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2024年8月

2024年8月31日 (土)

京都・洛中 百日紅2024 ~天寧寺 8.22~

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真如堂から寺町通の天寧寺に来ました。ここに来る前に阿弥陀寺に寄ったのですが、何と有料になっていました。何度となく訪れた寺ですが、決して観光寺院じゃなかったのですけどね。いつ行っても私一人かせいぜい2、3人が居る程度だったのですが、いつの間にか大勢押し寄せる様になっていたのかしらん。気軽に寄れる寺では無くなってしまったのは残念です。

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天寧寺は元は会津にあった名刹だったのですが、戦乱により焼亡し、京に逃れて来たのでした。ただ会津にも天寧寺は残っており、地元の人によって維持されているそうです。この会津の寺には近藤勇の墓がある事で知られ、最近では勇の首を会津に運んだと記した刀の鞘が見つかり、行方知れずの首もここにあるのではないかと話題になりましたね。真偽の程は判りませんが、いつか訪ねてみたい寺の一つです。

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この京都の天寧寺にも百日紅は咲いており、庫裏に通じる石畳沿いで見る事が出来ます。赤と白の花が並んでおり、なかなか綺麗ですよ。

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写真を撮っているとお寺の方が、この鐘楼も形が良いので被写体して人気だよと教えてくださいました。本当は石畳と絡めて撮るのが良いそうですが、残念ながら葉が茂っていて今回は無理でした。また冬に行った時に試してみようと思いますが、この寺の人は親切ですね。以前も桜を撮りに行った時、無理を言って閉門を待って貰った事があり、カメラマンを閉め出そうとする社寺が増えている中で有り難い存在です。次はまたホトドギスや秋明菊が咲く頃訪れたいと思っています。

2024年8月30日 (金)

京都・洛東 百日紅2024 ~真如堂 8.22~

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黒谷から真如堂へ来ました。ここに来たのは午前7時30分頃、さぞかし静かだろうと思っていたのですが、木陰で休むお年寄り達が何人も居ました。境内には座るペンチも多いし、参拝がてら散歩に来る人が多いのでしょうね。老人の憩いの場を提供するのも、お寺としては有意義な事なのでしょう。

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ここでの一番の目的は、墓地に入って見上げる百日紅だったのですが、いざ行って見るとどこにも見当たりません。おかしいなと思って境内に戻ってみると、百日紅は確かにありました。でも以前よりずっと小振りになっており、花付きも悪かったです。たぶん、伸び過ぎたとみて枝打ちをしたのでしょうか。

仕方なく諦めて理正院前に移動しました。ここには放生池の畔に白い百日紅があるのです。少し花付きが悪かったですが、朝日を浴びた花は綺麗でした。

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そして近くの法輪院で良いのかな、外からだと隣との区別が付かないのですが、塀越しの百日紅が咲いていました。中に入りたいところですが、非公開の寺なので残念ながら無理な話です。でも白壁と赤い花の対比は美しいですね。

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そして面白かったのが法輪院の前にあったごく小さな百日紅です。膝丈程度の高さしかありませんが、立派な花を咲かせていましたね。この植物のたくましさと言うか不思議さを感じました。

あと鎌倉地蔵堂の横に古い百日紅があったのてすが、随分前に枯れて伐られてしまい、無くなったのは寂しいですね。とっくに消えてしまったのですが、前を通るとつい目を向けてしまいます。とても古木の風情があってここに来る度に楽しみにしていた木でした。

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地蔵盆はこの二日後に行われたはずですが、それを前に千体地蔵の前掛けが新しくなっていました。2年に一度位の割合かな、取り替えられた直後はとても綺麗ですね。でもどうやって取り替えているのか不思議です。一体ずつ下に下ろして取り替えているのかしらん。なんなしても手間が掛かるであろう事は確かです。

2024年8月29日 (木)

京都・洛東 百日紅2024 ~金戒光明寺 8.22~

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知恩寺から黒谷こと金戒光明寺に来ました。山門裏の赤いもみじは薄い褐色になっています。夏の間はこういう色になるのですね。これからだんだんと色の濃さを増して行き、秋が深まると再び赤色に染まります。

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ここにも少数ながら百日紅は咲いています。これは塔頭の光安寺(だと思います)の百日紅で、中には入れませんが、塀越しに綺麗な花を見ることが出来ます。

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こちらは龍光院になるのかな、塀の外からなので隣との境界が判らないのですが、真如堂へ向かう道沿いで見る事が出来る百日紅です。白壁の上に白い花がとても美しく映えており、黒谷に来たのは八分方この花を見るためでした。

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御影堂横にある熊谷直実鎧掛けの松です。11年前に先代の松が枯れてしまい植え替えられたのですが、だんだんと育ってきましたね。まだまだ先代には及びませんが、枝にはそれぞれ添木がされており、大切にされている事が判ります。貫禄が出てくるまでは後10年、いやもっと掛かるのかな。子供の成長を見守っているようで、この寺に来る度に眺めています。私が元気に見に来られる間にどれくらい大きくなってくれるのか楽しみです。

2024年8月28日 (水)

京都・洛東 百日紅2024 ~知恩寺 8.22~

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令和6年8月22日、夏の終わりの恒例、と言っても5年ぶりかな、百日紅巡りをしてきました。百日紅は7月くいらから咲いていますが、花の少ない今の時期でも彩りを見せてくれる有り難い花です。

まず訪れたのは知恩寺、百万遍の通称で知られる寺で、地名にもなっていますね。普段は静かな寺ですが、毎月(8月は除く)15日には手作り市が行われ、多くの人で賑わいます。また11月上旬に行われる古本市も有名ですね。

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知恩寺の百日紅は2カ所あり、一つはこの釈迦堂の前で咲いています。それほど大きくは無いですが、枝が地面近くまで垂れており、一面に花が咲いた様はとても綺麗ですよ。

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花はまさに満開、近くで見ても痛んだ花はありません。見頃はまだまだ続くと思われます。

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もう一カ所は勢至堂の裏手にあります。こちらの方はちょっと鬱蒼としていてあまり見栄えが良くないのですが、花そのものは綺麗に咲いていました。

知恩寺の百日紅は5年前とほとんど変わらいな佇まいで迎えてくれました。朝の静かな時間に綺麗な花を楽しむ事が出来て嬉しかったです。

2024年8月27日 (火)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~赤山禅院 8.15~

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修学院離宮の前を通り過ぎて赤山禅院に来ました。ここに来るのは2年前の秋以来、紅葉を見に来る事が多いですが青紅葉の参道も素敵な寺です。

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お寺と書きましたが、参道の入り口には鳥居が建っています。そう、ここは今でも神仏混淆の伝統を守っているのですね。ご本尊は赤山大明神、中国の神泰山夫君を勧請して祀っています。どうやって神仏分離令をくぐり抜けたのかは判りませんが、神様を祀っているので分離するものが無かったという事なのかな。

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赤山禪院は都の鬼門を守護する寺。その象徴として拝殿の屋根には鬼門除けの猿が置かれています。猿は申に通じ、鬼門とは反対の西南西を指す事から邪気を払う力があると赤山禪院のホームページには記されていますね。金網で囲われているのは、かつて夜になると暴れたので封じ込めたのだとか。新日吉神宮や幸神社、猿が辻の猿も金網で封じられており、猿というのは暴れるものと相場が決まっている様ですね。

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赤山禪院は千日回峰行と深い関わりがあり、修行が六年目に入ると山中を廻る行程に加えて、雲母坂を通りこの寺に参って花を供する行程が加わるそうです。一日に歩く距離が60キロ、時間にして14~15時間掛かるそうで、それを100日繰り返すのだとか。雲母坂を往復すると考えただけでもぞっとするのに、これは想像を絶していますね。これを称して赤山苦行と呼ぶのだそうです。千日回峰行については赤山禅院のホームページに詳しく記されていますが、すさまじい内容の修行です。これを満行出来る人が居るのだからまた凄い。大阿闍梨と呼ばれ、この寺の住職を務められますが、一度だけ護摩行をされているときにお会いしたことがあります。さぞ怖い人かと思っていましたが、ごく穏やかな優しそうな方で、それでいて内に秘めた迫力は並みではないと感じました。本物とはこういう人の事を言うのかと思った次第です。

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鳥居と共に神仏混淆を示しているのが本殿の狛犬です。初めて来た時、ここはお寺だよねと戸惑ったのを覚えています。鮮やかな色彩の狛犬ですが、下鴨神社の本殿にも同じような狛犬があります。こういう形式を選ぶのには、何か共通項があるものなのかしらん。

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赤山禪院は都七福神のひとつ、福禄寿の寺です。参道にずらりと幟が並んでいますね。福禄寿は泰山夫君を人格化した神様だそうで、商売繁盛・延寿・健康・除災の御利益があるとの事。また集金の神様として五・十払い発祥の地でもあるとか。厳しい修行の場であると共に、現世利益を授けて下さるお寺でもあるのですね。

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境内には立派な地蔵堂もあります。泰山夫君は地蔵菩薩の化身でもあるとか。千年の間に様々な信仰が重なり、一筋縄では行かない寺になっているのですね。これも神仏混淆のなせる業でしょうか。

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赤山禪院は紅葉の名所ですが、訪れる人はそれほど多くは無いです。ただ11月23日には数珠供養が行われ、大勢の参拝者が訪れます。この日は普段とは雰囲気が一変しますね。また、私は来た事が無いのですが、仲秋の名月の日にへちま加持が行われます。ぜんそくや気管支炎を封じ込める秘法だそうで、お悩みの方は一度受けられては如何ですか。

普段は静かだけど、実は様々な顔を持った不思議な寺。知れば知るほど奥深さが判ってきます。夏の洛北周遊はここでゴール、次はまた秋にやって来たいと思っています。

2024年8月26日 (月)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~禅華院 8.15~

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雲母坂から音羽川沿いに下り、後安堂橋を渡ると修学院離宮の広大な敷地が広がります。その離宮の前にある小さな寺が禅華院、臨済宗大徳寺派に属する寺院です。

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ここに来るのは去年の5月以来、予約して庭園を見ようと思っていますが、未だに果たせていませんね。

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平安時代にはこのあたりは西坂本と呼ばれ、延暦寺の末寺が多数ありました。禅華院もその一つでしたが、たぶん荒廃してしまっていたのでしょうね、江戸時代に入り寛政年間(1624年から1643年)に大徳寺の清厳禅師により中興され、臨済宗の寺となっています。

境内で目立つのが石仏群。左の小さな2体が雲母坂地蔵で、かつて雲母坂にありました。おそらく廃寺となった雲母寺縁のものと推定されています。その横の大きな2体は修学院離宮の田の中にあったものを移設したのだそうです。こちらは鎌倉時代のものだそうですが、やはり延暦寺末寺の縁のものなのかな。

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境内では百合が咲いていました。やっぱり少しでも花があると嬉しくなりますね。この寺は何年か年前にご住職が代わり、以来境内や庭園の整備に努められてきたそうです。その甲斐あって、見違える様に綺麗になったと大徳寺だよりにあります。私もこの寺が気になるようになったのは5、6年前頃だったかな。それ以前はあるのは知っていましたが、前を通り過ぎるだけでした。そもそも門は開いてたっけ。

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お金を掛けて整備された庭ではないですが、こつこつと手入れをされた感があって、気持ちの良い前庭です。どんな方かは存じ上げませんが、ご住職の人柄が表れている様な気がします。秋の紅葉はなかなか綺麗ですよ。ここに来る人は希なので、穴場の一つと言って良いでしょう。11月になったら、また訪れようと思っています。

 

2024年8月25日 (日)

京都・洛西 安倍清明墓所 ~嵯峨野~

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今日の「光る君へ」で安倍清明が亡くなりました。御年85歳、当時としてはとても長生きですね。もっとも生まれについては921年説と944年説があり、それによって年齢も変わってきます。若い頃は出世に縁が無くぱっとしない経歴でしたが、961年に内裏の火事で焼失した霊𠝏を鋳造した功績が認められて陰陽師に就任し、971年に51歳にして天文博士に任じられました。花山天皇を皮切りに一条天皇、藤原道長からの信任を集め、一条天皇の御悩を癒やした事、道長の求めに応じて雨乞いに成功した事などにより順調に官位は昇進し、最終的には従四位下にまでになっています。

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その墓所とされるのはいくつかありますが、正式なものとされるのは嵯峨野にあります。晴明の墓は陰陽師らしく本物を知られないようにあちこちに造られた様ですが、昭和47年に晴明神社奉賛会によってこの墓が正式なものと定められ、荒廃していたものが整備されて現在に至ります。根拠と言えるものは無い様ですが、中世から伝承としては伝えられていた様ですね。

場所は嵐電嵯峨駅から歩いて数分、住宅街の中にあり、えっ、こんな所にという感じですね。訪れたのは春でしたが、墓所には桜が咲き、墓前には花が供えられており、大事にされているという印象でした。晴明神社は有名ですが、この墓を訪れる人はあまり居ない様です。少し歩けば観光客で賑わう渡月橋がありますが、ここは極めて閑静な場所であり、晴明に関心のある方は一度参られては如何ですか。

2024年8月24日 (土)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~雲母坂 8.15~

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曼殊院から北へ向かうと、道端に雲母坂という看板を見つけました。源氏物語ゆかりの地の案内板で、あちこちで見かける看板ですね。いつの間に立てたのかなと思ったら平成20年とありました。そんなに前からあったとは、これまで気付いていなかったです。

雲母坂とは比叡山への登山道の一つで、京から延暦寺に通じる最短距離の道として知られます。朝廷からの勅使が通ったほか、山法師が強訴の為に山を下ったのもこの道ですね。この名前の由来として京都市中からこの道を眺めると、雲が生じるように見えたからという説がありますが、今は木々に覆われていて全く見る事は出来ません。ガスが普及する以前には、燃料とするために人々が木を伐ったため、京都の周囲の山はほとんどはげ山だったと言われていますが、比叡山も同じだったのかな。それに往来する人も多く、道筋がはっきりしていたのかも知れません。

源氏物語との関係は宇治十帖にあり、行方不明になっていた浮舟の手掛かりを得るために、薫が延暦寺に居る横川僧都に会いに行くという下りがあるのですね。そして、坂本の小野に居た浮舟が、夜道を帰る薫の一行が掲げた松明の火を見ているのです。この坂本の小野については様々な研究がされていますが、概ね西坂本と呼ばれた一乗寺から修学院にかけてのどこかと推定されています。また、赤山禪院の近くに大納言南淵年名の小野山荘があったと言いますから、修学院周辺にまで絞れるかも知れませんね。つまりは、薫が通ったのは雲母坂と想定されるという事になるのです。

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この道は登ったことはありませんが、下りたことはあります。高校の時の遠足先が比叡山で、行きはケーブルカーだったのですが、帰りはクラスの仕切り役(女の子でした)が歩いて帰ると言い出したのです。そんなの聞いてないと文句を言ったのですが、帰りの切符はない、嫌なら自分で切符を買って帰れとの事。どうやらあらかじめ言っておくと参加者が減ると考えてやった確信犯だった様ですね。高校生の遠足ですから大した所持金は無く、騙されたと思いつつも仲間と歩くより無いのでした。

歩き出すと想像どおりの急坂で、砂が多くてざらざらしており、歩くと言うより滑り降りるという感じでしたね。とにかく転ばないようにと前について行くのがやっとでしたが、気が付くと急に道が開け、この音羽川沿いの道に出ていました。もっと時間が掛かると思っていたのですが、意外とあっけなかったです。

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雲母坂の由来にもう一つ、花崗岩が砕けた砂が多いからという説がありますが、実際に歩いた経験からするとこちらの方がしっくり来る気がしますね。千日回峰の行者も通る道とのことですが、確かに修行するには向いた道だと思います。

歴史上の人物としては、藤原道長が比叡山から下りるときに二度この道を通っています。御堂関白記に依れば、道長は何度も比叡山に登っていますが、多くは近江側の東坂、時おり八瀬道を使っており、この道を登ったという記録はありません。馬で登ったとも書いていますから、遠回りだけど緩やかな道を選んだのでしょうか。また、若き日の親鸞聖人が、六角堂に参籠するためにこの道を通った事が知られます。私は見ていませんが、親鸞聖人御旧跡と記した石碑があるそうですね。南北朝時代には楠木正成らが足利尊氏と戦うべく一乗寺、鷺森あたりに陣を敷いた時、軍勢を率いてこの道を下ってきたと言われます。

この道は京都一周トレイルのコースにもなっているので、足に自信のある方は歴史を辿りつつ登ってみられては如何ですか。私はとうてい無理だと思うので止めておきます。

2024年8月23日 (金)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~曼殊院 8.15~

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曼殊院の中に入りました。ここに来るのは2年前の秋以来、夏場に来るのは14年ぶりですね。学生時代から慣れ親しんだ庭ですが、いつ来ても素敵な庭です。でも、年々坂道がきつくなって、足が遠のきがちになりました。学生の頃は自転車で坂を登り切っていたのだけどなあ、今では考えられないはるか遠い昔の話です。

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今の曼殊院を作ったのは良尚法親王、桂離宮を造った八条宮智仁親王の第二皇子です。さすがに親子、たぶん桂離宮を見て育ったのでしょうね、建物の風情から釘隠しや引手の意匠までが似ており、小さな桂離宮と呼ばれます。もっとも、桂離宮には未だ行った事が無く、実物は見たことが無いのですけどね、写真や動画で見る雰囲気とそっくりです。

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庭を作ったのは誰かは判っていません。小堀遠州という説があったのですが、曼殊院がここに移転する前に亡くなっており、誰か別の人物です。たぶん良尚法親王の好みに合わせて造ったのでしょうね、枯山水ながら緑に溢れていて、王朝風の風情が素敵です。

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この大きな松は鶴を表しています。そして目立たないですが、根元にキリシタン灯籠が据えられています。桂離宮にもキリシタン灯籠がいくつもあるそうで、ここも共通していますね。

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殿は2022年に再建されました。なぜこれまで無かったかと言うと、京都府立医科大学の前身が造られた時、殿を売ってその金を寄付したのだそうです。神仏分離令で門跡制度が無くなり、台所事情も苦しかったでしょうに、何とも見上げたものですね。今は白木も美しい殿に、ご本尊の阿弥陀如来と寺宝の黄不動(複製)が祀られています。

ところで今回調べて初めて知ったのですが、曼殊院の門主は北野天満宮の別当を務めていたのですね。曼殊院がまだ比叡山の一坊であった頃、947年に北野天満宮が創建され、四代目住職だった是算国師が菅原氏の出身だった事から別当を兼ねたと言われます。あるいは一条天皇の御幸があった1004年からだとも言われますが、この関係は近世に至るまでずっと続いていたそうです。これで北野天満宮の御手洗祭の際に、御神水を曼殊院に届けていたという謎が解けました。

夏の曼殊院は蝉の声以外は静かで良いですね。本当はヒグラシを聞きに来たかったのだけどな、一番暑いときに家を出なければならないので見送りました。学生の頃はそのためだけに修学院まで来た事もあるのですけどね。あの頃は今みたいな猛暑じゃ無かったから出来たのでしょう。38度や39度なんてあり得なかった、今の太陽はほとんど凶器、焼き尽くされる様な熱さです。地球温暖化、なんとかしなければね。

2024年8月22日 (木)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~清少納言隠棲の地 月輪寺跡 8.15~

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鷺森神社から曼殊院道に戻り、坂を上ります。ここに来るのは久しぶり、2年前の秋以来になりますね。

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この地を訪れたのは清少納言の隠棲地の候補地だと知ったからです。清少納言の晩年はほとんど判っていませんが、その手がかりの一つとして大納言藤原公任御集の中に「清少納言が月輪にかへりすむころ」とあり、和歌のやりとりをした事が記されています。この月輪が清少納言の終焉の地ではないかと推定されており、昔から研究されていて三つの候補地が挙げられています。一つが以前に紹介した泉涌寺のある東山区の月輪、二つ目が愛宕山山中にある月輪寺、そして三つめがこの地にある月輪寺町です。月輪寺町は平安時代に存在した月林寺の跡地で、がつりんじと読み、同じ音の月輪寺とも表記されました。おおよそこの道の北側一帯で、今は住宅地や竹田薬品の薬草園になっています。

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以下この説を提唱された平安文学の研究者、後藤祥子さんの著書「平安文学の謎解き」からの引用が多くなりますが、大要は次の通りです。

東山の月輪を提唱したのは角田文衛氏を始め何人か居られますが、中宮定子の眠る鳥辺野陵に近く、晩年は定子の菩提を弔いながら過ごしたという判りやすいストーリーもあって多くの方に支持されました。泉涌寺境内には清少納言の歌碑が建てられ、今熊野観音寺のホームーページには父の元輔の屋敷がこの地にあり、清少納言はここで晩年を過ごしたとあります。

この説に異を唱えられたのが荻窪朴氏で、泉涌寺付近が月輪と呼ばれたのは、清少納言の死後およそ2世紀経ってから、月輪殿と呼ばれた藤原兼実が、法性寺の一角に月輪殿(現・東福寺塔頭即宗院)という一宇を建てて以来という説を唱えられました。傍証として月輪殿が建てられた以前には、東山の月輪という地名が出てくる文献は皆無であるという指摘もあります。

ただこの説にも弱点があり、兼実が月輪殿と呼ばれる様になった要因に疑義があり、月輪殿を建てた後にその名で呼ばれるようになったと言う可能性があります。そうすると、元々地名として月輪があり、そこに建てたから月輪殿と名付けられたという説も否定仕切れなくなりますね。

荻窪氏が東山に代わる候補地として挙げられたのが愛宕山の月輪寺です。後拾遺集などの資料から、元輔は桂山荘の近くの月輪にも別業を持っていた事が判り、それが今の月輪寺ではないかと推測されています。元輔の桂山荘は松尾大社の北側にあったと推測されており、月輪寺はさらにその上流に位置します。近いと言えば近いですね。月輪寺は聖の住む地とされ、平安貴族の尊崇も深く、伊周が太宰府に流される際に逃げ込んだり、関白頼通が参拝に訪れたりもしています。

話が前後しますが、兼実が出家したのもこの寺とされ、月輪殿と呼ばれる様になったのもそのためだと寺の縁起にあります。ただ、この縁起は信憑性に乏しく、冒頭に天狗が出てきたり、兼実が出家した時に自らの木像を彫ったとあるのですが、寺に現存する像は僧形文殊像であるなど事実と異なる点がいくつもあります。先に兼実が月輪殿と呼ばれた要因に疑義があると書いたのはこのためです。

この月輪寺は愛宕山の中腹にあり、ここに行くには非常に険峻な道を上らなければなりません。修験者が修行に訪れる様な場所であり、麓から登ると慣れた人でも一時間半以上の山道を歩く事になります。現在でも水道やガスは来ておらず、まさに僻遠の地ですね。このような場所に元輔が山荘を建てたり、清少納言が隠棲したりするでしょうか。月輪寺のホームページには清少納言隠棲の地とあり、また元輔や清少納言の墓まであるそうですが、年老いた女性が隠棲するにはあまりにも険し過ぎるというのが後藤祥子さんの見解です。

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第三の候補地として挙げられたのが西坂下(雲母坂の下)と呼ばれた修学院にある月林寺跡です。がつりんじと読みますが、月輪寺と表記される事もあったのは前に記したとおりです。月林寺は平安時代に存在した比叡山三千坊の一つで、勤学会が行われた事が知られます。桜の名所としても知られ、詩歌の会の会場となる事もありました。

ここが清少納言隠棲の地と考えられる根拠の一つは、地名のほか藤原公任の別荘が北白川にあったと推定されることで、和歌のやりとりをするには愛宕山では遠すぎる事が挙げられます。清少納言は身内にトラブルを抱えていたらしく、公任に頼み事をしているのですが、険しい山中に居て、わざわざ都の反対側に居る公任に使いを出すというのも不自然ですよね。

弱点としては元輔の桂山荘からは遠い事で、歌集の詞書きなどには桂に行くつもりが月輪に来てしまったとあり、道を間違えたとするには方角が違う上に遠すぎるのですよね。

後藤祥子さんも確たる根拠を持たれている訳では無く、消去法で行くと東山の月輪という地名は12世紀以前の文献には全く見当たらないこと、愛宕山は道を間違えて行くには険しすぎる山中にあり、かつ老女が閑居する様な場所ではないことから、この修学院の地がふさわしいのではないかと推定されています。

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ちなみに曼殊院もまた月林寺跡に建つ寺院です。山城名勝志(愛宕郡12)という江戸時代に書かれた本に「竹ノ内門跡坊官云う、月輪寺は今曼殊院の地旧跡也」と記されており、当時は未だ月林寺の記憶が残っていた事が判ります。地図で見ると月輪寺と付いた地名は曼殊院から鷺森神社の東まで広がっており、三千坊の一坊と言っても巨大な寺だった事が窺えます。そして、かなり高低差のある境内だったのでしょうね。

もしここに清少納言が住んでいたとしたらどのあたりだったのでしょうか。清少納言の晩年には数多くの落剥説がまことしやかに語られていますが、私的には桜の名所だったという月林寺の傍らで風雅を楽しんでいたと思いたいですね。

2024年8月21日 (水)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~鷺森神社 8.15~

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圓光寺から鷺森神社に来ました。この日は曼殊院道側にある裏道から入って行きます。この森はその名の通り鷺森、神社は赤山禅院から修学院離宮の地を経てこの森に移転してきたのですが、鷺森は元々の地名としてあり、その名を取って鷺森神社となった様です。南北朝時代の記録に楠木正成が鷺森に陣を敷いたとあり、この静かな森に武者達がひしめきあっていた時があったのですね。ちなみに神社の元の名は修学院天王社、牛頭天王を祀っていた事からこう呼ばれていました。

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神社の創建は貞観時代(859年から877年)と古く、現在地に移ってきたのは元禄2年(1689年)の事です。表の参道ももみじや桜の緑で埋まっていますが、この裏道を通ると本当に森なんだと実感しますね。森林浴と言うと大げさだけど、気持ちの良い小径です。この石橋は御行橋、元は修学院離宮入り口の音羽川に架かっていた橋で、後水尾天皇、霊元天皇が行幸された際に通られた事からこの名があります。昭和42年に本殿が改築される際、請願して下賜され、社宝として宮川に架けたとのことです。

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鷺森の名の由来は、神の使いとされる鷺がこの森に沢山住み着いていたからだとか。今は住宅街に囲まれていますが、元は田園地帯だったはずですし、近くには音羽川も流れています。ここで鷺は一羽も見た事はありませんが、かつては鷺の巣がそかしこにあったのでしょうね。

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御祭神は素戔嗚尊、元々の御祭神である牛頭天王はその本地とされます。神号を鬚咫天王(すだてんのう)と言い、鳥居の扁額にも書かれていますね。江戸時代の観光案内所にも鬚咫天王と記されており、かつてはこの名の方が通りが良かったのかな。  

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去年も紹介した八重垣の石です。説明書きにはこの石に触れて祈る事で、良縁に恵まれ悪縁を絶つ事が出来るという有り難い御利益があるとあります。でも横の看板には社務所で黒石を買い求め、その小石をこの上に乗せて祈ってくださいと書かれており、この黒石が700円とちょっと高いですね。なので触れるだけにしておきましたが、それだと御利益は出ないのかな。

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江戸時代の拾遺名所図会を見るとこの参道は無く、今の森の中を通る裏道が唯一の参道だった様です。こちら側は山になっており、何時の時代か判りませんが切り開いたのでしょうか。広々とした参道で、春は桜秋は紅葉で綺麗ですよ。観光客の姿はほぼ無く、地元の人たちが参拝に来る、文字通りの産土神ですね。いつ来ても気持ちの良い空間で、修学院あたりを歩くときには、貴重な休憩場所にさせてもらっています。

2024年8月20日 (火)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~圓光寺 8.15~

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今年圓光寺に来るのは、さつきに続いて三度目。先客は二人ほど、ここでも夏の暑い日に来る人は居るのですね。この季節、この寺ま楽しみは大きな百日紅にあるのですが、今年はあまり咲いていなかったです。去年は結構咲いていたのですけどね、この木は年によって差が大きい様に思えます。

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圓光寺は、徳川家康によって建てられた伏見学校に起原を持ちます。慶長6年(1601年)の事で、下野足利学校第九代学頭・三要元佶禅師を招き、儒学を広めるのが目的でした。その後間もなく元佶禅師を開山として寺に改め圓光寺と称しています。2年後、寺を相国寺境内に移し、その末寺となります。さらに寛文7年(1667年)に現在地に移り、貞享元年(1684年)に南禅寺の末寺となり今日に至ります。ただ、その間は波瀾万丈で、明治維新の廃仏毀釈の波をもろに受けて無住の寺となり、一時は廃寺寸前にまでなりますが、明治39年(1906年)に尼僧が入り、南禅寺唯一の尼僧専修寺院として整備され、命脈を保つ事が出来ました。

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サイトをいくつか当たってみたのですが、圓光寺は今でも尼寺と思っている人も多いようです。私も2005年頃に初めて訪れた時は尼寺という意識がありましたが、そのもう少し前、公開が始まった頃には既に尼寺としての役割は終え、男性住職に変わっていた様ですね。山門には研修道場と掲げられていますが、雲水が修行する場ではなく、一般向けの座禅体験が毎週日曜日の早朝に開催されています。

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この寺の特徴として、学校としての性格があったため出版事業を行ってきたという歴史があり、孔子家語、貞観政要、三略などの書物を刊行してきました。その名残として木製活字が残されており、全部で5万点もあるそうで、重要文化財に指定されています。一時は廃寺寸前だったのに、よくぞ散逸しなかったものですね。今は瑞雲閣に展示されているので、実物を見ることが出来ますよ。

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圓光寺は、初めて来た当時は詩仙堂の陰に隠れた存在で、訪れる人も少ない穴場でした。紅葉時にライトアップする事で一部の人には知られていたかな。そのライトアップも取りやめになり、何故止めるのですかと聞いたところ、木も働くのは9時5時、やはり夜は休めてやらないといけないと言われ、妙に納得した覚えがあります。その後何がきっかけだったのでしょうね、紅葉時には詩仙堂をもしのぐ人が押し寄せるようになり、今では11月半ばから12月初め頃には予約が必要なまでになりました。拝観料も400円から600円になり、さらに秋の特別公開は1000円になっています。かつての素朴で静かだった圓光寺が懐かしいと思うのは私だけかな。

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この参道は春の終わり頃に来ると牡丹が咲いています。今は随分と枯れ込んでしまい、それと言われなければ気づかないでしょうけど、花時分はなかなか綺麗ですよ。

この寺にはじめて来てから20年近く、何十回目の訪問になるかしらん。最初に来た時は地元の人が手伝いに来ており、応対もおおらかな地元密着型の純朴な寺という印象でした。その時感じた親しみ易さに惹かれて来ていましたが、今はすっかり観光寺院化して純朴さは無くなり、特に受付の対応が酷すぎます。長年慣れ親しんだ寺ですが、残念ながらここに来る気は失せました。まあ、春の桜は見事なので、年に一回だけは訪れようかな。有名になりすぎると尊大になるのは人も寺も同じですね。

2024年8月19日 (月)

京都・洛北 一乗寺から修学院周遊 2024 ~詩仙堂 8.15~

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令和6年8月15日、一乗寺から修学院界隈を散策してきました。この日は最後に松ヶ崎に寄って大文字の護摩木志納を行う予定でしたが、朝から暑いのなんの、最後はバテバテで修学院駅前からバスに乗りました。とてもじゃないけど、歩いていられなくなりましたね。去年も同じような事をして暑さで参っていますが、我ながら学習効果が無いと思います。

最初に訪れたのは詩仙堂、入り口にある門は小有洞と呼ばれます。この寺のコンセプトは唐様、各施設には唐風の名前が付けられています。

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変わらないようでいて少しずつ変化するのが詩仙堂。この日も受付の横にニューフェイスのお地蔵様が置かれていました。どうしたのですかと聞くとまた寄付して貰いましたとの事。何とも可愛らしいので撮っても良いですかと確かめ、カメラに収めたのがこの写真です。座禅を組むお地蔵様というのは珍しいと思って検索してみると、結構出てきますね。ただし、昔からあるものでは無く、売りものがほとんどですから、最近の流行なのでしょうか。

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ここに着いたのは受付開始の9時丁度。たぶん一番乗りかと思っていたのですが、既に数人の方が待たれていました。夏の平日にしては珍しいと思ったのですが、やはりお盆休みだったからかな。

詩仙堂の正式名称は凹凸窠(おうとつか)、でこぼこの土地に建てられた住処という意味です。詩仙堂は山裾にあり、自然地形として元から有った高低差を巧みに利用しています。この座敷が一番高いところにあるのですが、周囲の木々に遮られて見晴らしが良いという事は無いです。でも、丁寧に作り込まれたさつきの刈り込みと白砂からなる人工的な庭と、周囲の深山を感じさせる木々の重なりが、いつ来ても良い眺めですね。正直、冬は寒々しく感じますが、雪が降ると景色が一変して素敵ですよ。

ちなみにこの座敷は三階建の嘯月楼の一階部分、一番上の望楼には登る事はできませんが、ホームページにあるVRで見る事が出来ます。とても見晴らしが良く、かつては大阪城まで見えたとか。詩仙堂を造った石川丈山は大坂の陣で掟破りをし、家康の怒りを買って徳川家を去りましたが、ここから城を眺めながら何を思ったのでしょうね。

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庭園は百花塢(ひっゃかのう)と呼ばれ、その名の通り四季折々の花が咲いています。この日は桔梗が綺麗でしたね。不思議だったのは紫陽花が花を付けたままだった事で、ここでは刈り込みをしないのですね。枯れた花にも風情があるという事かな。その割に伸び放題になっていないのはなぜかしらん。この寺独特の手入れ法があるのでしょうか。

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桔梗の他にはススキがもう穂を出していました。1年前も同じ事を思いましたが、猛暑の中でも季節は着実に進んでいるのですね。暦の上では既に秋、植物はちゃんと季節の変化を感じ取っている様です。季節が過ぎるのは早いもの、清少納言も枕草子で書いています。「ただすぎにすぐる物 帆かけたる船。人のよわい。春、夏、秋、冬。」千年前の人も同じ事を感じていたのですね。

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下の庭にはお地蔵様が仲良く2体並んでおられます。たぶん座禅地蔵と同じく寄付されたものなのでしょうね。この横の灯籠の火袋の中にも小さなお地蔵様が入っています。もう随分前の事ですけど、置かれた当時には話題になったものですが、今は気づかない人も多いかな。

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この池には特に名前は付いていないようですね。ここでも意外だったのは花菖蒲の葉が刈り取られていた事で、夏の間育てなくて良いのかしらん。それとも毎年花が変わっている様な気がしていたのですが、やっぱり植え替えているのですかね。何回も訪れていると細かい所まで目が行ってしまいます。冒頭にも書きましたが、変わらない様で少しずつ変わっていくのが詩仙堂。絶えず手を入れていかないとこんな見事な庭は維持出来ないのでしょうね。

2024年8月18日 (日)

京都・洛中 上七軒ビアガーデン 2024.8.10

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北野天満宮の京の七夕を楽しんだ後は上七軒ビアガーデンに立ち寄りました。ここは上七軒歌舞会が運営するビアガーデンです。

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このビアガーデンが出来たのは何時だったけかな、確か15、6年前だったと思いますが、上七軒の経営が思わしくなく、苦肉の策として始められたのだったと記憶しています。この話を聞いた当時は驚いたものでした。何しろ普段はお座敷にしか出ない芸舞妓さんが、ビアガーデンで接客するというのは先代未聞の事でしたからね。結構あちこちで話題になっていたらしく、京都にはまるで縁の無い上司から誘われたときには、思わず何で知っているですかと聞き返したものです。その時は都合が悪くて行けなかったのですが、以来一度は行ってみたいものだと思っていました。でもその後なかなか機会が無く、一人で出かける様な場所でもないのでそのままになっていたのですが、この日は帰省していた息子が付き合ってくれたので、家族で出かけることにしました。

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場所は上七軒の歌舞練場で、席は室内、欄干、庭とありますが、お任せで選ぶことは出来ません。席料はビールと付き出し2品で2500円と安くは無いですね。追加料理も値段は書いてないですが、会計してみると一品千円の様でした。でもビールも料理も値段だけのことはあって、とても美味しかったですよ。

ここの売りの芸舞妓さんは、この日は四人でした。席で飲んでいると回ってきて話し相手になってくれます。この時、番号札に小さなピンを留めて、回ったという印を付けていきます。この印が少ない所を選んで別の芸舞妓さんが来てくれるという仕組みですね。なるべく公平になる様にと考えた工夫だそうです。あと記念写真もOKですが、個人の範囲での使用ということなので、ここにはアップ出来ません。

聞いてみると、上七軒の舞妓さんは四人しか居ないそうですね。一時人気が回復して人数が増えた様に聞いたと思うのですが、ここまで少なくなっているとは思いませんでした。考えてみれば休みは無いに等しいし、稽古も厳しいし、自由も効かない、夜遅くまで仕事と、いわゆるブラック企業並みですから、余程この世界が好きで、根性の座っている子でないと務まらないかな。実祭、せっかく応募してくれた子でも、途中で止めてしまうケースが多いと嘆いていましたね。花街も改革が必要な時代なのかしらん。伝統の灯は消えて欲しくないですけどね。

でもまだ上七軒が健在な内に来られて良かったです。これで念願が叶いましたしね。ちなみにこのビアガーデンも京の七夕の協賛事業の一つです。人気も高くて、予約時点で早い時間帯は一杯でしたし、時間の遅いこの時もほほ満席でした。上七軒の狙いはとりあえず成功している様ですね。ただ、舞妓さんたちは隔日に出なければならないわけで、かつほとんど立ちっぱなしでしたから結構大変でしょう。

上七軒のみならず祗園東も危ないと聞きますが、京都の伝統である五つの花街が何時までも続いてくれる事を願ってます。

2024年8月17日 (土)

大文字送り火2024 妙法 8.16

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大文字の送り火、今年も妙法へ行ってきました。目の前の宝ヶ池自動車教習所が開放され、間近で見る事が出来たので今年もやって来たのです。この教習所、ただで開放してくれるのみならず、日が暮れてから点火までの間は照明を付けてくれるというサービスぶり。電気代も掛かるだろうに素晴らしい地元貢献ぶりですね。

昨日は連日の猛暑から一転、夕方になると涼しい風が吹き、待っている間も快適でした。東海地方は猛暑、関東は台風と大変でしたけどね、関西には影響は無かったです。でも新幹線が止まっていたので、迷惑を被った方も多かったかな。

妙法はその名の通り「妙」と「法」の二文字からなりますが、一つの山として捉えられます。起原がそれぞれ違い、妙は日蓮宗の日像上人が松ヶ崎村で布教し、村人がこぞって日蓮宗に改宗した事を喜び、徳治元年(1306年)に西山に妙の字を書いて灯したと伝わります。また法の字は江戸時代になってから日良上人が東山に書いたとされます。妙法の並びが昔にしては左右逆で、それぞれ字体が違うという理由はこれで説明が付きますね。

ちなみにこの妙の山、実は上部が京都市上下水道局の配水池になっており、全くの自然の山ではありません。神聖な山に人工物を入れるなんて地元の人は反対しなかったのかなと思いますが、ここが水道のためには最適な場所だと説得されたのでしょうか。

ここ宝ヶ池自動車教習所はとても広くて芝生もあり、ほとんどの人は座って見ています。そうしないと後ろの人が見えなくなりますからね。大多数の人はそうなのですが、中には通路に立つ人が出てきます。去年はそんな事は無かったのですが、今年は数人の人が固まって立っており、迷惑な人たちだなあと思っていました。幸い私の前は開いていたのですが、点火のタイミングで飛び出して来た人が居ました。おかげで点火時の動画は撮れず仕舞い、何とも残念な結果に終わりました。マナーの問題ですけどね、沢山の人が座って見ているのだから、前に立てば見えなくなる人が居るというのは判りそうなものだけどな。一人立つと駄目ですね。次々に立つ人が出てきてしまいます。隣に座っていたお年寄り達も見えなかっただろうなあ、一時間前から待っていたのにね。他人の迷惑というものを考えて欲しいものですね。

仕方が無いので去年の動画を貼り付けておきます。基本的には変わらないですからね。

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妙が引火したのを見届けた後は法の字へと移動です。これが結構遠いのですよね。それに道が混んでいる上に、暗い中を自転車が通るので結構危ないです。来年行かれる方が居れば注意してください。法の字が見えるのは一カ所だけ、駐車場の前です。他にも松ヶ崎大黒天の参道や北山通沿いの駐車場から見えなくは無いですが、近すぎて上の方だけしか見えません。でもすぐ側で見る法の字は迫力満点ですね。あと地下鉄松ヶ崎駅一番出口の向かい側の歩道から、舟形の上の方だけ見えました。残念ながら写真は撮ったもののぶれぶれで、アップ出来るほどのものではありません。

さて、これで無事にご先祖様のお精霊さんを冥土に送り返すことが出来ました。夏は半ば過ぎましたが、まだまだ猛暑日は続く予報です。お盆を過ぎれば秋の気配というのが通り相場だったのですけどね。お互い健康に留意して、厳しい残暑を乗り切りましょう。

2024年8月16日 (金)

京都・洛中 北野天満宮 御手洗川足つけ燈明神事2024・石の間通り抜け神事 8.10 

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令和6年8月10日、北野天満宮を訪れてきました。これは御手洗川足つけ燈明神事と石の間通り抜け神事に参加するためで、どちらも京の七夕のイベントです。

京の七夕は2010年から始まったイベントですが、今は鴨川、北野紙屋川、梅小路、宇治の四つの会場になり、さらに市内各所で大小様々なイベントが行われています。ただ以前と違って鴨川は二日間になり、梅小路と宇治も小規模なイベントがいくつかあるという程度で、焦点がぼやけてしまった感じです。そんな中で、北野紙屋川エリアは京の七夕らしさが残っており、来るならここかなと思っていました。ちなみに六道まいりも協賛行事の一つだったのですね。日程以外七夕とは関係無い様な気もしますが、知らないうちに京の七夕に参加していたのでした。

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この看板の説明によると、御手洗川足つけ燈明神事は、平安時代に行われていた清めの神事である御手洗祭を復活させるにあたり、かつて流れてた御手洗川を復原し、その水の中を歩く事によって邪気を洗い流して夏を清々しく過ごしてもらうという趣旨だそうです。始まったのは2016年の事で、京の七夕の一行事としてでした。早い話、下鴨神社の御手洗祭とほぼ同じで、真似したと言うと叱られそうですが、まあ参考にしたのだと思われます。

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手順は下鴨神社とほぼ同じで、受付で頂いた蝋燭を手にして御手洗川に入り、途中にある親火から火を貰い、献灯台に献納するというものです。違うのは蝋燭に五つの種類があって、色によって願い事が異なるというところですね。黄色なら金運、赤色なら良縁、青色なら芸道上達など様々ありますから、好きな物を選べます。なお、奉納料は500円です。

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2016年に始まった時は献灯台が本殿近くにあり、消さずに持っていくのが大変なのと、歩く距離が長いので蝋燭が半分程度まて燃えてしまい、献灯するのに難儀したという覚えがあります。2年後に行った時も同じで、これはどうにかして欲しいと思っていたのですが、今回行ってみると献灯台が御手洗川を上がった所になっていました。参拝者から指摘があったのか、欠点に気づいたのかは判りませんが、改善されていたのは良かったです。

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御手洗祭は北野御手水神事とも呼ばれ、旧暦の七夕である8月7日に、神前に菅原道真公後遺愛の松風の硯、角盥、水差し、梶の葉七枚、夏の野菜、素麺、御手洗団子をお供えして祈るという祭事です。室町時代の記録では、神殿大預と小預という二人だけで行う神事で、これらの供物を捧げた神前において、前日に井戸浚いをした阿迦井から汲み上げた水を、盥に掛けた御簾に七回通すのですが、一回につき六から七に分けて通すとあります。この過程を御手水神事と言うのだそうですね。この時内陣は暗闇で、大預は道真公の漢詩と和歌を唱え続けます。盥に貯まった神水は小筒に分けられ、曼殊院や幕府、それに天満宮構成員に分けられたそうです。この神水を飲めば全ての汚れが祓われ、すこやかな身体を保証してくれたとの事です。

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そしてもう一つ別の過程があって、芋の葉に置いた露を硯に入れて墨を擦り、その墨を筆に付けて梶の葉と料紙を添えて内々陣の神前に供えるのだそうです。これは道真公にどうぞ歌の続きをお読みくださいという意味なのだとか。これが古い記録にある北野御手水神事なのですが、長く途絶えていた後、復活させた現在も同じようにしているのでしょうか。

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七夕祭の一環として行われているのが北野萬灯会。参道を沢山の提灯が照らし、笹飾りが添えられています。いつもの北野天満宮とはまるで雰囲気が異なり、別世界に来たように華やかでした。ここは本殿前より大人気でしたね。

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もう一つの神事が石の間通り抜け神事です。石の間とは本殿と拝殿を繋ぐ一段低い場所で、床に石が敷かれている事からこう呼ばれます。石の間は日光東照宮など他の権現造りの社にもありますが、実際に床が石なのはここだけの様ですね。一般人が入れるご神体に最も近い場所で、年に一度七夕祭に合わせて公開されます。以前にも一度入っていますが、前回は通り抜けるだけだったのに対し、今回はまず入る前にお祓いを受け、その後神職による丁寧な案内がありました。いつの間にか随分と進化していたのですね。説明の内容は、拝殿の中央が二重折り上げ格天井になっている事、本殿内部には夥しい数の鏡が奉納されている事、屋根を支える蟇股には様々な模様が描かれている事など、興味深い話が多かったです。石の間では装束や灯籠など神宝の数々が展示されており、豊臣家と徳川家という敵同士の灯籠が並んでいるのが面白かったですね。

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(パンフレットより引用)

最後にあったのは木造鬼神像で、本殿の奥から見つかったものだそうです。とても素朴な造りで、土俗的な匂いを感じましたね。平安時代の庶民が作り出したもので、邪気を払うために大路小路に置かれた岐神(ちまたがみ)だったのではないかと考えられています。物語や日記では知る事が出来ない当時の庶民の顔が、垣間見えた様な気がしました。

奉納料は千円ですが、これだけ丁寧な説明をして貰えると十分値打ちがあったと思います。

なお、北野天満宮の七夕祭は8月18日まで、神事に参加出来る時間は午前9時から午後8時までです。

2024年8月15日 (木)

大文字送り火2024 護摩木志納 ~妙法 8.15~ 

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今年の五山送り火、護摩木の志納は妙法で行ってきました。これまで大文字、左大文字、鳥居形と行ってきましたから、これで四カ所目ですね。来年は船形を目指そうかしらん。別に全て回ったところで、特別な御利益は無いですけどね。

場所は京都市地下鉄の松ヶ崎駅、一番出口を出てすぐ左側、武衛門ビル一階です。護摩木志納場所としては、最も交通至便なところですね。ちなみに隣はノーザンチャーチ北山教会、毎年クリスマスイルミネーションを見に来るところです。いつも夜にしか来た事が無いので、昼間というのはなんだか勝手が違って戸惑いました。

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護摩木は保存会によって違い、大文字や左大文字だと松の割り木があったりしますが、ここは綺麗に製材された板でした。これは字が書きやすいというメリットがありますね。この裏に願い事を書くのですが、内容は先祖代々供養、家内安全、健康祈願など何でも良く、これは各保存会共通です。その願いを大々的に法要してくれるのですから、有り難い事ですよね。

ちなみに志納料は400円でした。15年前の大文字で300円でしたから、ほとんど変わっていませんね。志納する側としては助かりますが、保存会としては資金的に大丈夫なのかな。妙法の護摩木受付は明日10時から13時までです。他の保存会は午前中で終わるところもありますので、こちらで確認してください。

2024年8月14日 (水)

京都・洛東 蓮2024 ~建仁寺 8.7~

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六道まいりの帰りに立ち寄った建仁寺です。一番の目的は蓮を見る事でしたが、残念ながら盛りは過ぎていました。花托が沢山あったので、もう一週間早ければもっと綺麗だったでしょうね。つぼみは見えなかったので、この数日後に終了したと思われます。

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蓮の咲く放生池の畔に建つのが三門、別名を望闕楼と言います。御所を望む楼閣という意味なのだとか。大正12年に静岡県の安寧寺から移築されました。ではオリジナルの三門はどうなったのかと言うと、これが良く判りません。建仁寺は創建以来何度となく火災に見舞われており、その都度再建されてきたのですが、三門を再建したという記事は見当たりません。という事はいつかの時点で焼失し、長く再建されること無く放置されていたのかな。今の相国寺の様な状態だったのでしょうかね。

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望闕楼から放生池越しに見た勅使門です。平清盛邸の門とも教盛邸の門とも言われますが、様式としては鎌倉時代後期のもので、残念ながら時代が合いません。扉や柱に矢の跡が残っていることから矢立の門あるいは矢の根門とも呼ばれます。

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左を見ると開山堂。臨済宗の開祖、栄西禅師が眠る場所で、建仁寺で最も清浄な聖域とされます。普段は非公開ですが、時折特別公開が行われます。私も10年前の京の冬の旅で訪れた事がありますが、開放的な建仁寺にもこういう場所があるんだと認識を新たにしたのを覚えています。

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境内の西側にある塔頭が久昌院。徳川家康の家臣、奥平信昌が開いた寺で、ここも普段は非公開ですが数年に一度くらいの割合で特別公開が行われます。直近では昨年の秋に開かれていましたね。私も10数年前に訪れたことがありますが、東山を借景にした庭が見事だったのと、長篠の戦いの時に磔にされながら味方に援軍が来る事を知らせた事で有名な鳥居強右衛門の絵が印象に残っています。過去記事は消してしまったので、次に機会があればまた入ってみようかな。

紅葉時分にはこのもみじが綺麗に色づくのですが、ここに来る人は少ないのでお勧めのエリアですよ。

2024年8月13日 (火)

京都・洛東 松原通 愛宕念仏寺元地 

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六道まいりの帰り道、西福寺から少し松原通を下ったところに愛宕念仏寺元地という石碑を見つけました。今は奥嵯峨にある愛宕念仏寺が元あった場所を示す石碑ですね。この石碑があるというのは知っていましたが、具体的な場所までは判っていませんでした。これまでも探したことはあったのですが見つからず、この日たまたま目に入ったという次第です。なぜ今まで判らなかったのだろう思うくらい、あっさり見つかりましたね。

愛宕と書いておたぎと読みます。かつてこのあたりは愛宕郡と呼ばれていたのですね。創建は奈良時代の事で、766年に称徳天皇によって開かれたとされます。念仏寺と呼ばれるようになったのは後世の事で、創建当時は単に愛宕寺だった様ですね。平安時代に入ると真言宗の末寺となりますが、醍醐天皇(在位897~930)の頃には既に荒れ寺になっていた様です。そして止めは鴨川の氾濫で、堂宇が全て流され、廃寺同然となってしまいました。この石碑がある場所は鴨川から300m程離れておりピンと来ない話なのですが、当時は大和大路の辺りまでが河原だったので、大水が出ればここまで洪水が来る事はあったのでしょう。北隣にある建仁寺にも水害に遭ったという記録があり、鴨川が如何に暴れ川であったのかが判る出来事です。

それはともかく、愛宕寺は醍醐天皇の命により天台宗の千観内供によって復興されます。たぶん天皇勅願の寺ですから捨て置けなかったのでしょうね。この千観内供が念仏信者だった事から、いつしか愛宕念仏寺と呼ばれるようになったそうです。当時は七堂伽藍を備えた大寺だったのですが、その後興亡を繰り返し、江戸時代には本堂と仁王門、それにいくつかの末社が並ぶという程度にまで縮小していたようです。でも都名所図会に載るくらいですから、それなりに名の知れた寺だったのでしょうね。

明治になると廃仏毀釈の波をもろに受け、境内にあった末社は無くなり、本堂と仁王門、それに地蔵堂だけが残りました。大正時代になると松原警察署の建設に伴い敷地の整理に迫られ、現在地に移転して再起を図りますが上手く行かず、遂には無住の寺となって廃墟同然となってしまいました。そして昭和30年に西村公朝氏が住職として入り、懸命な努力の結果、京都一の荒れ寺が奥嵯峨の一名所として蘇ったのは周知のとおりです。

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愛宕念仏寺があった場所には、移転を惜しんだ地元の人によってお堂が建てられたと聞いていたので、路地の中に入ってみました。たぶん木造の小さなお堂だろうと思っていたので最初は気づかなかったのですが、奥まで行っても見つからなかったので引き返してみたところ、お堂風のコンクリートの建物がありました。これかと思ってフェンス越しに入り口付近を見ると、確かに愛宕念仏寺と書いてありました。かなり綺麗な建物だったので、最近になって建て替えたのかしらん。ただ、どう見ても個人のお宅の中だったので、これ以上詮索するのは止めにしました。周囲は全くの住宅街で、このお堂以外に当時を偲ばせるものは何も無いですね。

称徳天皇はなぜこの場所を選び、この寺を建てたのだろうとか興味は尽きないのですが、残念ながら資料が無くて詳しいことは判りません。創建当時はまだ鳥辺野は送葬の地になっていなかったはずですし、鴨川と東山に挟まれた風光明媚な場所だったのでしょうか。どんな場所だったのか当時の景色を見てみたいものですね。

今年の秋は久しぶりに愛宕念仏寺に行って見ようかな。お寺のお勧めにある様にバスに乗って行き、嵯峨野を逆に歩いてみるのも良いですね。なんだか楽しみが出来た気分です。

(地図をズームすると愛宕念仏寺元地の石碑の標記が出てきます)

2024年8月12日 (月)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~大文字の寺 浄土院 8.1~

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銀閣寺の北隣に浄土院があります。大文字送り火の世話をする事から、通称大文字寺とも呼ばれます。浄土宗知恩院派の寺で、ご本尊は阿弥陀如来像。大文字送り火の点火の際に、中央のお堂に祀られている弘法大師像前で、この寺の住職がお経を唱えるのが慣わしとなっています。

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浄土院の前身は浄土寺という天台宗の寺だとされています。銀閣寺の記事で書いたように、足利義政は東山殿を建てる際に浄土寺の立地が気に入り、相国寺の西に移転させて山荘を築いたとされます。浄土寺はやがて衰退して無くなりますが、東山の跡地には草庵が残されていました。その草庵に浄土宗の泰誉浄久が入り、浄土院として再興させました。

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浄土寺は文献には屡々登場しており、平安時代の初期から存在したと推定さていますが、遺構はほぼ残っておらず、幻の寺と言われます。ただ銀閣寺の西側の広大な範囲に浄土寺と付いた地名が残っており、例えば真如堂や東北院の住所も浄土寺真如町です。これから推定すると、銀閣寺から神楽岡にかけて寺域を有していた巨大な寺だったと考えられますね。後一条天皇の遺骨が一時納められたのもこの寺で、皇室とも縁が深かった事が窺えます。院政期には後白河法皇の下で権勢を振るった丹後局の山荘があった事が知られており、浄土院の境内に等身大の像が置かれています。鎌倉期から室町期にかけても隆盛を誇っていたと思われ、1443年には義政の弟、義尋が門主となっており、幕府とも関係が深かった様ですね。しかし、1449年に伽藍が焼失してしまっており、ここから寺運の衰退が始まった様です。wikipediaなど複数のサイトでは応仁の乱で焼失したと記されていますが、それ以前にほとんどの堂宇を失っていたのでした。義政が移転させたのはわずかに焼け残っていた伽藍だったのかな。あるいは移転させたのは墓地だったという説もありますね。いずれにせよ平安時代より続いていた巨大持院を廃寺に追い込んだのは、義政だったという事になりそうです。なお、浄土院のご本尊は浄土寺より受け継いだものと伝わります。

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大文字の送り火の起原については諸説ありますが、大きく分けると弘法大師起原説と足利義政起原説に分かれます。その一つとして、浄土寺が火災に見舞われた時にご本尊が如意ヶ嶽の上に飛び上がり、四方に光を放ったと言われます。弘法大師はこの奇瑞を後世に残すべく、大の字を描いたと伝わります。また別の説として、都に疫病が流行したとき、弘法大師が如意ヶ嶽の中腹に登り、護摩を焚いて玉体の安穏を祈願した事が始まりとも言われます。いずれも江戸時代の観光案内書に書かれた事ですが、地元に伝わっていた伝承を元にしたものなのでしょうか。実際、地元では弘法大師説が支持されており、大の字の中央に御大師様が祀られているのはこの為なのでしょう。

その延長として、送り火の消し炭を半紙に包んで玄関に吊しておくという風習があります。泥棒除け、厄除けになるという俗信があるのですが、この消し炭、本来は翌日に山に上って拾いに行くものなのでのですが、年々争奪戦が激しくなって来た事から、最近では禁止されている送り火当日に山を登って拾いに来る人が増えているそうです。保存会ではその対策に頭を痛めているとか。規則違反をして手に入れたものに御利益があるものなのでしょうかね。

銀閣寺のホームページには、義政が子の義尚の死を悲しみ、供養のために始めたと紹介されていますね。これも江戸時代の地誌などに記された説なのですが、どちらかと言えばこちらの方が信憑性が高い様にも思えますね。しかし、いずれにせよ後世に伝承を元に記されたものには変わりなく、どの説も決定打には欠ける様です。

確かな記録として残るのは小槻忠利という公家が江戸時代の初期に残した日記で、「山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也」と記されているそうです。この頃にはすっかり定着していたらしく、やっぱり始まったのは室町時代と考えるのが妥当なんじゃないかなという気がしますね。

起原はともかくとして、送り火は長年続いてきた伝統で、家にお迎えしていたお精霊さんを、冥土に送り返す為の行事です。今年も護摩木を奉納し、心を静かにしてご先祖の霊を送りたいと思っています。

なお、五山の送り火と言われますが、五という数字に特に意味は無く、かつてはもっと沢山あったものが様々な理由で消えて行き、今残って居るのが五つという事です。各保存会では後継者や費用の確保に苦労されている様で、いつまで五山が維持されるのでしょうか。出来ればずっと残って欲しいところですが、少子高齢化が進む中、いつか限界が来るような気もしますね。今は保存会の方々の頑張りに期待するしかなさそうです。

2024年8月11日 (日)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~銀閣寺 8.1~

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法然院を出て右へ曲がり、道なりに歩いて行くと銀閣寺の入り口にたどり着きます。あまり知られていない道ですが、銀閣寺の参道の混雑を避けるには良い道ですね。それに哲学の道を経由して行くより、歩く距離がずっと短くて済みます。

この銀閣寺というのは通称で、正式には東山慈照寺と言い、相国寺の境外塔頭です。

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総門を潜ると現れるのがこの特徴的な参道です。銀閣寺垣と呼ばれる背丈の低い竹垣の背後に、椿などの背の高い常緑樹を配し、緑に囲まれた独特の空間を演出しています。一歩足を入れると急に外界と遮断された様で、特別な空間に入ったと感じますね。冬に来ると、藪椿の赤い花がぽつぽつと咲いているところを見る事が出来ますよ。

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方丈の前に盛られた広大な砂山は銀沙灘と呼ばれます。創建当時には無く、江戸時代に整備されました。以前放映されたブラタモリでは、長年放置されて埋まってしまっていた錦鏡池を浚渫した際に出てきた砂を、有効利用してここに敷き詰めたと紹介されていましたね。江戸時代に慈照寺が再興された時の記録に「池を穿ち」とあり、戦乱により荒廃していた間に錦鏡池が埋まってしまったのは確からしく、この説を裏付けている様に思われます。

またこれとは別に寛政年間に方丈が再建されているのですが、禅寺の方丈の前には白砂の庭がある事が通例であり、それに倣ったのではないかという説があります。最初は薄かったのですが、錦鏡池を浚渫する度に砂の量が増え、今のようになったという説もあります。他には中国の西湖の景色を再現したのだとも、月の光を反射させるために白砂を敷いたのだとも言われます。

銀閣の手前に見える円錐台の砂山が向月台。これも何の為に作られたのか判っていませんが、俗説としてここに座って月が出るのを待っていたと言われています。もっとも、どうやったら砂を崩さずに上れるんだと思いますけどね。別の説としては、銀沙灘と同じく月明かりを銀閣に反射させるためのものではないかと言われています。そう聞けば丸い形は鏡のようにも見え、一度満月の夜に来て確かめてみたいものですね。真相は江戸時代の作事方に聞くより無いですが、銀沙灘と共に銀閣寺独特の景観を形作っている事は確かです。

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銀閣寺を築いたのは室町幕府第八代将軍であった足利義政です。建設を開始したのは文明14年(1482年)で、応仁の乱が終結して間もなくの事でした。幕府も京の町も長く続いた戦乱により疲弊しきっていましたが、義政は庶民に段銭や夫役を課す事によって費用を捻出したと言います。庶民に取ってはさぞかし迷惑な事だったでしょうね。

義政が築いたのは寺ではなく自ら住むための住居で、東山山荘あるいは東山殿と呼ばれました。場所は浄土寺があった所で、月待山の山麓という風光明媚な立地が気に入ったのでしょうか、義政は浄土寺を相国寺の西に移転させ、土地を確保して建設に着手したのでした。山荘には超然亭、西指庵、漱蘚亭、御會所、弄清亭、東求堂、観音殿、釣秋亭、龍背橋、夜泊船など多数の建物があったと言われ、今とは随分と違った光景だったと思われます。池も船を浮かべて遊べるほど大きく、発掘調査の結果から裏山の中腹にも庭があった事が知られており、二段式の庭園だったと推定されています。写真はその一つ東求堂で、義政の念持仏である阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。この中の一室「同仁斎」は義政の書斎だったと言われ、付書院、違い棚を備えた四畳半の畳敷きの部屋で、現代に続く和室の原型になったとされます。

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山荘の工事は8年間続けられましたが、後に銀閣と呼ばれる観音殿が出来上がる前に義政は亡くなっており、完成した姿を見る事はありませんでした。義政の死後間もなく、その遺言により山荘は禅寺に改められて相国寺の塔頭となり、義政の院号「慈照院」にちなみ慈照院と命名されました。しかし、相国寺の塔頭大徳院が義政の塔所影堂になった事で慈照院と名を改めたため、混同を避けるべく慈照寺に改名されています。またこれも同じく遺言により開基は義政、開山は夢窓疎石と定められましたが、疎石は慈照寺が出来る100年近く前に亡くなっている人で、相国寺の例に倣ったいわゆる勧請開山です。

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義政は武人でありましたが文化人としての側面も持っており、庭師の善阿弥、絵師の狩野正信、土佐光信、能楽の音阿弥などを召し抱え、東山殿を中心に、侘び、寂び、幽玄を基調とする、茶道、華道、能、庭園など後世にまで影響を与えた東山文化を形成しました。日本文化の原型を作ったという意味においては、偉人と言っても良いのでしょうね。

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義政は文化人としては素晴らしいが、政治家としては無能だったと言われます。しかし、幼少期はともかく成人してからは将軍として親政を行い、彼なりの政治力を発揮しています。ただ屡々飢饉に見舞われるなど世情が不安定であり、何より山名宗全に代表される大大名が多すぎるという室町幕府の根本的な欠陥が響き、十分な統制が出来ませんでした。その結果起ってしまったのが応仁の乱で、義政なりに乱を収めようと手を尽くしましたが功を奏さず、京都中が焼け野原となるという大乱になってしまいました。義政の最大の失敗は中立であるべき将軍が東軍に属してしまった事で、調停機関を失った大名達は戦い続け、遂には戦いの大義名分がどこにあったのかも判らなくなり、疲弊しきった大名達が国に帰るまで戦乱は続きました。

義政はまだ乱が続いていた文明5年(1473年)に子の義尚に将軍職を譲って隠居しており、東山殿を築いたのも政治の世界に嫌気が差した逃避行の様に言われます。しかし、実際には義尚はまだ幼少で、義政は大御所として政治の実権を握り続けていました。義尚は長じても名ばかりの将軍のまま置かれ、二度に渡って出家しようとするなど大いに不満を抱えていた様です。東山殿も単なる隠居所ではなく、政庁としての機能を持っていたと言われます。

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豪壮を誇った慈照寺でしたが、第十二代将軍足利義晴の頃、将軍家は都の主導権を廻って三好氏と抗争を繰り返しており、慈照寺の周辺でも屡々戦いが行われました。天文16年(1547年)には義晴と三好宗三、天文19年(1550年)には第十三代将軍の足利義輝と三好長慶がそれぞれ戦っており、慈照寺はその都度羅災しています。そして極めつけは永禄元年(1558年)に再び義輝と長慶が戦かった北白川の戦いで、慈照寺は観音殿と東求堂を残してことごとく焼失してしまいました。この最後の戦いの時に白川から浄土寺にかけて火を掛けたのは義輝で、将軍家自らが慈照寺を焼いてしまった事になりますね。なお銀閣寺のホームページには天文19年に長慶と第十五代将軍足利義昭が戦ったとありますが、この年には義昭はまだ将軍になっていないので誤りです。

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慈照寺の荒廃ぶりは多聞院日記に記されており、元亀元年(1570年)の目撃談として、東山殿の旧跡は名のみで、あばら家の間に一つのお堂だけが見えたとあります。このお堂が東求堂なのか観音殿だったのは判りませんが、まさに廃墟と言って良い有様ですね。しかし、その廃墟に前太政大臣近衛前久が住むようになるですから、世の中何が起きるか判りません。前久は天正15年(1587年)に奈良から移り住んで、亡くなるまでの28年間を東求堂で過ごしています。慈照寺六世の住職が前久の弟だった縁に依るものだったらしいのですが、前久ほどの貴人が荒れ果てた寺にしか住処がなかったのでしょうか。それとも生涯の大半を流浪していた人なので、意外と言うには当たらないかも知れませんね。

相国寺は豊臣家の仲立ちもあって近衛家に慈照寺を貸していたのですが、前久が住んでいる間は住職を派遣する事も出来ず、由緒ある寺が荒れるに任されている事を嘆き、近衛家に何度も返還を申し入れましたが聞き入れられず、そのまま捨て置かれました。そして慶長17年(1612年)に前久が亡くなった事を機に徳川家康に訴え出て、その裁定によりようやく取り戻す事が出来ています。

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慈照寺の復興に着手したのは慶長20年(1615年)の事で、宮城豊盛を普請奉行に迎えて行われました。豊盛は近江の人で、はじめは織田家臣団にあり、後に秀吉に仕え、豊臣姓を与えられるほど重用されました。目立った武功はありませんが、偵察や前線との連絡、物資の補給などに従事し、時には城の留守を任されるなど、武人と言うより官僚のような存在だった様ですね。秀吉が亡くなった際には、朝鮮に講和の使者の一人として派遣され、無事に全軍を帰国させています。この功により一万石の大名となっており、実務に長けた人だった事が知れますね。関ヶ原の戦いでは西軍に属しますが、早くから家康に内通し、五千石に減知されましたが改易は免れています。大坂の陣の前に家康に仕えるようになり、冬の陣、夏の陣ともに徳川方として参陣しています。冬の陣では手傷を負って秀忠から見舞いを受けており、徳川家でも信頼されていた様子が窺えます。土木建築にも通じていた人で、近江の阿弥陀寺の再建、金戒光明寺の阿弥陀堂再建、知恩院の三門の普請奉行などに従事していますから相当なものですね。慈照寺においては池を穿って庭園を整え、堂宇を一新し、奇観を蘇らせたと記されていますから、大々的な改修を行ったと思われます。現在の庭園はほぼこの時に整備されたと見て良い様ですね。

一つ判らないのは修復の費用は誰が出したかで、慈照寺は寺領として35石を家康から与えられていますが、その程度の経済力でまかなえたのかしらん。普通に考えると本寺である相国寺でしょうけど、するとなぜ豊盛が普請奉行になるのでしょう。資料は無いですが、家臣を普請奉行にしているくらいですから徳川家が援助したのかな。知恩院の三門のケースから考えるとそうなるけど、なぜどこにも書いて無いのでしょうね。ちょっとした謎です。

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慈照寺を象徴するのが観音殿。その名の通り観音菩薩を祀るためのお堂です。鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿(現存しません)を参考にして設計されたと言われ、初層は住宅風、上層は仏殿風の造りになっています。まるで性格の違う建物を二段重ねにしている訳で、金閣も三層とも造りが異なるところを見ると、これが無町時代の流行だったのでしょうか。今は無い瑠璃殿も同じような造りだったのかな。

初層は心空殿と言い、大きく取られた広縁と開放部の大きい障子戸が印象的ですね。一度ここに座って東山を上る月を見てみたいものです。中には入れませんが、テレビで紹介されていたところでは、障子の向こうは仏間になっていて、小さな地蔵菩薩を千体集めた仏壇、千体地蔵菩薩が収められています。他に二部屋ありますが、後世に改変されたものらしく、使い道は判っていないらしいですね。

上層は潮音閣と言い、三つ並んだ花頭窓にリズム感があり、周囲に廻らされた欄干が格式の高さを感じさせます。内部はこれもテレビからの情報ですが、漆黒の漆塗りの広間の中に金色に輝く洞中観音菩薩が祀られています。テレビの画面越しにしか見た事がありませんが、実に荘厳な空間で、これを考えたのはやはり義政なのかな、素晴らしい発想の持ち主ですね。

観音殿は通称の銀閣の名で知られますが、周知の様に銀色に輝いている訳ではありません。以前は当初貼られていた銀箔が剥がれてしまったのではないかという説もありましたが、2007年から2010年にかけて行われた修復作業の際に調査が行われた結果、銀箔が貼られていた形跡は見つかりませんでした。その代わり、上層部の壁には黒漆が塗られており、さらには軒回りには鮮やかな彩色が施されていた事が判っています。今とは随分と違う印象ですね。修復にあたってこの黒漆を再現しようかという案もあったのですが、慈照寺側が修復前のままで良いと判断したため、元の侘び寂びの効いた風情のまま置かれました。

銀閣と呼ばれるになった理由には諸説がありますが、一説には万延元年(1658年)に刊行された観光案内書の洛陽名所集に、銀箔により彩しければ銀閣と言う、金閣に倣うと記されており、以後の案内書は皆これに倣うようになったと言われす。当時の慈照寺は非公開の寺で、庶民が簡単に見る事ができなかったため、確かめられること無く伝聞として広まったのでしょうね。何故銀箔で彩した様に見えたかについても諸説ありますが、壁面に塗られた黒漆が劣化してしまって白くなっていたため、遠目には銀箔を貼った様に見えたという説が有力な様です。他には金閣に対比する楼閣だから銀閣と呼ばれた、あるいは義政は完成前に亡くなってしまいましたが、計画としては銀箔を貼るつもりだったから銀閣と呼ばれたなどとも言われます。

私的には銀色に輝く楼閣より、東山文化が目指した侘び寂びの境地に相応しい、今の姿が良いなと思っていまいます。

銀閣寺について調べていると様々な説があり、まとめようとすると長文となってしまいました。名刹であるが故に研究する人も多いのですね。相矛盾する説もあり、断片的な事しか書いていない資料もあって何が正しいのか判りませんが、これだけ有名な寺なのに、権威ある説が無いというのも珍しいですね。この美しい寺にも様々な歴史があったという事を踏まえて、また訪れてみたいと思います。

2024年8月10日 (土)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~法然院 8.1~

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安楽寺から法然院に来ました。敷地は隣同士なのですが、法然院の墓地が広大なため、随分離れている様に感じます。法然院の魅力はまずこの参道、鬱蒼とした木々に挟まれた道の先に茅葺きの門が佇む風情は、この寺が住宅街に隣接しているとは思えず、あたかも深山に来たかの様です。

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山門を潜ってまず目に入るのが砂を盛った二つの山、白砂壇と呼ばれる施設です。ただの修景施設ではなくちゃんと宗教的な意味があって、この間を通る事によって心身が清められるのですね。表面には模様が描かれており、周期的に描き換えられます。この日は水紋を表すのかな、円が描かれていました。この白砂壇を描き換えられているところを見た事がありますが、四角い木切れを使ってまず元の模様を消し、お手本も無しで即興で新しい文様を描かれていました。書き手のお坊様は飄々とした感じで、特に考え込む様子も無かったのですが、毎回見栄えのする文様を描くのは修練の技としか言い様が無いですね。大したものだと見とれていたのを覚えています。

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法然院の起原はホームページに依ると、鹿ヶ谷の草庵で法然の弟子、安楽と住連が、後鳥羽上皇の女房、鈴虫と松虫を上皇に無断で出家させた事により上皇の逆鱗に触れ、二人の弟子は死罪、法然は讃岐国に流罪になるという事件が起こりました。その後草庵は荒廃していましたが、延宝8年(1680年)に知恩院第三十八世萬無和尚が法然縁の地に念仏道場を築くことを発念し、弟子の忍澂が受け継いで伽藍が築かれたとあります。でもちょっと待った、松虫・鈴虫の事件は安楽寺で起きた事ですよね。そして安楽寺のホームページには流罪から戻った法然によって草庵は復興され、その後天文年間(1532年から1555年)に本堂が再建されたとあります。何だか矛盾した話で良く判らないのですが、萬無和尚は安楽寺の存在は無視して、隣を法然縁の地として法然院を建てたという事なのでしょうか。寺の縁起には辻褄が合わないことがよくありますが、隣同士でここまで食い違うというのも珍しいと思います。

ここからは私の推測ですが、安楽寺は浄土宗西山禅林寺派(現在は独立して単立寺院)に属していたため、浄土宗総本山の知恩院としては自らの法統に繋がる法然縁の寺が欲しかったんじゃないかしらん。浄土真宗の東大谷と西大谷の様なものなのかな。違っていたらごめんなさい。

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法然院の本堂は境内の奥まった所にあります。本尊は阿弥陀如来座像で、観音菩薩、勢至菩薩像が一緒に祀られています。また法然上人像も祀られていますが、立像というのが珍しいですね。立ち姿の法然上人像というのは他にもあるのかな。ご本尊の前には二十五菩薩を表す二十五の生花が散華されています。ただし、普段は扉は閉まっており、中は暗いので外から見ることは出来ません。

原則非公開の寺ですが、毎年4月1日から7日、11月18日から24日には特別公開が行われます。また毎月26日には山山詠唱会という行事が行われる様ですね。たぶん御詠歌を唱う法要なのかな。他にも法然院サンガという催しが月に何度かあり、一般人でも参加出来るそうですよ。内容としては法話や法要などのほか、コンサート、映画の上映、読書会、さらには落語の会など多岐に渡っており、とても開かれたお寺ですね。内向きでない、生きたお寺と言えましょうか。

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法然院にはモリアオガエルが生息しており、6月から7月頃に来ると池の畔の木に白い卵塊があるのを見る事が出来ます。このモリアオガエルは全国的に数が減少しており、絶滅危惧種に指定されている府県も多いですが、京都のお寺を廻っていると結構あちこちで見かけます。最近では岩倉実相院泉涌寺御座所庭園に居ましたね。お寺は殺生禁止の場所ですから、生き延びる事が出来ているのかな。そのうち野生種が居なくなって、京都のお寺だけに生息しているなんて事にならなきゃ良いのですけどね。

法然院は外国人にも人気があって大抵何人か来ているのですが、この日は珍しく誰も居ませんでした。ここを独り占め出来たのは初めてじゃないかしらん。蝉しぐれだけの法然院はとても良いですね。次に来るのは紅葉の頃かな。ほっこりとした気分になった後は銀閣寺へと向かう事にします。

2024年8月 9日 (金)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~哲学の道8.1~

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熊野若王子神社から哲学の道に入りました。ここをゆっくり歩くのは久しぶりです。なにしろ人気の高い道ですから普段から人通りが多く、風情を楽しむゆとりは無いですからね。特に桜時分の混雑は酷く、インバウンドの人で溢れかえっていて、桜を楽しむどころの騒ぎでは無かったです。

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哲学の道は本来遊歩道ではなく、疎水分線の管理用通路でした。出来た当初は芝生が植えられている程度だったのですが、周辺の南禅寺や銀閣寺、永観堂など風光明媚なところを廻るのに便利だったせいでしょうか、自然と歩く人が増えていったそうです。また当時は周辺は田園地帯だったと思われますが、名所旧跡に近く、かつ閑静な環境を求めてか文人が多く住む様になり、文人の道と称されていた様ですね。

大正10年(1921年)には近く(白沙村荘)に住んでいた橋本関雪が、長年暮らして来た京都に恩返しをしようと考えて300本の桜を寄付し、道沿いに植えた事で桜並木の道となりました。これで一気に道の雰囲気が変わった事でしょうね。この桜は関雪桜と呼ばれ、今でも一部が残っている様です。京都市では関雪桜を後世に伝えようと、クローン技術を使って後継木を育てているそうですね。

丁度この頃、京都大学の教授を勤めていた哲学者西田幾多郎が、好んでこの道を歩いて思索に耽ったとされ、その姿を見た地元の人たちが哲学の小径、思索の道などと呼ぶ様になりました。

哲学の道の名が世間に広く知られるようになったのは戦後の事で、昭和47年(1972年)にこの道に砂利を敷くなど保存運動をしていた地元の人々が話し合い、この名前が定められました。私も哲学の道という名を知ったのはこの頃だった様に記憶しています。確か新聞に新しい名所として紹介されたんじゃなかったかな、その頃国鉄が展開していたディスカバージャパンのキャンペーンによる旅行ブームも影響したのでしょう、この道を訪れるのがちょっとした流行になりましたね。昭和53年(1978年)には廃止された市電の敷石を利用して敷石を並べ、450本の桜を植えるなどさらに整備が進められました。昭和56年(1981年)には西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられ、観光地としての地位が不動のものとなりました。

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若王子から少し入った所にあるのが宗諄女王墓。光格上皇の養女で、霊厳寺の最後の門跡となった人でした。1890年没ですから、工事終了前後にここに葬られたと思われます。なぜこの場所が選ばれたのかは判りませんが、民家が多い沿道にあって、京都らしい風情を感じさせてくれるのは確かです。

今の疎水分線は浅い水深しかありませんが、当初の計画ではもっと多くの水を流し、水力に利用する予定でした。水力と言っても発電ではなく水車です。疎水沿いに沢山の水車を作り、その動力を利用してこのあたりを一大工業地帯にしようとしたのでした。何の工場を予定していたのかまでは判りませんが、当時の事ですから紡績工場か何かでしょうか。しかし、工事途中でアメリカに水力利用の実態を視察に行った田辺朔郎技師は、水車は時代遅れでかつ動力としても不足していると知り、計画は変更されました。その結果生まれたのが蹴上発電所です。商業用としては日本初の水力発電所で、市電を走らせる原動力となったのはよく知られるところです。

現在の疎水分線は全くの修景施設ですが、地下には松ヶ崎浄水場に通じる導水管が埋められており、京都市北部の水道をまかなうための大切な施設となっています。

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琵琶湖疎水はその名の通り琵琶湖から取水しているのですが、無料で水を貰っている訳ではありません。琵琶湖疏水感謝金という名目で、毎年2億3千万円という金が京都市から滋賀県に支払われています。当初は滋賀県が使用料として徴収していたのですが、政府から収入の少ない自治体から使用料は徴収しないようにという通達が出されたため、京都市と滋賀県が話し合い、寄付金という形にしたのでした。何かあると「琵琶湖の水止めたかろか」というのが滋賀県民が口にする慣用句ですが、これだけの金を貰ってる以上、止める事は出来ないですよね。

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哲学の道の途中で右に折れ、一本東の道に来ました。ここから左に曲がって法然院道に入るのですが、そのとっかかりにあるのが霊厳寺です。後水尾天皇が開いた尼寺で、代々皇室の皇女・皇孫が住職を務めた門跡寺院です。別名を谷の御所と言い、普段は非公開ですが椿の開花時期に合わせて特別公開が行われます。11年前の京の冬の旅で訪れた事がありますが、手入れの行き届いた気持ちの良い寺ですね。哲学の道沿いに墓があった宗諄女王が住職を務めたのがこの寺です。

この南隣がノートルダム女学院中学高等学校で、その中に和中庵という修道院跡があります。仏教とキリスト教という違いはありますが、出家した女性達が暮らした施設が隣同士にあるというのは、偶然ながら不思議な縁を感じますね。

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法然院道に入って少し歩くと安楽寺があります。紅葉が見事な事で知られますが、境内のさつきも素晴らしく、花の時分には特別公開が行われます。とりあえず次は紅葉を見に来て、来年はさつきの頃に来ようかと思っています。今年は綺麗に色付いてくると良いのですけどね。ここから次は法然院を目指す事にします。

2024年8月 8日 (木)

京都・洛東 六道まいり2024 ~六道珍皇寺・西福寺 8.7~

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令和6年8月7日、六道まいりに行ってきました。これはお盆の間、ご先祖の霊、お精霊さんを家に迎える為の行事です。

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場所は東大路松原を西に入ったところにある六原一帯、六道の辻と呼ばれる界隈にある三つの寺で行われます。中でも中心となるのは六道珍皇寺、建仁寺の境外塔頭の一つです。

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参拝には手順があり、まずはこの高野槙を買います。とても重要なアイテムで、この高野槙にお精霊さんが宿るとされています。

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高野槙を買った後は、本堂で水塔婆に連れ帰りたい故人の戒名または俗名を書いて貰います。塔婆とは戒名や経文を書いて先祖を供養する木の板の事で、水塔婆とは特に水を掛けて供養するものを指します。ここではごく薄くて小さい木の板が使われます。

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水塔婆を貰った後はこの迎え鐘を突きます。突くと言うより綱を引っ張るのですが、これを二度鳴らすとあの世に居る祖先にまで音が届くとされます。

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次にすることは線香の煙で水塔婆を清めることです。この時困るのが、なかなか線香に火が付かないのですよね。待っている人が居るので焦るのですが、容易な事では燃えてくれませんでした。清め終わったら地蔵堂の前に行って、水桶の中に水塔婆を納め、高野槙で水回向をしたら終わりです。後はお精霊さんが宿った高野槙を家に持ち帰り、お盆が終わるまで生けておきます。

費用は高野槙が私が買ったのは600円でしたが、大きさにより変わります。また水塔婆が400円、線香が100円です。初盆や三回忌のように特別な供養をして欲しい場合は別途費用が掛かります。

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私が行ったのは早朝という事で人出は少なかったですが、松原通に出店が全くありません。高野槙を売る店が一軒あっただけで、以前の様な賑わいは無いですね。五条坂で行われている陶器市に人が流れてしまうと聞きましたが、それは今に始まった事ではないはずです。やっぱりコロナの自粛が響いているのかな。ちょっと寂しい光景でした。

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六道珍皇寺から西へ少し下がったところに六道の辻と書いた石碑があります。六道珍皇寺の門前にも大きな石碑がありますが、辻という意味ではこちらの方が相応しい感じがしますね。ここに建っているのは西福寺、関ヶ原の戦いの後に建った寺ですが、その前には平安時代に遡る弘法大師縁りの地蔵堂がありました。檀林皇后が信仰していたと言われ、今は西福寺の中に子育地蔵堂として受け継がれています。

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山門を入ると左手に子育地蔵、正面にこの不動明王が祀られています。後白河法皇が熊野詣の前に地蔵尊に旅の無事を祈り、それが叶った事から御礼として那智の不動尊を勧請したものと伝わります。六道まいりではこの御不動様のお守り(石かな)を授かる事が出来、財布などに入れておくと御利益があるそうです。そしてまた一年後にお参りに訪れた時、御不動様に返えすのが仕来りなのだとか。

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本尊は阿弥陀如来。浄土宗の寺らしく、きらびやかな須弥壇ですね。ここでロウソクを供えると名前を聞かれ、先祖代々の供養をして貰えます。100円で拝んでもらえるのですから有り難いものですね。

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ここにも迎え鐘が備えられています。誰でも突く事が出来ますが、六道珍皇寺で鳴らしてきたばかりなので、ここでは遠慮しておきました。

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西福寺の一番の見所は檀林皇后の九相図会ですが、絵解きの時にだけ見られる様で、この時は扉が閉まっていて見る事が出来ませんでした。絵解きの時間は決まっており、待つには長すぎたのでこの日は諦めて帰ることにしました。これはまた来年ですね。

さて、これで無事にお精霊さんをお迎えする事が出来たので、お盆の間は家で過ごして頂く事にします。次は送り火ですね。今年はどこに行こうかしらん。天気が少し心配ですが、無事に送る事が出来る様に願っています。

なお、六道まいりは明日まで行われます。朝の6時から夜の10時まで、以前は夜も明るくて賑やかでしたが、今年は出店がないぶん、暗くてちょっと物騒かな。私的には早朝に行かれる事をお勧めします。

 

地震お見舞い申し上げます

能登の地震の記憶も新しい中、また九州で大きな地震がありました。まだ被害の詳細は判りませんが、かなり大きく揺れた様で心配です。また、南海トラフの地震に関する注意情報も出されました。もし発生したら甚大な被害が想定されていますが、やっぱり避けられないんだと改めて実感させられました。心配しすぎても仕方が無いですが、お互い万が一に備えて出来る限りの事はしておきましょう。そして、能登の復興が一日も早く進みますように。

2024年8月 7日 (水)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~熊野若王子神社 8.1~

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南禅寺から哲学の道に入る前に、熊野若王子神社に立ち寄りました。特に哲学の道と関係がある訳ではありませんが、まずはご挨拶しておこうと思ったのです。

熊野若王子神社は永暦元年(1160年)に、後白河法皇が禅林寺(永観堂)の鎮守社として熊野権現を勧請したことに始まります。若王子とは神仏習合神で、天照大御神の別名です。京都には熊野三山に対応した神社が三つあり、熊野本宮大社に対応するのが新熊野神社、熊野速玉大社に対応するのが熊野神社、そして熊野那智大社に対応するのがこの熊野若王子神社とされます。

今からでは想像出来ませんが、平安時代末期の熊野信仰は熱狂的だったと言え、浄土信仰の高まりと共に古くからの聖地であった熊野の地はこの世の浄土と見なされるようになり、全盛期だった院政期には白川院9回、鳥羽院21回、後白河院34回、後鳥羽院28回とそれぞれ熊野詣を行っています。今でも京都から熊野までは遠く、特急に乗っても4時間以上掛かるはるかな地です。ましてや平安時代は当然徒歩で、往復20日からひと月掛かりました。これを34回も行ったという後白河院の情熱はどこから来たのでしょうね。お供の数も半端ではなく、800人から時には1000人を超えたと言われ、費用も相当なものだった事でしょう。こんな事ばかりしていたから、武家政権の台頭を許したんじゃないかと思いたくなる程です。

それはともかくとして、この神社では梛の葉を大切にしており、罪汚れをなぎ払うお守りとして使かう一方、梛の葉は裂こうとしても裂けない事から、縁結びのお守りに入れて授与されます。この事から、この神社の御利益は縁結びとされていますね。ただいくつかのサイトにご神木として樹齢400年の梛の木があると記されていますが、今の境内のどこを見てもそんなに大きな木はありません。たぶん、この写真の右端に見える白い枯れ木がそうで、随分前に枯れてしまったのではないかと思われます。その代わりということでしょうか、境内のそこかしこに梛の木が植えられています。

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哲学の道から上がってくると、冒頭の写真の様に橋があって鳥居があり、一見するとこちらが正規の入り口かと思ってしまいます。しかし、入って正面にあるのは惠比須社で、中を覗くと大きな惠比須様が鎮座されています。とても立派な神像で、いかにも御利益がありそうですね。

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この惠比須様については説明書きがあり、意訳すると元は別の場所、古い表記では西洞院中御門、今で言う西洞院椹木町に惠比須社がありました。およそ第二日赤十字病院の西側、麩まんじゅうで有名な麩嘉さんのあたりになるのかな。この社の近くに川が流れており、社にちなんで惠比須川と呼ばれていました。中御門通の三筋下に冷泉小路があったのですが、惠比須川はこの道にも流れており、町が発展する共に冷泉小路はいつしか夷川通と呼ばれる様になりました。つまり通り名の由来を突き詰めれば、この惠比須様に行き着くという事ですね。惠比須社は応仁の乱で焼けてしまいましたが、この神像は奇跡的に無事で、その後この神社に引き取られてきたという事の様です。

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熊野若王子神社の本殿はこちらになります。でも、なぜか正面に鳥居が無いのですよね。なので、惠比須社の方が入り口と思う人が多いんじゃないかしらん。

この神社は、江戸時代には神仏習合の修験宗の寺となり、正東山若王子乗々院と号し、門跡に次ぐ院家として活躍しました。その頃には一般大衆の間にも熊野信仰が浸透し、蟻の熊野詣と言われるほど多くの人が参拝に出かけました。熊野に向かう人は旅立ちの前にこの寺を訪れ、身を清める事が慣例とされていたため、さぞかし賑わっていた事でしょうね。しかし、明治になると神仏分離令が発せられて寺は廃絶し、神社だけが残りました。熊野詣もまた神仏分離の影響で訪れる人は激減し、この神社も次第に衰徴していきましたが、村社に列せられた事でかろうじて廃絶は免れています。あまり目立たない小さな神社ですが、結構波瀾万丈の歴史を辿って来ているのですね。

元はこの本殿は本宮、新宮、那智、若宮の四つに分かれていました。それが現在の一社相殿の形に改められたのは昭和54年(1979年)で、理由は判りませんが比較的最近の事ですね。この本殿の裏山には桜花苑があり、桜時分には賑わう様です。私はまだ訪れた事がありませんが、来年の春には出かけてみようかと思っています。

2024年8月 6日 (火)

京都・洛東 夏の早朝散歩2024 ~南禅寺 蓮、境内、水路閣 8.1~

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令和6年8月1日、南禅寺から銀閣寺まで早朝散策をして来ました。この日の京都の最高気温は38度、とてもじゃないですが日中に出歩く気になりません。南禅寺に着いたのは午前7時前、涼しいとは言えないまでも空気は爽やかでした。これなら銀閣寺まで歩いても熱中症にならずに済みそうです。

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京都地市下鉄蹴上駅から南禅寺に向かう場合、このトンネルが入り口となります。琵琶湖疎水の一部、インクラインの下を潜るトンネルで「ねじりまんぽ」という名が付いています。ここはいつも誰か通っているので、誰も居ない写真はなかなか撮れないのですよね。

まんぽとはトンネルの事で、近畿地方の方言なのだそうです。私、地元のくせして方言だとは知らず、全国共通語と思っていました。ねじりとは煉瓦を斜めに積み上げる技法の事で、普通に積むより強度が出るそうです。かつてはこの上を荷物を積んだ船が通っていたので、頑丈に作る必要があったのでしょう。この写真では判りにくいですが、煉瓦が渦巻くように積み上げられていて、きれいな模様を描いています。ここを通るたびに思うのですが、どうやったらこんなふうに積めるのか不思議に感じます。昔の職人さんの技は凄いですね。

Wikipediaによるとねじりまんぽはこのトンネルの固有名詞ではなく、普遍的な技法で全国各地に存在するのだとか。ただほとんどが鉄道用のトンネルで、歩行者用のものはここだけだそうです。間近で見られるのもそう多くないみたいですね。

トンネルの上に掲げられている扁額は「雄観奇想」と書かれており、見事な眺めで優れた技術という意味だそうです。この反対側には「陽気発処」(集中して臨めば何事も成し遂げられる)という扁額が掛けられており、いずれも琵琶湖疎水を発案した京都府知事北垣国道の手に依るものです。また扁額にはこの近くで焼かれていた粟田焼が使われいるとか。

こうした扁額は琵琶湖疎水のトンネルなどの上部に掲げられており、伊藤博文、山県有朋、三条実美など主として明治の元勲達が揮毫しています。琵琶湖疎水が当時の日本に取って、一大事業だった事が窺えますね。春や秋に行われる琵琶湖疎水クルーズに乗れば、見て回る事ができるはずですよ。

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早朝散歩に南禅寺を選んだのは蓮の花が見たかったからです。南禅寺の勅使門の前に放生池があり、一面の蓮池になっているのですね。駐車場の裏側になっており、気づく人は割と少ないです。少し遅いかなと思っていたのですが、ぽつりぽつりと咲いていました。ここで一面に咲いているところは見た事が無いので、まあこんなものなのかしらん。しかし、つぼみは沢山上がっていたので、この後見頃を迎えていたのかもしれません。

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せっかくですから、早朝の境内を散策して行く事にします。この季節のこの時間帯に来る観光客は無く、ほぼ独り占め状態でした。この景色を一人で楽しめるとはなんとも贅沢な話です。紅葉時分だとこうは行かないのですけとね。

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ブログを始めた当時、南禅寺を調べていると、朝の光で撮るのが一番良いとありました。以来何度となく朝に来ていますが、確かに光りの入り具合が良く、爽やかな感じがしますね。それに日中と違って拝観者が居らず、とても静かなのも魅力です。まあ、夕方の光も素敵で、朝だけが良いという訳ではありませんけどね、心静かに楽しめるのは間違いなく早朝です。

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いつも混んでいる水路閣周辺も誰も居ませんでした。こういう風景も珍しいですね。

水路閣は琵琶湖疎水の分線の一部、京都市東北部のかんがい、防火用水、水力利用などのために建設された水路です。当初の計画では南禅寺の境内を突っ切るのでは無く、山中をトンネルで抜けるはずだったのですが、予定地に亀山天皇の御分骨が埋まっている事が判り、急遽ルートを迂回させる事になったのでした。しかし、そうすると南禅寺の境内が谷間になってしまうので、水を通すには水路閣を作らざるを得なくなってしまったのですね。やむを得ない事とは言え、由緒ある寺の境内に巨大な施設を作ることには反対も多く、すんなりとは行かなかった様です。もっとも京都市民の多くは稀代の大工事に興味津々で、工事中は大勢の見物人が絶えなかったのだとか。

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水路閣は今でも水が流れている現役の施設です。ただし、当初の目的だったかんがい、防火、水力等は必要なくなり、この先にある扇ダムで大半の水が余水吐けに流れ出ています。東山高校と永観堂幼稚園の間にある、結構勢いよく流れている水路がそうですね。この水は野村碧雲荘の池などに引き込まれた後は南禅寺船溜まりで疎水本線に合流し、下流へと流れていきます。残った水はまたトンネルに入り、哲学の道の入り口にある若王子取水場で開水路となって、哲学の道の水路へと続いています。つまり、本来の目的には無かった修景用の水が流れていると言う事ですね。

出来た当時は煉瓦の色も新しく、相当な違和感があった事でしょうね。でも完成(明治21年 1888年)から130年以上が経過し、煉瓦も良い感じに古びて、すっかり景観に溶け込んでいます。今では南禅寺の一番人気の観光名所となっており、常に大勢の人でにぎわっているのはご存じの通りです。

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8月になりましたが、青紅葉もまだ瑞々しさを保っていますね。朝の光だから余計にそう感じるのでしょうか。写真では判りませんが、朝から蝉時雨が賑やかでした。昔だったら蝉取りの子供たちがうろうろしていたでしょうけど、今はそういう姿は見なくなりまたね。少子化という事もあるでしょうけど、虫取りよりスマホで遊ぶ方が面白いのかな。それとも、暑すぎて親が外に出さないとか。夏休みの朝の景色もすっかり変わってしまいましたね。

2024年8月 5日 (月)

京都・洛東 一条天皇中宮・彰子縁の寺 ~東北院 7.25~

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真如堂を出て東北院に来ました。何も知らなければ通り過ぎてしまうような小さくて古びた寺ですが、ここは藤原道長が開いた法成寺の中にあった常行三昧堂の後継の寺で、道長の死後の長元3年(1030年)に、娘にして一条天皇の中宮、そして後一条天皇の母である上東門院彰子の発願で建てられました。常行三昧堂は法成寺の東北にあった事から、東北院と呼ばれる様になります。

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彰子は光る君へではあまりぱっとしない女性の様に描かれていますが、道長が彰子の産んだ敦成親王を立太子しようとした時、定子が産んだ第一皇子の敦康親王を推し、父に抗議しています。自分の子でなく定子の子を推したのは一条天皇の意を受けての事であったのですが、当時道長に逆らえたのは彰子くらいのものでしょうね。この時は道長に一蹴されてしまいますが、道長が政界から身を引いた後は後一条天皇の母、国母として政治力を発揮し、弟の頼通と共に御堂関白家を支える存在となり、藤原実資から賢后と称えられるまでになっています。東北院を築いた後はここを住処とし、孫の後冷泉天皇の代になってもなお影響力を持っていたらしく、後冷泉天皇は祖母に会うために2度東北院に行幸しています。その後も長命して87歳まで生き、最期は法成寺の阿弥陀堂で息を引き取りました。

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東北院にまつわる伝承としては、彰子の女房であった和泉式部が東北院内に小堂を建ててもらい、晩年を念仏三昧で過ごしたと伝えられます。その小堂が誠心院の前身とされるのですが、誠心院の寺伝には1027年に、彰子が和泉式部のために父の道長に勧めて建てさせたとあり、史実との間に明らかな齟齬があります。まあ、寺伝とは得てしてそういうもので、ここでは深く追求しないでおきます。また伝承とも言えない謡曲の世界なのですが、和泉式部が手植えしたという軒端の梅という古木が寺に伝わります。無論平安時代のものではなく後継木とされており、年によって咲き方が違いますが、当たり年には真っ白な花が一面に咲き、とても綺麗な梅ですよ。

私は見落としたのですが、境内には和泉式部と道長の供養塔があるそうです。また、寺には道長の木像も伝わっており、いつか拝見したいものですね。

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そんな東北院ですが、これまでに何度も焼失と再建、移転を繰り返して来た苦難の歴史を持ちます。まず、天喜6年(1058年)に法成寺が全焼した際に類焼し、康平4年(1061年)に敷地を北に移して再建されます。この場所は一条南京極東と記録されており、現在の廬山寺あたりではないかと想定されています。次いで承安元年(1171年)にも火災に見舞われ、同年中に京極今出川に移転して再建されました。そして極めつけの受難は応仁の乱で、千手堂など一部の施設を除いて全焼し、廃寺同然となってしまいました。

荒廃していた東北院を再建したのが時宗の僧、弥阿で、永禄2年(1559年)に復興しています。おおよそ100年近くは荒廃したままだったという事になりますね。そして、この時に天台宗から時宗に改宗したものと思われます。さらに元亀元年(1570年)には戦乱に巻き込まれて焼失してしまい、正親町天皇、後陽成天皇の綸旨を賜って諸国を勧進して巡り、資金を得て再建されました。しかし、東北院の受難はまだ続き、元禄5年(1692年)にまたしても火災に遭い、翌年現在地に移転して再建され今に至ります。

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これだけの受難の歴史を歩んできた東北院ですが、ご本尊の弁財天女は法成寺当時から受け継いで来たものとされ、伝承では桓武天皇の勅命により伝教大師が彫ったものと伝わります。門の前には弁財天女と刻んだ石碑があり、このお堂の中に祀られているはずですが、中を覗いても暗くて良く判らず、撮影禁止の文字だけが目立っていましたね。

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東北院の西側に、道を一筋挟んであるのが彰子の子、後一条天皇の御陵、菩提樹院陵です。元禄年間に東北院が現在地に移転してきた時、息子が眠る地の側を選んだと思いたくなるのですが、調べてみるとどうも違う様です。後一条天皇は崩御された後、神樂岡の西で荼毘に伏され、遺骨は一旦浄土寺に預けられて、火葬の跡には彰子によって菩提樹院が建てられたとされます。間もなく遺骨も菩提聚院に安置されるのですが、その後の戦乱によって菩提樹院は破壊され、江戸時代にはどこにあったか判らなくなっていたそうです。この場所は在原業平の廟が吉田山の奥にあったという伝承に基づいて業平塚とされていたらしく、東北院が今の地を選んだのはこの御陵とは関係がなさそうですね。後一条天皇の御陵と治定されたのは幕末の事で、明治になって菩提樹院陵と改められました。なおこの陵墓には後一条天皇の娘で後冷泉天皇の中宮であった章子内親王も祀られており、結果として彰子縁の東北院は子と孫の眠る場所の側に佇むという事になった様です。

付近は閑静な住宅街、観光客とは無縁の地です。静かに平安時代の物語を思うにはうって付けの場所ですよ。ぜひ一度訪れてみてください。ただ、菩提樹院陵の前の道は細い割に車が良く通るので、安全には十分気をつけてください。

 

2024年8月 4日 (日)

京都・洛東 宝物虫払会2024 ~真如堂 7.25~

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東本願寺から真如堂へと来ました。この日ここを訪れたのは、宝物虫払会が行われるためでした。これは仏画など紙製の寺宝を堂内に吊して空気に晒し、文字通り虫払いをするというもので、一般人にも公開してくれるため、普段見られない宝物の数々を目にする貴重な機会です。毎年7月25日に行われているのですが、これまでは休日と重なる事が少なく、訪れるチャンスがありませんでした。

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公開と言っても虫払いが目的ですから、基本的に絵画や書の解説はありません。目録くらい欲しいところですが、そこまで整理できていない感じでしたね。ここで一番見たかったのが真如堂縁起絵巻です。重要文化財に指定されており、中でも応仁の乱で足軽が真如堂を破壊する場面は日本史の教科書の定番なので、見た事がある方も多いと思います。他にも地獄に落ちた安倍晴明が閻魔大王から五行之印を授かり、この世に送り返される場面も印象的ですね。ただ、残念な事に虫干しされるのは写本なんですね。虫払いが必要なのは原本の方なのではと思いますが、なぜ写本なのかは謎です。また同じく重要文化財の狩野山雪が描いた寒山拾得も迫力があって、本物を間近で見られたのは嬉しかったです。

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石薬師門の名の由来となった薬師堂

意外だったのが毎年3月に公開される涅槃図の原画があった事で、作者は明兆と箱書きに記されていました。明兆は東福寺の僧で、涅槃図を描いた褒美として境内の桜の木を伐る様に願った事で知られますが、真如堂でも涅槃図を描いていたのですね。とても精緻で素晴らしい絵でしたが、この原画を元に海北友賢らが大きな涅槃図を作成したとのことです。また、豊臣秀吉と徳川家康の肖像画があり、なぜこの二人が真如堂にと思って聞いてみたのですが、来歴は判らないとの事でした。

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向井去来の菩提寺 覚円院)

興味深かったのが和歌を貼り付けた屏風で、「光る君へ」で出てきた彰子の持参品の屏風を彷彿とさせるものがありました。和歌は百人一首の様だったので時代はずっと下るものですが、道長が作ったトレンドは長く引き継がれていたのですね。

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私は受け損なったのですが、待っていれば五行之印を使った御加持を授かる事が出来た様です。また、珍しい枇杷茶の接待もあり、飲んでみると甘くて美味しいお茶でした。公開されるのはおよそ200点、仏画が主ですが古い書画に興味のある方にはお勧めの行事です。なお、奉納料は500円、中身の充実ぶりを考えると格安だと思います。

2024年8月 3日 (土)

京都・洛中 蓮2024 ~東本願寺 7.25~

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西寺跡から東本願寺に来ました。ここに来たのは南堀で咲いている蓮を見るためです。

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東寺の蓮は見頃でしたが、ここでは花より花托の方が多かったです。つぼみもあまり無く、少し来るのが遅かった様ですね。

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毎年来ている場所なのですが、なかなかタイミングを合わせるのは難しいです。どこでも同じですが、年によって咲き始める時期が違いますしね。特に今年は暑いので展開が読みづらいです。

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ここは以前は淀姫という薄い紅色の花が多かったのですが、このところは白花が目立ってきましたね。蓮の中でも勢力争いがあるのかな。あと何年かしたら淀姫は消えてしまうのかしらん。まあそういう変化を見るのも楽しみの一つです。

2024年8月 2日 (金)

京都・洛南 史跡・西寺跡

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羅城門跡の北西に唐橋西寺公園があります。ここが平安京に東寺と共に築かれたただ二つの寺の一つ、西寺の跡です。

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南都仏教の影響力を嫌った桓武天皇は平安京に寺を建てる事を禁じ、わずかに東寺と西寺だけを築きました。官寺として国家鎮護を祈るほか、外国使節を接待するための施設でもありました。場所は羅城門の北、朱雀大路を挟んで東寺と左右対称の形で建てられました。下って嵯峨天皇の時、東寺が弘法大師に与えられて真言密教の道場となったのに対し、西寺は官寺のまま置かれました。伝説では西寺の別当であった守敏が雨乞いを廻って弘法大師と争って敗れ、以後西寺は衰退したと言われますが、実際には官寺として大切にされ、僧尼を管理する僧綱所が置かれるなど隆盛を誇りました。正暦3年(990年)に火災にあった時もすぐに再建されており、建久年間(1190年代)には文覚上人が塔の修理を行っています。つまり平安期を通じては官寺として存在しており、衰退が始まったのは鎌倉期に入ってからの事と思われ、天福元年(1233年)に塔が焼失しており、これ以後衰退に拍車が掛かったのではないかと考えられます。最後に記録に残るのは二水記という公家の日記に、大永7年(1527年)に西寺に陣を敷いたと記されている事で、戦国期までは存続していた様です。

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西寺跡は数次に渡って発掘が行われていて、南大門や金堂、講堂、回廊、僧坊、食堂などが確認されていますが、東寺と似ていて微妙に異なっている事が判っており、当初から性格と役割が違っていたのではないかと考えられています。公園の中央に盛り土がありますが、これは松尾大社の祭礼のために後世築かれたものです。ここが講堂の跡で、地下には遺構が眠っています。遺構の保存状態は極めて良好で、ここだけでなく付近一帯に広がっており、破壊を防ぐためにこの区域で開発を行う場合は、様々な規制が掛けられているとの事です。

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西寺が衰退してしまったのは、律令体制が崩壊してしまい、朝廷が衰退して維持が出来なかったためではないかと考えられています。また平安京の西側は水はけが悪いなどの理由により住む人が少なく、早くから荒廃していたと言われます。そもそも平安京の人口は12万人程度であり、都市として規模が大き過ぎました。このため都城制は早々に崩れ、住みやすい都の東側だけが発展し、西京は必要ないと見捨てられたとも言われますね。羅城門が再建されなかったのも、都城制を維持する必要が無かった事も一因だったのかも知れません。西寺もまた荒廃した西京にあって、いずれは見捨てられる運命だったとも考えられます。

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西寺跡の北西に西寺を名乗る寺があります。浄土宗の寺で元は西寺跡にあり、西方寺と言いました。守敏自作の木像などを伝える事から明治27年(1894年)に寺名を西寺に改め、寺号を継いでいます。門前に西寺旧跡と記した石碑が建っていますね。規模も宗派も違いますが、西寺の後継を名乗る寺として訪れてみてください。公開はされていませんが、境内に入る事は出来ますよ。いつか特別公開をしてくれると良いですね。

2024年8月 1日 (木)

京都・洛南 藤原道長縁の地 ~羅城門跡~

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東寺から西に行ったところに羅城門跡があります。以前から気になっていたのですが、なかなか行く機会が無く、この日は時間があったので訪ねてみる事にしました。

羅城門は言わずと知れた平安京の正門で、芥川龍之介の小説や黒澤明監督の映画などで知られていますね。幅約35m、奥行き約9m、高さ約21mという、巨大でかつ細長い建物でした。そのせいか風に弱かったらしく、建てられてから間もない弘仁2年(816年)に大風で倒れています。その後一度再建されますが、天元3年(980)に再び暴風のために倒れてしまいます。都の正門ですからすぐに再建されそうなものですが、実際には24年間も放置されました。1004年になり、高階業遠が丹波守の任期の延長と引き換えに再建を申し出ますが、様々な障りがあり実現しませんでした。当時は藤原道長が権勢を振るっていましたが、羅城門の再建には全く関心を示さず、それどころか治安3年(1023年)に、自らが造営する法成寺のために礎石を持ち去ったと藤原実資が小右記に記して憤慨しており、為政者が公の施設を私物化するという有様でした。

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羅城門は正門ではありましたが、人々が出入りするためのものではありませんでした。平安京はぐるりと塀で囲われていた訳では無く、この門の東西にわずかに土塀があった程度で、他に出入り口がいくつもありました。羅城門の役割は主として外交使節を迎え入れる事に有り、渤海や新羅からの使節が途絶えると無用の長物と化してしまいました。例えば今昔物語には羅城門は盗賊の住処となり、二階には死体がごろごろと転がっていたと記されています。つまり存在価値を失った羅城門は、全く管理されていなかったのですね。ちなみに羅城門から内裏へと続く朱雀大路も同様で、これも外交儀礼用に作られた84mmもの幅員を持つ道だったのですが、外国使節が途絶えた900年代には意義を失い、広すぎる道は牛馬の放牧場になっていたとされます。

羅城門はその後も再建されることは無く、いつしか痕跡すら無くなっていた様です。これまでに発掘調査が何度か行われましたが、基壇土の一部が出てきた他は礎石の一つも見つかっていません。一つには豊臣秀吉が御土居を築いたときにわずかに残っていた痕跡を破壊した事、またかつて付近を流れていた鍋取川が氾濫を繰り返し、遺構を洗掘してしまったのではないかと言われています。現在の羅城門跡は東寺の南大門から距離を測定して位置を推定したもので、考古学的な根拠があるわけではありません。

羅城門を偲ぶものとしては、現在東寺が所蔵している木造兜跋毘沙門天立像があり、かつて羅城門に祀られていたものと伝えられます。また、東寺のホームページには、宝蔵の床板は羅城門の扉と言われているとありますね。あと、羅城門の鬼瓦もまた東寺に伝わっていますが、現在は国立京都博物館に寄託されているとのことです。

羅城門跡は住宅街の中にぽつんとあり、周囲は小さな児童公園となっています。普通に歩いていると見落とす可能性があるので、地図を持参される事をお勧めします。スマホの地図があれば便利ですね。

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