京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~雲母坂 8.15~
曼殊院から北へ向かうと、道端に雲母坂という看板を見つけました。源氏物語ゆかりの地の案内板で、あちこちで見かける看板ですね。いつの間に立てたのかなと思ったら平成20年とありました。そんなに前からあったとは、これまで気付いていなかったです。
雲母坂とは比叡山への登山道の一つで、京から延暦寺に通じる最短距離の道として知られます。朝廷からの勅使が通ったほか、山法師が強訴の為に山を下ったのもこの道ですね。この名前の由来として京都市中からこの道を眺めると、雲が生じるように見えたからという説がありますが、今は木々に覆われていて全く見る事は出来ません。ガスが普及する以前には、燃料とするために人々が木を伐ったため、京都の周囲の山はほとんどはげ山だったと言われていますが、比叡山も同じだったのかな。それに往来する人も多く、道筋がはっきりしていたのかも知れません。
源氏物語との関係は宇治十帖にあり、行方不明になっていた浮舟の手掛かりを得るために、薫が延暦寺に居る横川僧都に会いに行くという下りがあるのですね。そして、坂本の小野に居た浮舟が、夜道を帰る薫の一行が掲げた松明の火を見ているのです。この坂本の小野については様々な研究がされていますが、概ね西坂本と呼ばれた一乗寺から修学院にかけてのどこかと推定されています。また、赤山禪院の近くに大納言南淵年名の小野山荘があったと言いますから、修学院周辺にまで絞れるかも知れませんね。つまりは、薫が通ったのは雲母坂と想定されるという事になるのです。
この道は登ったことはありませんが、下りたことはあります。高校の時の遠足先が比叡山で、行きはケーブルカーだったのですが、帰りはクラスの仕切り役(女の子でした)が歩いて帰ると言い出したのです。そんなの聞いてないと文句を言ったのですが、帰りの切符はない、嫌なら自分で切符を買って帰れとの事。どうやらあらかじめ言っておくと参加者が減ると考えてやった確信犯だった様ですね。高校生の遠足ですから大した所持金は無く、騙されたと思いつつも仲間と歩くより無いのでした。
歩き出すと想像どおりの急坂で、砂が多くてざらざらしており、歩くと言うより滑り降りるという感じでしたね。とにかく転ばないようにと前について行くのがやっとでしたが、気が付くと急に道が開け、この音羽川沿いの道に出ていました。もっと時間が掛かると思っていたのですが、意外とあっけなかったです。
雲母坂の由来にもう一つ、花崗岩が砕けた砂が多いからという説がありますが、実際に歩いた経験からするとこちらの方がしっくり来る気がしますね。千日回峰の行者も通る道とのことですが、確かに修行するには向いた道だと思います。
歴史上の人物としては、藤原道長が比叡山から下りるときに二度この道を通っています。御堂関白記に依れば、道長は何度も比叡山に登っていますが、多くは近江側の東坂、時おり八瀬道を使っており、この道を登ったという記録はありません。馬で登ったとも書いていますから、遠回りだけど緩やかな道を選んだのでしょうか。また、若き日の親鸞聖人が、六角堂に参籠するためにこの道を通った事が知られます。私は見ていませんが、親鸞聖人御旧跡と記した石碑があるそうですね。南北朝時代には楠木正成らが足利尊氏と戦うべく一乗寺、鷺森あたりに陣を敷いた時、軍勢を率いてこの道を下ってきたと言われます。
この道は京都一周トレイルのコースにもなっているので、足に自信のある方は歴史を辿りつつ登ってみられては如何ですか。私はとうてい無理だと思うので止めておきます。
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