2024 秋の旅 ~続・百名城 大垣城 10.4~
大垣に来たもう一つの目的は、続百名城の一つ、大垣城を訪れるためでした。大垣城は大垣市の中心にあり、JRの駅から徒歩7~8分のところにあります。
創建は明応9年(1500年)とも天文4年(1535年)とも言われ、はっきりとは判っていません。確かなのは西美濃の要衝として織田家と斉藤家の間で争奪戦が繰り広げられた事で、幾度となく勝敗が入れ替わり、天文18年(1549年)に斉藤家が取り戻して竹越尚光を城主として入れています。そして永禄2年(1559年)に氏家直元が城主となり、総構えを築くなど大規模な改築を行いました。
その後も城主はめまぐるしく入れ替わり、天正11年(1583年)に入った池田家によって近世城郭として整備され、慶長元年(1596年)に伊藤祐盛によって天守が建てられました。この天守は四層建てで、死を連想させる四を嫌う当時としては珍しいものでした。江戸時代に入ると石川家、松平家と城主が変わり、寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が十万石の城主として入るとようやく落ち着き、そのまま明治維新を迎えています。最終的にこの絵図の様な城に改修したのは戸田氏で、水都と呼ばれる様に豊富な水を活かして四重の堀を巡らせ、本丸と二の丸を堀の中の島のように並べるという独特の形にしています。この城を訪れたとき、やたらと狭い城だなと感じたのですが、廃城により削られたのでは無く、元々小さな本丸だったのですね。幅の広い堀に囲われているものの、こんなに狭くて十分な守備兵を入れる事が出来たのかしらん。
大垣城が歴史の中で最もクローズアップされたのが関ヶ原の戦いの時で、西軍の石田三成が根拠地としました。城内には関ヶ原の戦いに関する説明板が時系列的に展示されており、あまり知られていない前哨戦の経過を知る事が出来ます。それに依ると三成は当初は三河と尾張の国境を決戦の地と想定しており、大垣城を中心に尾張と美濃の城のネットワークを築いていました。しかし、東軍の動きが想定より速く、西軍の戦力が集結するより前に攻め込まれ、次々に城を落とされて、大垣城は孤立してしまいます。三成の構想は完全に破綻したのですが、徳川家康が慎重を期したため戦線は一時膠着します。その間に三成は戦略を変更し、関ヶ原の松尾山城を整備して、決戦の地を関ヶ原に求めます。杭瀬川の戦いで一矢を報いた三成は大垣城を脱出し、関ヶ原へと向かいます。それを察知した家康もまた関ヶ原へと兵を進めたのでした。
後に残された大垣城は悲惨でした。三成は福原長堯を守将として置いたのですが、関ヶ原で西軍が敗れると大垣城は東軍の大軍に包囲され、さらに味方の裏切りにも遭い、一人残った長堯は抗戦空しく降伏を余儀なくされています。この落城の際に城を脱出したのが山田去暦の娘のおあんで、城が落ちる前日に父母と供に松の木に綱を掛けて塀を乗り越え、堀にあったたらいに載って逃げたと伝わります。この逸話にちなみ、毎年桜が咲く頃に水門川にたらい船を浮かべ、船下りをするというイベントが開かれています。
明治以後は大垣城は廃城となり、門など一部の施設が移設された他は天守を除いてこどごとく破棄されてしまいます。天守はその後国宝に指定されますが、戦前の大垣は工場の多く並ぶ工業都市だったため第二次世界大戦の時に空襲の目標とされ、計6回の爆撃を受けて町は壊滅してしまいます。天守も昭和20年7月の空襲で焼けてしまったのですが、昭和34年にコンクリートで復原され、平成23年の修理と手直しを受けて現在に至ります。この復原の際には古写真などのほか郡上八幡城の天守を参考にしているのですが、この郡上八幡城は在りし日の大垣城を参考にして建設されており、写しの写しが再現されるという数奇な運命を辿っています。
戦災により廃墟となった大垣市でしたが、戦後の復興は目覚ましく、現在は見事な都会へと変貌しています。特にメインストリート沿いの近代化は素晴らしく、なんと開けた町かと驚きました。またバスに乗った時は妻と二人連れだったのですが、乗ったとたんに並んで座れる様に席を譲ってくださり、なんて親切な町なんだと感激しました。大垣は都会でありながら、人情味のある良い町ですね。今度は桜時分にたらい船に乗ってみたいと思っています。混んでなければ良いのですけどね。
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