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2024年8月12日 (月)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~大文字の寺 浄土院 8.1~

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銀閣寺の北隣に浄土院があります。大文字送り火の世話をする事から、通称大文字寺とも呼ばれます。浄土宗知恩院派の寺で、ご本尊は阿弥陀如来像。大文字送り火の点火の際に、中央のお堂に祀られている弘法大師像前で、この寺の住職がお経を唱えるのが慣わしとなっています。

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浄土院の前身は浄土寺という天台宗の寺だとされています。銀閣寺の記事で書いたように、足利義政は東山殿を建てる際に浄土寺の立地が気に入り、相国寺の西に移転させて山荘を築いたとされます。浄土寺はやがて衰退して無くなりますが、東山の跡地には草庵が残されていました。その草庵に浄土宗の泰誉浄久が入り、浄土院として再興させました。

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浄土寺は文献には屡々登場しており、平安時代の初期から存在したと推定さていますが、遺構はほぼ残っておらず、幻の寺と言われます。ただ銀閣寺の西側の広大な範囲に浄土寺と付いた地名が残っており、例えば真如堂や東北院の住所も浄土寺真如町です。これから推定すると、銀閣寺から神楽岡にかけて寺域を有していた巨大な寺だったと考えられますね。後一条天皇の遺骨が一時納められたのもこの寺で、皇室とも縁が深かった事が窺えます。院政期には後白河法皇の下で権勢を振るった丹後局の山荘があった事が知られており、浄土院の境内に等身大の像が置かれています。鎌倉期から室町期にかけても隆盛を誇っていたと思われ、1443年には義政の弟、義尋が門主となっており、幕府とも関係が深かった様ですね。しかし、1449年に伽藍が焼失してしまっており、ここから寺運の衰退が始まった様です。wikipediaなど複数のサイトでは応仁の乱で焼失したと記されていますが、それ以前にほとんどの堂宇を失っていたのでした。義政が移転させたのはわずかに焼け残っていた伽藍だったのかな。あるいは移転させたのは墓地だったという説もありますね。いずれにせよ平安時代より続いていた巨大持院を廃寺に追い込んだのは、義政だったという事になりそうです。なお、浄土院のご本尊は浄土寺より受け継いだものと伝わります。

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大文字の送り火の起原については諸説ありますが、大きく分けると弘法大師起原説と足利義政起原説に分かれます。その一つとして、浄土寺が火災に見舞われた時にご本尊が如意ヶ嶽の上に飛び上がり、四方に光を放ったと言われます。弘法大師はこの奇瑞を後世に残すべく、大の字を描いたと伝わります。また別の説として、都に疫病が流行したとき、弘法大師が如意ヶ嶽の中腹に登り、護摩を焚いて玉体の安穏を祈願した事が始まりとも言われます。いずれも江戸時代の観光案内書に書かれた事ですが、地元に伝わっていた伝承を元にしたものなのでしょうか。実際、地元では弘法大師説が支持されており、大の字の中央に御大師様が祀られているのはこの為なのでしょう。

その延長として、送り火の消し炭を半紙に包んで玄関に吊しておくという風習があります。泥棒除け、厄除けになるという俗信があるのですが、この消し炭、本来は翌日に山に上って拾いに行くものなのでのですが、年々争奪戦が激しくなって来た事から、最近では禁止されている送り火当日に山を登って拾いに来る人が増えているそうです。保存会ではその対策に頭を痛めているとか。規則違反をして手に入れたものに御利益があるものなのでしょうかね。

銀閣寺のホームページには、義政が子の義尚の死を悲しみ、供養のために始めたと紹介されていますね。これも江戸時代の地誌などに記された説なのですが、どちらかと言えばこちらの方が信憑性が高い様にも思えますね。しかし、いずれにせよ後世に伝承を元に記されたものには変わりなく、どの説も決定打には欠ける様です。

確かな記録として残るのは小槻忠利という公家が江戸時代の初期に残した日記で、「山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也」と記されているそうです。この頃にはすっかり定着していたらしく、やっぱり始まったのは室町時代と考えるのが妥当なんじゃないかなという気がしますね。

起原はともかくとして、送り火は長年続いてきた伝統で、家にお迎えしていたお精霊さんを、冥土に送り返す為の行事です。今年も護摩木を奉納し、心を静かにしてご先祖の霊を送りたいと思っています。

なお、五山の送り火と言われますが、五という数字に特に意味は無く、かつてはもっと沢山あったものが様々な理由で消えて行き、今残って居るのが五つという事です。各保存会では後継者や費用の確保に苦労されている様で、いつまで五山が維持されるのでしょうか。出来ればずっと残って欲しいところですが、少子高齢化が進む中、いつか限界が来るような気もしますね。今は保存会の方々の頑張りに期待するしかなさそうです。

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