京都・洛中 洛中散策2024 ~三条大橋から高瀬川一の舟入まで 9.3~
令和6年9月3日、この日は三条大橋を起点に、木屋町、二条界隈を散策してきました。まずは三条大橋から。
京阪の三条駅を出ると、目の前に百日紅が咲いていました。これって以前からあったのでしょうけど、この時期に来る事はあまり無いので気付いてなかったです。何度も来ている場所なのに我ながらいい加減なものです。
さて、写真で見て判るとおり三条大橋の欄干が新しくなり、白くなっています。以前のものは昭和49年に取り替えられたもので、半世紀近く経ってさすがに痛みが目立ち、2010年代には見苦しいので取り替えてと結構苦情が入っていたとの事。京都市はすぐにでも着手したかった様ですが、ネックになったのは4億円という事業費、財政難の京都市にとっては負担が大きすぎます。そこでふるさと納税などで寄付を求める事にし、着工を決めたのが2018年の事。そして実際に着手したのが2022年で今年の1月に完成を見ました。それにしても、あれほどインバウンドで賑わっても、まだ財政難だと言うのは不思議です。彼らの落としたお金はどこに行っているのかしらん。
それはともかく、欄干だけでなく、歩道の舗装、車道と歩道を隔てる防護柵も更新されています。欄干は京都市内産の檜を使用、防護柵には魔除けの効果のあるという麻の葉の模様が施されています。舗装は市松模様になっており、京都の入り口に相応しい橋に仕上がってますね。なお、擬宝珠は豊臣秀吉が架橋した当時のものがそのまま残されました。
とても良い仕事をされたと思うのですが、白すぎるのが気になります。もうちょっと時代を出しても良かったんじゃないかしらん。まあ、風雨に晒されている内に風合いが出てくるのでしょうけどね、慣れるまで時間が掛かりそうです。写真は欄干にあるハートマーク。たぶん傷か穴があった部分を補修したのだと思いますが、ちょっとした名物になっています。
なお、ライトアップも行われているそうで、一度夜に見に来たいですね。
三条大橋を渡り、木屋町通を北へ向かいます。このあたりは江戸時代に藩邸街だったところで、一種の治外法権的な界隈でした。そのため、幕末から明治維新にかけては尊皇攘夷派の拠点となり、四条から二条に掛けて歩くと、様々な史跡と出会う事が出来ます。これはその一つ、佐久間象山と大村益次郎の遭難碑です。
佐久間象山は幕末において最も優れた兵学者として知られ、吉田松陰、勝海舟、橋本左内、河井継之助、坂本龍馬など尊皇派、佐幕派に関わらず、多くの弟子に影響を与えています。しかし、松陰のアメリカ渡航事件に連座して蟄居を命じられ、8年間を松代で過ごしています。ようやく出ててきた頃には時代が変わってしまっており、象山の感覚は世間とずれてしまっていました。尊攘派がうごめく京都にあって、洋式の鞍を付けた馬を乗りまわしたり、天皇の彦根動座を建言したりしています。象山の言動は尊攘派に取って許しがたいものであり、暗殺の標的とするには絶好の対象でした。そして元治元年(1864年)7月11日に暗殺は実行されます。象山は三条木屋町で刺客に襲われ、馬で逃走したものの御池通を上がったこの地で別の刺客に待ち伏せされて命を落としました。暗殺者は河上彦斎と言われ、あのアニメのるろうに剣心のモデルとされる人ですね。
大村益次郎は周防国鋳銭司村の医者の出で、大阪の適塾で蘭学を学び、塾頭まで勤めています。しかし、家の事情で国元に帰り、村医として過ごします。長州藩は彼を黙殺しましたが、宇和島藩の伊達宗城に依って見いだされ、蘭学者としての才能を開花させます。その後江戸に出て幕府によって実力が認められ、講武所の教授まで出世しました。この頃、長州藩の桂小五郎と知り合い、これほどの人物が自藩の出身であったと知った小五郎の誘いによって長州藩士に復帰します。ただし、俸禄は幕府よりもはるかに少ない年25俵扶持でした。長州では兵の近代化に邁進し、第二次長州征伐の勝利に貢献しています。明治維新後は上野戦争で彰義隊を鎮圧しましたが、この過程で薩摩藩の海江田信義と対立し、恨みを買ったと言われます。戊辰戦争で官軍を指揮して勝利に導いた後は兵部省に出仕し、更なる軍の近代化を目指します。その一環として明治2年8月に京都、大阪の軍事施設を視察するために入洛し、9月3日には三条木屋町の旅館に宿泊します。翌4日にそこを襲ったのが同じ長州藩の神代直人ら8人の刺客でした。理由は益次郎が進める農兵制が士族を蔑ろにするというものでしたが、背後では海江田が糸を引いていたとも言われます。重傷を負った益次郎は約2ヶ月に渡って治療を受けましたが、手当の甲斐無く大阪府医学校病院で亡くなりました。享年45歳。
木屋町通を二条通近くまで歩いて行くと一之舟入に出ます。舟入とは高瀬川から街中に突き出た水路の事で、文字通り船を入れて荷物の上げ下ろしに使われました。方向転換をする場所でもあり、要するに運河に作られた港ですね。かつては九之舟入までありましたが、現在残っているのは一之舟入だけです。かつてあった舟入の箇所には石碑が建っていますが、私は全部はまだ見ていません。
一之舟入の前には句碑が建っています。京都俳句作家協会を設立した那須乙郎氏(1908年~1989年 )の作で「舟入りの灯影に明くる春の雪」と記されています。那須氏は昭和60年に京都文化功労者賞を受賞されていますね。
一之舟入の近くには高瀬舟が復原されています。ここに船が浮かべられたのは昭和50年頃だったかな、出来た当時は素敵な事をしてくれたと嬉しかったのを覚えています。でもその後年と共に古びてしまい、廃船の様になってしまっていたのですが、いつの間にか新しくなり、それが繰り替えされて今の船は平成25年に造られたもので三代目になる様ですね。私は来た事がありませんが、毎年秋にはここで高瀬川祭りが行われ、舞妓さんに依るお茶の接待、撮影会なとが行われるそうです。一度参加してみたいものですが、きっと相当に混むのだろうな。
高瀬川は角倉了以によって開削された運河で、当初の目的は方広寺の再建のための資材運搬でした。もう少し上流の鴨川からみそそぎ川と共に取水され、暫く河川敷を暗渠で流れた後高瀬川として分流し、角倉了以別邸跡の中を通って暗渠を潜り、ここで姿を現します。
その角倉了以別邸跡は道を挟んだ反対側に見る事が来ます。巨石が積まれた偉容な壁が目印で、現在はがんこの高瀬川二条苑になっています。庭園は山県有朋の第二無隣庵だった当時のもので、小川治平衛による作庭です。以前入った事がありますが、木々に覆われた中に小川が流れており、素敵な空間でした。この小川が高瀬川の源流なのですね。
高瀬川はここからずっと市街地を南に流れていきますが、東九条のあたりで一度鴨川に合流し、対岸に渡って東高瀬川となり三栖浜で宇治川に繋がります。ただし、現在は河川改修によって東高瀬川への入り口は無くなっています。
ちよっと判らないのが高瀬舟は川を遡る時は人力で引っ張っていたのですが、鴨川を渡る時にはどうしていたのでしょうね。まさか川の中に入って引っ張っていたとか、うーん、想像が付かないです。沢山の船が通っていたのですから、普遍的なやり方があったのでしょうけどね。
運河として重宝された高瀬川でしたが、琵琶湖疎水が出来るとその役割を終える事になります。埋め立てるという計画もあったようですが、地元住民の反対に依って残され、現在は普通河川として管理されています。特に五条から二条にかけては桜の名所として市民に親しまれています。高瀬川の流れる木屋町通は、歓楽街であると同時に歴史と水と緑に親しむことが出来る素敵な道です。
« 京都・洛中 百日紅2024 ~京都御苑 九条池 8.28~ | トップページ | 京都・洛中 洛中散策2024 ~善導寺 9.4~ »
「洛中」カテゴリの記事
- 京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~梨木神社 9.30~(2024.10.07)
- 京都・洛中 彼岸花2024 ~相国寺 9.30~(2024.10.09)
- 京都・洛中 彼岸花2024 ~京都御苑 凝華洞跡 9.30~(2024.10.08)
- 京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~幸神社 9.30~(2024.10.06)
- 京都・洛中 リコリス2024 ~平野神社 9.19~(2024.09.27)
« 京都・洛中 百日紅2024 ~京都御苑 九条池 8.28~ | トップページ | 京都・洛中 洛中散策2024 ~善導寺 9.4~ »
コメント