京都・洛南 史跡・西寺跡
羅城門跡の北西に唐橋西寺公園があります。ここが平安京に東寺と共に築かれたただ二つの寺の一つ、西寺の跡です。
南都仏教の影響力を嫌った桓武天皇は平安京に寺を建てる事を禁じ、わずかに東寺と西寺だけを築きました。官寺として国家鎮護を祈るほか、外国使節を接待するための施設でもありました。場所は羅城門の北、朱雀大路を挟んで東寺と左右対称の形で建てられました。下って嵯峨天皇の時、東寺が弘法大師に与えられて真言密教の道場となったのに対し、西寺は官寺のまま置かれました。伝説では西寺の別当であった守敏が雨乞いを廻って弘法大師と争って敗れ、以後西寺は衰退したと言われますが、実際には官寺として大切にされ、僧尼を管理する僧綱所が置かれるなど隆盛を誇りました。正暦3年(990年)に火災にあった時もすぐに再建されており、建久年間(1190年代)には文覚上人が塔の修理を行っています。つまり平安期を通じては官寺として存在しており、衰退が始まったのは鎌倉期に入ってからの事と思われ、天福元年(1233年)に塔が焼失しており、これ以後衰退に拍車が掛かったのではないかと考えられます。最後に記録に残るのは二水記という公家の日記に、大永7年(1527年)に西寺に陣を敷いたと記されている事で、戦国期までは存続していた様です。
西寺跡は数次に渡って発掘が行われていて、南大門や金堂、講堂、回廊、僧坊、食堂などが確認されていますが、東寺と似ていて微妙に異なっている事が判っており、当初から性格と役割が違っていたのではないかと考えられています。公園の中央に盛り土がありますが、これは松尾大社の祭礼のために後世築かれたものです。ここが講堂の跡で、地下には遺構が眠っています。遺構の保存状態は極めて良好で、ここだけでなく付近一帯に広がっており、破壊を防ぐためにこの区域で開発を行う場合は、様々な規制が掛けられているとの事です。
西寺が衰退してしまったのは、律令体制が崩壊してしまい、朝廷が衰退して維持が出来なかったためではないかと考えられています。また平安京の西側は水はけが悪いなどの理由により住む人が少なく、早くから荒廃していたと言われます。そもそも平安京の人口は12万人程度であり、都市として規模が大き過ぎました。このため都城制は早々に崩れ、住みやすい都の東側だけが発展し、西京は必要ないと見捨てられたとも言われますね。羅城門が再建されなかったのも、都城制を維持する必要が無かった事も一因だったのかも知れません。西寺もまた荒廃した西京にあって、いずれは見捨てられる運命だったとも考えられます。
西寺跡の北西に西寺を名乗る寺があります。浄土宗の寺で元は西寺跡にあり、西方寺と言いました。守敏自作の木像などを伝える事から明治27年(1894年)に寺名を西寺に改め、寺号を継いでいます。門前に西寺旧跡と記した石碑が建っていますね。規模も宗派も違いますが、西寺の後継を名乗る寺として訪れてみてください。公開はされていませんが、境内に入る事は出来ますよ。いつか特別公開をしてくれると良いですね。
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