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2024年10月

2024年10月12日 (土)

2024 秋の旅 ~続・百名城 大垣城 10.4~

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大垣に来たもう一つの目的は、続百名城の一つ、大垣城を訪れるためでした。大垣城は大垣市の中心にあり、JRの駅から徒歩7~8分のところにあります。

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創建は明応9年(1500年)とも天文4年(1535年)とも言われ、はっきりとは判っていません。確かなのは西美濃の要衝として織田家と斉藤家の間で争奪戦が繰り広げられた事で、幾度となく勝敗が入れ替わり、天文18年(1549年)に斉藤家が取り戻して竹越尚光を城主として入れています。そして永禄2年(1559年)に氏家直元が城主となり、総構えを築くなど大規模な改築を行いました。

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その後も城主はめまぐるしく入れ替わり、天正11年(1583年)に入った池田家によって近世城郭として整備され、慶長元年(1596年)に伊藤祐盛によって天守が建てられました。この天守は四層建てで、死を連想させる四を嫌う当時としては珍しいものでした。江戸時代に入ると石川家、松平家と城主が変わり、寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が十万石の城主として入るとようやく落ち着き、そのまま明治維新を迎えています。最終的にこの絵図の様な城に改修したのは戸田氏で、水都と呼ばれる様に豊富な水を活かして四重の堀を巡らせ、本丸と二の丸を堀の中の島のように並べるという独特の形にしています。この城を訪れたとき、やたらと狭い城だなと感じたのですが、廃城により削られたのでは無く、元々小さな本丸だったのですね。幅の広い堀に囲われているものの、こんなに狭くて十分な守備兵を入れる事が出来たのかしらん。

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大垣城が歴史の中で最もクローズアップされたのが関ヶ原の戦いの時で、西軍の石田三成が根拠地としました。城内には関ヶ原の戦いに関する説明板が時系列的に展示されており、あまり知られていない前哨戦の経過を知る事が出来ます。それに依ると三成は当初は三河と尾張の国境を決戦の地と想定しており、大垣城を中心に尾張と美濃の城のネットワークを築いていました。しかし、東軍の動きが想定より速く、西軍の戦力が集結するより前に攻め込まれ、次々に城を落とされて、大垣城は孤立してしまいます。三成の構想は完全に破綻したのですが、徳川家康が慎重を期したため戦線は一時膠着します。その間に三成は戦略を変更し、関ヶ原の松尾山城を整備して、決戦の地を関ヶ原に求めます。杭瀬川の戦いで一矢を報いた三成は大垣城を脱出し、関ヶ原へと向かいます。それを察知した家康もまた関ヶ原へと兵を進めたのでした。

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後に残された大垣城は悲惨でした。三成は福原長堯を守将として置いたのですが、関ヶ原で西軍が敗れると大垣城は東軍の大軍に包囲され、さらに味方の裏切りにも遭い、一人残った長堯は抗戦空しく降伏を余儀なくされています。この落城の際に城を脱出したのが山田去暦の娘のおあんで、城が落ちる前日に父母と供に松の木に綱を掛けて塀を乗り越え、堀にあったたらいに載って逃げたと伝わります。この逸話にちなみ、毎年桜が咲く頃に水門川にたらい船を浮かべ、船下りをするというイベントが開かれています。

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明治以後は大垣城は廃城となり、門など一部の施設が移設された他は天守を除いてこどごとく破棄されてしまいます。天守はその後国宝に指定されますが、戦前の大垣は工場の多く並ぶ工業都市だったため第二次世界大戦の時に空襲の目標とされ、計6回の爆撃を受けて町は壊滅してしまいます。天守も昭和20年7月の空襲で焼けてしまったのですが、昭和34年にコンクリートで復原され、平成23年の修理と手直しを受けて現在に至ります。この復原の際には古写真などのほか郡上八幡城の天守を参考にしているのですが、この郡上八幡城は在りし日の大垣城を参考にして建設されており、写しの写しが再現されるという数奇な運命を辿っています。

戦災により廃墟となった大垣市でしたが、戦後の復興は目覚ましく、現在は見事な都会へと変貌しています。特にメインストリート沿いの近代化は素晴らしく、なんと開けた町かと驚きました。またバスに乗った時は妻と二人連れだったのですが、乗ったとたんに並んで座れる様に席を譲ってくださり、なんて親切な町なんだと感激しました。大垣は都会でありながら、人情味のある良い町ですね。今度は桜時分にたらい船に乗ってみたいと思っています。混んでなければ良いのですけどね。

2024年10月11日 (金)

2024 秋の旅 ~大垣市 奥の細道結びの地 10.4~

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今年の秋旅行は岐阜に行ってきました。岐阜は何度となく訪れていますが、美濃地方はほとんど観光した事がありません。京都や奈良に比べると名の知れた観光地は少ないですが、調べると面白そうなところがいくつもあります。それに新快速を使えば在来線だけで行く事が出来、交通費もさほど掛かりませんしね。

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まず訪れたのは大垣市です。人口は15万人ほどで、岐阜県第二の都市ですね。大垣の名を知ったのは小学生の頃、松尾芭蕉の奥の細道の結びの地としてです。なぜ江戸から始まった大旅行の終着点が大垣なのかずっと気になっていたのですが、その答えはこの銅像の向かいにある「奥の細道結びの地記念館」にありました。

この銅像の手前の人物が松尾芭蕉、奥が谷木因です。谷木因は大垣の人で、この地で船問屋を営んでいました。俳人として北村季吟の門下生であり、芭蕉の弟弟子に当たります。二人は同門である以上に友人でした。芭蕉は野ざらし紀行の旅の際に木因の下を訪れており、大垣に一ヶ月程滞在しました。芭蕉はその時に木因の仲立ちで多くの門人を得ています。奥の細道の終着点を大垣と決めたのは、木因と自分を慕う門人達と会うためだったのですね。

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この銅像のすぐ横には二人の句碑があります。手前が芭蕉の「蛤のふたみに別行秋ぞ」、奥の細道の結びの句ですね。奥が木因の「惜しむひげ剃りたり窓に夏木立」です。

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こちらは木因が美濃路から伊勢に向かう分かれ道に建てたという道標で、案内文が「南いせくわなへ十りざいがうみち(南伊勢 桑名へ十里 在郷道)」という俳句になっています。これは戦後に再現されたもので、オリジナルは戦災で焼けてボロボロになったため、現在は奥の細道結びの地記念館に展示されています。

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銅像の対岸にあるのが住吉灯台。かつてここを流れる水門川は桑名と大垣を結ぶ運河で、明治期には蒸気船の定期航路もありましたが、昭和に入ると物流の中心が鉄道に移り、水運は衰退してしまいました。この灯台は天保11年(1840年)に建てられたもので、かつてここが川港であった事を示しています。

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記念館を出てバス停に向かうと、すぐ側に立派な竜宮門がありました。ちょっと違和感を感じたのは一階部分に屋根がある事ですね。いわゆる裳階なのかしらん。日蓮宗常隆寺とあったので帰ってから調べてみたのですが、詳しい事は判りませんでした。門の他には本堂がぽつんとあるだけで、無住の寺の様ですね。廃仏毀釈で破壊されたのか、戦災で焼けてしまったのか、どちらでしょう。見るからに荒れ寺という感じで、せっかくの門が勿体ないですね。もう少し整備すれば名所になりそうなのに惜しいな、ていうのは余計なお世話かしらん。

2024年10月10日 (木)

京都・洛南 萩を訪ねて2024 ~かましきさん・勝念寺 9.30~

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京阪の丹波橋駅で降りて勝念寺に来ました。ここに萩の寺があるというのは以前から知っていましたが、なかなか立ち寄る機会が無く、この日初めて訪れる事が出来ました。勝念寺は普段非公開の寺なのですが、萩の季節には萩振る舞いと言って、一般公開が行われます。

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来てみて驚いたのは、山門を入るとすぐに萩の枝で道が塞がれている事で、向こうが見えないのですね。何だこの寺はと思ったのですが、枝をかき分けて入っていくと、境内の中は噂通り萩で溢れていました。

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そして足下には満開となった彼岸花がそこかしこで咲いています。絵に描いた様な秋の景色で、なんと素晴らしい所だと驚喜してしまいましたね。

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最近よく聞く名となったので混雑しているかなと思っていたのですが、私の前に一人居ただけで、すぐに帰られたためこの素敵な空間を独り占めする事が出来ました。まさに至福の時間でしたね。

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勝念寺は浄土宗知恩院派の末寺で、天正15年(1587年)に聖誉貞安上人によって開かれました。貞安上人は織田信長の帰依を受けていた僧で、本能寺の変の後、信長と信忠の霊を弔うため、正親町天皇から御池御所を賜って大雲院を開いています。そして、同時に豊臣秀吉の城下町であった丹波橋にも一寺を開き、安養山勝念寺と号しました。信長ゆかりの寺らしく、安土城で賜った諸像を伝えています。

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勝念寺は通称かましきさんと呼ばれます。境内に祀られている身代わり釜敷地蔵尊に由来し、地獄で釜ゆでの刑の責め苦を受ける人に代わり自ら煮えたぎる竈の中に入りその苦を取り除き、安楽を与えるとされます。由来は不明ですが、明治時代の鑑査状には恵心作と記されており、寺に伝わる話では信長から授かったものと言われています。かつては熱心な信者が沢山居て、檀家とは別にこのお地蔵様の講があり、長岡京市や向日市、京田辺市あたりから参拝者があったのだとか。また、代わり、かわる、カエルの語呂合わせから、境内にはカエルの像が沢山置かれています。

他に信長から賜った像と伝わるのは、毘沙門天像、門出八幡宮のご神体、多羅観音菩薩、閻魔法王自作霊像があります。 

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境内の一角にはインド菩提樹が植えられていました。ブログを拝見すると去年から鉢植えで育てられ、今年地植えにされたそうですね。日本では地植えは無理と聞いていましたが、大阪の一心寺では巨樹となって育っているそうです。地球温暖化のせいかも知れませんが、数少ない恩恵の一つとして無事に冬越しが出来ると良いですね。

今年の萩は7日に刈り取られたそうですから、萩振る舞いも終わっています。開催時期は萩の具合によって変わるそうですから、ブログ、フェイスブック、ツイッターなどで確認される事をお勧めします。それにしてもこれだけの萩を無料で公開されるとは、本当に有り難い事だと思います。

(地図はtrlキーを押しながらスクロールして下さい。勝念寺の表示が現れます。)

2024年10月 9日 (水)

京都・洛中 彼岸花2024 ~相国寺 9.30~

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京都御苑から相国寺に来ました。ここも彼岸花が目当てだったのですが、いつも咲いている鐘楼前の植え込みでは、まだ花芽が出たばかりのところでした。なんだこれはと落胆したのですが、背後を振り向くと仏殿跡に咲いている事に気づきました。

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ここは以前から咲いてはいたのですが、数輪がぽつぽつと咲いていた程度で、いつの間にやら数が増えていたのでした。これはうれしい誤算でしたね。

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難点は法堂への参道からは生け垣が高くて近くで見られないこと。弁天堂側からだと遠すぎて小さくしか写らない事ですね。

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それでも生け垣の隙間から一群の彼岸花が見えたのは幸いでした。これが撮れなければ何しに来たのか判らないですからね。

相国寺の彼岸花は鐘楼前の生け垣の中が終わり、大光明寺前の参道で咲いている頃でしょうか。半月遅れの彼岸花、何とも変な感じですが、長く楽しめて良かったとも言えそうです。

2024年10月 8日 (火)

京都・洛中 彼岸花2024 ~京都御苑 凝華洞跡 9.30~

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梨木神社から京都御苑に入りました。ここでの目当ては彼岸花、そこかしこで咲いているはずなのですが、ぱっと見、どこにも見当たりません。そこで確実に咲いているはずの凝華洞跡に来ました。

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ここは他が不調の時でも、毎年まとまって咲いてくれるところです。年によっては少ない時もありますが、今年はまずまずの数が咲いていました。

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凝華洞跡は後西上皇の仙洞御所があったところです。既に現在の仙洞御所があったはずなのに、なぜここに新たに作り凝華洞と名付けたのか良く判りませんが、池のある庭を持っていたとの事ですから、それなりの規模だったのでしょうね。幕末の蛤御門の変の時は、松平容保が陣を置いた所としても知られます。この時容保は重い病に罹っており、起き上がるのもやっとだったのですが、家臣に助けられながら指揮を執ったそうですね。

今は小山があるだけですが、これはかつての庭の築山の跡なのでしょうか。

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この周辺にはもっと彼岸花が咲いているはずなのですが、この二本しか見つけられませんでした。それに雑草が茂ったままだったのも、京都御苑らしく無かったですね。

花数は少なかったですが、狙い通り彼岸花が見られたのは良かったです。

2024年10月 7日 (月)

京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~梨木神社 9.30~

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幸神社から梨木神社に来ました。ここも境内一円に萩が植えられており、名所の一つに数えられる神社です。

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しかし、残念な事にこの日はほとんど咲いていませんでした。遅すぎて散ってしまったのかと思ったのですが、良く見るとそうではなく、つぼみが沢山残っています。要するにまだこれから咲くところだったのですね。

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ここは元々咲くのが遅い場所ですが、9月末でこの状態とは今年は極端ですね。常林寺や大聖寺門跡は例年どおりでしたが、真如堂や迎称寺などはほぼ咲いていませんでした。猛暑の影響なのか、場所によってばらつきが目立つ気がします。

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梨木神社は幕末の公家、三条実萬公と三条実美公を御祭神としています。学問・文芸の神とされ、毎年行われる萩まつりでは、和歌を詠んだ短冊が萩の枝に飾られます。

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境内には京都三名水の一つ染井があり、水を汲みに来る人が絶えません。大きなポリタンクは禁止されていますが、多くのペットボトルを持ってくる人がほとんどで時間が掛かるため、常に順番待ちが生じていますね。そんなに持って帰ってどうするのかと思いますが、水道の代わりに1日分の水を汲んでいるのかしらん。ちょっと一口飲んでみようかと思いましたが、待ち時間が長すぎて諦めました。常連さんがほとんどの様で、よそ者が入りにくい雰囲気なのはどうかなという気がしますね。

2024年10月 6日 (日)

京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~幸神社 9.30~

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真如堂から幸神社に来ました。ここには9月19日にも萩を見に来ましたがまだ咲いておらず、そろそろ良いかなと様子を見に来ました。

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この日は西側の株が五分咲き程度、東側の株がほぼ満開になっていました。

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満開と言っても花付きが今ひとつで、少し寂しかったですね。当たり年にはもう少し花の密度が上がります。

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幸神社の読み方はさいのかみのやしろ。塞神、つまり都に邪悪なものが入るのを塞ぐ神様で、かつては道祖神として出雲路のあたりに祀られていました。今でも正式な名称は出雲路幸神社ですね。道祖神は本来民間信仰の神ですが、いつしか道の神とされる猿田彦神と同一視される様になり、現在の主祭神となっています。

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境内の奥にあるのが石神さん、いわゆる陽石で、縁結びの御利益がある石として知られます。あまりに力がありすぎるので、触れると祟りに合うとされます。そして、その前にある鳥居が新調されていましたね。古色を帯びた境内にあってやたらと目立ち、特別な場所を強調しているかの様でした。パワースポットらしくなったとも言えますね。

(地図はCTrlキーを押しながらスクロールしてください。拡大されて幸神社の標記が現れます。)

 

2024年10月 5日 (土)

京都・洛東 東三条院肖像画、一条天皇肖像画公開 ~真如堂 2024.9.30~

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令和6年9月30日、真如堂を訪れてきました。先日萩を見に来たばかりですが、東三条院(藤原詮子)と一条天皇の肖像画が公開されたと知り、早速やって来たという次第です。

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繰り返しになりますが、真如堂は正暦三年(994年) のある日、延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を遷座せよという夢告を受けた東三条院が、自らの離宮に阿弥陀如来像を招き入れ、戒算上人を開山として開いたのが始まりとされます。この時、偶然にも戒算上人も同じお告げを受けており、不思議の感に打たれたとの事です。

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東三条院の肖像画は江戸時代に描かれたものだそうですが、中世の美人の基準に合わせてあるのでしょう、下ぶくれでふっくらとした感じですね。千本釈迦堂のお多福さんの系統と言えば判るでしょうか。髪が黒くて長いのも平安美人の条件どおりです。着物も高貴な方らしく豪華で美しいですね。ホームページで写真は見ていましたが、本物を見る事が出来て良かったです。

なお、職員さんにお伺いしたところ、やっぱり換骨堂(元真如堂)のあるところが離宮のあった場所で、現在の場所は東山天皇から下賜された土地との事です。となると、当時の真如堂がどう広がっていたか気になりますね。換骨堂で聞いてみたら何か判るかしらん。

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肖像画は有料区域にあるので、久しぶりに拝観してきました。確か随縁の庭が出来た時以来なので、14年ぶりになるのかな。これだけ時間が空くと新鮮で良いですね。

この灯籠は木津川市にあった燈明寺由来の燈明寺石灯籠の本歌です。燈明寺から三井家の手に渡っていたのですが、昭和60年に真如堂に寄贈されました。と言うことは、これまで何度も目にしているはずなのですが、この日初めて気が付きました。いつものことですが、迂闊な事ですね。

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茶室があるのも初めて気が付きました。以前からここは見られたのかなあ。少し調べてみると、毎月ここで茶会が開かれている様ですね。こんな洒落た路地や待合があるとはちょっとした驚きでした。何回も来ているのに今更ですが。

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境内ではまだ彼岸花が咲いていました。真如堂は他の場所より咲くのが早かったのですが、一斉に咲くのではなく、じわじわと咲いていった様ですね。彼岸花に限りませんが、本当に今年の咲き方は予測出来なかったです。

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この日拝観してあれっと思ったのは、本堂と書院を結ぶ通路が完全に締め切られていましたね。新貫首になられた苦沙弥和尚が見苦しいから通り方を変えるとおっしゃっていましたが、先日来た時は狭いながらも開いていて、通路を横切る事が出来ていました。でも、この日は通路の下を潜るように案内があり、20年前に戻ってしまいました。私的にはああ、昔に戻したんだなと判りますが、お年寄りや足腰の悪い人には辛いんじゃないかしらん。それとも無断で有料区域に入る人が居たのかな。出来れば平面的に行き来出来る方が良いと思うのですが、余計なお世話と言うものでしょうか。

2024年10月 4日 (金)

京都・洛西 彼岸花2024 ~北嵯峨田園景観保全地域 歷史的風土特別保存地区 9.25~

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令和6年9月25日、彼岸花を求めて北嵯峨を訪れて来ました。このあたりは「北嵯峨田園景観保全地域歷史的風土特別保存地区」に指定されており、昔ながらの田園風景を保つため宅地化禁止の規制が掛けられていて、地元の農家の方たちに耕作を続けてもらっているのです。

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広さは41.1ha、京都市内でこれだけの田園風景は他には無いですね。指定されたのは昭和41年(1966年)の事で、山科など田園地帯が急速に宅地化されていった時期でした。相当な反発もあったと思われますが、今となっては貴重な風景であり、よくぞ実施しておいてくれたと思います。地元の方の協力の賜である事は言うまでもありません。

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でも、この地域でも少子高齢化の波には逆らえず、どうやって維持していくか問題になっている様です。その対策の一つが米のブランド化で、竹の発酵チップや京都市動物園の象堆肥、その他有機肥料を使かう事で差別化を図り、「古今嵯峨米」として売り出しているそうです。まだ令和2年に始まったばかりでどこまで成功しているのかは判りませんが、農家の収入アップに繋がり、後継者難の解消が図れると良いですね。ちなみに、古今嵯峨米は京都市のふるさと納税の返礼品の一つになっています。

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この日ここを訪れたのは彼岸花を撮るためでした。田園地帯に入るには大沢池の横の道を通るのですが、いつもならすぐに目に付く彼岸花が少しも見当たりません。ここも大原と同じかと思ったのですが、それ以上に咲いてなかったですね。広い田園の中を歩く事1時間ほど、ところどころに咲いていた花を撮ったのがここに掲げた写真です。

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この五日後に京都を巡ったのですが、ようやく彼岸花が盛りを迎えていました。嵯峨野も大原も月末まで待つべきだったのかな。でも先に咲いていた分もあったので、結構まばらだったのかも知れませんね。

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ここは北嵯峨で結構好きな場所です。三本の道しるべが良い味を出していますね。例年ならここにも彼岸花が咲いているのですけどね。彼岸花は物足りなかったですが、昔ながらの風景を堪能した一時でした。

2024年10月 3日 (木)

京都・洛東 萩2024 ~常林寺 9.24~

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大原からの帰り、出町柳でバスを降りて常林寺に立ち寄りました。先日来た時は五分咲き程度でしたが、この日はほぼ見頃を迎えていました。

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つぼみは見当たらず花は咲ききっていましたが、その割に花の密度は少なかったですね。当たり年だと本当に花で埋まる様になるのですが、残念ながらそうはならなかったです。

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でも彼岸花は咲いており、萩とのコラボが撮れたのは良かったです。今年の彼岸花はどう咲くか予測が付かないですからね。

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でもこれだけの花を無料で見せて貰えるのですから有り難い事です。拝観料を取るところがほとんどで、しかも値上がりする一方ですからね。こういうお寺は貴重です。

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常林寺の萩はまだ咲いているかな。でも、次に雨が降ったら終わりでしょう。気候変動のせいか花を育てるのも年々難しくなっていますが、また来年綺麗な萩を見せて貰いたいですね。

2024年10月 2日 (水)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~実光院 9.24~

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来迎院から実光院に来ました。ここには何度も来ていますが、いつも雪の日ばかりで、本来の庭の姿を見るのは初めてです。

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客殿は大正10年に建てられたもので、欄間には江戸時代に狩野派の絵師によって描かれた三十六詩仙が配置されています。この部屋にはご本尊の地蔵菩薩が祀られており、また声明の練習用の磬石、編鐘(中国の雅楽で用いられていた音律の基準音を定める楽器 )が置かれていて、実際に叩く事が出来ます。

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客殿の南側にあるのが契心園。江戸時代後期に造られた庭園で、律川から水を引いた池泉鑑賞式の庭です。かつてこの地にあり、実光院に併合された普賢院の庭で、春にはシャクナゲが見事です。この日は秋海棠が咲いていましたね。

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西側に広がる庭は旧理覚院庭園。理覚院は普賢院と同様に実光院に併合された寺で、この庭は長く荒廃していましたが、歴代住職によって手が入れられ、四季を通じて花が咲く庭となっています。

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雪景色しか知らなかった庭が、緑で溢れているのはとても新鮮でした。次はシャクナゲが咲く頃に来たいですね。その前に雪が降ったらまた来ようかな。実光院は来迎院と同様に混み合う事は無く、静かな佇まいを楽しめる寺ですよ。

2024年10月 1日 (火)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~来迎院 9.24~

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大原女の小径は三千院までを指しますが、実はまだ奥へと続く道があります。その先にあるのが来迎院、天台声明の根本道場です。

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来迎院へは三千院への分かれ道から300m程坂道を登る亊になります。すぐに着くと思っていたのですが、意外ときつく感じましたね。ずっと以前、その先の音無の滝まで行った事がありますが、こんな道だった事をすっかり忘れていました。

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来迎院は平安時代前期に、慈覚大師円仁が天大声明の道場として開いたのが始まりとされます。その後は一時衰退していたようですが、天仁2年(1109年)に聖応太師良忍が入り復興しました。以後勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、両院を合わせて魚山大原寺と称する様になりました、

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写真は良忍上人の御廟三重石塔です。良忍上人が比叡山を下りてこの寺を再興したのは、当時の延暦寺は白河天皇が嘆いた様に、大勢の僧兵を抱え、宗教的権威と武力を背景に強訴を繰り返す政治的存在になっており、本来の仏堂実戦の場で無くなっていたからだと言われます。

大原で声明を完成させた良忍上人は、その後阿弥陀如来仏の示現を受け、融通念仏宗を開いています。融通念佛宗と言っても関西、それも大阪や奈良以外の人にはなじみが薄いでしょうね。私も京都に居た頃は名前を知っている程度でした。ところが大阪に移住して来ると、結構盛んなのですね。お寺に本尊を拝みに行くのでは無く、本尊が寺を出て檀家の家々を巡るのが特徴で、その時銅鑼を鳴らしながら歩くのですが、初めてその音を聞いたときは何が行われているのかと驚いたものです。調べてみると京都市内には一寺も無く、京都府全体でも5箇寺だけの様です。関東にはほぼ無いのかな。ところが大阪と奈良には350軒以上の寺があるのですね。信者は12万人だとか。これだけ一地域に偏った宗派も珍しいんじゃないかしらん。本山は大阪市平野区にある大念仏寺で、結構大きなお寺の様ですね。平野駅からすぐ近くの様だし、どんなところか一度訪れてみようかな。

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話が逸れました。来迎院の見所は何と言っても本尊にあり、薬師如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像が並んでいます。いずれも平安時代の作で、とても美しい仏様たちですよ。

境内には楓樹が多く、秋の紅葉は綺麗なのでしょうね。また本堂前にはツツジが植わっており、大原観光帆勝会のページでは綺麗な花が見られるのですが、この日見た限りでは半ば枯れた様な株が多く、あまり花は期待できないかも知れません。

三千院や宝泉院は常に賑わっていますが、来迎院まで来る人は少なくとても静かで落ち着いています。拝観料も400円と良心的で、大原を訪れたなら、一度は立ち寄ってみる価値はあると思います。紅葉時分はどうか判りませんけどね。

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