京都・洛東 青紅葉2024 ~伝・清少納言隠棲の地 泉涌寺 7.3~
東福寺から泉涌寺に来ました。途中、日吉ヶ丘高校の裏の道を通って来たのですが、あの道は誰が管理しているのでしょうね。高校が出来た当時に作られたのかずっと以前からある道で、東福寺からのショートカットとして何度となく使っていますが、最近はあまり通る人は居なくなったのかな、落ち葉が溜まったままです。また木の根っこのせいで道があちこち盛り上がり、随分と荒れてしまっています。掃除して欲しい、あるいは補修して欲しいという声は出ないのかしらん。そもそもどこに話を持ち込んだら良いのか判らないですね。京都市?だったらお金が無いからまず無理か。いつもは学校の生徒達の声で賑やかなのに、期末テストの期間中だったのかな、静まりかえっていたのでどこか違う場所を通っているみたいでした。
大門を潜るとまず目に飛び込んでくるのは、坂の下にある仏殿です。下り参道と呼ばれるあまり例を見ない形式ですが、そうだ京都行こうのブログには、盆地の底に本堂を建てるのは修行をするのに適しているからとありますね。そんなものかなあと思いますが、延暦寺の根本中堂も谷の底にある事を鑑みれば、そういう思想が仏教の中の一つの潮流としてあるのかも知れません。
ここに来るとまず立ち寄るのが楊貴妃観音堂。寛喜2年(1230年)に湛海律師が宋から請来した聖観音を祀るお堂です。非常に美しいお顔をされた観音様で、玄宗皇帝が楊貴妃の面影を写させて作ったという伝承を生み、江戸時代から楊貴妃観音と呼ばれる様になりました。確かに仏様と言うより生身の人を彫った像のようであり、いつ来ても見とれてしまう綺麗な観音様です。
泉涌寺は斉衡2年(855年)に時の左大臣藤原緒嗣が、僧・神修のために山荘を与え、仙遊寺としたのが始まりとされます。時代が下って建保6年(1218年)に月輪大師が宇都宮信房からこの地を拝領し、宋の様式を取り入れた伽藍を造営しました。その時、境内の一角から泉が涌き出した事から泉涌寺と寺名を改めています。その泉は今でも涌いており、2021年には水屋形の中の様子を見ることが出来ました。
その隣にあるのが清少納言の歌碑です。清少納言の晩年については不明なのですが、大納言公任集に清少納言が月の輪に帰り住む頃という詞書きがあり、また夫の棟世が月の輪の地に山荘を有していたとされる事から、現在月輪と呼ばれているこの地に暮らしていたのではないかと推定され、1974年に平安博物館館長であった角田文衛氏の発案で建立されました。すぐ近くには清少納言が仕えた中宮定子が葬られた鳥辺野陵があり、晩年は定子の菩提を弔いながら過ごしていたという良く出来たストーリーだったのですが、その後の研究でここが月輪と呼ばれる様になったのは1199年頃に、月輪殿と呼ばれていた九条兼実が別荘を築いてからだと判明し、現在では否定されています。
泉涌寺は1242年に四条天皇の葬儀を行って以来、歴代天皇、皇后の葬儀を行うようになり、皇室の御香華院、いわゆる菩提寺となったため、特に御寺(みてら)と呼ばれます。その皇族が参拝される際の休息所が御座所であり、明治15年に京都御所から御里御殿が移設されたものです。天皇が座る玉座の間や勅使の間など六つの部屋からなり、現在でも皇室の方が見えられた時には使用されています。その御座所の前には見事なしつらえの庭園があり、もみじの名所として知られます。紅葉も素晴らしいですが、今の時期の青紅葉も素敵ですね。年によってむらのある紅葉よりも、当たり外れのない青紅葉の方が見応えがあるとも言えます。
ここに入るには通常の拝観料500円のほか特別拝観料として500円が必要です。去年の秋までは300円でしたが、いつの間にか値上がりしていますね。まあ、それだけの値打ちのある庭園ですから、是非拝観して行って下さい。
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