京都・洛東 東三条院離宮跡・元真如堂 ~換骨堂・日吉神社 2024.9.5~
以前放映された光る君へ紀行で、東三条院の離宮跡があると知り、訪ねてみる事にしました。ここは元真如堂と言い、現在は換骨堂と呼ばれています。
真如堂のホームページに依れば、延暦寺の僧戒算上人が夢のお告げを受け、慈覚大師が彫ったという阿弥陀如来を、東三条院の離宮に移した事が始まりとあります。そこでは現在の場所が離宮だった様に書かれていますが、ここは真如堂がある丘の下、厳密には違う場所にあったという事になりますね。
入り口にあった説明板に依ると、東三条院が夢告を受け、正暦三年(994年)に延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を遷座し、戒算上人を開山として真如堂を開いたとありますね。真如堂は応仁の乱で荒廃し以後寺域を転々としますが、元禄六年(1693年)に当地の西南に再建され、ここには念仏堂と呼ばれた小堂が残されました。その後、天保元年(1830年)の天保京都大地震により倒壊しますが、同十三年(1843年)に尼僧黙旨が尼衆の請いに応じて再興しました。この時に曹洞宗に改宗して永代尼僧の寺となり、案内板には書いてないですが、寺名を換骨堂と改めた様ですね。なお、換骨とは凡骨を取り去って仙骨に換えるという意味で、平たく言えば悟りを開くという事なのだとか。
本堂の裏には東三条院の供養塔があります。真如堂は東三条院と縁が深い割りに何も無いなと思っていたのですが、ここに祀られていたのでした。この供養塔が建てられたのは念仏堂が出来た頃らしく、それ以前は真如堂と共に転々としていたのでしょうか。なお、東三条院の墓は宇治陵にあります。
換骨堂の隣に日吉神社があります。この神社、石柱には日吉神社とあるのですが、駒札には小さく京と付いており、さらにホームページでは浄土寺日吉神社と書かれています。日吉神社と名の付く神社は日本全国に沢山あるので区別したいのでしょうけど、なんともややこしいですね。ここでは正式名称と思われる日吉神社で通す事とします。
なお、前後しますが、換骨堂はこの右手の生け垣の中にあり、生け垣のわずかな切れ目が入り口です。何の案内も無いので初めて行くとなかなか判らないと思います。かく言う私も何度も通った道ですが、これまで気付いておらず、どこから入ったものかと散々迷いました。
日吉神社は真如堂の創建時に鎮守社として日吉大社から勧請された神社で、真如堂がこの地を離れた後もそのまま残り、吉田神社の助けも受けながら地域の氏神として祭事を行ってきました。真如堂が現在地に戻ってくると再び鎮守社となりますが、明治の神仏分離令により独立し、今に至ります。もっとも、ご神像は十禅師大明神と天之子八根命を重ね合わせた本地仏の地蔵菩薩立像を祀っているとの事ですから、今でも神仏混淆の名残を濃厚に残しているという事なのでしょうね。そしてもう一体、宝珠を持った神猿の木像をお祭りしているとの事です。
本殿前は2体の珍しい狛猿が鎮座しています。右側の阿形の桃を持った狛猿は長寿猿で、左の吽形の狛猿は小猿を持った子守猿だそうです。御利益としては、神猿は「まさる」と読み、尚武において他に勝る、まさるは大に通じる事から子育ての神、また優るに通じる事から学問の神、さらに将るに通じる事から立身出世の神、昌に通じる事から子孫繁栄の神と多彩ですね。
境内の奥は換骨堂と通じており、その境目は蓮華岡と呼ばれ、石窟があり岩不動が祀られているとの事です。表向きは神社として独立していても真如堂との関係は続いており、祭りの神輿は真如堂に担ぎ込まれる様ですね。
ちょっと疑問なのは換骨堂はごく小さなお寺で、かつての真如堂と言うか東三条院の離宮はどう広がっていたのかという事ですね。すぐ背後は急な岡ですし、東側には白川が流れています。北側には浄土寺があったろうし、どれくらいの広さだったのでしょうね。ネットで調べた限りでは判りませんでした。今度真如堂に行ったら聞いてみようかしらん。判る人が居ると良いのだけどな。
(地図は少しズームして下さい。真如堂換骨堂の表示が現れます。)
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