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2024年7月29日 (月)

京都・洛西 源氏物語ゆかりの地 2024 ~清凉寺 7.19~

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小倉池から嵯峨野路を歩き、清凉寺に来ました。ここに来るのは桜を見に来て以来、3ヶ月ぶりになりますね。境内の様子はすっかり様変わりし、緑で溢れていました。

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清凉寺は平安時代末期に東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が開こうとした寺です。奝然は都で比叡山延暦寺が隆盛を極め、相対的に南都仏教の地位が低下していることを嘆き、愛宕山の麓に大清凉寺を開いて延暦寺に対抗しようとしたのです。奝然はまず寛和元年(985年)に中国に渡って五台山を巡礼し、インドから伝わった釈迦に生き写しの尊像を模刻して、永延元年(987年)に日本に持ち帰りました。この尊像を本尊とした寺を開こうとしたのですが、延暦寺の反対などによって果たせず、奝然はそのまま亡くなってしまいます。その遺志を継いだ弟子達によって、この地にあった棲霞寺 (せいかじ)の釈迦堂に尊像が安置され、釈迦堂は華厳宗天台山清凉寺と改められました。

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寺に伝わる縁起では、中国から尊像を持ち帰るとき、奝然の夢枕に仏が現れ、我の台座を取り替えよとお告げがあり、奝然は模刻と真像を入れ替えたとあります。つまり今の清凉寺にある釈迦像は、古代インドで彫られたものという事になりますね。この伝承から尊像はインド、中国を経て日本に伝えられた三国伝来の釈迦像と呼ばれます。まあこれはあくまで伝承で、実際にはその後の調査で中国の仏師の名が刻まれた銘板が見つかっており、模刻である事が確認されていますが、江戸時代までは本当にあった事だと信じられていました。しかし模刻ではあっても非常に優れた仏像である事には変わらず、国宝に指定されています。また、清凉寺式釈迦如来像として尊崇を集め、百体近くの模像が作られています。また面白いのは、この像の胎内から五臓六腑の模型が見つかっている事で、生身のお釈迦様に対する信仰があった事を示しています。この五臓六腑は写しが作られており、本堂を拝観すると見ることが出来ますよ。

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元々ここにあった棲霞寺は、その後の清凉寺の発展により飲み込まれてしまい、塔頭になったと伝わります。言わば庇を貸して母屋を取られたという事ですね。現在はその塔頭も無くなり、ご本尊とされていた阿弥陀三尊像だけが残ります。その三尊像を祀っていたのがこの阿弥陀堂。いわば棲霞寺の末裔と言えるのかな。

棲霞寺は元は平安時代前期の左大臣源融の別荘で、棲霞観と呼ばれていました。源融は類い希な美男であったとされ、源氏物語の主人公、光源氏のモデルになったと言われています。融は別荘に阿弥陀堂を建てようと発願しましたが、果たせぬうちに亡くなり、息子達が遺志を継いで融の一周忌(寛平8年 896年)に阿弥陀三尊像を造って阿弥陀堂を完成させ、別荘を寺に改めました。この阿弥陀様が融の面影を伝えるものと言われ、非常に綺麗なお顔立ちをされています。現在は宝物館に安置されており、4月と5月、10月と11月の公開日に行けば拝観する事が出来ますよ。

また、棲霞寺は源氏物語の中で光源氏が築いた嵯峨の御堂にも比定されています。場所は大覚寺の南、大堰川の近くとされており、棲霞寺とよく符合するのですね。物語の描写を事実に基づいたものと仮定すれば、棲霞寺は大覚寺に匹敵する大寺だった事が窺えます。

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清凉寺には何度も来ていますが、この日はこれまで前を素通りして来た塔頭が目に入り、前庭が美しい事に気づいて立ち寄ってみる事にしました。寺名は薬師寺、清凉寺とは別の起原を持ち、嵯峨天皇の勅願寺として開かれました。弘法大師が自ら刻んだと伝わる薬師如来を本尊とし、江戸時代までは大覚寺の保護下にありました。明治に至り浄土宗に転じ、清凉寺の塔頭となって今に至ります。

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本堂はこの隣にあるのですが、その片隅に生の六道小野篁遺跡と記した石碑が建てられていました。何の関係があるのかと思って調べたのですが、薬師寺そのものではなく、今は廃寺となり薬師寺と合併した福生寺に縁のあるものでした。小野篁は昼は現世で参議を務め、夜は冥府で閻魔大王の下で補佐をしていたという伝説を持つ人物です。冥府に行くときに通ったとされるのが六原にある六道珍皇寺の井戸で、現世に帰って来る時に通ったのが福生寺の井戸だったと伝えられます。篁は地獄で亡者を救う地蔵菩薩の姿を目の当たりにし、その尊さに打たれて地蔵菩薩像を刻み福正寺にお祀りしました。このお地蔵様を生六道地蔵菩薩像と言い、今も薬師寺に伝わっているとの事です。

この福正寺がどこにあったのかと調べたのですが、清凉寺から大覚寺へと向かう道の途中、府道との交差点にありました。今は小さな公園として整備され、地蔵堂が建っていますね。以前から気になっていた場所で、何のことはないこの日も通ってきたのですが、それとは知らずに素通りしてしまいました。この次行くとき、たぶん彼岸花が咲く頃、じっくりと見てくる事にします。なお、井戸の跡は宅地化されていて、今は残っていないとのことです。

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(左:紫式部墓 右:小野篁墓)

ちなみにこの小野篁は紫式部とも縁があって、墓が隣同士なのですね。場所は紫野西御所田町水火天満宮の近くです。なぜ隣同士なのか不思議なのですが、篁が建てた千本ゑんま堂に式部の供養塔がある事が関係しているようです。式部はその死後、嘘の物語で世を惑わしたとされ、地獄に落ちたと言われた時期がありました。それを救うために供養塔が建てられたのですが、それだけで事は済まず、式部をさらに救うために篁の墓を式部の隣に移したのではないかと言われています。逆に式部の墓をここに移したという説もありまりますね。どこまで信憑性があるのかは判りませんが、源氏物語は色々なところに影響を残していますね。それだけ長く愛されて来た名作なのだという事なのでしょう。

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