京都・洛東 松原通 愛宕念仏寺元地
六道まいりの帰り道、西福寺から少し松原通を下ったところに愛宕念仏寺元地という石碑を見つけました。今は奥嵯峨にある愛宕念仏寺が元あった場所を示す石碑ですね。この石碑があるというのは知っていましたが、具体的な場所までは判っていませんでした。これまでも探したことはあったのですが見つからず、この日たまたま目に入ったという次第です。なぜ今まで判らなかったのだろう思うくらい、あっさり見つかりましたね。
愛宕と書いておたぎと読みます。かつてこのあたりは愛宕郡と呼ばれていたのですね。創建は奈良時代の事で、766年に称徳天皇によって開かれたとされます。念仏寺と呼ばれるようになったのは後世の事で、創建当時は単に愛宕寺だった様ですね。平安時代に入ると真言宗の末寺となりますが、醍醐天皇(在位897~930)の頃には既に荒れ寺になっていた様です。そして止めは鴨川の氾濫で、堂宇が全て流され、廃寺同然となってしまいました。この石碑がある場所は鴨川から300m程離れておりピンと来ない話なのですが、当時は大和大路の辺りまでが河原だったので、大水が出ればここまで洪水が来る事はあったのでしょう。北隣にある建仁寺にも水害に遭ったという記録があり、鴨川が如何に暴れ川であったのかが判る出来事です。
それはともかく、愛宕寺は醍醐天皇の命により天台宗の千観内供によって復興されます。たぶん天皇勅願の寺ですから捨て置けなかったのでしょうね。この千観内供が念仏信者だった事から、いつしか愛宕念仏寺と呼ばれるようになったそうです。当時は七堂伽藍を備えた大寺だったのですが、その後興亡を繰り返し、江戸時代には本堂と仁王門、それにいくつかの末社が並ぶという程度にまで縮小していたようです。でも都名所図会に載るくらいですから、それなりに名の知れた寺だったのでしょうね。
明治になると廃仏毀釈の波をもろに受け、境内にあった末社は無くなり、本堂と仁王門、それに地蔵堂だけが残りました。大正時代になると松原警察署の建設に伴い敷地の整理に迫られ、現在地に移転して再起を図りますが上手く行かず、遂には無住の寺となって廃墟同然となってしまいました。そして昭和30年に西村公朝氏が住職として入り、懸命な努力の結果、京都一の荒れ寺が奥嵯峨の一名所として蘇ったのは周知のとおりです。
愛宕念仏寺があった場所には、移転を惜しんだ地元の人によってお堂が建てられたと聞いていたので、路地の中に入ってみました。たぶん木造の小さなお堂だろうと思っていたので最初は気づかなかったのですが、奥まで行っても見つからなかったので引き返してみたところ、お堂風のコンクリートの建物がありました。これかと思ってフェンス越しに入り口付近を見ると、確かに愛宕念仏寺と書いてありました。かなり綺麗な建物だったので、最近になって建て替えたのかしらん。ただ、どう見ても個人のお宅の中だったので、これ以上詮索するのは止めにしました。周囲は全くの住宅街で、このお堂以外に当時を偲ばせるものは何も無いですね。
称徳天皇はなぜこの場所を選び、この寺を建てたのだろうとか興味は尽きないのですが、残念ながら資料が無くて詳しいことは判りません。創建当時はまだ鳥辺野は送葬の地になっていなかったはずですし、鴨川と東山に挟まれた風光明媚な場所だったのでしょうか。どんな場所だったのか当時の景色を見てみたいものですね。
今年の秋は久しぶりに愛宕念仏寺に行って見ようかな。お寺のお勧めにある様にバスに乗って行き、嵯峨野を逆に歩いてみるのも良いですね。なんだか楽しみが出来た気分です。
(地図をズームすると愛宕念仏寺元地の石碑の標記が出てきます)
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コメント
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私も京さんぽしていた頃はバスで嵯峨野逆コースで愛宕念仏寺へ行ってました(*^_^*)
投稿: Milk | 2024年8月15日 (木) 13時09分
Milkさん、
愛宕念仏寺は嵐山から往復すると結構な距離ですからね、
一の鳥居まで来たらもういいやと引き返す事が多かったです。
ホームページのお勧めを見るまではバスに乗るというのは思いつきませんでした。
これなら歩く距離が半分で済みますからね、ちょっと魅力に感じます。
今年は試してみようかなと思ってます。
投稿: なおくん | 2024年8月15日 (木) 21時26分