法然院を出て右へ曲がり、道なりに歩いて行くと銀閣寺の入り口にたどり着きます。あまり知られていない道ですが、銀閣寺の参道の混雑を避けるには良い道ですね。それに哲学の道を経由して行くより、歩く距離がずっと短くて済みます。
この銀閣寺というのは通称で、正式には東山慈照寺と言い、相国寺の境外塔頭です。
総門を潜ると現れるのがこの特徴的な参道です。銀閣寺垣と呼ばれる背丈の低い竹垣の背後に、椿などの背の高い常緑樹を配し、緑に囲まれた独特の空間を演出しています。一歩足を入れると急に外界と遮断された様で、特別な空間に入ったと感じますね。冬に来ると、藪椿の赤い花がぽつぽつと咲いているところを見る事が出来ますよ。
方丈の前に盛られた広大な砂山は銀沙灘と呼ばれます。創建当時には無く、江戸時代に整備されました。以前放映されたブラタモリでは、長年放置されて埋まってしまっていた錦鏡池を浚渫した際に出てきた砂を、有効利用してここに敷き詰めたと紹介されていましたね。江戸時代に慈照寺が再興された時の記録に「池を穿ち」とあり、戦乱により荒廃していた間に錦鏡池が埋まってしまったのは確からしく、この説を裏付けている様に思われます。
またこれとは別に寛政年間に方丈が再建されているのですが、禅寺の方丈の前には白砂の庭がある事が通例であり、それに倣ったのではないかという説があります。最初は薄かったのですが、錦鏡池を浚渫する度に砂の量が増え、今のようになったという説もあります。他には中国の西湖の景色を再現したのだとも、月の光を反射させるために白砂を敷いたのだとも言われます。
銀閣の手前に見える円錐台の砂山が向月台。これも何の為に作られたのか判っていませんが、俗説としてここに座って月が出るのを待っていたと言われています。もっとも、どうやったら砂を崩さずに上れるんだと思いますけどね。別の説としては、銀沙灘と同じく月明かりを銀閣に反射させるためのものではないかと言われています。そう聞けば丸い形は鏡のようにも見え、一度満月の夜に来て確かめてみたいものですね。真相は江戸時代の作事方に聞くより無いですが、銀沙灘と共に銀閣寺独特の景観を形作っている事は確かです。
銀閣寺を築いたのは室町幕府第八代将軍であった足利義政です。建設を開始したのは文明14年(1482年)で、応仁の乱が終結して間もなくの事でした。幕府も京の町も長く続いた戦乱により疲弊しきっていましたが、義政は庶民に段銭や夫役を課す事によって費用を捻出したと言います。庶民に取ってはさぞかし迷惑な事だったでしょうね。
義政が築いたのは寺ではなく自ら住むための住居で、東山山荘あるいは東山殿と呼ばれました。場所は浄土寺があった所で、月待山の山麓という風光明媚な立地が気に入ったのでしょうか、義政は浄土寺を相国寺の西に移転させ、土地を確保して建設に着手したのでした。山荘には超然亭、西指庵、漱蘚亭、御會所、弄清亭、東求堂、観音殿、釣秋亭、龍背橋、夜泊船など多数の建物があったと言われ、今とは随分と違った光景だったと思われます。池も船を浮かべて遊べるほど大きく、発掘調査の結果から裏山の中腹にも庭があった事が知られており、二段式の庭園だったと推定されています。写真はその一つ東求堂で、義政の念持仏である阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。この中の一室「同仁斎」は義政の書斎だったと言われ、付書院、違い棚を備えた四畳半の畳敷きの部屋で、現代に続く和室の原型になったとされます。
山荘の工事は8年間続けられましたが、後に銀閣と呼ばれる観音殿が出来上がる前に義政は亡くなっており、完成した姿を見る事はありませんでした。義政の死後間もなく、その遺言により山荘は禅寺に改められて相国寺の塔頭となり、義政の院号「慈照院」にちなみ慈照院と命名されました。しかし、相国寺の塔頭大徳院が義政の塔所影堂になった事で慈照院と名を改めたため、混同を避けるべく慈照寺に改名されています。またこれも同じく遺言により開基は義政、開山は夢窓疎石と定められましたが、疎石は慈照寺が出来る100年近く前に亡くなっている人で、相国寺の例に倣ったいわゆる勧請開山です。
義政は武人でありましたが文化人としての側面も持っており、庭師の善阿弥、絵師の狩野正信、土佐光信、能楽の音阿弥などを召し抱え、東山殿を中心に、侘び、寂び、幽玄を基調とする、茶道、華道、能、庭園など後世にまで影響を与えた東山文化を形成しました。日本文化の原型を作ったという意味においては、偉人と言っても良いのでしょうね。
義政は文化人としては素晴らしいが、政治家としては無能だったと言われます。しかし、幼少期はともかく成人してからは将軍として親政を行い、彼なりの政治力を発揮しています。ただ屡々飢饉に見舞われるなど世情が不安定であり、何より山名宗全に代表される大大名が多すぎるという室町幕府の根本的な欠陥が響き、十分な統制が出来ませんでした。その結果起ってしまったのが応仁の乱で、義政なりに乱を収めようと手を尽くしましたが功を奏さず、京都中が焼け野原となるという大乱になってしまいました。義政の最大の失敗は中立であるべき将軍が東軍に属してしまった事で、調停機関を失った大名達は戦い続け、遂には戦いの大義名分がどこにあったのかも判らなくなり、疲弊しきった大名達が国に帰るまで戦乱は続きました。
義政はまだ乱が続いていた文明5年(1473年)に子の義尚に将軍職を譲って隠居しており、東山殿を築いたのも政治の世界に嫌気が差した逃避行の様に言われます。しかし、実際には義尚はまだ幼少で、義政は大御所として政治の実権を握り続けていました。義尚は長じても名ばかりの将軍のまま置かれ、二度に渡って出家しようとするなど大いに不満を抱えていた様です。東山殿も単なる隠居所ではなく、政庁としての機能を持っていたと言われます。
豪壮を誇った慈照寺でしたが、第十二代将軍足利義晴の頃、将軍家は都の主導権を廻って三好氏と抗争を繰り返しており、慈照寺の周辺でも屡々戦いが行われました。天文16年(1547年)には義晴と三好宗三、天文19年(1550年)には第十三代将軍の足利義輝と三好長慶がそれぞれ戦っており、慈照寺はその都度羅災しています。そして極めつけは永禄元年(1558年)に再び義輝と長慶が戦かった北白川の戦いで、慈照寺は観音殿と東求堂を残してことごとく焼失してしまいました。この最後の戦いの時に白川から浄土寺にかけて火を掛けたのは義輝で、将軍家自らが慈照寺を焼いてしまった事になりますね。なお銀閣寺のホームページには天文19年に長慶と第十五代将軍足利義昭が戦ったとありますが、この年には義昭はまだ将軍になっていないので誤りです。
慈照寺の荒廃ぶりは多聞院日記に記されており、元亀元年(1570年)の目撃談として、東山殿の旧跡は名のみで、あばら家の間に一つのお堂だけが見えたとあります。このお堂が東求堂なのか観音殿だったのは判りませんが、まさに廃墟と言って良い有様ですね。しかし、その廃墟に前太政大臣近衛前久が住むようになるですから、世の中何が起きるか判りません。前久は天正15年(1587年)に奈良から移り住んで、亡くなるまでの28年間を東求堂で過ごしています。慈照寺六世の住職が前久の弟だった縁に依るものだったらしいのですが、前久ほどの貴人が荒れ果てた寺にしか住処がなかったのでしょうか。それとも生涯の大半を流浪していた人なので、意外と言うには当たらないかも知れませんね。
相国寺は豊臣家の仲立ちもあって近衛家に慈照寺を貸していたのですが、前久が住んでいる間は住職を派遣する事も出来ず、由緒ある寺が荒れるに任されている事を嘆き、近衛家に何度も返還を申し入れましたが聞き入れられず、そのまま捨て置かれました。そして慶長17年(1612年)に前久が亡くなった事を機に徳川家康に訴え出て、その裁定によりようやく取り戻す事が出来ています。
慈照寺の復興に着手したのは慶長20年(1615年)の事で、宮城豊盛を普請奉行に迎えて行われました。豊盛は近江の人で、はじめは織田家臣団にあり、後に秀吉に仕え、豊臣姓を与えられるほど重用されました。目立った武功はありませんが、偵察や前線との連絡、物資の補給などに従事し、時には城の留守を任されるなど、武人と言うより官僚のような存在だった様ですね。秀吉が亡くなった際には、朝鮮に講和の使者の一人として派遣され、無事に全軍を帰国させています。この功により一万石の大名となっており、実務に長けた人だった事が知れますね。関ヶ原の戦いでは西軍に属しますが、早くから家康に内通し、五千石に減知されましたが改易は免れています。大坂の陣の前に家康に仕えるようになり、冬の陣、夏の陣ともに徳川方として参陣しています。冬の陣では手傷を負って秀忠から見舞いを受けており、徳川家でも信頼されていた様子が窺えます。土木建築にも通じていた人で、近江の阿弥陀寺の再建、金戒光明寺の阿弥陀堂再建、知恩院の三門の普請奉行などに従事していますから相当なものですね。慈照寺においては池を穿って庭園を整え、堂宇を一新し、奇観を蘇らせたと記されていますから、大々的な改修を行ったと思われます。現在の庭園はほぼこの時に整備されたと見て良い様ですね。
一つ判らないのは修復の費用は誰が出したかで、慈照寺は寺領として35石を家康から与えられていますが、その程度の経済力でまかなえたのかしらん。普通に考えると本寺である相国寺でしょうけど、するとなぜ豊盛が普請奉行になるのでしょう。資料は無いですが、家臣を普請奉行にしているくらいですから徳川家が援助したのかな。知恩院の三門のケースから考えるとそうなるけど、なぜどこにも書いて無いのでしょうね。ちょっとした謎です。
慈照寺を象徴するのが観音殿。その名の通り観音菩薩を祀るためのお堂です。鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿(現存しません)を参考にして設計されたと言われ、初層は住宅風、上層は仏殿風の造りになっています。まるで性格の違う建物を二段重ねにしている訳で、金閣も三層とも造りが異なるところを見ると、これが無町時代の流行だったのでしょうか。今は無い瑠璃殿も同じような造りだったのかな。
初層は心空殿と言い、大きく取られた広縁と開放部の大きい障子戸が印象的ですね。一度ここに座って東山を上る月を見てみたいものです。中には入れませんが、テレビで紹介されていたところでは、障子の向こうは仏間になっていて、小さな地蔵菩薩を千体集めた仏壇、千体地蔵菩薩が収められています。他に二部屋ありますが、後世に改変されたものらしく、使い道は判っていないらしいですね。
上層は潮音閣と言い、三つ並んだ花頭窓にリズム感があり、周囲に廻らされた欄干が格式の高さを感じさせます。内部はこれもテレビからの情報ですが、漆黒の漆塗りの広間の中に金色に輝く洞中観音菩薩が祀られています。テレビの画面越しにしか見た事がありませんが、実に荘厳な空間で、これを考えたのはやはり義政なのかな、素晴らしい発想の持ち主ですね。
観音殿は通称の銀閣の名で知られますが、周知の様に銀色に輝いている訳ではありません。以前は当初貼られていた銀箔が剥がれてしまったのではないかという説もありましたが、2007年から2010年にかけて行われた修復作業の際に調査が行われた結果、銀箔が貼られていた形跡は見つかりませんでした。その代わり、上層部の壁には黒漆が塗られており、さらには軒回りには鮮やかな彩色が施されていた事が判っています。今とは随分と違う印象ですね。修復にあたってこの黒漆を再現しようかという案もあったのですが、慈照寺側が修復前のままで良いと判断したため、元の侘び寂びの効いた風情のまま置かれました。
銀閣と呼ばれるになった理由には諸説がありますが、一説には万延元年(1658年)に刊行された観光案内書の洛陽名所集に、銀箔により彩しければ銀閣と言う、金閣に倣うと記されており、以後の案内書は皆これに倣うようになったと言われす。当時の慈照寺は非公開の寺で、庶民が簡単に見る事ができなかったため、確かめられること無く伝聞として広まったのでしょうね。何故銀箔で彩した様に見えたかについても諸説ありますが、壁面に塗られた黒漆が劣化してしまって白くなっていたため、遠目には銀箔を貼った様に見えたという説が有力な様です。他には金閣に対比する楼閣だから銀閣と呼ばれた、あるいは義政は完成前に亡くなってしまいましたが、計画としては銀箔を貼るつもりだったから銀閣と呼ばれたなどとも言われます。
私的には銀色に輝く楼閣より、東山文化が目指した侘び寂びの境地に相応しい、今の姿が良いなと思っていまいます。
銀閣寺について調べていると様々な説があり、まとめようとすると長文となってしまいました。名刹であるが故に研究する人も多いのですね。相矛盾する説もあり、断片的な事しか書いていない資料もあって何が正しいのか判りませんが、これだけ有名な寺なのに、権威ある説が無いというのも珍しいですね。この美しい寺にも様々な歴史があったという事を踏まえて、また訪れてみたいと思います。
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