京都・洛南 藤原道長・藤原氏一族の墓 ~宇治陵~
藤原兼家、道隆、道長らが眠るという宇治陵を訪れて来ました。宇治陵は宇治川の東北、宇治市木幡にあり、南北1.8km、東西0.9kmに及ぶ広大な墓域の事を指します。大小360基もの墳墓があったとされ、これらの中には前方後円墳なども含まれており、古くからの送葬の地であったと考えられます。藤原北家がこの地を埋葬の地としたのは基経の時で、元慶年間(877年-885年)から長寛2年(1164年)に藤原忠通が月輪に葬られるまで続きました。それ以後は五摂家に分裂した事もあり、次第に顧みられなくなり次第に荒廃しました。元々、鳥辺野などで火葬に付された後、遺骨をこの地に運んで埋め、小さな盛り土をした程度のものであり、管理されなくなった後は土に埋もれてしまったと言います。
ここに葬られたのは北家の一門のほか、藤原家から天皇に入内した女性達も含まれます。このため明治になると宮内庁による調査が行われ、37基を陵墓と認定しましたが、誰のものかまでは特定出来ず、番号だけが付られています。そして一号陵が総遙拝所とされました。
総拝所に掲げられているのは次の20名です。皇后温子(宇多天皇中宮)、皇后穏子(醍醐天皇皇后)、皇后安子(村上天皇皇后)、皇后遵子(円融天皇皇后)、皇后媓子(円融天皇皇后)、贈皇太后懐子(花山天皇御母)、尊称皇太后詮子(一条天皇御母)、皇后彰子(一条天皇皇后)、贈皇太后超子(三条天皇御母)、皇后媙子(三条天皇皇后)、皇后妍子(三条天皇皇后)、皇后威子(後一条天皇皇后)、贈皇太后嬉子(後冷泉天皇御母)、皇后寛子(後冷泉天皇皇后)、皇后歓子(後冷泉天皇皇后)、贈皇太后茂子(白河天皇御母)、贈皇太后苡子(鳥羽天皇御母)敦実親王墓(宇多天皇皇子)、敦道親王墓(冷泉天皇皇子)、准后藤原生子墓(朱雀天皇女御)。ただし、実際の陵墓がどこにあるかは判っていません。
こちらは総遙拝所の前にある藤原氏塋域、ここが藤原氏の墓域であるという石碑ですね。ここに記されているのは閑院贈太政大臣冬嗣、昭宣公関白基経、本院贈太政大臣時平、法興院摂政兼家、南院関白道隆、法成寺関白道長、宇治関白頼通、後宇治関白師實です。どれも歴史上名の知れた人で、平安時代に舞い戻った様な気分になりました。
宇治陵を調べていた時に見つけたのがこの地図。回る順番まで書いてあって、これならそれほど苦労しなくても良いかなと思いました。しかし、甘かったですね。まず思っていた以上に広いです。次にこの地図はかなり簡略化されていて、これだけで回るのは無理でした。そして何より、現地が全くの住宅街なのですね。宅地化が進んでいるとは知っていましたがそれ以上で、隙間が無いほど家が建て込んでいるのでした。こんなところに本当に陵墓があるのかなと言うのが正直な感想でしたね。
総遙拝所の次に訪れたのが浄妙寺跡、道長が寛弘二年(1005年)に建てた一族を供養する為の寺です。説明板に依れば、若い頃父の兼家に連れられて木幡を訪れた道長が、その荒廃ぶりにこころを痛め、もし高位に登ったら一堂を建てて三昧を納めようと思ったとあります。当時は藤原家全盛の時代ですが、その頃からすでに荒れていたのですね。兼家やその兄の兼通は手入れをしようとは思わなかったのかしらん。
御堂関白記に依ればこの寺の場所を決めたのは安倍清明で、道長は建設中の三昧堂を検分するため、何度となく訪れています。最初に法華三昧堂が建てられ、次いで二年後に多宝塔が造られました。道長はこの多宝塔建築時にも検分に訪れており、わざわざ「感動した」と記していますから、相当に見事なものだったのでしょう。他には鐘楼、僧坊、南門などが建てられました。妙教寺は平等院と並ぶ藤原家にって大切な寺でしたが、鎌倉時代になると別当が聖護院宮に移り、次第に衰退していきます。そして、寛正三年(1462年)に一揆の放火に遭い、廃絶してしました。
跡地は宇治市立木幡小学校になっており、昭和37年に建設に先立ち発掘調査が行われ、良好に遺構が残っている事が判りました。小学校の建設に当たっては遺構部分をグラウンドにして、保存に努めているとの事です。
私事ですが、この日訪れたのは丁度登校時間に当たっており、ちょっとまずいなと思っていました。なぜって、小学生が歩いている中でカメラを持っていると、不審者扱いされかねないからですよ。どうしようかと思いながらとりあえず行って見ると、校門の脇に浄妙寺跡の説明板が立っており、ほっとしました。子供たちが写らない様にして説明板だけを撮ったのが上の写真です。
浄妙寺跡からは陵墓を探して歩く事にします。本当は大回りをして沢山の陵墓を見るつもりだったのですが、思っていた以上に広く、かつ朝からとても暑かったので長い時間歩く気になれず、中心部にある32号墳と33号墳だけに絞ることにしました。頼りは例の地図ですが、実際に歩いてみるとあまり役に立たず、スマホの地図と見比べながらやっとたどり着いたのでした。本当に住宅街の中に突然現れた小さな緑地という感じです。
これが32号墳で、道長の墓ではないかと推測されている塚です。息子の頼通が道長の墓を参拝したときに、浄妙寺の南大門を出て東に行ったという記録があり、一番近いのがこの塚という訳ですね。でも、浄妙寺から見ると東では無く南になるのですけどね、そのあたりどうなんでしょう。また、この付近から青磁の水指しが出土しており、道長の骨壺か遺愛の品かと言われています。果たしてこれが道長の墓なのかどうか興味は尽きませんが、あれほどの権勢を振るった人の墓にしては意外なほど小さいなと言う印象です。
こちらは道を挟んだ33号墳、これも位置的に道長の墓の可能性はあるのですが、伝承として藤原基房の娘の墓と言われており、今のところ候補からは外れています。
それにしてもと思うのですが、なぜ住宅街になる前に一帯を史跡指定をして保存しなかったのでしょうね。史跡とするにはあまりにも荒れ果てていたという事なのかしらん。歴史上重要な場所なのに、現状は悲しすぎる気がします。
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