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2024年9月10日 (火)

京都・洛中 洛中散策2024 ~法興院跡 法雲寺 9.4~

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善導寺から法雲寺に来ました。二つの寺は敷地が隣同時なのですが、入り口が随分と離れています。二条通から入れると思っていたのですがどこにも無く、ぐるっと回り込んだ河原町通側にありました。ここもビルに挟まれた狭い参道になっています。

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ここは藤原道長の父、兼家の邸宅である二条第があった場所で、永祚2年(990年)に当時関白だった兼家は病を得て出家し、病気平癒の祈願のために二条第を法興院(ほこいん、又はほうこういん)と言う寺に改めました。しかし、そのわずか2ヶ月後に兼家は亡くなります。法興院は兼家の菩提寺となり、子の道隆、道長によって庇護され栄えました。道長の日記「御堂関白記」には法興院が頻出しており、幾度となくここで様々な法会を行っています。

法興院の法会で最も有名なのが道隆が正暦5年(994年)2月21日に行った一切経供養で、その様子を清少納言が枕草子の中で詳しく記しています。正確には道隆が法興院内に建てた積善寺で行われ、主催した道隆のほか中宮定子、国母である東三条院が臨席し、伊周や隆家といった中関白家の人々、中宮太夫であった道長、その他主立った公卿達がこぞって参加するという大々的な法会でした。清少納言は得意の絶頂にあった道隆、美しく聡明な定子とその女房達、若き貴公子の伊周の様子を活写しており、まさしく中関白家がこの世の春を謳歌した日でした。

しかし、水面下では道隆の専横ぶりに対する公卿達の反感がくすぶっており、7月に伊周が21歳の若さで叔父の道長を飛び越えて内大臣に就くと彼らの不満は頂点に達しました。特に東三条院は伊周の早すぎる昇進を不快に思い、弟の道長への傾斜を深めていきます。これには伊周の妹である定子に対する反感、いわゆる嫁姑の感情のもつれがあったとも言われますね。清少納言も言っています、「ありがたきもの(めったにないもの)、姑に思わるる嫁の君」と。嫁姑の問題は千年前から存在していたのでした。

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栄華を極めていた道隆でしたが、一切経の法会からわずかに一年後、病を得て病没します。道隆は死ぬ前に伊周を関白に据えようとしますが、一条天皇はこれを認めず道兼を関白に指名、その道兼がわずか七日にして亡くなると道長を内覧に据えました。この裏には伊周を嫌う東三条院の意向が強く働いたと言われます。伊周は道長に激しく反発しますが、政治力では道長に及ばす、また人望の無かった伊周は次第に孤立していきます。そして長徳2年1月に伊周と隆家は花山法皇に矢を射かけるという失態を犯し、伊周は太宰の権帥として配流になり、定子は発作的に髪を切ったため出家したとみなされ、内裏からの退出を余儀なくされました。こうして光り輝いていた中関白家は見る影も無く没落してしまいますが、清少納言はその後も定子に仕え続け、定子の死後も枕草子を書き続けました。一切経の法会の段は飛び抜けて長く、在りし日の中関白家の栄光を記していますが、その最後に今の事を思うとこれ以上は書けないと記して筆を置いています。枕草子で清少納言が悲しみの感情を露わにしているのはここだけで、何とも切ない気持ちが伝わってくるような気がします。

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法興院はその後何度か焼失と再建を繰り返しますが、鎌倉時代の焼失を最後に廃絶してしまいました。跡地はいつしか森になり、応仁の乱では合戦場となっています。人々はこの森には鬼が棲んでいると恐れたと言いますが、永禄10年(1567年)に然誉上人が鬼を鎮めて草庵を結びました。この然誉上人は善導寺を建てた然誉和尚と同一人物ですね。そして元和2年(1616年)に二世本蓮社源譽上人が諸殿を整備して法雲寺としました。法興院の南の庭の池があった場所だったとされ、清水が涌いていた事から清水山という山号が付けられています。

この寺で有名なのが菊野大明神、ホームページで縁切りの御利益があるとは知っていましたが、後から検索をかけてみると京都最強のパワースポットというサイトが沢山出てきました。これほどのものだとは知りませんでしたね。ご神体は霊石で、様々な謂われがありますが、この寺では小野小町の下へ百夜通いをしていた深草の少将が、道中に腰を掛けていた石とされています。最後の夜に倒れて願いが叶わなかった少将の怨念が籠もっており、大抵の縁は切れてしまうのだとか。

縁切りの方法はかわらけを持ってこお堂の中に入って祈り、かわらけに願いを書いて厄払いの石の上でたたき割るのだそうです。反対に良縁を結ぶ御利益もあり、その場合はかわらけを三方の上に納めるのだとか。受付でお願いすると、ロウソクと線香、それにかわらけのセットを千円で頂く事が出来ます。私はあまり深く知らずに中に入っただけですが、薄暗くて何かものすごい雰囲気があり、早々に退散しました。

 

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こちらは豊川大明神。火除け、厄除け、災難除けの御利益があるとされます。また、菊野大明神でかわらけの儀式を終わった後は、この社にお参りするようにと指示があります。縁切りと言えば安井金比羅宮の縁切石が有名ですが、ここの御利益はそれ以上に強力で、下手にお願いすると大変な事になると記したサイトが多いですね。興味本位では近づかない方が良い様です。

幕末には長州藩の久坂玄瑞と寺島忠三郎が、開国を唱えた永井雅楽の暗殺を企てた事を咎められて、この寺で謹慎しています。また、脱藩していた吉田稔麿もまた、同じくここで謹慎していたとの事です。このすぐ南に長州藩邸があり、藩邸に収容しきれなかった藩士の宿所ともなっていたそうですね。

また、境内には法興院の遺構として井戸があるそうですが、この時は気付きませんでした。周囲はビルで囲まれており、平安時代をしのぶ事は無理です。しかし、かつて藤原家一族が集った場所である事は確かであり、枕草子に描かれた舞台を一度は訪れてみるのも良いと思いますよ。

 

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