてくる自然の川なのでしょうか。水路沿いの道はとても風情があり、車社会になっても暗渠にして道幅を広げる事をせず、大切な景観として守っているそうです。道と交差するところにはこうした石の欄干があり、それもまた良い味を出していますね。

Resize0141

たつの市 上川原地区

商家街だった上河原地区

ここは上川原地区。江戸時代は商家が多く、多種多様な店があったとか。でも今は静かな住宅街ですね。もっとも、ここは上川原でも脇道で、この北側がメインになるのかな。

Resize0139

麵之家 素麺の特製ぶっかけ

<龍野の名産 揖保乃糸

この脇道に入ったのは、昼食のためでした。麺之家という店で、うどん、そばなど様々な麺料理が食べられるという事で、あらかじめ調べて来たのです。でも前の写真のように民家が並ぶ狭い道で、本当にこんな所にあるのかなと思いながら歩いていると突然幟が出ていました。古民家をリノベーションした店で、中は小綺麗になっていましたね。沢山のメニューがある中で選んだのは素麺、醤油と並ぶ竜野の名物です。素麺の特製ぶっかけで、焼き豚、トマト、卵、ワカメ、天かすなどがトッピングされており、こんなに豪華な素麺は初めて食べました。ちょっと薄味でしたが、なかなか美味でしたよ。

竜野の素麺と言えば揖保乃糸。てっきり一つの会社が作っていると思っていたのですが、実は姫路から佐用までを含む広い地域の400社の組合工場で作る統一ブランドなのだそうですね。始まりは室町時代で、竜野の南、太子町あたりで作り始められた様です。その後、製造する農家が増えていき、粗製濫造品が出回るようになった事から、竜野、新宮、林田などの素麺屋仲間が集まり、品質などを取り決め、厳しい管理が行われる様になったのだとか。その伝統が今も引き継がれているのですね。

Resize0142

たつの市 醤油の郷大正ロマン館

醤油の郷大正ロマン館とクラテラスたつの

大手地区のランドマーク的存在が醤油の郷大正ロマン館。大正13年に龍野醤油同業組合が建てた組合事務所で、素敵な洋館ですね。現在は資料館になっており、作品展の会場としても使用されています。入城料はなんと無料。本当に入って良いのかなと恐る恐る入りましたが、誰も居なくて自由に見て回る事が出来ました。

隣にある醸造所跡はクラテラスたつのと言って、レストランと土産物店が入っており、竜野観光の拠点ですね。総じて静かな竜野でしたが、ここは結構な人が集まっていました。みなさん、どこに居たのかしらん。

Resize0143

醤油ソフトクリーム

不思議な味 周瑜ソフトクリーム

ここで食べたのが醤油ソフトクリームです。これが食べてみたかったのですよね。ほんのりとした醤油味がするソフトクリームで、それでいて甘いという不思議な味わいでした。でも美味しかったですよ。500円と少し高めですが、お勧めのスイーツです。

Resize0144

たつの市 ゑの劇場

ゑの劇場と醤油の自動販売機

大正ロマン館の斜め向かいにあるのがゑの劇場。ここも醤油醸造所の跡で、多目的ホールとして利用されている様です。かつての工場の外観はそのままに利用している訳で、町の風情を壊さないこういう取り組みは嬉しいですね。門の横にある三角屋根の小屋は日本で唯一と言われる醤油の自動販売機、醤油やもろみを買う事が出来ます。

Resize0146

龍野城 大手門

龍野城跡

少し歩いて龍野城に来ました。寛文十二年(1672年)に脇坂安政が建てた城で、総石垣造で枡形になった門や多聞櫓を備えていますがごく小規模で、城と言うより武装した陣屋という方が正しいのかな。江戸時代にはもう少し広く、裁判所や小学校のあたりにまで曲輪があり、堀も備えていた様ですね。本来の大手門は小学校の東にあったのだとか。明治維新後に廃城になり、門は移設、櫓や御殿は取り壊され、跡地は中学校や女学校として利用されていましたが、昭和50年から再建が始まり、木造、土壁で現在の建物が復興されています。戦国時代には背後の鷄籠山に赤松氏が築いた本格的な山城があったのですが、万治元年(1658年)に廃城になり取り壊されています。この山城の遺構は今でも残っており、本丸跡まで登る亊は出来ますが、結構険しいところもある様なので、しっかりした足ごしらえが必要な様です。

Resize0148

龍野城 本丸御殿と前庭

龍野城 本丸御殿

城内には本丸御殿がありました。1979年に古図を元に復原されたもので、内部も綺麗に再現されています。城の資料や鎧兜、脇坂氏の象徴である貂の皮の槍鞘(復製)などが展示されていますが、入館料は無料。岐阜も安いと思いましたが、竜野はそれ以上ですね。京都の拝観料が異常に高いんだと改めて思いました。

Resize0150

龍野城 二重櫓

復興された二重櫓

裏門から出ると立派な二重櫓がありました。いかにも城下町らしい景色ですが、江戸時代には無かった様ですね。復原ではなく復興と書いたのはそのためです。でも竜野の町に良く似合う素敵な姿なので、時間の経過と共に文化財として認知されて行く事でしょう。

Resize0154

たつの市 武家屋敷通り

武家屋敷通り

龍野城の西にあるのが武家屋敷通り。建て替えられた家が多いせいか重伝建には指定されていませんが、白壁が続く美しい道です。この先に竜野の名所の一つ、聚遠亭があるのですが、だんだん時間がなくなって来たので途中で引き返しました。でも、無理をしてでも行っておけば良かったかな。

Resize0152

たつの市 白壁の続く町並み

まだまだあるたつの市の魅力

長くなったので、この先は明日アップします。竜野の魅力はまだまだありますよ。

2024年10月20日 (日)

秋の旅2024 ~姫路城・好古園 10.10~

Koukoen2410201

好古園は姫路城西御屋敷庭園と言い、かつての武家屋敷跡に造られた回遊式庭園です。開園したのは平成4年の事で、当時は結構話題になりました。3.5haもある広大な庭園で、コンセプトの違う13の庭からなり、入園者は様々な趣きを楽しむ事が出来ます。

Koukoen2410202

最も広いのが御屋敷の庭。元和四年(1618年)に時の城主、本多忠政が造営した西下屋敷の庭園で、江戸時代中頃には榊原政岑が新吉原から身請けした高尾太夫を住まわせたと言われます。とても優美な庭園で、13の庭の中でも最も見応えがあります。

Koukoen2410203

池は瀬戸中海を表しているのだとか。錦鯉も泳ぎ、良い彩りになっていますね。もみじもあって、紅葉時分にはさぞ綺麗な事でしょう。

Koukoen2410205

全てではないですが、姫路城を借景にした庭もあります。遠いので小さくしか見えませんが、姫路城ならではの景色ではあります。

Koukoen2410206

こちらも城を借景にした庭。見えているのは多分西の丸の多聞櫓でしょうか。茅葺きの四阿が良い味を出していますね。

Koukoen2410207

ここは城下町風に造った通路です。道端にススキが生えていたので、秋の風情が出るかなと思って撮ってみました。

ただ、広すぎるからなのかな、あまり手入れの行き届いていない庭も多かったです。だからかな、コンセプトは違うものの、正直どの庭もあまり変わり映えがしない感じでした。そのせいでしょうか、姫路城は激混みだったのに、こちらは閑散としたものでしたね。とても広くて凝った庭園ですが、その後の管理を考えていなかったんじゃないかしらん。計画されたのはバブルの真っ最中、行け行けどんどんの時代に設計された施設らしくはありすね。

でも、姫路城の混雑に疲れたら、こちらに来てほっとするのも有りかと思います。最初の御殿の庭は本当に見事ですからね、ここを見るだけでも値打ちがあります。入園料は310円、姫路城との共通券は1050円ですから、実質50円で入れるのでお得ですね。

2024年10月19日 (土)

百名城探訪 姫路城 2024.10.10

Himehiho2410181

百名城を訪ねる旅、今回は姫路城に来ました。ここに来るのは五度目ですが、改修後に来るのは初めてです。

Himehiho2410182

改修が終わってからもう9年になるのですね。完了直後には白すぎ城などと言われましたが、今は程よく落ち着いた色合いになっています。

Himehiho2410183

数ある城の中でも姫路城は別格ですね。天守を始め、数々の櫓や塀が残っており、複雑な縄張りを実体験出来ます。でも、今は拝観者が多すぎますね。この日も平日にもかかわらず、開門と当時に沢山の人が門を潜っていました。過去四回はここまで多くなかったものなあ。それにインバウンドの方の多い事。凄い数の外人さんが団体で続々とやって来ていました。日本人が西洋の城といえばノイシュバシュタイン城を思い浮かべますが、外国の方にとっては姫路城がそれに相当するのでしょうね。二重料金にするという事が話題になっていますが、これだけ多いと建物が傷むのも早くなるでしょう。善悪は判りませんが、気持ちは理解出来ます。

Himehiho2410185

姫路市も戦災に遭っていますが、姫路城は無事でした。戦時中は白いと目立って爆撃の目標とされてしまうので、黒い幕を張って見えにくくしていたそうですね。それでも天守の窓から焼夷弾が転がり込み、危機一髪だったのだとか。幸い不発弾だったので助かったそうですが、本当に危なかったのですね。奇跡と言うか、この美しい天主が燃えてしまう寸前だったとは、戦争は本当に嫌です。

今回は百名城のスタンプが外にあったので、中には入りませんでした。もう四回も登城していますし、混んでいる中に入っていく気もしなかったですからね。今回姫路に来た目的はまだ入った事の無い好古園を訪れる事。菱の門から引き返し、隣へと向かう事にします。

2024年10月18日 (金)

2024 秋の旅 ~長浜市 黒壁スクエア 10.5~

Nagahama2410181

秋旅行の2日目は、滋賀県の長浜市を訪れました。以前の長浜は地方の一都市に過ぎませんでしたが、今では年間200万人が訪れる人気観光地になっています。

Nagahama2410182

長浜は豊臣秀吉が開いた城下町が始まりです。秀吉の後は柴田勝豊、山内一豊らが城主となりましたが、豊臣氏が滅びると廃城となり、櫓や門は彦根城に転用され、長浜城は跡形も無く破壊されました。城下町でなくなった長浜ですが、浄土真宗大谷派の大通寺があり、その門前町として発展を続けました。また、北国街道や琵琶湖の水運の要衝でもあり、商業の町としても繁栄しています。

Nagahama2410183

近代になると工業都市としての性格が加わります。長浜の郊外を通ると、田園地帯の中に結構大きな工場が散在していますね。平成に入ると周辺の町との合併を繰り返し、2010年には湖北地方のほぼ全域が長浜市となり、滋賀県で最も大きな市となっています。地図で見ると異様なまでの大きさですよ。人口は10万9千人程度、そのうち6万人程度が旧長浜市に集中しています。

Nagahama2410185

長浜も他の多くの地方都市と同じく、1980年代に郊外に大型商業施設が相次いで開業し、旧市街地は急速に衰退してシャッター通り街となってしまいます。そのまま行けば空洞化した町が残るだけになっていた事でしょうね。ところが、長浜は違いました。衰退したとは言え、幸いな事に古い町並みは残っていました。空き家となった店も多かったのですが、これを逆手に取ってリノベーションを行い、若者受けする店舗を誘致し、伝統的な町並みと新しい店が融合した街として蘇ったのですね。

Nagahama2410186

再生のきっかけとなったのが、1988年(昭和63年)に起こった黒壁銀行と呼ばれていた旧第百三十銀行の解体計画でした。長浜のシンボルとも言える黒壁の喪失に危機感を覚えた地元は第三セクターを立ち上げ、黒壁を買い取ってリノベーションを行いました。そして翌年にガラス工芸品を扱う黒壁ガラス館として開業、さらに周辺の店も次々にリノベーションして行き、最終的に30館をカラスショップ、美術館、工房、カフェ、レストランに改装しました。結果としてこれが成功して古い商店街が観光地へと変貌し、年々客脚が増加して行き、新快速が長浜まで延伸された事もあって、現在では県内一と言われる程の賑わいを見せています。

Nagahama2410187

黒壁スクエアはガラス工芸がコンセプトの街なので、綺麗なでスプレイが見られて良かったです。ただ、正直言って混みすぎですね。エリアは狭い上にこの日はイベントが行われていて道の真ん中にワゴンが置かれ、すれ違うのも大変な状況でした。せっかくの町並みも楽しむ余裕が無かったです。出来れば平日に行った方が良いかな。

京都からなら新快速に乗れば1時間と少し。運賃は1340円とちょっと掛かりますが、日帰りで行けるのが良いですね。ガラスだけでなく色々なお店があるので、ウィンドウショッピングだけでも楽しい街ですよ。

2024年10月17日 (木)

2024 秋の旅 ~長良川鵜飼 10.4~

Nagaragawaukai2410171

岐阜での最後の楽しみは鵜飼でした。十八楼の裏手は長良川に面しており、旅館から直接乗船場に行けるのが宿に選んだ決め手の一つでした。

Nagaragawaukai2410172

鵜飼は日本各地で行われていますがその歴史は古く、五世紀末から六世紀初にかけての古墳から鵜形埴輪が出土しており、古墳時代には既に存在していたと推測されています。また、古事記や日本書紀にも鵜養という記述が見られ、長良川については正倉院にある大宝二年(702年)の美濃国の戸籍とされる中に「鵜養部目都良売」と書かれており、少なくとも1300年以上の歴史を持つと考えられています。

Nagaragawaukai2410173

鵜飼は当初は川魚を捕らえるために始まったと考えられますが、平安時代になると貴族や武士が鑑賞するものへと変わっていきます。元々漁としては効率が悪く、投網で獲る漁法が主流となっていきますが、鑑賞という性格が加わったため廃れる事無く続きました。室町時代になると美濃の国主織田信長が、長良川の鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけて鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵あて給与しています。信長は自ら楽しむだけで無く、客人をもてなすために鵜飼を利用したのですね。江戸時代になると徳川家康と秀忠親子が鵜飼を鑑賞し、その時出された鮎鮨を家康が気に入り、将軍家への献上が始まります。そして、鵜匠21戸に戸ごとに10両の扶持を与えられる様になりました。岐阜が尾張藩領になると尾張候が毎年上覧するのが慣例となります。貞享5年(1688年)には松尾芭蕉が岐阜を訪れ、鵜飼を鑑賞して「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」という有名な句を詠んでいます。

Nagaragawaukai2410175

明治になると鵜匠達は保護者を失ってしまいます。岐阜県が後を引き継いでいた様ですが、予算に困っていたのでしょう、明治天皇が岐阜に巡幸した時に鮎が献上された事をきっかけに宮内省に働きかけ、鵜飼を皇室で保護する様願い出ます。その結果、鵜匠は宮内省主猟寮に所属する事となり、長良川の三カ所が皇室専用の「御猟場」と定められ、通年の禁漁区としました。現在も鵜匠は宮内庁に所属しており、要するに国家公務員なのですね。一般の公務員と違うのは世襲制という事で、六つの家が鵜匠として認められており、長男だけが後を継ぐ事を許されるそうです。

Nagaragawaukai2410176

鵜には川鵜と海鵜が居ますが、鵜飼に使われるのは海鵜です。川鵜より大きく、丈夫である事が理由だそうですね。長良川では12羽の鵜を片手で操りますが、その手さばきはそれは見事なものですよ。鵜の喉には紐が巻かれており、小さな魚は胃に落ちますが、大きな魚は喉で止まるため、鵜匠は鵜が魚を捕まえると船に引き上げ、吐き出させます。この紐の巻き加減が鵜匠の腕の見せ所で、きつすぎると鵜は何も食べられずに弱ってしまい、緩いと全て飲み込まれてしまいます。この紐の締め方や鵜の操り方は、親から子に教えるものでは無く、全て側で見て覚えるのだとか。このあたりも昔気質が残っているのですね。

鵜の嘴は鋭く、飲み込まれた魚はすぐに死んでしまうそうです。なので鮮度が良く、鵜の獲った魚は上物とされるそうです。そして、飲み込まれたときに出来る傷が必ず付いており、それが鵜飼で獲った魚である証拠になるそうです。

屋形船は鵜飼船と併走する「狩り下り」と、一カ所に泊まって観賞する「付け見せ」があり、その日の水位や流れ方で変わるそうです。この時は付け見せで、花火の合図と供に周辺の灯りが消され、やがて六艘の鵜飼船が上流から下ってきます。松明を焚くのは鵜が魚を見つけるための灯りであると共に、魚を驚かせるためのものであるとか。魚が動く事で灯りが鱗に反射し、それを目当てに鵜が捕まえに潜るのだそうですね。照明が消されるのは松明の明かりだけが水中に届く様にし、その周辺の魚を驚かせるためで、満月の夜は明るすぎるために鵜飼は行われないそうです。

鵜飼は川岸からも見る事が出来ますが、屋形船に乗らないと判らないのが音で、鵜匠の出すホウホウという声と、魚を驚かすために船を叩くトントンという音が何とも言えない情緒を感じさせます。一度下った鵜飼船は反対側を上流に向かい、最後は六艘揃って横並びに下ってくる総絡みを見せてくれます。終わった後は屋形船の間に泊まり、後じまいの様子を見る事が出来ます。鵜は必ず2羽がペアになるそうで、船の上で嘴を突き合う様子などが興味深かったです。

こうした話は屋形船の船頭さんがずっと説明してくださり、とても興味深くて面白かったです。難点は屋形船への乗り降りが大変な事で、足の弱ったお年寄りは苦労されていましたね。でも船頭さんはここでも親切で、邪険にする事無く手を取って優しく助けていました。さすがは接客のプロですね。

Nagaragawaukai2410177

鵜飼はとても人気があり、沢山あった屋形船は、ほぼすべて出航していたんじゃないかな。当日でも空きがあれば乗れるようですが、混み合うので予約しておいた方が無難です。我が家は鵜飼鑑賞付きの宿泊プランを選びました。

長良川の鵜飼の時期は毎年5月11日から10月15日までです。基本的に満月の日を除いて毎日行われ、雨が降っても水位が低ければ実施されます。鵜匠はこの間月一回休みがあるだけで、毎日仕事なので遠出は出来ないそうですね。後の半年は仕事は無いですが、鵜の世話は欠かせず、やっぱり遊んでいる訳では無い様ですね。ちなみに冬の間の鵜の餌はホッケだとか。やはり海の鳥ですから、海の魚が良いそうです。

鵜飼は京都の宇治川や嵐山でも行われており、京都旅行とパックにした商品も沢山あります。他にも四国の大洲、九州の日田、山口の錦帯橋など各地で行われています。それぞれ成り立ちや細かな作法に違いがあるでしょうけど、松明を灯して鵜を操るのはどこも同じです。とても風情のあるものなので、鵜飼のある地方に行かれるときには、屋形船に乗られる事をお勧めします。

2024年10月16日 (水)

2024 秋旅行 ~長良川温泉 十八楼 10.4~

Juhachirou2410201

この日泊まったのは長良川温泉の十八楼、創業が1860年という老舗です。川原町の端にあり、川湊として栄えていた頃からの宿屋でした。元は山本屋と言いましたが、かつて芭蕉が名付けた十八楼が荒廃し、名句も忘れ去られてしまった事を嘆いた店主が、伝統が消えないように屋号を十八楼に改めたとの事です。

Juhachirou2410202

長良川温泉は長良川を挟んで6軒のホテル、旅館からなる温泉街です。温泉街と言ってもまとまった街になっている訳では無く、点在しているのですけどね。明治時代に東京から大阪まで鉄道が開通しましたが、およそ10時間掛かる旅は大変で、途中で1泊を挟む事が普通でした。その途中下車駅として選ばれたのが岐阜で、当時は名古屋より歓楽街が多く、また鵜飼いもあった事から岐阜を選ぶ人が多かったのですね。その頃はまだ温泉は無かったのですが、鵜飼いと芸妓遊びが出来た長良川河畔は人気の場所となったのでした。

Juhachirou2410203

温泉街となったのは昭和43年の事で、さらなる集客のために泉源を掘ったのでした。この温泉は無色透明なのですが、空気に触れると次第に赤褐色になるという性質があり、長良川温泉の特徴となっています。

Juhachirou2410205

岐阜の芸妓さんは昭和初期には500名以上が居たとされ、大変な賑わいを見せていたのですね。戦時中に一時途絶えますが、戦後すぐに復活し、300名程が在籍していたそうです。しかし、時代と共に衰退し、平成3年の時点で29名にまで落ち込んでしまいました。これを盛り返すべく岐阜芸妓振興会が設立され、若い芸妓を募集育成する様になり、現在では34名が活躍されているそうです。

Juhachirou2410206

十八楼で芸妓さんを呼べるのかどうかは判りませんが、お座敷に来て貰うと花代として3時間で16000円だそうです。また、鵜飼い船で芸を披露するコースもあるそうで、そちらは18000円です。普通の屋形船で舞う事は到底無理で、たぶん専用の船があるのでしょう。古くから岐阜で続いてきた伝統であり、これからも頑張ってほしいですね。

Juhachirou2410207

話を十八楼に戻します。大正時代に繁盛した十八楼は当時珍しかった木造三階建てに改築し、大理石風呂や滝を設置したそうです。この目新しさは客に受け、十八楼はさらに繁盛していきます。しかし、戦時中は苦しかったそうですね。観光客は激減し、さらに軍に宿舎として接収されたそうで、なまじ大きな建物だった事が仇となった様です。

Juhachirou2410208

戦後は拡大方針を採って周辺の買収を繰り返し、1970年代には県下屈指の巨大観光ホテルとなりました。当時日本中で増殖した、団体客を呼び込み、大宴会をするというスタイルですね。私の新入社員時代もまだこれは続いており、社員旅行は仕事の延長で強制参加、幹事は若手の役割という感じで、こうしたホテルには随分とお世話になりました。まず部屋数を確保、料理は二の次で、予算内でお酒をどれだけ調達するかが幹事の腕の見せ所でしたね。

バブルの崩壊後はこうした風潮は廃れだし、個人旅行が主流になり、料理にしても部屋にしても、より質の高さが求められるようになります。団体旅行を前提にした巨大観光ホテルは経営が苦しくなり、廃業が相次ぐようになりました。かつて賑わった観光地が、今は廃墟の様になっているところも珍しくありませんね。

Juhachirou24102010

十八楼はこうした時代の変化に上手く対応しました。観光ホテルから川原町の風情に溶け込んだ老舗旅館に衣替えし、個人客をターゲットにするため料理に力を入れ、きめ細かな客対応を重視する様になりました。今回も予約の時から丁寧に対応していただき、実際に泊まってみても料理は美味しく、仲居さんも若いのに対応は適切で、とても気持ちよく過ごす事が出来ました。ここ何年かの旅行では一番良かった旅館ですね。ホームページを見ただけでしたが、選んで正解でした。

明日はもう一つの目的だった鵜飼いの様子をお届けします。

2024年10月15日 (火)

2024 秋の旅 ~百名城・岐阜城 10.4~

Gifujo2410171

岐阜に来た目的の一つは百名城の岐阜城に登城するためでした。看板にある様に斎藤道三、織田信長にゆかりのある城です。

Gifujo2410172

岐阜城天守閣があるのは金華山の山頂。そのふもとは岐阜公園として整備されています。今回は時間の関係で真っ直ぐ頂上に向かいましたが、信長の居館跡や名和昆虫博物館、板垣退助像などがあります。現在はリニューアル工事中で囲いだらけでしたが、完成したらどんな公園になるのでしょうね。

写真はケーブルカー搭乗口の近くにある山内一豊と千代の婚礼の地の碑。信長に従って尾張から美濃へと移った一豊は、時を置かずに千代と婚礼を上げたとの事です。その後、一豊は千代の内助の功により、土佐一国の主となったのは周知のとおりです。

Gifujo2410173

岐阜城の始まりは鎌倉時代にまで遡ります。建仁年間(1201年から1203年)に二階堂氏が金華山に砦を築いたとされ、後に稲葉氏が砦の主になった事で稲葉山と呼ばれる様になりました。時代は下がって、十五世紀中頃に斉藤利永が荒廃していた砦を修復し居城とします。大永五年(1525年)になると長井長弘と長井新左衛門尉が斉藤氏に謀叛を起こして稲葉山城を奪取し、城は長井氏の支配するところとなりました。そして天文二年(1533年)に新左衛門尉が亡くなるとその後を道三が相続し、本格的な城作りを始めます。さらに天文十年(1541年)に道三は守護だった土岐頼芸を追放し、事実上の国主となりました。

Gifujo2410175

道三は頼芸の要請を受けた織田信秀の挑戦を退け、その後織田家と和睦して信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせ、天文二十三年(1554年)に家督と城を嫡子の義龍に譲ります。隠居後も実権は道三が握っていたと言われますが、弘治二年(1556年)に道三に不審を抱いた義龍に討たれて敗死、義龍が名実共に国主となります。同時に織田家とは断交状態となり、幾度となく信長の侵攻を受けますがことごとく撃退、稲葉山城は難攻不落を誇りました。しかし、永禄四年(1561年)に義龍は急死し、後を継いだ龍興はまだ14歳と若く、統治能力も義龍より劣っていたため相次いで家臣が離反し、永禄十年(1567年)に信長に敗れ、稲葉山城は織田家のものとなりました。

Gifujo2410176

城を手にした信長は、井の口と呼ばれていた地名を岐阜に改名します。名の由来は古代中国の周の文王が岐山から起こり天下を治めた事に倣ったと言われ、一般には尾張の政秀寺の沢彦和尚が提案したとされますが、他にも信長自らが命名したとする説、崇福寺住職の柏堂景森が進言したとする説など諸説がある様ですね。

信長は町の名前と共に城の名も岐阜城と改名し、改築に着手します。近年盛んに発掘調査がされており、徐々にその全容が明らかになりつつあります。大きくは山麓と山頂に分かれ、山麓には豪壮な庭を備えた御殿群があり、天守閣ではその復原パネルを見る事が出来ます。上の写真はその一部で、金箔瓦で装飾された諸殿が長い空中廊下で繋がれるという、他には類を見ない造りだった様です。この御殿群は信長の婦人が住まいしていたほかは、来訪者の饗応のために使われた迎賓館だった様ですね。

山頂では令和元年の調査で信長時代と思われる天守台の一部が見つかっており、天守あるいはそれに類する建物があったと推測されています。岐阜城の天守については、後に廃城となった時に加納城に移築され、隅櫓とされたと伝えられており、信長の在城当時に築かれたかどうかまでは判りませんが、存在していたのは確かな様です。この山頂には信長の息子や国人たちの人質達が暮らしていたそうなのですが、近年の発掘で道三期、信長期、池田期の石垣が見つかっており、さらには瓦や人々の生活の痕跡であるかわらけ、庭園と推測される痕跡が発見されていて、現状からは想像出来ない姿をしていた可能性が示唆されています。岐阜市ではこれらの石垣の保全を進めると共に城下からも見える様な整備計画を模索しており、庭園の復原も視野に入れているそうですね。何年掛かるか判りませんが、是非実現して欲しいものです。

Gifujo2410177

信長が安土城に移った後は嫡男の信忠の城となり、さらに本能寺の変の後は次々と城主が変わっていきます。その間に幾度となく戦乱に巻き込まれており、斉藤氏時代は難攻不落だった城は何度も落城の憂き目に遭っています。その数、龍興の代から数えると何と七回、一見して険しい山で攻めにくそうですが、岩盤が固くて井戸が掘れなかったため水の手に弱点があった事、平場が少なく守備兵を多く配置出来なかった事などから、籠城には向かない城だった様ですね。道三や義龍の時代に落ちなかったのは、一重に城主に力量があり、城に頼らずに上手く戦ったからなのでしょう。最後の城主は信長の孫の秀信で、関ヶ原の戦いの際に西軍に属し、攻め上って来た東軍に抗しきれずに落城し炎上、家康によって廃城とされました。残った天守や櫓、門、石垣などは加納城に転用され、御殿は大垣赤坂のお茶屋屋敷に移されたと言われます。

Gifujo2410178

江戸時代に入ると岐阜は一時天領となりますが、その後尾張藩に編入されてその支配を受けます。美濃の中心として尾張と張り合ってきた人たちは、どんな気持ちだったのでしょうね。そして明治維新後の廃藩置県により岐阜県として独立し今に至ります。今でも名古屋圏と結びつきが強いのは、江戸時代の名残りを引いているのでしょうか。

Gifujo24101710 

江戸時代を通じて何も無かった稲葉山でしたが、明治43年に岐阜市保勝会と岐阜建築業組合により、長柄橋の架け替えの際に出た廃材を利用した第一次復興天守が築かれます。木造トタン葺きで三階建て、外部は白塗りで内部はがらんどうという簡素なものでしたが、遠目にはちゃんとした天守に見え、市民に歓迎されたようですね。しかし、この時天守台が積み直されており、言わば文化財の破壊だったのですが、当時はそういう意識は無かった様です。この天守は昭和18年にたき火の不始末によって焼失してしまい、再び岐阜城の天守は失われてしまいます。

戦後になって市民の間で天守再建の要望が強くなり、昭和30年に第1回岐阜城再建期成同盟会が開かれ、市民から1800万円の寄付を受けた事で事業が動き出します。そして、山上にコンクリート建造物を造るという難問もクリアし、翌年に現在の天守閣が完成しました。再建にあたっては、加納城の矢倉の図面を参考にした設計図を基に作られましたが、当時の城郭研究の水準は低く、現在の目から見ると戦国期の天守とは言いがたいものですね。また、この時に再度天守台に手を付けており、礎石などが失われてしまった様です。しかしこの天守は人気を博し、ロープウェイで手軽に登れるという事もあったのでしょう、大河ドラマ「国盗り物語」が放映された昭和47年には43万人が訪れたそうです。平成9年には瓦の葺き替えや外壁の補修などが行われ、現在の美しい姿に蘇っています。

ただ、平成30年に行われた耐震診断で震度6強から7の地震で倒壊する恐れがある事が判ったため、今後耐震補強が行われる予定になっており、ホームページには地震発生時には係員の指示に従うようにとの注意書きがあります。岐阜は地震が少ない地方らしいですが、それでも過去にM7から8の地震が何度も起こっており、特に明治24年の濃尾地震では死者4990人という大被害を被っていて、震度7というのも絵空事ではないですね。この補強にあたっては木造による再建も検討されたようですが、オリジナルの天守の資料がほぼ無い事と、再建後60年以上経過した復興天守にも文化財としての価値があるという判断で、今の天守を補強するという事で決着が付いたようです。

岐阜城は岐阜市内の各所から見る事が出来、岐阜のシンボルと言って良いでしょうね。特に長良川越しに見た姿は絵になります。夜にはライトアップされて白く輝き、夜空に映えます。天守を前にした満月の写真をよく見かけますが、いつかあんな写真を撮りに行けると良いですね。

2024年10月14日 (月)

2024 秋の旅 ~岐阜市 常在寺・正法寺・川原町 10.4~

Jozaiji2410161

美濃の戦国期のもう一人の主役、斉藤道三の菩提寺、常在寺にやって来ました。とても小さな寺で、タクシーは正面では無く横の道に駐まったので、えっ、ここという感じでしたね。

常在寺が創建されたのは宝徳二年(1450年)の事で、守護代だった斉藤妙椿が日蓮宗の本山の一つ、妙覚寺から日範上人を招いて開かれました。

第四世の日運上人と道三の父、西村新衛門は妙覚寺で机を並べた仲であり、日運上人が住職となると新衛門は常在寺を訪ね、上人の計らいで長井家、斉藤家への出入りが許される事になります。以後権謀術作の限りを尽くし、子の道三と親子二代をかけて長井家、斉藤家を乗っ取り、ついには美濃守護であった土岐頼芸を追いおとして国主となります。いわゆる国盗り、下剋上の典型ですね。

道三は常在寺を斉藤家の菩提寺として庇護して領地を与え、往時の常在寺は「庫裏方丈鐘楼堂塔に至るまで金銀珠玉をちりばめ造立しぬる」と形容されたように、隆盛を誇っていたようです。その道三も子の義龍に討たれ、義龍もまた若くして亡くなり、後を継いだ龍興は織田信長に敗れて斉藤家は事実上滅びます。

信長が国主となっても常在寺は健在だったらしく、おそらく舅の菩提寺として大切にしたのでしょう。しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの時、岐阜城が落城した際に常在寺も類焼してしまい、以後寺運は衰えてしまいます。それでも途絶える事無く現在に至っているのですから、支える人は居たのでしょうね。

Jozaiji2410162

常在寺は撮影禁止のため堂内の写真はありません。拝観料は200円と格安ですね。ここだけで無く、岐阜の拝観料はどこも安い。千円が基準となりつつある京都が高すぎるのですよね。

常在寺の見所は何と言っても絹本著色斎藤道三像と絹本著色斎藤義龍像です。それぞれ濃姫、義興が寄進したものと伝えられ、重要文化財に指定されています。残念ながら展示されているのはオリジナルではなく写真ですが、是非見たいと思っていたものなのでまあ良かったです。面白いのは二人があまり似ていない事で、義龍が道三の実子で無いという説は、こういうところから出てきたのかなという気はしましたね。また、二人の家紋が道三が二頭立波、義龍が五三の桐と異なり、義龍が斉藤姓を捨て一色姓を名乗った事を示しているのも興味深かったです。

他には大きな六道生死輪廻図が壁面を飾り、文殊菩薩像が祀られているほか、道三が使用した印鑑のレプリカ、禁制などの資料が展示されています。また、境内には写真の道三公供養塔がありますね。帰ってから知ったのですが、近くには道三を葬った道三塚があったらしく、見に行けなかったのは残念でした。

常在寺は小さな寺ですが、戦国ファンにとっては中身が濃いですね。特に国盗り物語を読まれた方は、是非行かれる事をお勧めします。

Syouhouji2410161

稲葉山の麓を走っていると、住宅街の中に異様に大きな建物が見えてきました。何だあれはと思っていると、他でもない、目指している正法寺でした。通称岐阜大仏殿、日本三大大仏に数えられる釈迦如来像を納めるお堂です。

Syouhouji2410162

入ってみると、思わず「でかっ」と言ってしまった程大きな大仏様がおわしました。像高13.63mですが、須弥壇の上に座っておられるのでそれ以上に大きく見えますね。通称は岐阜大仏。

構造は周囲1.8mの銀杏の木を真木とし、内部は木材で骨格を組んでいます。この真木は大仏殿の小屋組を支えており、御堂と大仏が一体となっているという他に例を見ない構造となっています。そして、表面は竹材で編み、粘土を塗った上に阿弥陀経、法華経、観音経等の一切経が書かれた美濃和紙を貼り付けて漆を塗り、さらに金箔を貼っているとの事です。乾漆仏としては日本最大級だとか。別名を籠大仏とも呼ばれます。

Syouhouji2410163

正法寺は天和三年(1683年)に大休禅師の命を受けた廣音和尚が、金華山山麓の当地に草庵を開いたのが始まりとされます。1692年に大休禅師の希望から萬福寺の千呆禅師を開山とし、黄檗宗に改宗したとの事ですが、じゃあその前は何宗だったんだと調べてみたけれど、良く判りませんでした。

今は大仏殿と地蔵堂くらいしかありませんが、パンフレットには開創時には獅子窟の様相が伺えたとありますから、禅道場としての伽藍を備えていたのでしょうね。

第11代惟中和尚の時、天明七年(1787年)に度重なる災害の被害者の追善のために、大釈迦如来像の建立を思い立ちます。しかし、この寺の門徒は少なく、費用を集めるため各地に托鉢を重ねて浄財の寄進を求めました。寛政六年(1794年)には頭部が出来上がり、文化七年(1810年)には大仏殿の上棟式に漕ぎ着け、堂内では大仏の建立が始まっていましたが、文化十二年(1815年)に惟中和尚は志半ばにして遷化してしまいます。後を継いだ第12代肯宗和尚は文化十二年(1829年)に大仏を完成させ、天保3年(1832年)に尾張尾州候の使者を迎えて開眼供養を行いました。それは信長公居住以来の盛儀だったと伝えられます。(以上パンフレットより抜粋)

Syouhouji2410165

大仏の周囲には五百羅漢が祀られています。実際には108躯で、明治に行われた大仏・大仏殿の修理事業の際に新調されたものだとか。雰囲気としては本山の萬福寺に通じるところがありますね。また、今は使われていませんが堂内を巡る回廊があり、かつてはその上から大仏を拝観する事が出来、大変人気を博したそうです。

それにしても岐阜も大空襲を受けており、市内は焼け野原となったと聞きますが、良く残ったものですね。苦労の末完成した大仏様が後世にまで残す事が出来て、本当に良かったと思います。

 

Kawaramachi2410161

最後に訪れたのは川原町、長良川の河畔にある昔ながらの町並みが残るエリアです。岐阜市の中心部にありますが、幸いな事に戦災からは免れた様ですね。

Kawaramachi2410162

細かく言えば湊町・玉井町・元浜町からなります。長良川の水運の拠点の一つで、信長の時代から川湊として栄えた町でした。

Kawaramachi2410163

水運で運ばれたのは木材や和紙など、美濃の特産品ですね。これらを扱う材木問屋や紙問屋が集まり、この美しい景観が形作られたのでした。

Kawaramachi2410165_20241007163201

いわゆる重伝建には指定されていませんが、川原町まちづくり会が結成され、この町並みを守る取り組みが行われているそうです。実際新しい店がいくつもあるのですが、町並みに相応しい構えになっており、風情を壊すという事は無いようですね。でもこれたけの町並みがなぜ重伝建にならないのかしらん。

Kawaramachi2410168

川原町は鵜飼いの拠点にもなっています。この町並みを楽しんだ後鵜飼いに興じる、なんて素敵な場所ではないですか。聞くところによると、インバウンドを呼び込むための活動もしているとか。確かに外人さんはほとんど見かけなかったですね。私的には外人さんは京都だけでお腹いっぱいなのですが、地元にしてみればもっと大勢の人に来てほしいのでしょうね。

Kawaramachi2410167_20241007162201

ここにも松尾芭蕉の像がありました。芭蕉は大垣だけでなく、岐阜にも門弟が居て滞在した事があるのですね。その時に中川原新田(岐阜市湊町)の油屋、賀嶋善右衛門の長良川畔の水楼で遊び、主人の求めに応じて十八楼(中国の洞庭湖の八景と西湖の十景を合わせた風景がこの中にあるという意味)という楼名を付けたのだそうです。

 

Kawaramachi24101610

通りの端には灯台がありました。かつてここが川湊だった事を示すものですね。これはたぶん復原したものなのかな。結構大きなもので、かつての栄えを彷彿とさせるものがあります。

Kawaramachi24101611

その先には鵜飼い見物のための屋形船が沢山浮かんでいました。長良川の鵜飼いは皇室御用達で、宮内庁が管轄しているのだそうですね。屋形船の屋根の色が違うのは、緑色のが皇室関係者が乗った船なのだそうです。色が違うだけで中のしつらえは一緒なのですけどね、皇族の方が乗ると格が上がるという事なのかな。まあその辺は郷に入れば郷に従えで、そういうものかと聞いておくのが吉でしょうね。

2024年10月13日 (日)

2024 秋の旅 ~岐阜 崇福寺 10.4~

Gifueki2410131

大垣市から岐阜市に来ました。ここでまず楽しみにしていたのが黄金の信長像。平成21年(2009年)に岐阜市政120周年を記念して市民の寄付に依って建てられたもので、台座を含めた高さは11mあります。マントを羽織ってブーツを履き、西洋銃を手にした姿は、信長の進取の気性を現したものなのでしょう。金色は塗料を塗っているのでは無く、金箔を貼っているそうですね。文字通りの黄金の像なのでした。

Gifueki2410132_20241007154601

岐阜を初めて訪れたのはおよそ半世紀前、当時は繊維の町としてとても賑わっていて、活気のある大きな町だなと思いました。今は開発が進み町並みは見違えるほど綺麗になりましたが、なんだか閑散としていますね。聞いたところでは地場産業だった繊維が駄目になり、これと言った産業が無くなってしまったのだとか。今は名古屋市のベッドタウンとしての性格が強くなり、勤め先、買物、遊びのことごとくが名古屋に流れているのだそうです。駅前のタワーマンションも名古屋より割安感が強く、名古屋で買えない人が顧客になっているとテレビで言ってましたね。

繁華街もほとんどがシャッター街と化し、名の知れた柳ヶ瀬も百貨店が閉店して、衰退に拍車が掛かっている様です。なんとか活性化を図ろうとして始めた事業も、わずか三日で破綻したとこの日のニュースが伝えていました。

何だか不景気な話ばかり聞こえて来ましたが、最近の動きとして、繊維問屋街などでは空き家となったところに新しい店が入り、徐々に活性化してきているそうです。柳ヶ瀬も今回は失敗した様ですが、様々な取り組みをしていると聞きます。一足飛びには行かないでしょうけど、また以前の様な賑やかな町に戻ってほしいですね。

Suifukuji2410151

岐阜には何も無いと岐阜市民の方は自虐的におっしゃいますが、調べてみるとそんな事は無いですね。ただ、スポットがあちこちに散らばっており、土地勘の無いよそ者が見て回るのは難しいので、観光タクシーを頼みました。

まず訪れたのが崇福寺。織田家の菩提寺です。

Suifukuji2410152

パンフレットに依ると崇福寺は臨済宗妙心寺派に属した寺で、永正8年(1511年)に斉藤利匡を開基とし、独秀乾才禅師を開山として開かれました。永禄10年(1567年)に織田信長が美濃に入ると当寺を菩提寺に定めています。

歴史上有名な人物としては第三世住職に快川紹喜が居ます。快川禅師は甲斐の武田信玄に招かれて惠林寺の住職となりますが、天正10年(1582年)に織田信忠が武田氏を滅ぼした時、武田方の残党を匿ったとして引き渡しを要求されますがこれを拒否、信忠は惠林寺を焼き討ちしますが快川禅師は「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」の言葉を残して火の中で亡くなりました。織田家は菩提寺の住職だった人を殺してしまった訳ですが、それが戦国時代というものなのかしらん。

Suifukuji2410153

崇福寺には信長ゆかりのものが沢山あります。これは信長公の教訓の絵。竹べらの様に曲がった気持ちを捨て、真っ直ぐな気持ちで日夜精進すれば、自然に身も持ち上がるという意味が込められているのだとか。正直言ってどこをどう見れば良いのか判らないのですが、昔の人が見れば理解出来たのかしらん。

Suifukuji2410155

このケースの中には信長ゆかりの文書が収められています。「雪月花」は信長自筆の書、左は信雄に宛てた書状、左下はおなべの方が本能寺の変直後に崇福寺に宛てた手紙(折り紙)と、信長が美濃を制した直後に崇福寺のために出した禁制があります。この禁制に書かれた花押は麒麟であり、平和な社会の実現を願って使っていたという説がありますね。大河ドラマの「麒麟が来る」に通じるものがあるのかな。

Suifukuji2410156

これは土岐頼髙が描いた鷹図。土岐家は代々画家としても優れた人物が多く、共通して描いた画題が鷹でした。これらを総称して土岐の鷹と呼びますが、本物は初めて目にする事が出来ました。

Suifukuji2410157

これは信長が愛用していたポルトガル伝来の品という伝承のある和時計です。百年近く使われていませんでしたが、令和元年に修理され、針は回らないまでも時刻を知らせる音が鳴る様にはなりました。ただ、修理に当たられた方の鑑定では江戸時代のものらしいとの事で、信長の時代にまで遡るのは無理の様ですね。和時計は江戸時代に使われていた不定時法で時を刻む時計で、昼と夜の時間を別々に等分して時を示すのだとか。昼と夜とで針の進み方が異なり、目覚まし機能まで付いているという優れものです。昔の人の技術の高さには驚かされるばかりですね。

Suifukuji2410158

廊下の天井は血天井になっています。関ヶ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城のもので、守っていた38名の将兵が命が落とし、彼らの霊を弔うために崇福寺に納められました。

Suifukuji24101510

本堂の裏側は織田信長公父子廟と言い、本能寺の変で散った信長と信忠の墓と位牌堂があります。こちらは墓石で、摩滅していてほとんど読めませんが、右側に信長の戒名「総見院殿贈一品大相国泰岩大居士」、左側に信忠の戒名「大雲院殿三品羽林仙岩大禅定門」が刻まれています。ちなみに信長の戒名に贈一品大相国とあるのは、死後に朝廷が正一位太政大臣を贈った事を示しており、その裏には豊臣秀吉の働きかけがあったとされます

Suifukuji24101511_20241007154501

墓石の隣が位牌堂。小振りですが、東照宮を思わせるきらびやかさがありますね。

Suifukuji24101512

本堂の前には枯山水の庭があります。手入れの行き届いた美しい庭ですね。遠くに岐阜城が見えているのが判るでしょうか。

Suifukuji24101513

梵鐘は稲葉一鉄が寄贈したものでした。ただし、戦時中の金属供出のためにオリジナルは失われており、現在あるのは戦後に鋳造したものです。

崇福寺は信長関係の資料が一杯詰まった寺でした。岐阜には何も無いなんて、いきなりこんな凄いところがあるじゃないですか。ここを見るだけでも岐阜に来る値打ちがあると言うものです。戦国ファンには必見の寺ですよ。

2024年10月12日 (土)

2024 秋の旅 ~続・百名城 大垣城 10.4~

00gakijo2410121

大垣に来たもう一つの目的は、続百名城の一つ、大垣城を訪れるためでした。大垣城は大垣市の中心にあり、JRの駅から徒歩7~8分のところにあります。

00gakijo2410122

創建は明応9年(1500年)とも天文4年(1535年)とも言われ、はっきりとは判っていません。確かなのは西美濃の要衝として織田家と斉藤家の間で争奪戦が繰り広げられた事で、幾度となく勝敗が入れ替わり、天文18年(1549年)に斉藤家が取り戻して竹越尚光を城主として入れています。そして永禄2年(1559年)に氏家直元が城主となり、総構えを築くなど大規模な改築を行いました。

00gakijo2410123

その後も城主はめまぐるしく入れ替わり、天正11年(1583年)に入った池田家によって近世城郭として整備され、慶長元年(1596年)に伊藤祐盛によって天守が建てられました。この天守は四層建てで、死を連想させる四を嫌う当時としては珍しいものでした。江戸時代に入ると石川家、松平家と城主が変わり、寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が十万石の城主として入るとようやく落ち着き、そのまま明治維新を迎えています。最終的にこの絵図の様な城に改修したのは戸田氏で、水都と呼ばれる様に豊富な水を活かして四重の堀を巡らせ、本丸と二の丸を堀の中の島のように並べるという独特の形にしています。この城を訪れたとき、やたらと狭い城だなと感じたのですが、廃城により削られたのでは無く、元々小さな本丸だったのですね。幅の広い堀に囲われているものの、こんなに狭くて十分な守備兵を入れる事が出来たのかしらん。

00gakijo2410125

大垣城が歴史の中で最もクローズアップされたのが関ヶ原の戦いの時で、西軍の石田三成が根拠地としました。城内には関ヶ原の戦いに関する説明板が時系列的に展示されており、あまり知られていない前哨戦の経過を知る事が出来ます。それに依ると三成は当初は三河と尾張の国境を決戦の地と想定しており、大垣城を中心に尾張と美濃の城のネットワークを築いていました。しかし、東軍の動きが想定より速く、西軍の戦力が集結するより前に攻め込まれ、次々に城を落とされて、大垣城は孤立してしまいます。三成の構想は完全に破綻したのですが、徳川家康が慎重を期したため戦線は一時膠着します。その間に三成は戦略を変更し、関ヶ原の松尾山城を整備して、決戦の地を関ヶ原に求めます。杭瀬川の戦いで一矢を報いた三成は大垣城を脱出し、関ヶ原へと向かいます。それを察知した家康もまた関ヶ原へと兵を進めたのでした。

00gakijo2410126

後に残された大垣城は悲惨でした。三成は福原長堯を守将として置いたのですが、関ヶ原で西軍が敗れると大垣城は東軍の大軍に包囲され、さらに味方の裏切りにも遭い、一人残った長堯は抗戦空しく降伏を余儀なくされています。この落城の際に城を脱出したのが山田去暦の娘のおあんで、城が落ちる前日に父母と供に松の木に綱を掛けて塀を乗り越え、堀にあったたらいに載って逃げたと伝わります。この逸話にちなみ、毎年桜が咲く頃に水門川にたらい船を浮かべ、船下りをするというイベントが開かれています。

00gakijo2410127

明治以後は大垣城は廃城となり、門など一部の施設が移設された他は天守を除いてこどごとく破棄されてしまいます。天守はその後国宝に指定されますが、戦前の大垣は工場の多く並ぶ工業都市だったため第二次世界大戦の時に空襲の目標とされ、計6回の爆撃を受けて町は壊滅してしまいます。天守も昭和20年7月の空襲で焼けてしまったのですが、昭和34年にコンクリートで復原され、平成23年の修理と手直しを受けて現在に至ります。この復原の際には古写真などのほか郡上八幡城の天守を参考にしているのですが、この郡上八幡城は在りし日の大垣城を参考にして建設されており、写しの写しが再現されるという数奇な運命を辿っています。

戦災により廃墟となった大垣市でしたが、戦後の復興は目覚ましく、現在は見事な都会へと変貌しています。特にメインストリート沿いの近代化は素晴らしく、なんと開けた町かと驚きました。またバスに乗った時は妻と二人連れだったのですが、乗ったとたんに並んで座れる様に席を譲ってくださり、なんて親切な町なんだと感激しました。大垣は都会でありながら、人情味のある良い町ですね。今度は桜時分にたらい船に乗ってみたいと思っています。混んでなければ良いのですけどね。

2024年10月11日 (金)

2024 秋の旅 ~大垣市 奥の細道結びの地 10.4~

Okunohosomichi2410101

今年の秋旅行は岐阜に行ってきました。岐阜は何度となく訪れていますが、美濃地方はほとんど観光した事がありません。京都や奈良に比べると名の知れた観光地は少ないですが、調べると面白そうなところがいくつもあります。それに新快速を使えば在来線だけで行く事が出来、交通費もさほど掛かりませんしね。

Okunohosomichi2410102

まず訪れたのは大垣市です。人口は15万人ほどで、岐阜県第二の都市ですね。大垣の名を知ったのは小学生の頃、松尾芭蕉の奥の細道の結びの地としてです。なぜ江戸から始まった大旅行の終着点が大垣なのかずっと気になっていたのですが、その答えはこの銅像の向かいにある「奥の細道結びの地記念館」にありました。

この銅像の手前の人物が松尾芭蕉、奥が谷木因です。谷木因は大垣の人で、この地で船問屋を営んでいました。俳人として北村季吟の門下生であり、芭蕉の弟弟子に当たります。二人は同門である以上に友人でした。芭蕉は野ざらし紀行の旅の際に木因の下を訪れており、大垣に一ヶ月程滞在しました。芭蕉はその時に木因の仲立ちで多くの門人を得ています。奥の細道の終着点を大垣と決めたのは、木因と自分を慕う門人達と会うためだったのですね。

Okunohosomichi2410103

この銅像のすぐ横には二人の句碑があります。手前が芭蕉の「蛤のふたみに別行秋ぞ」、奥の細道の結びの句ですね。奥が木因の「惜しむひげ剃りたり窓に夏木立」です。

Okunohosomichi2410105

こちらは木因が美濃路から伊勢に向かう分かれ道に建てたという道標で、案内文が「南いせくわなへ十りざいがうみち(南伊勢 桑名へ十里 在郷道)」という俳句になっています。これは戦後に再現されたもので、オリジナルは戦災で焼けてボロボロになったため、現在は奥の細道結びの地記念館に展示されています。

Okunohosomichi2410106

銅像の対岸にあるのが住吉灯台。かつてここを流れる水門川は桑名と大垣を結ぶ運河で、明治期には蒸気船の定期航路もありましたが、昭和に入ると物流の中心が鉄道に移り、水運は衰退してしまいました。この灯台は天保11年(1840年)に建てられたもので、かつてここが川港であった事を示しています。

Okunohosomichi2410107

記念館を出てバス停に向かうと、すぐ側に立派な竜宮門がありました。ちょっと違和感を感じたのは一階部分に屋根がある事ですね。いわゆる裳階なのかしらん。日蓮宗常隆寺とあったので帰ってから調べてみたのですが、詳しい事は判りませんでした。門の他には本堂がぽつんとあるだけで、無住の寺の様ですね。廃仏毀釈で破壊されたのか、戦災で焼けてしまったのか、どちらでしょう。見るからに荒れ寺という感じで、せっかくの門が勿体ないですね。もう少し整備すれば名所になりそうなのに惜しいな、ていうのは余計なお世話かしらん。

2024年10月10日 (木)

京都・洛南 萩を訪ねて2024 ~かましきさん・勝念寺 9.30~

Syounenji2410101

京阪の丹波橋駅で降りて勝念寺に来ました。ここに萩の寺があるというのは以前から知っていましたが、なかなか立ち寄る機会が無く、この日初めて訪れる事が出来ました。勝念寺は普段非公開の寺なのですが、萩の季節には萩振る舞いと言って、一般公開が行われます。

Syounenji2410102

来てみて驚いたのは、山門を入るとすぐに萩の枝で道が塞がれている事で、向こうが見えないのですね。何だこの寺はと思ったのですが、枝をかき分けて入っていくと、境内の中は噂通り萩で溢れていました。

Syounenji2410103

そして足下には満開となった彼岸花がそこかしこで咲いています。絵に描いた様な秋の景色で、なんと素晴らしい所だと驚喜してしまいましたね。

Syounenji2410105

最近よく聞く名となったので混雑しているかなと思っていたのですが、私の前に一人居ただけで、すぐに帰られたためこの素敵な空間を独り占めする事が出来ました。まさに至福の時間でしたね。

Syounenji2410106

勝念寺は浄土宗知恩院派の末寺で、天正15年(1587年)に聖誉貞安上人によって開かれました。貞安上人は織田信長の帰依を受けていた僧で、本能寺の変の後、信長と信忠の霊を弔うため、正親町天皇から御池御所を賜って大雲院を開いています。そして、同時に豊臣秀吉の城下町であった丹波橋にも一寺を開き、安養山勝念寺と号しました。信長ゆかりの寺らしく、安土城で賜った諸像を伝えています。

Syounenji2410107

勝念寺は通称かましきさんと呼ばれます。境内に祀られている身代わり釜敷地蔵尊に由来し、地獄で釜ゆでの刑の責め苦を受ける人に代わり自ら煮えたぎる竈の中に入りその苦を取り除き、安楽を与えるとされます。由来は不明ですが、明治時代の鑑査状には恵心作と記されており、寺に伝わる話では信長から授かったものと言われています。かつては熱心な信者が沢山居て、檀家とは別にこのお地蔵様の講があり、長岡京市や向日市、京田辺市あたりから参拝者があったのだとか。また、代わり、かわる、カエルの語呂合わせから、境内にはカエルの像が沢山置かれています。

他に信長から賜った像と伝わるのは、毘沙門天像、門出八幡宮のご神体、多羅観音菩薩、閻魔法王自作霊像があります。 

Resize0021

境内の一角にはインド菩提樹が植えられていました。ブログを拝見すると去年から鉢植えで育てられ、今年地植えにされたそうですね。日本では地植えは無理と聞いていましたが、大阪の一心寺では巨樹となって育っているそうです。地球温暖化のせいかも知れませんが、数少ない恩恵の一つとして無事に冬越しが出来ると良いですね。

今年の萩は7日に刈り取られたそうですから、萩振る舞いも終わっています。開催時期は萩の具合によって変わるそうですから、ブログ、フェイスブック、ツイッターなどで確認される事をお勧めします。それにしてもこれだけの萩を無料で公開されるとは、本当に有り難い事だと思います。

(地図はtrlキーを押しながらスクロールして下さい。勝念寺の表示が現れます。)

2024年10月 9日 (水)

京都・洛中 彼岸花2024 ~相国寺 9.30~

Syoukokuji2410081

京都御苑から相国寺に来ました。ここも彼岸花が目当てだったのですが、いつも咲いている鐘楼前の植え込みでは、まだ花芽が出たばかりのところでした。なんだこれはと落胆したのですが、背後を振り向くと仏殿跡に咲いている事に気づきました。

Syoukokuji2410082

ここは以前から咲いてはいたのですが、数輪がぽつぽつと咲いていた程度で、いつの間にやら数が増えていたのでした。これはうれしい誤算でしたね。

Syoukokuji2410083

難点は法堂への参道からは生け垣が高くて近くで見られないこと。弁天堂側からだと遠すぎて小さくしか写らない事ですね。

Syoukokuji2410085

それでも生け垣の隙間から一群の彼岸花が見えたのは幸いでした。これが撮れなければ何しに来たのか判らないですからね。

相国寺の彼岸花は鐘楼前の生け垣の中が終わり、大光明寺前の参道で咲いている頃でしょうか。半月遅れの彼岸花、何とも変な感じですが、長く楽しめて良かったとも言えそうです。

2024年10月 8日 (火)

京都・洛中 彼岸花2024 ~京都御苑 凝華洞跡 9.30~

Kyotogyoen2410081

梨木神社から京都御苑に入りました。ここでの目当ては彼岸花、そこかしこで咲いているはずなのですが、ぱっと見、どこにも見当たりません。そこで確実に咲いているはずの凝華洞跡に来ました。

Kyotogyoen2410082

ここは他が不調の時でも、毎年まとまって咲いてくれるところです。年によっては少ない時もありますが、今年はまずまずの数が咲いていました。

Kyotogyoen2410083

凝華洞跡は後西上皇の仙洞御所があったところです。既に現在の仙洞御所があったはずなのに、なぜここに新たに作り凝華洞と名付けたのか良く判りませんが、池のある庭を持っていたとの事ですから、それなりの規模だったのでしょうね。幕末の蛤御門の変の時は、松平容保が陣を置いた所としても知られます。この時容保は重い病に罹っており、起き上がるのもやっとだったのですが、家臣に助けられながら指揮を執ったそうですね。

今は小山があるだけですが、これはかつての庭の築山の跡なのでしょうか。

Kyotogyoen2410085

この周辺にはもっと彼岸花が咲いているはずなのですが、この二本しか見つけられませんでした。それに雑草が茂ったままだったのも、京都御苑らしく無かったですね。

花数は少なかったですが、狙い通り彼岸花が見られたのは良かったです。

2024年10月 7日 (月)

京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~梨木神社 9.30~

Nasinokijinja2410071

幸神社から梨木神社に来ました。ここも境内一円に萩が植えられており、名所の一つに数えられる神社です。

Nasinokijinja2410072

しかし、残念な事にこの日はほとんど咲いていませんでした。遅すぎて散ってしまったのかと思ったのですが、良く見るとそうではなく、つぼみが沢山残っています。要するにまだこれから咲くところだったのですね。

Nasinokijinja2410073

ここは元々咲くのが遅い場所ですが、9月末でこの状態とは今年は極端ですね。常林寺や大聖寺門跡は例年どおりでしたが、真如堂や迎称寺などはほぼ咲いていませんでした。猛暑の影響なのか、場所によってばらつきが目立つ気がします。

Nasinokijinja2410075

梨木神社は幕末の公家、三条実萬公と三条実美公を御祭神としています。学問・文芸の神とされ、毎年行われる萩まつりでは、和歌を詠んだ短冊が萩の枝に飾られます。

Nasinokijinja2410076

境内には京都三名水の一つ染井があり、水を汲みに来る人が絶えません。大きなポリタンクは禁止されていますが、多くのペットボトルを持ってくる人がほとんどで時間が掛かるため、常に順番待ちが生じていますね。そんなに持って帰ってどうするのかと思いますが、水道の代わりに1日分の水を汲んでいるのかしらん。ちょっと一口飲んでみようかと思いましたが、待ち時間が長すぎて諦めました。常連さんがほとんどの様で、よそ者が入りにくい雰囲気なのはどうかなという気がしますね。

2024年10月 6日 (日)

京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~幸神社 9.30~

Sainokaminoyasiro2410061

真如堂から幸神社に来ました。ここには9月19日にも萩を見に来ましたがまだ咲いておらず、そろそろ良いかなと様子を見に来ました。

Sainokaminoyasiro2410062

この日は西側の株が五分咲き程度、東側の株がほぼ満開になっていました。

Sainokaminoyasiro2410063

満開と言っても花付きが今ひとつで、少し寂しかったですね。当たり年にはもう少し花の密度が上がります。

Sainokaminoyasiro2410065

幸神社の読み方はさいのかみのやしろ。塞神、つまり都に邪悪なものが入るのを塞ぐ神様で、かつては道祖神として出雲路のあたりに祀られていました。今でも正式な名称は出雲路幸神社ですね。道祖神は本来民間信仰の神ですが、いつしか道の神とされる猿田彦神と同一視される様になり、現在の主祭神となっています。

Sainokaminoyasiro2410066

境内の奥にあるのが石神さん、いわゆる陽石で、縁結びの御利益がある石として知られます。あまりに力がありすぎるので、触れると祟りに合うとされます。そして、その前にある鳥居が新調されていましたね。古色を帯びた境内にあってやたらと目立ち、特別な場所を強調しているかの様でした。パワースポットらしくなったとも言えますね。

(地図はCTrlキーを押しながらスクロールしてください。拡大されて幸神社の標記が現れます。)

 

2024年10月 5日 (土)

京都・洛東 東三条院肖像画、一条天皇肖像画公開 ~真如堂 2024.9.30~

Sinnyodou24140051

令和6年9月30日、真如堂を訪れてきました。先日萩を見に来たばかりですが、東三条院(藤原詮子)と一条天皇の肖像画が公開されたと知り、早速やって来たという次第です。

Sinnyodou24140052

繰り返しになりますが、真如堂は正暦三年(994年) のある日、延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を遷座せよという夢告を受けた東三条院が、自らの離宮に阿弥陀如来像を招き入れ、戒算上人を開山として開いたのが始まりとされます。この時、偶然にも戒算上人も同じお告げを受けており、不思議の感に打たれたとの事です。

Sinnyodou24140053

東三条院の肖像画は江戸時代に描かれたものだそうですが、中世の美人の基準に合わせてあるのでしょう、下ぶくれでふっくらとした感じですね。千本釈迦堂のお多福さんの系統と言えば判るでしょうか。髪が黒くて長いのも平安美人の条件どおりです。着物も高貴な方らしく豪華で美しいですね。ホームページで写真は見ていましたが、本物を見る事が出来て良かったです。

なお、職員さんにお伺いしたところ、やっぱり換骨堂(元真如堂)のあるところが離宮のあった場所で、現在の場所は東山天皇から下賜された土地との事です。となると、当時の真如堂がどう広がっていたか気になりますね。換骨堂で聞いてみたら何か判るかしらん。

一条天皇の肖像画も江戸時代に描かれたものだそうですが、非常に聡明そうな方で、光る君への塩野瑛久さんに面影が似ていますね。と言うか、この肖像画を元にメイクを工夫しているのかな。

Sinnyodou24140055

肖像画は有料区域にあるので、久しぶりに拝観してきました。確か随縁の庭が出来た時以来なので、14年ぶりになるのかな。これだけ時間が空くと新鮮で良いですね。

この灯籠は木津川市にあった燈明寺由来の燈明寺石灯籠の本歌です。燈明寺から三井家の手に渡っていたのですが、昭和60年に真如堂に寄贈されました。と言うことは、これまで何度も目にしているはずなのですが、この日初めて気が付きました。いつものことですが、迂闊な事ですね。

Sinnyodou24140056

茶室があるのも初めて気が付きました。以前からここは見られたのかなあ。少し調べてみると、毎月ここで茶会が開かれている様ですね。こんな洒落た路地や待合があるとはちょっとした驚きでした。何回も来ているのに今更ですが。

Sinnyodou24140057

境内ではまだ彼岸花が咲いていました。真如堂は他の場所より咲くのが早かったのですが、一斉に咲くのではなく、じわじわと咲いていった様ですね。彼岸花に限りませんが、本当に今年の咲き方は予測出来なかったです。

Sinnyodou24140058

この日拝観してあれっと思ったのは、本堂と書院を結ぶ通路が完全に締め切られていましたね。新貫首になられた苦沙弥和尚が見苦しいから通り方を変えるとおっしゃっていましたが、先日来た時は狭いながらも開いていて、通路を横切る事が出来ていました。でも、この日は通路の下を潜るように案内があり、20年前に戻ってしまいました。私的にはああ、昔に戻したんだなと判りますが、お年寄りや足腰の悪い人には辛いんじゃないかしらん。それとも無断で有料区域に入る人が居たのかな。出来れば平面的に行き来出来る方が良いと思うのですが、余計なお世話と言うものでしょうか。

2024年10月 4日 (金)

京都・洛西 彼岸花2024 ~北嵯峨田園景観保全地域 歷史的風土特別保存地区 9.25~

Sagano2410051

令和6年9月25日、彼岸花を求めて北嵯峨を訪れて来ました。このあたりは「北嵯峨田園景観保全地域歷史的風土特別保存地区」に指定されており、昔ながらの田園風景を保つため宅地化禁止の規制が掛けられていて、地元の農家の方たちに耕作を続けてもらっているのです。

Sagano2410052

広さは41.1ha、京都市内でこれだけの田園風景は他には無いですね。指定されたのは昭和41年(1966年)の事で、山科など田園地帯が急速に宅地化されていった時期でした。相当な反発もあったと思われますが、今となっては貴重な風景であり、よくぞ実施しておいてくれたと思います。地元の方の協力の賜である事は言うまでもありません。

Sagano2410053

でも、この地域でも少子高齢化の波には逆らえず、どうやって維持していくか問題になっている様です。その対策の一つが米のブランド化で、竹の発酵チップや京都市動物園の象堆肥、その他有機肥料を使かう事で差別化を図り、「古今嵯峨米」として売り出しているそうです。まだ令和2年に始まったばかりでどこまで成功しているのかは判りませんが、農家の収入アップに繋がり、後継者難の解消が図れると良いですね。ちなみに、古今嵯峨米は京都市のふるさと納税の返礼品の一つになっています。

Sagano2410055

この日ここを訪れたのは彼岸花を撮るためでした。田園地帯に入るには大沢池の横の道を通るのですが、いつもならすぐに目に付く彼岸花が少しも見当たりません。ここも大原と同じかと思ったのですが、それ以上に咲いてなかったですね。広い田園の中を歩く事1時間ほど、ところどころに咲いていた花を撮ったのがここに掲げた写真です。

Sagano2410056

この五日後に京都を巡ったのですが、ようやく彼岸花が盛りを迎えていました。嵯峨野も大原も月末まで待つべきだったのかな。でも先に咲いていた分もあったので、結構まばらだったのかも知れませんね。

Sagano2410057

ここは北嵯峨で結構好きな場所です。三本の道しるべが良い味を出していますね。例年ならここにも彼岸花が咲いているのですけどね。彼岸花は物足りなかったですが、昔ながらの風景を堪能した一時でした。

2024年10月 3日 (木)

京都・洛東 萩2024 ~常林寺 9.24~

Jourinji2410031

大原からの帰り、出町柳でバスを降りて常林寺に立ち寄りました。先日来た時は五分咲き程度でしたが、この日はほぼ見頃を迎えていました。

Jourinji2410032

つぼみは見当たらず花は咲ききっていましたが、その割に花の密度は少なかったですね。当たり年だと本当に花で埋まる様になるのですが、残念ながらそうはならなかったです。

Jourinji2410033

でも彼岸花は咲いており、萩とのコラボが撮れたのは良かったです。今年の彼岸花はどう咲くか予測が付かないですからね。

Jourinji2410035

でもこれだけの花を無料で見せて貰えるのですから有り難い事です。拝観料を取るところがほとんどで、しかも値上がりする一方ですからね。こういうお寺は貴重です。

Jourinji2410036

常林寺の萩はまだ咲いているかな。でも、次に雨が降ったら終わりでしょう。気候変動のせいか花を育てるのも年々難しくなっていますが、また来年綺麗な萩を見せて貰いたいですね。

2024年10月 2日 (水)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~実光院 9.24~

Jikokouin241021

来迎院から実光院に来ました。ここには何度も来ていますが、いつも雪の日ばかりで、本来の庭の姿を見るのは初めてです。

Jikokouin241022

客殿は大正10年に建てられたもので、欄間には江戸時代に狩野派の絵師によって描かれた三十六詩仙が配置されています。この部屋にはご本尊の地蔵菩薩が祀られており、また声明の練習用の磬石、編鐘(中国の雅楽で用いられていた音律の基準音を定める楽器 )が置かれていて、実際に叩く事が出来ます。

Jikokouin241023

客殿の南側にあるのが契心園。江戸時代後期に造られた庭園で、律川から水を引いた池泉鑑賞式の庭です。かつてこの地にあり、実光院に併合された普賢院の庭で、春にはシャクナゲが見事です。この日は秋海棠が咲いていましたね。

Jikokouin241025

西側に広がる庭は旧理覚院庭園。理覚院は普賢院と同様に実光院に併合された寺で、この庭は長く荒廃していましたが、歴代住職によって手が入れられ、四季を通じて花が咲く庭となっています。

Jikokouin241026

雪景色しか知らなかった庭が、緑で溢れているのはとても新鮮でした。次はシャクナゲが咲く頃に来たいですね。その前に雪が降ったらまた来ようかな。実光院は来迎院と同様に混み合う事は無く、静かな佇まいを楽しめる寺ですよ。

2024年10月 1日 (火)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~来迎院 9.24~

Raigoiuin24101

大原女の小径は三千院までを指しますが、実はまだ奥へと続く道があります。その先にあるのが来迎院、天台声明の根本道場です。

Raigoiuin24102

来迎院へは三千院への分かれ道から300m程坂道を登る亊になります。すぐに着くと思っていたのですが、意外ときつく感じましたね。ずっと以前、その先の音無の滝まで行った事がありますが、こんな道だった事をすっかり忘れていました。

Raigoiuin24103

来迎院は平安時代前期に、慈覚大師円仁が天台声明の道場として開いたのが始まりとされます。その後は一時衰退していたようですが、天仁2年(1109年)に聖応太師良忍が入り復興しました。以後勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、両院を合わせて魚山大原寺と称する様になりました、

Raigoiuin24105

写真は良忍上人の御廟三重石塔です。良忍上人が比叡山を下りてこの寺を再興したのは、当時の延暦寺は白河天皇が嘆いた様に、大勢の僧兵を抱え、宗教的権威と武力を背景に強訴を繰り返す政治的存在になっており、本来の仏堂実戦の場で無くなっていたからだと言われます。

大原で声明を完成させた良忍上人は、その後阿弥陀如来仏の示現を受け、融通念仏宗を開いています。融通念佛宗と言っても関西、それも大阪や奈良以外の人にはなじみが薄いでしょうね。私も京都に居た頃は名前を知っている程度でした。ところが大阪に移住して来ると、結構盛んなのですね。お寺に本尊を拝みに行くのでは無く、本尊が寺を出て檀家の家々を巡るのが特徴で、その時銅鑼を鳴らしながら歩くのですが、初めてその音を聞いたときは何が行われているのかと驚いたものです。調べてみると京都市内には一寺も無く、京都府全体でも5箇寺だけの様です。関東にはほぼ無いのかな。ところが大阪と奈良には350軒以上の寺があるのですね。信者は12万人だとか。これだけ一地域に偏った宗派も珍しいんじゃないかしらん。本山は大阪市平野区にある大念仏寺で、結構大きなお寺の様ですね。平野駅からすぐ近くの様だし、どんなところか一度訪れてみようかな。

Raigoiuin24106

話が逸れました。来迎院の見所は何と言っても本尊にあり、薬師如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像が並んでいます。いずれも平安時代の作で、とても美しい仏様たちですよ。

境内には楓樹が多く、秋の紅葉は綺麗なのでしょうね。また本堂前にはツツジが植わっており、大原観光保勝会のページでは綺麗な花が見られるのですが、この日見た限りでは半ば枯れた様な株が多く、あまり花は期待できないかも知れません。

三千院や宝泉院は常に賑わっていますが、来迎院まで来る人は少なくとても静かで落ち着いています。拝観料も400円と良心的で、大原を訪れたなら、一度は立ち寄ってみる価値はあると思います。紅葉時分はどうか判りませんけどね。

« 2024年9月 | トップページ | 2024年11月 »