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2024年9月

2024年9月30日 (月)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~寂光院 9.24~

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大原女の小径の西の終点が寂光院。建礼門院ゆかりの寺として有名です。

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創建は古く、寺伝に依れば推古天皇2年(594年)に聖徳太子が開基となり、父の用明天皇のために建てたとあります。初代住職は太子の乳母であった玉媛照姫で、当初の寺名は名にちなんだ玉泉寺でした。パンフレットには、以来代々高貴な姫が住職を務めてきたとありますが、詳細は判らないらしく、第二代住職をおよそ500年後の人、阿波内侍としています。このあたりの割り切り方は豪快という気がしますね。

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阿波内侍は信西の娘にして崇徳天皇の寵姫で、後に建礼門院に女房として仕えたとパンフレットにあります。でも少し調べると色々とややこしい人物で、まず信西の娘ではなく孫とする説がありますね。安井金比羅宮のホームページには、崇徳天皇が金比羅宮の地にあった藤寺に殿舎を整えてそこに住まわせ、1164年に天皇が崩御された後は御尊影を観音堂に祀ったとあります。また、天皇の御遺髪を譲り受けて塚を築き、霊を慰めたとも伝えられ、その塚の跡は崇徳天皇廟として受け継がれています。阿波内侍はその後出家し、1165年に寂光院に入ったとされますが、建礼門院が生まれたのは崇徳帝が讃岐に流された翌年の事で、内侍が出家した時は10歳、平清盛に請われて幼少の娘の守り役として仕える傍ら、崇徳帝の慰霊をしていたのでしょうか。なんだかしっくり来ないですね。

これとは別に醍醐に一言寺という寺があるのですが、そこでは建礼門院に仕えていた阿波内侍が出家して、清水寺の観音様の夢告により開基となったとあります。ただ、そうすると寂光院の住持を務めながら一言寺を建てた事になりますね。でもなぜとても離れた場所に、二つの寺を持つ必要があったのかしらん。さらには系図に記されていないため実在が確認されないという説まであり、どうにも謎の多い人物です。どこから建礼門院や寂光院に繋がるのか理解に苦しむのですが、ここでは寂光院の寺伝を信じて、壇ノ浦で図らずも生き延びてしまった建礼門院が旧知の阿波内侍を頼って寂光院を訪れ、第三代住持となり阿波内侍に看取られて亡くなったとしておきます。

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建礼門院を迎えた阿波内侍は住持の座を譲り、自らは柴刈りや山菜採りなど山仕事に従事し、門院の身の回りの世話をしたと言います。その時の山仕事の衣装が後の大原女のモデルとなったと伝わります。かつて天皇の寵姫だった人が里人の様にして生きたというのは、哀れと言うよりたくましさを感じますね。

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建礼門院の最期は良く判っていませんが、一説には妹によって京に引き取られて岡崎の法勝寺辺りに暮らしたのではないかと言われています。しかし、寂光院では終生をこの寺で暮らしたと伝わっており、陵墓もすぐ隣に築かれていますね。

門院が暮らした庵の跡は本堂から道を隔てた西にあり、今は更地に石碑だけが建っています。敷地はごく狭く、当時の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」と描写されていますから、本当に山の中の庵だったのでしょう。敷地の脇には井戸の遺構が残っており、今でも水が溜まっています。

平家物語「灌頂巻」では後白河法皇がお忍びで女院に会いに来る、いわゆる大原御幸が描かれています。史実かどうかについては見解が分かれていますが、ここで女院と法皇が語らったかと思うと感慨深いものがありまかね。ただ、宝物殿にこの時の絵巻が展示されていますが、お忍びと言いながら数人の公卿のほか大勢の警護の武士達が居て、とても微行という感じでは無く、落ちぶれた女院を見物に来たという具合にしか見えません。女院が気の毒に見えてしまうのは私だけでしょうか。

寂光院は小さな寺ですが、こぢんまりとした様が山里に相応しいとも言え、それでいてどこか雅さも兼ね備えた素敵なお寺です。

2024年9月29日 (日)

京都・洛北 大原逍遙2024 ~大原女の小径 9.24~

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令和6年9月24日、ようやく秋めいてきた大原の里を坂策してきました。まずまずの好天で、昼近くになると暑くなってきましたが、空気は爽やかで気持ちのよい散策となりました。

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一番の目的は彼岸花だったのですが、今年はどうもおかしいですね。ほとんど咲いていないのですよ。行くのが早すぎたのかもしれませんが、地面から出ている花芽も見当たらなかったです。この翌日に行った嵯峨野でも同じで、これほど咲いていないのは初めてでした。もしかしたら今頃咲いているのかもしれませんが異常であることには変わりなく、今年の猛暑が影響した亊は確かだと思われます。

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彼岸花は残念でしたが、山里の秋の風情は感じる亊ができました。このキバナコスモスやススキなど、秋らしい草花が良い味を出していましたね。ただ、普通のコスモスがほとんど無くなっているのが寂しかったです。以前はコスモス畑なんていうのもあったのですけどね、育てる人が居なくなってしまったのかな。

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大原女の小径は寂光院から三千院まで続く道。特に寂光院側は山里らしい風情に溢れていますね。最近の夏は暑過ぎて歩く気がしませんが、春、秋、冬はそれぞれの季節が感じられる素敵な道です。

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バスターミナルから三千院側は土産物店が並び、山里という雰囲気ではありません。唯一、赤紫蘇畑のあたりにだけ野の雰囲気がありますね。また、大原女の道から逸れて展望台の方に行くと、見晴らしの良いところに出ますよ。

この先には三千院、宝泉院といった人気スポットがあります。そのぶん人も多いですけどね。大原女の小径は山里と観光スポットを結ぶ素敵な散策路です。

2024年9月28日 (土)

京都・洛東 萩を訪ねて2024 ~常林寺 9.19~

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この日最後に回ったのは常林寺です。ネットで開門時間が九時なので、一番後に回したのでした。でも実際にはもっと早い時間から開いている様ですね。

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去年は一体どうしたのかと思うくらい株が成長せず、当然花もさっぱりだっのたりですが、今年は見事に蘇り、花もまずまず咲いていました。

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全体としては五分咲き程度、部分的には八分程度まで咲いていましたね。盛りにまではもう少し、たぶん連休頃が見頃だったんじゃないかな。

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今日あたりは盛りが過ぎているでしょうけど、まだ名残の花が残っていると思います。

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ここも彼岸花の花芽が伸びていましたね。萩とのコラボはもう無理でしょうけど、本堂裏ではまだ咲いていると思われます。少し裏手に回って見てみるのも良いかもしれませんよ。

2024年9月27日 (金)

京都・洛中 リコリス2024 ~平野神社 9.19~

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大聖寺門跡から平野神社に来ました。桜の時分は賑わう神社ですが、この時期は静かなものです。

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この神社は桜だけではなく、様々な花が植えられている花の神社です。秋は彼岸花が見事なのですが、その少し前にはリコリスが咲き乱れます。

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リコリスは桜苑の方にもありますが、この日は既に終わっており、境内の外の歩道沿いで咲いていました。

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リコリスはヒガンバナ科に属する植物の総称。様々な種類がありますが、彼岸花もまたその一種です。このリコリスは多分園芸品種なのでしょう。色は違いますが、花の形はそっくりですね。

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この花が終わったら赤い彼岸花の出番です。まだ花芽は出てなかったですが、今頃は盛りを迎えている頃かな。ただ、雑草が茂っていたのであまり綺麗に見えないかも、です。草刈りをしておいてくれると有り難いのですが、ちょっと無理な注文かな。

2024年9月26日 (木)

京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~大聖寺門跡 9.19~

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本満寺から大聖寺門跡に来ました。大聖寺は同志社大学の西向かいにある尼門跡寺院です。

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ここは室町幕府の花の御所があった場所であり、大聖寺も御所の中の一殿、岡松殿を寺としたものでした。その後寺域は戦乱や火災によって転々とし、現在地に戻ってきたのは元禄10年(1673年)の事でした。

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非公開の寺ですが、山門内に入る事は許されており、前庭に植わった10数本の萩を見る事が出来ます。

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 この日はおよそ五分咲き程度で、未だ盛りとは言えませんでしたが、それなりに綺麗でした。今頃は盛りに成っている頃かな。

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大聖寺門跡は隠れた萩の名所です。学生で賑わう場所にありますが、寺を訪れる人は少なく、静かに萩を楽しむ事が出来ますよ。

2024年9月25日 (水)

京都・洛中 萩を訪ねて2024 ~本満寺 9.19~

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真如堂から本満寺に来ました。枝垂れ桜で有名なこの寺ですが、この季節には萩も見る事が出来ます。

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場所は本堂の横の植え込みの中です。分かり難い場所なので、注意していないと見落としてしまうかも知れませんね。

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この日はまだ見頃と言うには早かったですが、もうそろそろ咲き揃っている頃かな。結構立派な株で、満開になるとなかなか綺麗です。恐らく気付いている人はほぼ居ないと思われ、萩としては穴場中の穴場だと思いますよ。

2024年9月24日 (火)

京都・洛東 萩を訪ねて2024 ~真如堂 9.19~

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令和6年9月19日、萩を求めて名所を巡ってきました。まず訪れたのは真如堂、ここは名所とは言われませんが萩は多く、早く咲く株もあるので来てみたのです。

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真如堂に着いたのは七時過ぎ、昼近くになると暑すぎて動く気にならないので早朝にやってきたのでした。それでも既に汗はかいていましたけどね。気温は高いけれど、空の色と朝の光には秋の風情を感じます。

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萩はほんの少しだけ咲いていました。例年ならもう少し咲いている頃なのですけどね、今年はかな遅れ気味の様でした。

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この様子だと何時来れば良いか判断に迷いますね。先週の段階では今週は雨が続く予報でしたが、今日見るとうって変わって晴天続きです。長期予報は全くあてになりませんね。でもこれで花も長続きしてくれる事でしょう。

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萩は遅かったてすが、彼岸花は少しフライング気味に咲いていました。猛暑が与える影響も、植物によって違うのが面白いですね。ただこの彼岸花も、この日回った範囲では花芽が全く出ていないとこも結構あり、一律同じではなかったです。毎年の事ではありますが、いつどこに行くかは本当に迷いますね。

2024年9月23日 (月)

京都・洛南 宇治逍遙2024 ~宇治公園 9.10~

能登地方で豪雨災害がありました。1月の震災が復興の緒についたところでの水害、あまりの事に掛ける言葉もありませんが、なんとか挫けずに前に進んでいただきたいです。能登の方々には心よりお見舞い申し上げます。

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宇治神社から中の島にかけての一帯は公園として整備されています。正確には宇治神社の前の道はあさぎり緑地という宇治市が管理する公園、朝霧橋から中の島、橘橋にかけては京都府が宇治公園として管理しています。宇治川を挟んで平等院から宇治上神社、興聖寺とぐるっと回る事が出来、春は桜、夏は鵜飼い、秋は紅葉と一年中楽しむ事が出来る界隈ですね。

源氏物語ゆかりの地でもあり、宇治十帖の古蹟を求めて訪れる人も多いです。これは朝霧緑地に置かれた匂宮と夕霧の像。二人が小舟に乗って橘の小島に渡る場面ですね。朝霧橋の赤い欄干とあいまって、風情のある光景です。

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これは宇治発電所の放流口に架かる観流橋。本来無機質な発電所に赤い橋を架けて名所の一つにしてしまうというのは、なかなか素敵な発想ですね。この橋の手前に恵心院、向こう側に興聖寺があります。

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中の島は塔の島と橘島からなり、中島橋で繋がっています。塔の島は橋寺で紹介したように、宇治橋を再建した叡尊によって弘安九年(1286年)に築かれた人工島で、殺生禁断の思想に基づき網代や漁具を埋めた上に十三重石塔が建てられ、魚霊の供養と橋の安全が祈願されています。石塔は宇治川の氾濫により何度も倒れましたが、塔の島は浸食されつつも消えずに残りました。激流で知られた宇治川にあって、奇跡的とも思えますね。石塔は現存する近世以前のものとしては最大で、重要文化財に指定されています。

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朝霧橋は橘島と宇治神社を繋ぐ橋で、昭和47年(1972年)に架けられました。赤い欄干が美しい、風情のある橋ですね。橘橋を通じて平等院に繋がっており、宇治観光には欠かせない橋となっています。

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宇治川は平安京を守る南部の要衝です。都を守る者と攻める者の間で、幾度となく戦いが繰り広げられてきました。平家打倒の兵を挙げた以仁王と源義政が平家軍と戦った橋合戦、木曽義仲と源義経が争った宇治川の戦い、承久の乱で朝廷軍と争った北条泰時など歴史の節目となった戦がここで起こっています。橘島には源氏同士が争った宇治川の戦いで、佐々木髙綱と梶原景季が先陣を争った事を記す記念碑があります。いずれの戦いも宇治橋を中心に繰り広げられており、歴史好きには外せない場所ですね。

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宇治橋の西詰に夢の浮橋広場があります。公衆トイレも備えた小さな公園で、ここには宇治十帖の最後の帖「夢の浮橋」の古蹟の碑があります。正直言ってなぜここが古蹟になるのか判らないのですが、宇治橋を実在しない浮橋になぞらえたのでしょうか。その背後には紫式部の像があります。宇治橋を背景にして、とても絵になる像ですね。

宇治公園は平等院のある左岸と宇治上神社などがある右岸を結ぶ素敵な公園です。平等院こそ賑やかですが、ほかはとても静かなところばかり。川の瀬音を聞きながら名所旧跡を巡ると、あっという間に一日が過ぎていきますよ。

2024年9月22日 (日)

京都・洛南 宇治逍遙2024 ~橋姫神社と橋姫伝説 9.10~

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宇治橋西詰から平等院に向かう賑やかな参道では無く、縣神社方面に向かう府道を歩いて行くと、左手に小さな神社がひっそりと佇んでいます。ここが橋姫神社、宇治橋を守る神様を祀る社です。

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境内はごく狭く、2つの社が建てられています。左が瀬織津比咩(せおりつひめ)を祀る橋姫社、右が住吉明神を祀る住吉社です。

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大化2年(646年)に宇治橋が架けられた時、瀬織津比咩は橋の守り神とするため上流の櫻谷から勧請され、宇治橋の三の間に祀られました。後に宇治橋の西詰に移されましたが、明治3年(1870年)の洪水で流され、明治39年(1906年)に現在地に再建されました。

この三の間は豊臣秀吉が茶会のために水を汲み上げさせた場所ともされており、10月に開かれる茶祭りの際に名水汲み上げの儀が行われて、汲み上げられた水は興聖寺に運ばれるとの事です。

ここまでが橋姫神社の表の顔なのですが、もう一つ縁切りの神社という顔があります。それか橋姫伝説。平家物語の異本、源平盛衰記に記されている説話で、嵯峨天皇の御代、新しい女が出来た夫に捨てられた高貴な姫が嫉妬に狂い、貴船神社に七日間籠もります。そして殺したい女が居る、どうか私を鬼に変えて下さいと願うと貴船明神が現れ、姿を変えて37日間宇治川に浸かれと告げました。姫は言われたとおり髪を五つにわけて角とし、頭に逆さに金輪を被って三本の松明を灯し、さらに全身を朱に染めて口にも松明を咥えて宇治川に至り、37日間川に浸かりました。すると願い通り鬼となり、憎い夫と女、それに係累の人々をこどごとく殺してしまいました。

この時、宇治川に走った橋姫の姿が、後の丑の刻参りの原型になったと言われています。

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この姫が宇治の橋姫と呼ばれ、いつしか瀬織津比咩と同一視されるようになり、縁切りの神様とされる様になったのですね。説話のせいで鬼と一緒にされるとは何とも酷い話だと思いますが、今でも橋姫神社はパワースポットとされ、悪縁を切りたい人が訪れているそうです。なおこの橋姫は以前に紹介した法雲寺の菊野大明神にも関わりがあり、ご神体の石が橋姫が貴船神社に行くときに腰掛けた石とも伝えられています。

この説話は鎌倉時代に成立した話ですが、平安時代には橋姫はむしろ愛らしい女性とされていました。源氏物語の宇治十帖の始まりは「橋姫」。大姫に惹かれた薫が贈った歌「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる 」にちなみます。源平盛衰記の作者が、なぜたおやかな女性を鬼に変えたのかは判りませんが、一説には橋を守る神は女性であり、嫉妬深いと考えられていたからだとも言われます。

縁切りの神様としてお参りするも良し、源氏物語の縁の地として訪れるも良し、二つの顔を持つのが橋姫神社です。

(Ctrlキーを押しながらスクロールして地図を少しズームして下さい。橋姫神社の表示が現れます。)

2024年9月21日 (土)

京都・洛南 宇治逍遙2024 ~興聖寺 9.10~

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宇治神社を出て川沿いを上流に向かって歩くと、宇治発電所の放流口に架かる観流橋があります。橋の上から見る囂々と渦巻く放流水は、なかなか見応えがありますよ。その橋を過ぎて少し行くと左手に石造りの山門があり、興聖寺と書いた石柱が立っています。山門を潜ると琴坂と呼ばれる長い参道になっており、やがて正面に白い竜宮門が見えてきます。ここが道元禅師が最初に開いたとされる曹洞宗最古の修行道場です。

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興聖寺が創建されたのは貞永2年(1233年)の事で、当初は京都の深草の地にありました。しかし、寛元元年(1243年)に延暦寺の弾圧を受けて道元禅師は越前国に下向、以後興聖寺は荒廃して住持四代にして廃絶してしまいます。

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時代は下って江戸時代に入り、慶安元年(1648年)に淀藩主の永井尚政が万安英種禅師を招聘し、宇治旭茶園の地に再興しました。

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この寺には初めて来たので受付で撮影について確認したのですが、どこを撮っても良いとの事でした。撮影禁止になる社寺が増える中、ここは太っ腹ですね。仏像まで良いとは萬福寺と並んで何とも有り難い事です。

ここは老梅庵と呼ばれる開山堂です。御簾の向こうに隠れていますが、道元禅師の像が置かれています。老梅庵の名は禅師が梅を好まれた事から付けられたとの事です。

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法堂は伏見城から移築され、仏殿として改裝されたものです。天井は伏見城の戦いで切腹して果てた鳥居元忠達の血痕が染みついている床板を張った血天井です。京都に九つあるうちの一つで、こうして死者の霊を供養しているのですね。

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この像は僧堂に祀られている、正面に大黒天、右側に毘沙門天、左側に弁財天の三つの顔を持つ三面大黒尊天です。かつて伝教大師が延暦寺を開かれた時、大黒天が現れて守護を誓われましたが、大師がさらに比叡山三千坊の守護をお願いしたいとさらに祈られると、三天合体の姿に変化されたと伝わるとの事です。豊臣秀吉が念持仏とし、関白にまで出世した事でも有名ですね。

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僧堂は修行僧が座禅をするほか、寝起き、食事をする生活の基本となる場所。自由な興聖寺もここは立ち入り禁止でした。正面に祀られているのは文殊菩薩像。乗られている獅子の顔は左にある像が多いのですが、ここでは右側にあるのが特徴だそうです。

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宝物殿は白い扉を開けて入る事になります。中には聖観音菩薩立像が安置されていました。この観音様は宇治十帖の古跡の一つ、手習いの社に祀られていた事から手習観音とも呼ばれるとの事です。

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庭園には石の相輪と笠石があります。これは橋寺の叡尊が中の島に建てた十三輪塔の一部で、宇治川の氾濫で倒壊した後、長く地中に埋まっていたものです。十三輪塔は明治41年に発掘されて再建されたのですが、その時にはこの笠石と相輪は見つからなかったために新造されました。その後別の場所で発見されたのですが、取り替える訳にも行かなかったので、興聖寺に移されて保管されているとの事です。

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興聖寺は紅葉の名所で秋は賑わう様ですが、この日は拝観者はほとんど居なくて静かなものでした。見所も多く、穴場と言っても良い寺でしょうね。お寺の方の対応も親切で好感が持てます。宇治に行かれる事があれば立ち寄られる事をお勧めします。

2024年9月20日 (金)

京都・洛南 宇治逍遙2024 ~宇治上神社 9.10~

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宇治神社のすぐ北隣に宇治上神社があります。元々これらの神社は一つだったのですが、明治維新の時に二つに分かれてしまいました。理由は調べてみましたが、残念ながら判りません。お寺と神社なら神仏分離令のせいで良くある話しですが、神社同士というのは珍しいですね。

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元が一つの神社なので起原も同じです。ただ御祭神は菟道稚郎子命のほか仁徳天皇と応神天皇をお祀りしているのが違いますね。

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宇治上神社には見返り兔の伝説はありませんが、兔に縁がある事は変わらず、お守り、おみくじ、朱印帳などは全て兔がモチーフになっています。なお、こちらのホームベージには、菟道の地名が先にあり、御祭神の名は地名にちなんだと記されています。

写真は拝殿で、鎌倉前期の建築です。寝殿造の遺構と言われ、国宝に指定されています。また宇治上神社は世界遺産に指定されていますが、宇治神社は外されています。兄弟とも言える関係なのに明暗が分かれたのは、国宝があるか無いかの違いからなのでした。

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こちらは桐原水の建屋。桐原水は室町時代に定められた宇治七名水の一つで、唯一現存する湧水です。ただし、名水と言ってもそのまま飲む事は出来ず、一度煮沸しないといけない様ですね。

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そして神社建築としては最古と言われる本殿です。2004年に学術調査が行われ、1060年頃の建築と確認されました。内部に三棟の内殿があり、左殿に莵道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿に仁徳天皇がそれぞれ祀られています。拝殿同様この本殿も国宝に指定されています。

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宇治神社と宇治上神社は源氏物語にも縁りがあります。宇治十帖のヒロインたち、大君、中君、浮舟の父であり、光源氏の異母弟でもある八の宮は御祭神の菟道稚郎子命がモデルではないかとされ、重要な舞台となる八の宮の山荘はこの神社のあたりに設定されていると言われます。時代は下がりますが宇治上神社の拝殿は寝殿造であり、物語の世界に思いを馳せるには良い場所かも知れませんね。

2024年9月19日 (木)

京都・洛東・洛中 萩開花速報2024 9.19

令和6年9月19日現在の萩開花情報をお届けします。今年は萩の開花が遅れていると言われていますが、確かに例年よりは遅い感じですね。盛りはたぶん連休の頃だと思われますが、あいにくの雨予報です。とんなぐあいになるかは天気次第ですね。

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常林寺(2024.9.19)

・真如堂 山門前と茶所前で少し咲いている程度で、全体としてはまだまだです。ここは例年遅いですが、今年は更に遅れそうです。また、彼岸花が一輪、二輪と咲いていました。これちらはいつもより早い感じですね。

・迎称寺 枝は茂っていますが、花は全く見えません。ここも例年遅い傾向にありますが、今年はそれ以上かも、ですね。

・大聖寺門跡 ここは五分咲き程度でした。まだ綺麗とまでは言えませんが、それなりに見られられます。

・幸神社 ここは数輪が咲いている程度でした。もう少し咲いているかと思っていたのですが、期待外れでした。見頃は何時だろう、多分来週の半ば以降かな。

・本満寺 本堂横の萩が五分咲き程度になっています。植え込みの中に埋もれている感じであまり目立ちませんが、満開になったらそれなりに綺麗ですよ。ただ、雨で散ってしまいそうなので、そこが気がかりです。

・平野神社 ここは萩はありませんが、外の歩道沿いでリコリスが咲いています。少し数が減っている気がしますが、とても綺麗な花を見る事が出来ます。

・常林寺 去年は全く駄目でしたが、今年は見事に復活しています。咲き方は五分から八分程度。部分的にはかなり綺麗です。連休頃に盛りになりそうですが、やはり雨が気がかりですね。

京都・洛南 宇治逍遙2024 ~宇治神社 9.10~

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橋寺から宇治川を遡るとやがて宇治神社に出会います。非常に古い起原を持つ神社で、仁徳天皇の弟である菟道稚郎子命を御祭神とし、313年5月に創建されたとされています。

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社伝では父である応神天皇から皇位継承者として指名されていた菟道稚郎子命が、兄である仁徳天皇に譲るためこの地で命を絶ち、そのことを悲しんだ仁徳帝が神として祀ったとされます。

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このあたりは神話の世界ですが、とても古い神社である事は確かですね。ちなみに菟道とは「とどう」と読みますが、「うじ」という読み方もあります。つまり宇治の地名の起こりは菟道稚郎子命にあるという説があるのですね。ただし、日本書紀にさらに古い時代に莵道河(宇治川)という記載があって、地名の方が先にあり、名前の方が地名を冠したという説もあります。

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菟道稚郎子命は河内からこの地に移って宮を造ったとされるのですが、その途中で道に迷い途方に暮れていると、どこからともなく一羽の兔が現れて振り返り振り返りしながら命を正しい場所に案内したとされます。

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この神話に現れる兔をみかえり菟と呼び、人々を正しい道に導く神の使いとして伝わっています。この事から宇治神社はうさぎの神社として知られ、手水舎、おみくじ、絵馬に使われているほか兔の像がそこかしこにあり、特に絵馬を奉納した後本殿回りにある3体の兔を見つけると願いが叶うとされています。

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この時は知らなかったのですが、境内にはパワースポットがあるそうですね。特にどういう御利益があるのかは記されていませんが、自然の力を感じ取れる場所なのだそうです。今度行ったら探してみようかな。

宇治神社はうさぎ年だった去年はたいそう賑わったそうですが、この日は観光客はほとんどおらず、静かな地域の産土神という風情でした。平等院は常に観光客でいっぱいですが、対岸の宇治神社は静かなものです。朝霞橋を渡るとすぐ正面ですので、喧噪に疲れたら兔に会いに立ち寄られると良いですよ。

2024年9月18日 (水)

京都・洛南 宇治逍遙2024 ~橋寺・放生院 9.10~

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木幡から宇治に来ました。この日は宇治橋周辺を歩く予定です。まず訪れたのが橋寺、宇治橋のすぐ近くにある古い寺です。

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橋寺の正式名称は放生院と言い。推古天皇12年(604年)に、聖徳太子の命を受けた泰河勝が宇治橋を架橋した際にこの寺も開創されたとされます。又は元興寺の僧・道澄によって大化2年(646年)宇治橋が架けられたとき、橋の管理のために建てられたという異説あもります。

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堂澄によって宇治川が架けられたという説は、ここに納められている宇治橋断碑に基づきます。江戸時代に境内(宇治川河畔とも)で発見された石碑で、宇治橋の起原につて記されています。見つかったのは三分の一程度でしたが、帝王編年記に全文が記されていたため補完されました。重要文化財に指定されており、拝観する事も可能です。

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その後寺は荒廃してしまった様ですが、広安4年(1281年)に西大寺の僧・叡尊によって再興され、さらに叡尊は公安9年(1286年)には宇治橋を再興し、後宇多天皇より宇治橋の管理を行う様に命じられて橋寺と呼ばれる様になりました。その際に塔の島を築いて浮島十三輪塔を建立し、この寺でおおがかりな放生会を行っています。この放生会が放生院の名の元になったとも言われます。

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宇治橋は南都と平安京を結ぶ重要な橋。その橋を守る寺なのですからもっと知られても良いて思うのですが、あまり訪れる人は居ない様ですね。この日も私の他に宇治川沿いを歩く観光客は何人か居ましたが、この寺に入ったのは私だけでした。

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境内には橋かけ観音様がありました。恋のはしかけ、極楽のはかけ、合格のはしかけとあり、宇治橋の架橋にかけて様々な縁結びの御利益があるのですね。

なお、橋寺の宗派は真言律宗という、少し聞き慣れない名ですね。鎌倉仏教の一つとして叡尊によって始められた宗派で、真言宗と律宗の融合を目指しているのだとか。西大寺を本山とし、全国に90数ヶ寺の末寺があるそうです。奈良が中心で、京都の有名どころでは浄瑠璃寺や岩船寺が含まれるとの事です。京都にだけ籠もっていては、まだまだ知らない世界があるのですね。

2024年9月17日 (火)

京都・洛南 藤原道長・藤原氏一族の墓 ~宇治陵~

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藤原兼家、道隆、道長らが眠るという宇治陵を訪れて来ました。宇治陵は宇治川の東北、宇治市木幡にあり、南北1.8km、東西0.9kmに及ぶ広大な墓域の事を指します。大小360基もの墳墓があったとされ、これらの中には前方後円墳なども含まれており、古くからの送葬の地であったと考えられます。藤原北家がこの地を埋葬の地としたのは基経の時で、元慶年間(877年-885年)から長寛2年(1164年)に藤原忠通が月輪に葬られるまで続きました。それ以後は五摂家に分裂した事もあり、次第に顧みられなくなり次第に荒廃しました。元々、鳥辺野などで火葬に付された後、遺骨をこの地に運んで埋め、小さな盛り土をした程度のものであり、管理されなくなった後は土に埋もれてしまったと言います。

ここに葬られたのは北家の一門のほか、藤原家から天皇に入内した女性達も含まれます。このため明治になると宮内庁による調査が行われ、37基を陵墓と認定しましたが、誰のものかまでは特定出来ず、番号だけが付られています。そして一号陵が総遙拝所とされました。

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総拝所に掲げられているのは次の20名です。皇后温子(宇多天皇中宮)、皇后穏子(醍醐天皇皇后)、皇后安子(村上天皇皇后)、皇后遵子(円融天皇皇后)、皇后媓子(円融天皇皇后)、贈皇太后懐子(花山天皇御母)、尊称皇太后詮子(一条天皇御母)、皇后彰子(一条天皇皇后)、贈皇太后超子(三条天皇御母)、皇后媙子(三条天皇皇后)、皇后妍子(三条天皇皇后)、皇后威子(後一条天皇皇后)、贈皇太后嬉子(後冷泉天皇御母)、皇后寛子(後冷泉天皇皇后)、皇后歓子(後冷泉天皇皇后)、贈皇太后茂子(白河天皇御母)、贈皇太后苡子(鳥羽天皇御母)敦実親王墓(宇多天皇皇子)、敦道親王墓(冷泉天皇皇子)、准后藤原生子墓(朱雀天皇女御)。ただし、実際の陵墓がどこにあるかは判っていません。

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こちらは総遙拝所の前にある藤原氏塋域、ここが藤原氏の墓域であるという石碑ですね。ここに記されているのは閑院贈太政大臣冬嗣、昭宣公関白基経、本院贈太政大臣時平、法興院摂政兼家、南院関白道隆、法成寺関白道長、宇治関白頼通、後宇治関白師實です。どれも歴史上名の知れた人で、平安時代に舞い戻った様な気分になりました。

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宇治陵を調べていた時に見つけたのがこの地図。回る順番まで書いてあって、これならそれほど苦労しなくても良いかなと思いました。しかし、甘かったですね。まず思っていた以上に広いです。次にこの地図はかなり簡略化されていて、これだけで回るのは無理でした。そして何より、現地が全くの住宅街なのですね。宅地化が進んでいるとは知っていましたがそれ以上で、隙間が無いほど家が建て込んでいるのでした。こんなところに本当に陵墓があるのかなと言うのが正直な感想でしたね。

総遙拝所の次に訪れたのが浄妙寺跡、道長が寛弘二年(1005年)に建てた一族を供養する為の寺です。説明板に依れば、若い頃父の兼家に連れられて木幡を訪れた道長が、その荒廃ぶりにこころを痛め、もし高位に登ったら一堂を建てて三昧を納めようと思ったとあります。当時は藤原家全盛の時代ですが、その頃からすでに荒れていたのですね。兼家やその兄の兼通は手入れをしようとは思わなかったのかしらん。

御堂関白記に依ればこの寺の場所を決めたのは安倍清明で、道長は建設中の三昧堂を検分するため、何度となく訪れています。最初に法華三昧堂が建てられ、次いで二年後に多宝塔が造られました。道長はこの多宝塔建築時にも検分に訪れており、わざわざ「感動した」と記していますから、相当に見事なものだったのでしょう。他には鐘楼、僧坊、南門などが建てられました。妙教寺は平等院と並ぶ藤原家にって大切な寺でしたが、鎌倉時代になると別当が聖護院宮に移り、次第に衰退していきます。そして、寛正三年(1462年)に一揆の放火に遭い、廃絶してしました。

跡地は宇治市立木幡小学校になっており、昭和37年に建設に先立ち発掘調査が行われ、良好に遺構が残っている事が判りました。小学校の建設に当たっては遺構部分をグラウンドにして、保存に努めているとの事です。

私事ですが、この日訪れたのは丁度登校時間に当たっており、ちょっとまずいなと思っていました。なぜって、小学生が歩いている中でカメラを持っていると、不審者扱いされかねないからですよ。どうしようかと思いながらとりあえず行って見ると、校門の脇に浄妙寺跡の説明板が立っており、ほっとしました。子供たちが写らない様にして説明板だけを撮ったのが上の写真です。

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浄妙寺跡からは陵墓を探して歩く事にします。本当は大回りをして沢山の陵墓を見るつもりだったのですが、思っていた以上に広く、かつ朝からとても暑かったので長い時間歩く気になれず、中心部にある32号墳と33号墳だけに絞ることにしました。頼りは例の地図ですが、実際に歩いてみるとあまり役に立たず、スマホの地図と見比べながらやっとたどり着いたのでした。本当に住宅街の中に突然現れた小さな緑地という感じです。

これが32号墳で、道長の墓ではないかと推測されている塚です。息子の頼通が道長の墓を参拝したときに、浄妙寺の南大門を出て東に行ったという記録があり、一番近いのがこの塚という訳ですね。でも、浄妙寺から見ると東では無く南になるのですけどね、そのあたりどうなんでしょう。また、この付近から青磁の水指しが出土しており、道長の骨壺か遺愛の品かと言われています。果たしてこれが道長の墓なのかどうか興味は尽きませんが、あれほどの権勢を振るった人の墓にしては意外なほど小さいなと言う印象です。

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こちらは道を挟んだ33号墳、これも位置的に道長の墓の可能性はあるのですが、伝承として藤原基房の娘の墓と言われており、今のところ候補からは外れています。

それにしてもと思うのですが、なぜ住宅街になる前に一帯を史跡指定をして保存しなかったのでしょうね。史跡とするにはあまりにも荒れ果てていたという事なのかしらん。歴史上重要な場所なのに、現状は悲しすぎる気がします。

2024年9月16日 (月)

京都・洛東 東三条院離宮跡・元真如堂 ~換骨堂・日吉神社 2024.9.5~

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以前放映された光る君へ紀行で、東三条院の離宮跡があると知り、訪ねてみる事にしました。ここは元真如堂と言い、現在は換骨堂と呼ばれています。

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真如堂のホームページに依れば、延暦寺の僧戒算上人が夢のお告げを受け、慈覚大師が彫ったという阿弥陀如来を、東三条院の離宮に移した事が始まりとあります。そこでは現在の場所が離宮だった様に書かれていますが、ここは真如堂がある丘の下、厳密には違う場所にあったという事になりますね。

入り口にあった説明板に依ると、東三条院が夢告を受け、正暦三年(994年)に延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を遷座し、戒算上人を開山として真如堂を開いたとありますね。真如堂は応仁の乱で荒廃し以後寺域を転々としますが、元禄六年(1693年)に当地の西南に再建され、ここには念仏堂と呼ばれた小堂が残されました。その後、天保元年(1830年)の天保京都大地震により倒壊しますが、同十三年(1843年)に尼僧黙旨が尼衆の請いに応じて再興しました。この時に曹洞宗に改宗して永代尼僧の寺となり、案内板には書いてないですが、寺名を換骨堂と改めた様ですね。なお、換骨とは凡骨を取り去って仙骨に換えるという意味で、平たく言えば悟りを開くという事なのだとか。

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本堂の裏には東三条院の供養塔があります。真如堂は東三条院と縁が深い割りに何も無いなと思っていたのですが、ここに祀られていたのでした。この供養塔が建てられたのは念仏堂が出来た頃らしく、それ以前は真如堂と共に転々としていたのでしょうか。なお、東三条院の墓は宇治陵にあります。

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換骨堂の隣に日吉神社があります。この神社、石柱には日吉神社とあるのですが、駒札には小さく京と付いており、さらにホームページでは浄土寺日吉神社と書かれています。日吉神社と名の付く神社は日本全国に沢山あるので区別したいのでしょうけど、なんともややこしいですね。ここでは正式名称と思われる日吉神社で通す事とします。

なお、前後しますが、換骨堂はこの右手の生け垣の中にあり、生け垣のわずかな切れ目が入り口です。何の案内も無いので初めて行くとなかなか判らないと思います。かく言う私も何度も通った道ですが、これまで気付いておらず、どこから入ったものかと散々迷いました。

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日吉神社は真如堂の創建時に鎮守社として日吉大社から勧請された神社で、真如堂がこの地を離れた後もそのまま残り、吉田神社の助けも受けながら地域の氏神として祭事を行ってきました。真如堂が現在地に戻ってくると再び鎮守社となりますが、明治の神仏分離令により独立し、今に至ります。もっとも、ご神像は十禅師大明神と天之子八根命を重ね合わせた本地仏の地蔵菩薩立像を祀っているとの事ですから、今でも神仏混淆の名残を濃厚に残しているという事なのでしょうね。そしてもう一体、宝珠を持った神猿の木像をお祭りしているとの事です。

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本殿前は2体の珍しい狛猿が鎮座しています。右側の阿形の桃を持った狛猿は長寿猿で、左の吽形の狛猿は小猿を持った子守猿だそうです。御利益としては、神猿は「まさる」と読み、尚武において他に勝る、まさるは大に通じる事から子育ての神、また優るに通じる事から学問の神、さらに将るに通じる事から立身出世の神、昌に通じる事から子孫繁栄の神と多彩ですね。

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境内の奥は換骨堂と通じており、その境目は蓮華岡と呼ばれ、石窟があり岩不動が祀られているとの事です。表向きは神社として独立していても真如堂との関係は続いており、祭りの神輿は真如堂に担ぎ込まれる様ですね。

ちょっと疑問なのは換骨堂はごく小さなお寺で、かつての真如堂と言うか東三条院の離宮はどう広がっていたのかという事ですね。すぐ背後は急な岡ですし、東側には白川が流れています。北側には浄土寺があったろうし、どれくらいの広さだったのでしょうね。ネットで調べた限りでは判りませんでした。今度真如堂に行ったら聞いてみようかしらん。判る人が居ると良いのだけどな。

(地図は少しズームして下さい。真如堂換骨堂の表示が現れます。)

2024年9月15日 (日)

京都・洛中 四条烏丸界隈のランチ ~フレンチレストラン エール新町~

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桂離宮の帰りに、プチ贅沢をしてきました。阪急の烏丸駅の近くで、ランチが食べられる店として探して見つけたのがエール新町。祗園祭の船鉾町にあるフレンチ料理店です。間口は狭いですが奥行きは深い、いわゆる鰻の寝床の町家跡に出来たビルですね。

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ランチにもいくつかコースがあり、選んだのはフルコース・プリフィックスのドリンク付き。ドリンクが付いても通常のコースと同じ値段に割り引いてくれるというお値打ち品です。

まずは小さなオードブル。最初の一口からここは違うと思わせてくれる美味しさでした。

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続いてもオードブルですが、ここからは幾品から選べます。色々あって迷いましたが、この店で一番人という「海の幸のガトー仕立て」にしました。エビとサーモン、ホタテにタマネギ、ズッキーニが重層的になっているという一品で、まず見た目が面白いですね。正直どうやって食べたら良いのかと迷いましたが、結局崩してしまいました。でも味は抜群で、海鮮とタマネギがこんなに合うのかと驚きました。黄色いのはマヨネーズですが、ほんの少しなのに味わいに彩りを添えていましたね。

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スープは日によって違う様ですが、この日はジャガイモのスープでした。濃からず薄からず、優しい味わいでとても美味でした。

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メイン料理も選択制ですが、「牛フィレ肉のポワレ」を選びました。600円プラスになりますが、ミディアムレアに焼き上がっており、とても柔らかく味わい深かったです。

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特に口コミなどを確認せず、ほとんど場所だけで選んだ店でしたが、これほど美味しいとは思いませんでした。600円をプラスしたので4100円になりましたが、値段に見合う内容でした。店はほぼ満席で、結構人気のある店だったのですね。祗園祭では屋台を出しているそうなので、来年は立ち寄ってみようかなと思っています。

2024年9月14日 (土)

京都・洛西 桂離宮 2024.9.14

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令和6年9月14日、桂離宮を訪れてきました。以前から来たいと思っていたのですがなかなか機会に恵まれず、今日やっと念願が叶ったという次第です。

桂離宮は八条宮智仁親王によって建てられた別荘です。当初は桂山荘と呼ばれ、元和元年(1615年)に建設に着手し、数年の内に完成されました。この時は古書院だけが建てられたようですね。智仁親王が亡くなってからしばらくの間は荒廃してしまいましたが、二代智忠親王が前田家より妻を迎えられた事で財政的裏付けを得る事が出来て、中書院を始めとする山荘をほぼ現在の様に整備されました。そして、寛文2年(1662年)に後水尾天皇の行幸に際して新御殿が増築され、書院群が現在の姿となっっています。書院が雁行しているのは三つの建物が時期をずらして建てられたからなのですね。

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拝観時に最初に案内されるのが御幸門から見た表門です。写真では判りにくいですが、一番奥に門があり、外国からの賓客があったときにだけ使われるそうです。もっともおよそ50年前にエリザベス女王がお越しになったなった時以来開いていないそうで、その後はお客様は来ていないとの事です。何でも宮内庁からは積極的に働きかける事は無く、外務省からも要請が無いからとの事で、両省庁はあまり繋がりがないのかしらん。それはともかくとして、この道は手前が広くて奥に行くほど狭くなっているそうです。要するに遠近法で、入って来るときは御幸門が近く見えて早く入りたくなり、帰るときは正門が遠く見える事で名残惜しくなる様になる仕掛けだそうです。

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御幸門から続く道は御幸道と呼ばれ、小石が敷き詰められています。近くを流れる桂川から拾ってきた石を敷き詰められたそうで、平たい面を上にして埋め込んであるのだそうです。地味ですが、とても手が込んでいますね。

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御幸道から苑内に入ると外腰掛けがあります。次の茶室松琴亭のための待合で、左手に雪隠が付いています。雪隠と言っても主な用途は着替えるための部屋だった様ですね。この腰掛けだけではなく、離宮内の縁側には実際に座らせて貰えます。貴重な文化財なのに太っ腹ですね。

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その腰掛けの前には蘇鉄が植わっています。日本庭園には場違いな様でいながらたまに見かけますが、江戸時代以前には珍しい植物だった事で、好んで植えられたそうです。

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州浜の先にある小さな灯籠は灯台を表しているそうです。桂離宮には沢山の灯籠がありますが、総じて小さく、灯りを灯した時に月の邪魔にならない様に配慮されているのだとか。この離宮の主題は月見にあるのですね。

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池の中にある石橋と細長い半島は天橋立を模しているそうです。それにしても良い景色で、日本庭園の最高峰と言われるだけの事はありますね。時間があれば何時間でも眺めていたくなるような庭でした。

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次に案内されるのは茶室の松琴亭です。離宮の中でも最も格式が高い入母屋造りで、大きな建物ですが後ろ側に三畳台目の茶室があり、にじり口から入る様になっています。ここに行くには切石で出来た一本橋を渡る必要があり、手摺りも無く不安定で、高貴な人に対しては不親切な感じがしますが、それも侘び寂びの趣向というものなのでしょう。

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表側の建物には大きな市松模様が施してあり、ちっょと唐突感がありますが、離れてみるとこの模様が丁度良い感じに見えるのが不思議ですね。右下の襖には狩野探幽が描いた水墨画が施されており、中には炉が切られていて、冬には炭が焚かれて暖房が施されていたとの事です。

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苑内で最も高い位置にあるのが賞花堂。とても開放的な建物で、夏を過ごすためにつくられたのだとか。眺めがよいはずなのですが、木が茂っていてあまり見通しは利かなかったです。

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離宮内で唯一瓦葺きなのが園林堂。歴代の位牌が納められた持仏堂です。現在は全ての位牌は相国寺に預けられているとの事でした。これは笑意軒前から見た姿ですが、前の土橋と調和して何とも良い感じですね。

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最期に案内されるのが笑意軒。切石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した茶庭です。この写真では判りませんが、軒下に六つの円い窓が並ぶという面白い意匠が施されており、そのどの窓も形が違っています。この奥に大きな窓があり、離宮の外が見えるようになっています。この地はかつて瓜の栽培が盛んで、瓜見(瓜を食べながら散策する行楽)の名所だったそうです。今は瓜畑は無くなっており水田が見えますが、宅地化されないように国で買い上げて、地元の農家さんに耕してもらっているそうですね。

また、その窓の下には三角形に金箔が貼られており、田舎風の建物の中に唐突感があって、面白い意匠になっています。

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あと月波楼があるのですが、現在補修中で見られなかったのは残念でした。そのため拝観経路が違っており、書院の前を通れなかったのは心残りです。

なお、平面的な庭でもっと歩きやすいと思っていたのですが、意外と凹凸があり、道が飛び石になっていたりして、足の弱ったお年寄りなどには結構きついです。そういう趣向を楽しむ庭なのは重々承知なのですが、出来れば庭を一周せずに平坦な書院周りだけを巡るなど、誰でも歩けるコースを作ってもらえないものかしらん。なかなか難しい相談とは思いますが、足に自信の無い人にも素晴らしい庭の一端に触れて貰いたいです。また、ヒールの付いた靴ではつまずく恐れがあり、平たい運動靴を履いて行かれる事をお勧めします。

桂離宮は日本の誇りとも言える素晴らしい施設です。どこをとっても絵になる庭で、もっと早く来れば良かった。書院の中に入れないのが残念ですが、いつか公開される事があったら是非見てみたいです。

なお、拝観料は千円、他の離宮などは無料なのになぜかここだけ有料ですね。それだけ維持費が掛かるのかしらん。でも千円以上の値打ちがある事は確かです。

2024年9月13日 (金)

京都・洛中 洛中散策2024 ~相国寺塔頭 大光明寺 9.4~

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令和6年9月4日、およそ一年ぶりに相国寺塔頭・大光明寺を訪れてきました。ここは山門は閉じられていますが、小さな潜り戸には鍵が掛けられておらず、扉越しにはなりますかご本尊にお参りする為に、庭までは自由に入る事が出来ます。

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本堂の前にあるのが心字の庭。昭和50年代に当時のご住職が作庭された庭で、バランスの良い石の配置と苔が良く調和した庭です。以前は隠れた名園と言われてましたが、最近はあまり苔が綺麗でなくなっていますね。数年前にはほとんど枯れてしまった事があり、その後植え直されましたが今ひとつ冴えた色になりません。それに白砂の中に雑草が生えているのが見えており、手入れに力が入っていない様にも見受けられます。また背景の檜がますまずスカスカになって来ているのも景観を損ねています。檜は大光明寺のものではないので仕方がないですが、苔と雑草はなんとかならないのかなと思ってしまいます。せっかくの庭が勿体ないですよ。

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ここに来たのはこのツルボを見るため、少し早かった様ですが、まずまずの見頃でした。ただ、以前に比べると生えている面積が半減していますね。なぜかは判りませんが、少し寂しかったです。

このツルボが生えているのは峨眉山の庭と言い、心字の庭と同様に時のご住職の手に依って造られました。植え込みと庭石からなる庭で、調和の取れた良い庭ですよ。

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大光明寺を出て、宗旦稲荷社にお参りに来ました。茶人宗旦に化ける事が上手かった宗旦狐は、その死後縁の深かった相国寺の雲水たちによって葬られ、今は神として祀られています。この宗旦狐の像はいくつかの寺にあり、たとえば圓徳院の書院への入り口で見る事が出来ますよ。

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その宗旦稲荷社の前から見た弁天堂横のもみじです。この木も当然ながら年々大きくなっていますね。毎年綺麗に色づく木で、当たり外れは少ないもみじです。今年も鮮やかになってくれるかな。秋に来るのが楽しみです。

2024年9月12日 (木)

京都・洛中 洛中散策2024 ~下御霊神社 9.4~

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革堂から少し北に上がったところに下御霊神社があります。相国寺の北にある上御霊神社と対をなす神社で、共に貞観5年(843年)に神泉苑で行われた御霊会に起原を持つとされます。この時祀られたのが崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六座で、これに吉備聖霊(吉備真備ではなく和魂とされています)と火雷神(菅原道真ではななく荒魂とされます)の二座を加えて御祭神としています。

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神門を潜ると大きな百日紅が咲いていました。その向こうに拝殿と本殿が見えます。

下御霊神社は、初めは愛宕郡出雲郷の出雲路にあった下出雲寺御霊堂に祀られていました。すぐ北側には上御霊神社を祀る上出雲路御堂があったと言います。後に新町出水に遷り、さらに天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命で現在地に遷っています。

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下御霊神社には幕末の尊皇攘夷思想に影響を与えた垂加神道を唱えた山崎闇斎が祀られているとの事でしたが、この日は探しても見つかりませんでした。後から調べると手水舎の後ろの猿田彦社に合祀されているのだそうですね。どうりで見つからない訳だ。

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また、境内には天満宮もありました。本殿にまられている雷火神は道真公ではないという傍証になりますね。社前には梅が植えられており、毎年3月には梅和祭が行われるとの事です。

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そして稲荷社。探していた山崎闇斎の垂加社はこの隣にあったのでした。下御霊神社はホーページでは皇室との関係を強調されていますか、千年の間に様々な神々が勧請され、地域の産土神としての性格が強くなっている様に見受けられました。実際、5月に行われる神幸祭・還幸祭には大勢の氏子が集まるようですからね。一度は見ておきたいお祭りです。

さて二条界隈の散策はここで終了です。以前この近くには梶井基次郎の小説「檸檬」に縁りのある「八百卯」にがあったのですが、2009年に惜しまれながら閉店してしまいました。私はその3年前に訪れ、小説の場面を思い浮かべながら檸檬を買ったのを覚えているのですが、もう18年も前になるのですね。その代わり、今では丸善が復活し、毎年3月24日を基次郎記念日としてフェアを開催されています。来年は一度行って見ようかな。まだ小説の世界を楽しむ事が出来るのは、とても幸せな事だと思います。

2024年9月11日 (水)

京都・洛中 洛中散策2024 ~革堂 行願寺 9.4~

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法雲寺から行願寺に来ました。ここは西国三十三所の十九番札所、通称の革堂の名で有名ですね。門前に白い木柱が立っていて、「こうどう」と書かれているのが印象的です。

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行願寺は寛弘元(1004)年に行円という僧が、倒壊していた一条北辺堂の跡にお堂を復興したのが始まりとされます。行円は元は狩人だった人で、ある日雌鹿を射止めたときその傷口から子鹿が産まれた事を見て殺生を悔い、比叡山横川にて出家したと伝わります。以来母鹿の革を常にまとっていたいた事から革聖と呼ばれる様になり、行願寺もまた革堂と呼び慣わされる様になりました。

本尊は千手観音で、行円が夢告により得た加茂社の槻木(ケヤキの木)で彫ったものと伝わります。この事を知った一条天皇が一条北辺堂の再興を許し、扁額は藤原行成が書いたのだとも。

寛広2年(1012年)には藤原道長の三男、顕信が行円の下で出家し、比叡山の無動寺に入るという事が起こっています。将来を期待していた息子の突然の出来事に道長と母の明子の動揺は著しく、明子は不覚となり、道長も寝食が常の通りではなかった御堂関白記には記されています。原因は後一条天皇が顕信を蔵人頭に任じようとしたところ、道長はその才にあらず、もし任じてしまえば諸人の謗りを受けると言って辞退した事にあると言われます。顕信がその数日前に北野の斎場で、伊周の子と他人を罵り合うという事があり、それを知った道長が、顕信を諫めるために止めたと言われますが、顕信にしてみれば自分が摘妻の子で無いためだと思い込み、将来を悲観したのではないかと推測されています。後に道長は顕信に会いに無動寺を訪ねており、行きは八瀬道を馬で上り、帰りは善師坂(西坂、雲母坂)を歩いて帰ったと記しています。

 

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行願寺はその後は町堂として栄え、庶民の信仰を集めますが、都度都度の火災によって寺域を転々とし、宝永五年(1708年)の大火の後に現在地に落ち着きます。革堂は町衆の寺らしく千年の間に様々な信仰が入り込んでおり、たとえばこれは寿老人堂、都七福神の一つである寿老人をお祀りしています。

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七福神がずらりと並んでいるのは、同じ都七福神の一つである赤山禪院と共通していますね。この七福神の起原は良く判らない様ですが、時代と共にメンバーが替わり、現在の形になったの江戸時代にはってからだとか。また、福禄寿と寿老人は共に南極老人星の化身と言われ、同一視される事もあったそうてす。ちなみに日本の神様は惠比須神だけで、あとは全て外国から来た神様だそうです。今は当たり前と思っている事も遡っていくと色々あったと判り、なかなか興味深いですね。

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こちらは愛染堂。愛染明王が祀られており、恋愛成就、縁結び、夫婦円満などの御利益があるとされています。また愛染を藍染めに掛けて、染め物や織り物の業者からの信仰を集めているそうです。

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この巨大な五輪塔は加茂明神塔。ご本尊の千手観音が、加茂社の槻木を譲り受けた事で出来た事に感謝して勧請されたものと伝えられます。ただし、石塔の形式は鎌倉時代のもので、創建当初から伝えられたという寺伝はあやしい様ですね。火袋の中には不動明王が祀られており、これは後世に入れられたものではないかとされています。また、父母の四十九日の忌み明けにお参りする忌明塔だったとも言われます。

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こちらは百体地蔵尊。扁額には梵鐘再鋳落慶記念と書かれていますね。たぶんですが、廃仏希釈の時に町中から預けられたお地蔵様や大日如来を、戦後になって地蔵堂を作ってお祀りしたんじゃないかしらん。あるいは市電工事の際に出てきた仏様をここに集めたか、どちらかではないでしょうか。確証は何も無いですけどね。

境内には蓮の鉢が沢山置かれていました。ここも街中の蓮の名所だったのですね。来年は蓮が咲く頃に来てみようかしらん。また、夥しい数のフジバカマの鉢が置かれていました。これが大きくなって花が咲いたら壮観でしょうね。アサギマダラも沢山飛んで来るのではないでしょうか。観音様にお参りがてら、花や蝶を見に来るのも良いかもしれませんね。

2024年9月10日 (火)

京都・洛中 洛中散策2024 ~法興院跡 法雲寺 9.4~

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善導寺から法雲寺に来ました。二つの寺は敷地が隣同時なのですが、入り口が随分と離れています。二条通から入れると思っていたのですがどこにも無く、ぐるっと回り込んだ河原町通側にありました。ここもビルに挟まれた狭い参道になっています。

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ここは藤原道長の父、兼家の邸宅である二条第があった場所で、永祚2年(990年)に当時関白だった兼家は病を得て出家し、病気平癒の祈願のために二条第を法興院(ほこいん、又はほうこういん)と言う寺に改めました。しかし、そのわずか2ヶ月後に兼家は亡くなります。法興院は兼家の菩提寺となり、子の道隆、道長によって庇護され栄えました。道長の日記「御堂関白記」には法興院が頻出しており、幾度となくここで様々な法会を行っています。

法興院の法会で最も有名なのが道隆が正暦5年(994年)2月21日に行った一切経供養で、その様子を清少納言が枕草子の中で詳しく記しています。正確には道隆が法興院内に建てた積善寺で行われ、主催した道隆のほか中宮定子、国母である東三条院が臨席し、伊周や隆家といった中関白家の人々、中宮太夫であった道長、その他主立った公卿達がこぞって参加するという大々的な法会でした。清少納言は得意の絶頂にあった道隆、美しく聡明な定子とその女房達、若き貴公子の伊周の様子を活写しており、まさしく中関白家がこの世の春を謳歌した日でした。

しかし、水面下では道隆の専横ぶりに対する公卿達の反感がくすぶっており、7月に伊周が21歳の若さで叔父の道長を飛び越えて内大臣に就くと彼らの不満は頂点に達しました。特に東三条院は伊周の早すぎる昇進を不快に思い、弟の道長への傾斜を深めていきます。これには伊周の妹である定子に対する反感、いわゆる嫁姑の感情のもつれがあったとも言われますね。清少納言も言っています、「ありがたきもの(めったにないもの)、姑に思わるる嫁の君」と。嫁姑の問題は千年前から存在していたのでした。

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栄華を極めていた道隆でしたが、一切経の法会からわずかに一年後、病を得て病没します。道隆は死ぬ前に伊周を関白に据えようとしますが、一条天皇はこれを認めず道兼を関白に指名、その道兼がわずか七日にして亡くなると道長を内覧に据えました。この裏には伊周を嫌う東三条院の意向が強く働いたと言われます。伊周は道長に激しく反発しますが、政治力では道長に及ばす、また人望の無かった伊周は次第に孤立していきます。そして長徳2年1月に伊周と隆家は花山法皇に矢を射かけるという失態を犯し、伊周は太宰の権帥として配流になり、定子は発作的に髪を切ったため出家したとみなされ、内裏からの退出を余儀なくされました。こうして光り輝いていた中関白家は見る影も無く没落してしまいますが、清少納言はその後も定子に仕え続け、定子の死後も枕草子を書き続けました。一切経の法会の段は飛び抜けて長く、在りし日の中関白家の栄光を記していますが、その最後に今の事を思うとこれ以上は書けないと記して筆を置いています。枕草子で清少納言が悲しみの感情を露わにしているのはここだけで、何とも切ない気持ちが伝わってくるような気がします。

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法興院はその後何度か焼失と再建を繰り返しますが、鎌倉時代の焼失を最後に廃絶してしまいました。跡地はいつしか森になり、応仁の乱では合戦場となっています。人々はこの森には鬼が棲んでいると恐れたと言いますが、永禄10年(1567年)に然誉上人が鬼を鎮めて草庵を結びました。この然誉上人は善導寺を建てた然誉和尚と同一人物ですね。そして元和2年(1616年)に二世本蓮社源譽上人が諸殿を整備して法雲寺としました。法興院の南の庭の池があった場所だったとされ、清水が涌いていた事から清水山という山号が付けられています。

この寺で有名なのが菊野大明神、ホームページで縁切りの御利益があるとは知っていましたが、後から検索をかけてみると京都最強のパワースポットというサイトが沢山出てきました。これほどのものだとは知りませんでしたね。ご神体は霊石で、様々な謂われがありますが、この寺では小野小町の下へ百夜通いをしていた深草の少将が、道中に腰を掛けていた石とされています。最後の夜に倒れて願いが叶わなかった少将の怨念が籠もっており、大抵の縁は切れてしまうのだとか。

縁切りの方法はかわらけを持ってこお堂の中に入って祈り、かわらけに願いを書いて厄払いの石の上でたたき割るのだそうです。反対に良縁を結ぶ御利益もあり、その場合はかわらけを三方の上に納めるのだとか。受付でお願いすると、ロウソクと線香、それにかわらけのセットを千円で頂く事が出来ます。私はあまり深く知らずに中に入っただけですが、薄暗くて何かものすごい雰囲気があり、早々に退散しました。

 

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こちらは豊川大明神。火除け、厄除け、災難除けの御利益があるとされます。また、菊野大明神でかわらけの儀式を終わった後は、この社にお参りするようにと指示があります。縁切りと言えば安井金比羅宮の縁切石が有名ですが、ここの御利益はそれ以上に強力で、下手にお願いすると大変な事になると記したサイトが多いですね。興味本位では近づかない方が良い様です。

幕末には長州藩の久坂玄瑞と寺島忠三郎が、開国を唱えた永井雅楽の暗殺を企てた事を咎められて、この寺で謹慎しています。また、脱藩していた吉田稔麿もまた、同じくここで謹慎していたとの事です。このすぐ南に長州藩邸があり、藩邸に収容しきれなかった藩士の宿所ともなっていたそうですね。

また、境内には法興院の遺構として井戸があるそうですが、この時は気付きませんでした。周囲はビルで囲まれており、平安時代をしのぶ事は無理です。しかし、かつて藤原家一族が集った場所である事は確かであり、枕草子に描かれた舞台を一度は訪れてみるのも良いと思いますよ。

 

2024年9月 9日 (月)

京都・洛中 洛中散策2024 ~善導寺 9.4~

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一之舟入から少し北に上がると二条通に出ます。その二条通に面して、ビルに挟まれた竜宮門が建っています。ここにあるのは以前から知っていましたが、これまで入ったことはありませんでした。

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寺名は善導寺、山号は柊南山と言います。院号は真光明院で、浄土宗知恩院派に属する寺院です。門前にある説明板に依ると永禄年間(1558年から1569年)に久留米の善導寺の僧、然誉清善和尚によって六角堂付近に創建されました。寺名は出身の寺のものをそのまま持ってきたのですね。しかし、天明八年(1788年)に天明の大火に遭い全焼、第四世旭誉和尚が長谷川重兵衛の寄進によってこの地に移転しました。

 

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ご本尊は阿弥陀如来ですが、非公開の寺のため本堂の扉は閉じられています。一見するとごく普通のお堂ですが、Goolemapの航空写真で見るとこの右手に一回り大きな書院があり、その背後に広い庭がありますね。外から見るより意外と奥深い寺の様です。

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本堂の左手には自然石を半肉彫りにした釈迦三尊像があります。これも説明板に依ると清凉寺式の釈迦如来で、脇侍は弥勒菩薩と五髪の文殊菩薩だそうです。かなり簡略化されていますが、衣紋の流水紋を見ると確かに清凉寺のものを模していますね。正面からは見えませんが、公安元年(1278年)の銘があるそうで、由来は判りませんが別の寺にあったものが持ち込まれたのでしょうか。調べてみてちょっと驚いたのですが、重要美術品に指定されているのですね。そんな大切な文化財を雨晒しにしておいて良いのかしらん。

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境内にはもう一体石仏があります。こちらも半肉彫りの仏様ですが、調べた限りでは正体は判りませんでした。私見ですが、黒谷のアフロの阿弥陀様に似ていますね。螺髪の形からそう思えるのですが、見当違いならごめんなさい。

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こちらは善導寺型灯籠。火袋に水差し、風呂釜、火箸に茶箒、炭入れなどの模様が描かれています。かなり摩滅していますが、良く見るとうっすらと見えますね。灯籠としては有名なものだそうで、写しが幾つも造られているのだとか。そういう場合、オリジナルの灯籠は本歌と言うそうですね。善導寺にはもう一基灯籠があり、鎌倉時代の石幢を灯籠に改めたもので、白大理石製だそうです。書院の庭にあるとの事で見る事は出来ませんが、画像検索をすると出てきました。本来は六角形の火袋のところに地蔵菩薩が彫られていたのだとか。これもまた重要美術品なのだそうです。

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もう一つこの寺で面白いのは寺の中に「ソワンエステ ティラ」というエステサロンがある事で、境内に入って左側に入り口があります。なぜここにと思うのですが、経緯は判りません。完全予約制で一日一人という事ですから、飛び込みでは利用出来ないですね。もっとも看板は入り口にあるだけなので、あらかじめ知っている人以外は来ないでしょう。

何気ない寺だと思っていたのですが、調べてみると色々と面白い寺でした。綺麗に整えられた前庭と石仏や灯籠だけでも立ち寄る価値はありますが、書院や庭も見てみたいので、いつか特別公開をして欲しいですね。

2024年9月 8日 (日)

京都・洛中 洛中散策2024 ~三条大橋から高瀬川一の舟入まで 9.3~ 

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令和6年9月3日、この日は三条大橋を起点に、木屋町、二条界隈を散策してきました。まずは三条大橋から。

京阪の三条駅を出ると、目の前に百日紅が咲いていました。これって以前からあったのでしょうけど、この時期に来る事はあまり無いので気付いてなかったです。何度も来ている場所なのに我ながらいい加減なものです。

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さて、写真で見て判るとおり三条大橋の欄干が新しくなり、白くなっています。以前のものは昭和49年に取り替えられたもので、半世紀近く経ってさすがに痛みが目立ち、2010年代には見苦しいので取り替えてと結構苦情が入っていたとの事。京都市はすぐにでも着手したかった様ですが、ネックになったのは4億円という事業費、財政難の京都市にとっては負担が大きすぎます。そこでふるさと納税などで寄付を求める事にし、着工を決めたのが2018年の事。そして実際に着手したのが2022年で今年の1月に完成を見ました。それにしても、あれほどインバウンドで賑わっても、まだ財政難だと言うのは不思議です。彼らの落としたお金はどこに行っているのかしらん。

それはともかく、欄干だけでなく、歩道の舗装、車道と歩道を隔てる防護柵も更新されています。欄干は京都市内産の檜を使用、防護柵には魔除けの効果のあるという麻の葉の模様が施されています。舗装は市松模様になっており、京都の入り口に相応しい橋に仕上がってますね。なお、擬宝珠は豊臣秀吉が架橋した当時のものがそのまま残されました。

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とても良い仕事をされたと思うのですが、白すぎるのが気になります。もうちょっと時代を出しても良かったんじゃないかしらん。まあ、風雨に晒されている内に風合いが出てくるのでしょうけどね、慣れるまで時間が掛かりそうです。写真は欄干にあるハートマーク。たぶん傷か穴があった部分を補修したのだと思いますが、ちょっとした名物になっています。

なお、ライトアップも行われているそうで、一度夜に見に来たいですね。

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三条大橋を渡り、木屋町通を北へ向かいます。このあたりは江戸時代に藩邸街だったところで、一種の治外法権的な界隈でした。そのため、幕末から明治維新にかけては尊皇攘夷派の拠点となり、四条から二条に掛けて歩くと、様々な史跡と出会う事が出来ます。これはその一つ、佐久間象山と大村益次郎の遭難碑です。

佐久間象山は幕末において最も優れた兵学者として知られ、吉田松陰、勝海舟、橋本左内、河井継之助、坂本龍馬など尊皇派、佐幕派に関わらず、多くの弟子に影響を与えています。しかし、松陰のアメリカ渡航事件に連座して蟄居を命じられ、8年間を松代で過ごしています。ようやく出ててきた頃には時代が変わってしまっており、象山の感覚は世間とずれてしまっていました。尊攘派がうごめく京都にあって、洋式の鞍を付けた馬を乗りまわしたり、天皇の彦根動座を建言したりしています。象山の言動は尊攘派に取って許しがたいものであり、暗殺の標的とするには絶好の対象でした。そして元治元年(1864年)7月11日に暗殺は実行されます。象山は三条木屋町で刺客に襲われ、馬で逃走したものの御池通を上がったこの地で別の刺客に待ち伏せされて命を落としました。暗殺者は河上彦斎と言われ、あのアニメのるろうに剣心のモデルとされる人ですね。

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大村益次郎は周防国鋳銭司村の医者の出で、大阪の適塾で蘭学を学び、塾頭まで勤めています。しかし、家の事情で国元に帰り、村医として過ごします。長州藩は彼を黙殺しましたが、宇和島藩の伊達宗城に依って見いだされ、蘭学者としての才能を開花させます。その後江戸に出て幕府によって実力が認められ、講武所の教授まで出世しました。この頃、長州藩の桂小五郎と知り合い、これほどの人物が自藩の出身であったと知った小五郎の誘いによって長州藩士に復帰します。ただし、俸禄は幕府よりもはるかに少ない年25俵扶持でした。長州では兵の近代化に邁進し、第二次長州征伐の勝利に貢献しています。明治維新後は上野戦争で彰義隊を鎮圧しましたが、この過程で薩摩藩の海江田信義と対立し、恨みを買ったと言われます。戊辰戦争で官軍を指揮して勝利に導いた後は兵部省に出仕し、更なる軍の近代化を目指します。その一環として明治2年8月に京都、大阪の軍事施設を視察するために入洛し、9月3日には三条木屋町の旅館に宿泊します。翌4日にそこを襲ったのが同じ長州藩の神代直人ら8人の刺客でした。理由は益次郎が進める農兵制が士族を蔑ろにするというものでしたが、背後では海江田が糸を引いていたとも言われます。重傷を負った益次郎は約2ヶ月に渡って治療を受けましたが、手当の甲斐無く大阪府医学校病院で亡くなりました。享年45歳。

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木屋町通を二条通近くまで歩いて行くと一之舟入に出ます。舟入とは高瀬川から街中に突き出た水路の事で、文字通り船を入れて荷物の上げ下ろしに使われました。方向転換をする場所でもあり、要するに運河に作られた港ですね。かつては九之舟入までありましたが、現在残っているのは一之舟入だけです。かつてあった舟入の箇所には石碑が建っていますが、私は全部はまだ見ていません。

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一之舟入の前には句碑が建っています。京都俳句作家協会を設立した那須乙郎氏(1908年~1989年 )の作で「舟入りの灯影に明くる春の雪」と記されています。那須氏は昭和60年に京都文化功労者賞を受賞されていますね。

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一之舟入の近くには高瀬舟が復原されています。ここに船が浮かべられたのは昭和50年頃だったかな、出来た当時は素敵な事をしてくれたと嬉しかったのを覚えています。でもその後年と共に古びてしまい、廃船の様になってしまっていたのですが、いつの間にか新しくなり、それが繰り替えされて今の船は平成25年に造られたもので三代目になる様ですね。私は来た事がありませんが、毎年秋にはここで高瀬川祭りが行われ、舞妓さんに依るお茶の接待、撮影会なとが行われるそうです。一度参加してみたいものですが、きっと相当に混むのだろうな。

高瀬川は角倉了以によって開削された運河で、当初の目的は方広寺の再建のための資材運搬でした。もう少し上流の鴨川からみそそぎ川と共に取水され、暫く河川敷を暗渠で流れた後高瀬川として分流し、角倉了以別邸跡の中を通って暗渠を潜り、ここで姿を現します。

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その角倉了以別邸跡は道を挟んだ反対側に見る事が来ます。巨石が積まれた偉容な壁が目印で、現在はがんこの高瀬川二条苑になっています。庭園は山県有朋の第二無隣庵だった当時のもので、小川治平衛による作庭です。以前入った事がありますが、木々に覆われた中に小川が流れており、素敵な空間でした。この小川が高瀬川の源流なのですね。

高瀬川はここからずっと市街地を南に流れていきますが、東九条のあたりで一度鴨川に合流し、対岸に渡って東高瀬川となり三栖浜で宇治川に繋がります。ただし、現在は河川改修によって東高瀬川への入り口は無くなっています。

ちよっと判らないのが高瀬舟は川を遡る時は人力で引っ張っていたのですが、鴨川を渡る時にはどうしていたのでしょうね。まさか川の中に入って引っ張っていたとか、うーん、想像が付かないです。沢山の船が通っていたのですから、普遍的なやり方があったのでしょうけどね。

運河として重宝された高瀬川でしたが、琵琶湖疎水が出来るとその役割を終える事になります。埋め立てるという計画もあったようですが、地元住民の反対に依って残され、現在は普通河川として管理されています。特に五条から二条にかけては桜の名所として市民に親しまれています。高瀬川の流れる木屋町通は、歓楽街であると同時に歴史と水と緑に親しむことが出来る素敵な道です。

2024年9月 7日 (土)

京都・洛中 百日紅2024 ~京都御苑 九条池 8.28~

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京都御苑の南の端にある九条池に来ました。ここはかつて九条家の邸宅があった場所、池はその庭園の遺構です。

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九条家とは藤原北家の流れを汲む五摂家の一つ。平安末期から鎌倉初期にかけて摂政・関白を務めた九条兼実に始まる家で、さらに祖先を辿れば藤原道長にも繋がります。奠都に伴い東京に移住し、屋敷跡には茶亭である拾翠亭だけが残りました。ただ、屋敷の一部は東京に移築され、現在は東京国立博物館に九条館として保存されています。

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四季を通じて美しい庭ですが、夏は百日紅が綺麗です。九条家が居た当時から植えられていたのかどうかは判りませんが、緑色の池面、拾翠亭との組み合わせが、計算されていた様に見事ですね。

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池の北側にあるのが厳島神社。元は大和田泊の経が島に平清盛が宮島の厳島神社から勧請したもので、宗像三女神(市杵島姫命・田心姫命・瑞津姫命)と祗園女御をお祀りしています。時期は判りませんがこの地に遷座され、九条家が邸宅を構えた後はその鎮守社となり、九条家が東京に去った後もそのまま残されました。特徴的な鳥居は唐破風鳥居と呼ばれ、重要美術品に指定されています。北野天満宮の伴氏社の石鳥居、蚕の社の三本足鳥居と共に京都三鳥居とも呼ばれます。

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拾翠亭の公開日は毎週木、金、土の9時30分から15時30分まで。拝観料は300円です。この日は水曜日だったので中には入っていません。いつもは公開日に来るので雨戸は開いているのですが、閉じられた姿も締まった感じがして良いですね。右に見えているのはたぶん藤棚、ここが咲いているのは見た事がありません。次に来るのは藤の咲く頃かな。その前に紅葉も見に来ようかしらん。もみじが多いし、きっと素敵でしょうね。

2024年9月 6日 (金)

京都・洛中 百日紅2024 ~京都御苑 8.28~

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令和6年8月28日の京都御苑です。この日は百日紅が見頃を迎えていました。

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京都御苑には大きな百日紅がいくつもあります。例えば合之間口から入ってすぐの所にあるこの百日紅。数本の木が植えられていますが、あたかも一本の木が生い茂っている様に見えます。それにしても大きな茂みで、これだけ迫力のある百日紅はなかなか見る事が出来ません。

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花付きも良かったですね。これだけの株が満開になった様は豪華の一言です。まだまだ花期は続き、たぶん10月中頃まで見られると思われます。

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京都御苑は京都御所を中心とした国民公園。元は公家町だったところで、東京奠都により多くの公家が東京に移ったため、空き家となった屋敷街は荒れ果ててしまいました。この廃墟群を整理しようと大内整備事業が行われ、屋敷は全て撤去して跡地に木々を植え、外周の石垣の構築、道路の整備などが行われて現在の京都御苑の原型が出来上がりました。さらに戦後になって国民公園と位置づけられ、休憩所や児童公園、グラウンドなどが整備されて、広く国民に開放されています。

京都御苑の管理者は環境省ですが、敷地内にある京都御所や仙洞御所・大宮御所は宮内庁、京都迎賓館は内閣府の管轄と少しややこしいですね。さらに御所の警備は皇宮警察が行っており、定期的に御所の周囲をパトカーが巡視しています。特に気にする事は無いですが、時々御所の塀に近づいて警報を鳴らした人が居ると近づいて来て注意されます。

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これは建礼門前にある百日紅です。冒頭の写真の様に建礼門と絡めて撮れるので、結構気に入っています。大通りを挟んで東西に植えられていますが、今年は西側の百日紅はあまり咲いていませんでした。結構年によって咲き方に差があるのですが、東側のこの木が当たり年だったのは嬉しかったです。明日は京都御苑の中でも百日紅の名所として知られる九条池の様子をお届けします。

2024年9月 5日 (木)

京都・洛中 平安京の禁苑 ~神泉苑 2024.8.28~

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令和6年8月28日、神泉苑を訪れてきました。ここは入り口に鳥居が立っており、一見して神社かなと思ってしまいますが、東寺派真言宗のお寺です。要するに神仏混淆の名残が残っているのですね。

以前は境内に祗園平八という料亭があり、立派な門と大きな看板があったため、どちらかと言えば料亭の方が主で、神泉苑はその庭という感じでした。この日久しぶりに来てみると無くなっていたのでどうしたのかなと調べてみると、賃料の支払いを巡って神泉苑と揉めていたらしく、去年の初め頃廃業して取り壊された様ですね。大きな料亭だったけど、経営は苦しかったのかなあ。

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神泉苑は元を質せば禁苑、天皇のための庭でした。平安京の造立時に古京都湖の名残の池を整備したものと考えられており、南北500m、東西240mに及ぶ広大な庭園でした。乾臨閣、 右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などの諸殿を備えていたと言いますから、今からでは想像出来ない豪華な施設だったのでしょうね。発掘調査で船着き場の痕跡も見つかっているとの事ですから、池に龍頭鷁首の船を浮かべて船遊びも楽しんでいた事でしょう。そう言えばこの日は船を見かけなかったのですが、料亭と共に無くなってしまったのかな。

桓武天皇や嵯峨天皇を始め歴代天皇ががここで遊んだという記録があり、中でも嵯峨天皇に至っては43回も来ているそうですから、相当なお気に入りの場所だったのでしょうね。特に弘仁3年(812年)に行った花宴の節は、日本最初の桜の花見ではないかとされています。

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この赤い橋は法成橋。一つだけ願いを込めてこの橋を渡り、善女竜王社で祈ると願いが叶うと言われています。6年前に修復されましたが、まだまだ色あせていませんね。

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天皇や貴族の遊興の場だった神泉苑ですが、時代と共に性格を変えていきます。その最初の例になるのかな、天長元年(824年)に弘法大師に依る雨乞いが行われています。日旱の年でも涸れることの無いこの池が選ばれたとの事ですが、境内には嵯峨天皇が命じたと言う弘法大師と西寺の守敏の雨乞い対決を説いた説明板があります。それに依ると、先に雨乞いを行った守敏は雨を降らせたものの都周辺だけに止まり、弘法大師に負ける事を恐れて法力により龍神をことごとく封印してしまいます。しかし、北天竺の無熱池の善女竜王だけは守敏の法力より強く封印を免れており、これを見つけた弘法大師は神泉苑に勧請し、無事に雨を降らせる事が出来ました。弘法大師は位を授かり東寺は栄えたのですが、敗れた守敏は面目を失い、以後西寺は廃れていったとの事です。

無論これは説話の類で、二人が対決したという公的な記録は無く、実際には西寺は官寺として東寺よりも格の高い寺として栄えたのですが、ここでは守敏が徹底的に貶められており、ちょっと気の毒な気がしましたね。

これ以後、この地では雨乞いが屡々行われる様になり、祈雨のための聖地としての性格を帯びるようになりました。有名なところでは第一の歌い手とされた小野小町が雨乞いのための歌「ことはりや ひのもとならば てりもせめ さりとてはまた あまかしたとは」 を奉納したり、後白河法皇の時には静御前が祈雨の舞を踊って見事に雨を降らせ、義経との出会いの場となったとも言われます。

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この小さな祠は日本唯一と言われる恵方社。上部が回転式になっており、毎年大晦日の夜に氏子によって翌年の恵方に向けられます。平成29年(2017年)の台風で吹き飛ばされてしまいましたが、大切な施設ですからその翌年すぐに復原され、さらに痛みが酷かった事から平成31(2019年)年に新調されました。

神泉苑は祗園祭の起原とも関わっています。貞観5年(843年)に疫病が大いに流行り、これが御霊(無実の罪で非業の死を遂げた人の怨霊。早良親王、伊予親王など。)のためと考えられたことから神泉苑で御霊会が行われました。経典が唱えられたほか、雅楽や稚児の舞、散楽などが行われ、天皇がご覧になられた上に民衆にも開放されて、大いに賑わったと伝わります。また、貞観11年(849年)には貞観大地震や富士山の噴火など国中で災厄が続いたため、神泉苑に当時の国の数66本の鉾を立てて平安を祈願し、祇園社から厄払いのために神輿が派遣されました。これが後世に町衆に引き継がれ、祗園祭に発展したと言われます。

令和4年(2022年)7月14日からはこの事にちなみ、祗園祭の行事の一環として、神泉苑の阿加井で汲んだ水と八坂神社の竜穴から汲んだ水を交換し、それぞれの井戸と竜穴に注ぐという御神水交換式が行われる様になりました。新たな神仏混淆の儀式の始まりですね。

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神泉苑はこうして禁苑から儀式を行う神聖な場となり、四方を壁で囲って四つの門を設けで結界とし、定期的に池は攫われ、境内は芝原が維持される事で霊験を保持される様になりました。ところかそんな聖域であったにも関わらず、藤原道長は法成寺を建てた時、神泉苑から門や乾臨閣の礎石を持ち去っています。そんな無茶な事が許されたのかと思いますが、道長はそれだけでなく、羅城門や大内裏にあった宮司の礎石も持ち出しています。また豊楽殿の鴟尾が鉛製であると知り、緑釉瓦の材料にするため屋根から下ろそうとしたとか。これらの出来事は誰も掣肘出来なかった道長の権勢の凄さと、身勝手な横暴ぶりを示していると言えそうですね。

写真は弁天堂、江戸時代に建てられたお堂で増運弁財天を祀ります。お参りすると諸芸上達、福徳円満、財徳の御利益があるとされます。天明の大火で一度焼失しており、現在の建物はその後再建されたものです。神泉苑にはもう一体、本堂に宇賀弁財天が祀られており、除難、吉祥安穏の御利益があるとの事です。こちらは秘仏であり、普段目にする事は出来ません。

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平安時代の末になると大風や火災によって荒廃し、池の水も汚濁したと伝わります。鎌倉時代に入ると源頼朝によって諸殿が復興されますが、承久の乱によって再び荒廃し、北条泰時の命により門垣が築かれて聖域が回復されました。以後室町時代中頃までは東寺の密教道場として管理され、祈雨、止雨祈願が行われていましたが、中期以後は次第に荒廃が進み、長禄3年(1459年)頃には池は汚濁し、苑地には田畑が広がり、汚械不浄物が捨て置かれる有様となっていました。汚れた池からは善女竜王も去ってしまったと噂される始末でした。また、東寺と共に管理に当たっていた室町幕府も衰退と共に支援を放棄し、それどころか足利義政が築いた東山殿(慈照寺・銀閣)の造園のために庭石が運び出されたとも伝えられます。東寺もまた宗教行事は行わなくなり、寺領の一部として田畑の耕作者から礼銭を徴収する様になっていました。

写真は宝篋印塔、貞享元年(1684年)に弘法大師の850回忌に当たり建立されたもので、少しの祈願で菩提の種(悟りを開く機縁)が得られるとされます。

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安土桃山期に入り織田信長によって都の秩序が回復されると、正親町天皇の仰せにより信長から東寺に対して再興が命じられています。長年放置されていたため池が半ば埋まるほど荒れ果てていましたが、まだ聖域としての認識は残っていたのですね。この命令がどこまで実行されたかは判りませんが、江戸時代に入ると神泉苑は決定的な打撃を受けます。徳川家康に依る二条城の築城で、苑地の北側の大半が接収され、池の湧水はそのまま堀の水に転用されました。こうして平安時代より続いた神泉苑は終焉の危機に立たされます。

写真は池の東の畔にある社、神泉苑のホームページの境内図に依ると鎮守稲荷社とあります。しかし、御祭神は矢劔大明神となっており、稲荷神ではありません。この矢劔大明神は手に持った矢と剣で参拝者を守護して下さる神様だとの事。稲荷神とは関係なさそうなのですが、なぜ混同されているのかしらん。

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およそ10分1までに縮小し、廃絶の危機に立たされた神泉苑でしたが、名苑が喪失してしまう事を惜しんだ筑紫の僧、快雅の発願に板倉勝重や片桐且元といった大名が応え、慶長12年(1607年)から寛政年間にかけて修復が行われ、東寺所属の一寺院として再興されました。この時、東寺、仁和寺、醍醐寺、石山寺などにより神泉苑法要が行われ、去ってしまったと言われていた善女竜王も再び勧請されています。その後天明の大火によって諸殿は全焼してしまいますが、伝統を引き継ぐため数十年を掛けて再建されています。

明治以後は恐らく廃仏毀釈の波をもろに被ったのでしょうね、経済的困窮に陥り、境内の一部を料亭に貸すことで存続を図ったと思われます。とても豪華な料亭で、寺とどちらが主役か判らない程でしたからね。その様子は今でもGooleマップで見る事が出来ますよ。今は空き地となっていますが、今後なんらかの活用が図られるのでしょうか。

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神泉苑の東、御池通と黒門通が交わる角に礎石と思われる石があります。説明板に依ると明治時代に御池通の拡幅の際に掘り起こされた石で、左大臣源義明の観子左邸の礎石、もしくは道長が神泉苑から運びだそうとした礎石かと推測されています。決め手は無い様ですが、説明板に書かれていた様に歴史を見てきた石である事は確かで、平安時代がすぐそこにある様に感じます。こうしたものが道端にあるのも京都ならでは、神泉苑に行かれる事があれば是非ご覧になる様にお勧めします。

2024年9月 4日 (水)

京都・洛中 京の小径2024 ~三上家路地 8.22~

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本隆寺からの帰り、久しぶりに三上家路地に寄ってみました。三上家路地とは、西陣織の織元の三上家が、配下の職人達を住まわせていた長屋です。一番奥の家が三上家であり、現在でも大家として店子の面倒を見ておられます。今ここに住んでいるのは、織り子ではなく陶芸家や写真家、養蜂家など、この町の風情に惹かれてやって来た人達が中心になっています。

ちょくちょくドラマの舞台になったり、京都の紀行番組で取り上げられますが、最近はあまり見なくなったかな。

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この前は何度も通っていますが、中に入るのは16年ぶりの事、住民が入れ替わったかどうかは判りませんが、佇まいは全く変わっていませんでした。特にこの大きな瓶は何のために置いてあるのか判りませんが、割れること無く相変わらず存在感を放っています。せっかく来たのだからドラートさんで蜂蜜でも買って帰ろうかと思ったのですが、営業が昼からだったので諦めました。

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16年前の自分の記事を読み直して思ったのは、最近は西陣の町を歩いても機の音がほとんど聞こえて来ないなという事です。それもそのはず、少し調べてみると当時と今では西陣織を生業としている家は半減しているそうです。わずか16年でここまで衰退しているとは、西陣織の将来は大丈夫なのかしらん。かつて京都を支える屋台骨だった西陣がすっかり地盤沈下してしまい、今や希少な伝統産業の地になろうとしているのは何とも寂しい限りです。西陣織は和装の生地を作るだけでなく、能や歌舞伎の衣装など様々な伝統芸能を支える存在でもあります。どうか絶えてしまう事が無いように祈るばかりですね。

2024年9月 3日 (火)

京都・洛中 百日紅2024 ~本隆寺 8.22~

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西陣の本隆寺に来ました。ここでは長く続いていた本堂の修復工事が終わり、今年の3月30日、31日に落慶法要が行われたとの事です。改修前に比べてまるで新築したように綺麗なお堂に生まれ変わりましたね。ただ、今は祖師堂の修復工事に入っており、元の境内に戻るには今暫くの時間が掛かりそうです。

ここでは白い百日紅を期待してきたのですが、祖師堂の工事のために移植されたのか伐られたのかは判りませんが無くなっていました。また、信徒会館前の枝垂れ桜も無くなり、作業員用のプレハブが建っていたのはショックでしたね。

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何てこったと落胆したのですが、勅使門横に百日紅があるを見つけました。これって以前は本堂横にあった木ですよね。ここに移植されていたのには気づいていませんでした。ちょっと窮屈な場所にあり、以前の様に枝を茂らせる事は出来なくなっていますが、とりあえず元気だったのは良かったです。

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花も綺麗に咲いていましたね。以前の様な存在感は無くなってしまいましたが、この花のを見られてほっとしました。でも、元の位置には戻さないのかな。ここだと妙に細長い樹形になってしまい、伸び伸びと枝葉を茂らせる事が出来そうもありません。何とか元の場所に移植し直してほしいな。

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銀杏は見事に枝を茂らし、巨木らしい貫禄を見せていました。これは秋の黄葉が楽しみですね。工事中の仮覆いが背景ではどうにも絵にならなかったですが、今年は綺麗な写真が撮れそうです。次は秋に訪れようと思っています。

2024年9月 2日 (月)

京都・洛中 百日紅2024 ~白峯神宮 8.22~

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瑞春院から白峯神宮に来ました。ここでも目的は百日紅、神門を入ってすぐ右手で咲いています。

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この百日紅を見に来るのも5年ぶり、剪定をしたのでしょうね、随分と枝が短くなってコンパクトになっています。でも花の咲きっぷりは以前より良くなっています。この木は適切に剪定してやると花付きが良くなるとの事。この木が良い例ですね。

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白峯神宮は保元の乱で敗れたため讃岐に配流され、非業のうちに亡くなった崇徳天皇の霊を慰める為に建てられた神社。孝明天皇の発願で建設は始められましたが、志半ばで孝明天皇は亡くなり、その遺志を継いで明治天皇が完成させました。蹴鞠の家元である飛鳥井家の屋敷跡に建てられ、その邸内に祀られていた鞠の守護神「精大明神」を受け継いだ事から鞠の神様とも呼ばれる様になり、今では蹴鞠のみならず、サッカーを始めとするスポーツ全般の神様として信仰を集めています。この日も夏休み中とあって、大勢の子供たちが参拝に訪れていましたね。みんな願いが叶ってスポーツが上達する良いのにな。

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ただ、由緒を調べていて疑問に思ったのは、この神社が建てられ始めたのは東京奠都前なのですね。飛鳥井家は東京に移っていたとの事なのですが、まだ天皇が京都に居る間に早々と移転していたのかしらん。他の公卿たちもそうだったのかな。このあたりは一度調べてみる必要がありそうです。

なお、奠都は都を移すという意味で遷都とほぼ同じですが、古い都を廃すという意味は含まれません。このため京都市民は今でも京都は都のままだと主張していますね。令和になったとき、上皇様を京都に迎えようという動きがあったのはこの為です。事実上の首都は東京ですが、京都は1200年以上都でありつづけているというのは京都市民のアイデンティティー、この矜恃は今後も崩れそうには無いですね。

2024年9月 1日 (日)

京都・洛中 百日紅2024 ~相国寺塔頭 瑞春院 8.22~

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相国寺の塔頭瑞春院に来ました。水上勉氏の名作「雁の寺」のモデルとなった寺として知られており、今でも小説の名の元になった「雁」が描かれた襖は現存します。ただし、実際に描かれているのは孔雀の絵なのですけどね。寺の小僧だった水上氏が見間違えたのか、意図的に書き直したのは判りませんが、一見の価値はあります。ただし、今は非公開の寺になっており、一般人は入る事は出来ません。20年近く前までは事前予約することで拝観は可能であり、その旨の看板も出ていたのですけどね、いつの間にか無くなりました。私もずっと以前に特別公開があったときに訪れた事がありますが、これが「雁」の絵かと孔雀を感慨深く見た覚えがあります。また、水琴窟もこの寺の売りの一つで、長く突き出た竹筒から聞こえる神秘的な音に聞き惚れました。なぜ非公開になったのかは判りませんが、いつかまた特別公開を行ってほしいですね。

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ここに来たのはやはり百日紅があるからです。山門の横に大きな百日紅があるのですが、今年はあまり咲いていなかったですね。この花も年によって当たり外れがあり、残念ながら今年は外れに当たった様です。

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後ろを向くと同志社大学の敷地内に綺麗な百日紅が咲いていました。塀の上に飛び出していたのですが、背景の大学の洋館仕立ての建物に良く似合っていたので撮らせて貰いました。

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瑞春院の百日紅も好調なときはこれくらいは咲くのですけどね、今年は見られなくて残念でした。また来年に期待です。

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