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2024年7月

2024年7月31日 (水)

京都・洛南 蓮2024 ~東寺 7.25~

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令和6年7月25日の東寺です。この日は東門近くの堀で、蓮が見頃を迎えていました。

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この堀は放生池ではなく、この堀に囲まれた宝蔵を火災から守るためのものです。宝蔵は創建からそう遠くない時期に建てられた物で、東寺の建造物としては最も古く、重要文化財に指定されています。東寺は何度となく火災に見舞われていますが、宝蔵がこれまで無事だったということは、この堀がちゃんと機能してきたという事を物語っているのでしょうね。

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この堀がいつから蓮池になったのかは判りませんが、京都における蓮の名所の一つである事は確かです。大沢池の蓮が消滅した今、まとまった蓮が見られる場所としては、小倉池や勧修寺と並ぶ貴重な存在となりました。

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以前は八重咲きの花もあったのですが、この日は見かけなかったです。私か見落としたのか、それともたまたま咲いていなかったのか、見られなかったのは残念です。

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ここは境内の西にある御影堂、弘法大師がお住まいになったところです。ここでは毎朝6時に、弘法大師が生きておられた頃と同じように食事をお供えする生身供が行われています。誰でも参拝することが出来、仏舎利を頭と手に授けて頂けるそうです。この日も大勢の方が参拝されており、御大師様に対する信仰は今でも生きているのだなと実感しました。単なる観光寺院では無い、現役の宗教施設としての東寺の顔を見た思いです。

2024年7月30日 (火)

京都・洛西 蓮2024 ~大沢池7.19~

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清凉寺から大沢池に来ました。ここまで歩きでしたが、午前中にも関わらず暑い上に日差しもあって、着いた時にはバテバテになっていました。

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ここに来たのは蓮を見るためでしたが、池を前にして愕然、何にもありません。あれほど咲いていた蓮はどこへ行ってしまったのだろう。

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わずかに見えていた水草は、近づいてみると睡蓮でした。これはこれで綺麗でしたが、目当てにしていたのは一面に咲いていた蓮です。なぜ無くなったのかはわかりませんが、大覚寺のホームページを見ても大沢池の花として紹介されているのは睡蓮だけ。という事は、意図的に除去したのでしょうか。

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わずかに咲いていたのはもみじロードの近くの水路だけでした。ここは以前から咲いていた場所ですが、蓮はこれで十分という事なのかな。まあ、白い花に赤い欄干が良く映えて、絵になってくれたのは嬉しかったです。

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大沢池は嵯峨天皇が作った離宮嵯峨院の林泉庭園の跡。現存する中では日本最古の庭池とされます。嵯峨天皇当時の離宮がどんなものだったかは判りませんが、現地にはずっと時代が下った後宇多天皇(鎌倉時代末期)が復興した頃の大覚寺の絵が設置されています。それによると当時は今と違って池の北側に伽藍があり、池の周辺には今と同じようにいくつかのお堂がある程度で、特に庭園として整備されていた様には見えません。この頃には現在の様に主として水面を眺めるためのもので、時として船を浮かべる池になっていたのでしょうか。

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現地で見る事が出来る離宮当時の名残が名古曽の滝の跡です。滝殿と呼ばれた御殿にあったとされる庭の痕跡で、今昔物語に百済川成が作ったとあるそうですね。百人一首の一つ「滝の音は絶えて久しくなりぬれどなこそ流れてなお聞こえけれ」という歌で知られていましたが、かつてはそれらしき石組みがあるだけではっきりした事は判っていませんでした。昭和50年代から平成にかけて行われた発掘調査で、石組みは一部が平安時代のもので他の多くは後世の手が入っている事、また石組みから続く遣り水の跡が残っている事が判り、現在の様に復原整備されています。以前は石組みだけだったと思うのですが、この日見ると実際に水が流れていましたね。

ちなみに百人一首の歌を詠ったのは藤原公任、光る君へでも登場している平安時代の政治家であり歌人です。藤原道長と同い年で若い頃は出世のライバルでしたが、道長が抜きん出るとその政権を支える存在として権大納言となり、一条朝の四納言の一人に数えられています。今後ドラマの中でどう描かれていくか楽しみですね。

2024年7月29日 (月)

京都・洛西 源氏物語ゆかりの地 2024 ~清凉寺 7.19~

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小倉池から嵯峨野路を歩き、清凉寺に来ました。ここに来るのは桜を見に来て以来、3ヶ月ぶりになりますね。境内の様子はすっかり様変わりし、緑で溢れていました。

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清凉寺は平安時代末期に東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が開こうとした寺です。奝然は都で比叡山延暦寺が隆盛を極め、相対的に南都仏教の地位が低下していることを嘆き、愛宕山の麓に大清凉寺を開いて延暦寺に対抗しようとしたのです。奝然はまず寛和元年(985年)に中国に渡って五台山を巡礼し、インドから伝わった釈迦に生き写しの尊像を模刻して、永延元年(987年)に日本に持ち帰りました。この尊像を本尊とした寺を開こうとしたのですが、延暦寺の反対などによって果たせず、奝然はそのまま亡くなってしまいます。その遺志を継いだ弟子達によって、この地にあった棲霞寺 (せいかじ)の釈迦堂に尊像が安置され、釈迦堂は華厳宗天台山清凉寺と改められました。

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寺に伝わる縁起では、中国から尊像を持ち帰るとき、奝然の夢枕に仏が現れ、我の台座を取り替えよとお告げがあり、奝然は模刻と真像を入れ替えたとあります。つまり今の清凉寺にある釈迦像は、古代インドで彫られたものという事になりますね。この伝承から尊像はインド、中国を経て日本に伝えられた三国伝来の釈迦像と呼ばれます。まあこれはあくまで伝承で、実際にはその後の調査で中国の仏師の名が刻まれた銘板が見つかっており、模刻である事が確認されていますが、江戸時代までは本当にあった事だと信じられていました。しかし模刻ではあっても非常に優れた仏像である事には変わらず、国宝に指定されています。また、清凉寺式釈迦如来像として尊崇を集め、百体近くの模像が作られています。また面白いのは、この像の胎内から五臓六腑の模型が見つかっている事で、生身のお釈迦様に対する信仰があった事を示しています。この五臓六腑は写しが作られており、本堂を拝観すると見ることが出来ますよ。

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元々ここにあった棲霞寺は、その後の清凉寺の発展により飲み込まれてしまい、塔頭になったと伝わります。言わば庇を貸して母屋を取られたという事ですね。現在はその塔頭も無くなり、ご本尊とされていた阿弥陀三尊像だけが残ります。その三尊像を祀っていたのがこの阿弥陀堂。いわば棲霞寺の末裔と言えるのかな。

棲霞寺は元は平安時代前期の左大臣源融の別荘で、棲霞観と呼ばれていました。源融は類い希な美男であったとされ、源氏物語の主人公、光源氏のモデルになったと言われています。融は別荘に阿弥陀堂を建てようと発願しましたが、果たせぬうちに亡くなり、息子達が遺志を継いで融の一周忌(寛平8年 896年)に阿弥陀三尊像を造って阿弥陀堂を完成させ、別荘を寺に改めました。この阿弥陀様が融の面影を伝えるものと言われ、非常に綺麗なお顔立ちをされています。現在は宝物館に安置されており、4月と5月、10月と11月の公開日に行けば拝観する事が出来ますよ。

また、棲霞寺は源氏物語の中で光源氏が築いた嵯峨の御堂にも比定されています。場所は大覚寺の南、大堰川の近くとされており、棲霞寺とよく符合するのですね。物語の描写を事実に基づいたものと仮定すれば、棲霞寺は大覚寺に匹敵する大寺だった事が窺えます。

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清凉寺には何度も来ていますが、この日はこれまで前を素通りして来た塔頭が目に入り、前庭が美しい事に気づいて立ち寄ってみる事にしました。寺名は薬師寺、清凉寺とは別の起原を持ち、嵯峨天皇の勅願寺として開かれました。弘法大師が自ら刻んだと伝わる薬師如来を本尊とし、江戸時代までは大覚寺の保護下にありました。明治に至り浄土宗に転じ、清凉寺の塔頭となって今に至ります。

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本堂はこの隣にあるのですが、その片隅に生の六道小野篁遺跡と記した石碑が建てられていました。何の関係があるのかと思って調べたのですが、薬師寺そのものではなく、今は廃寺となり薬師寺と合併した福生寺に縁のあるものでした。小野篁は昼は現世で参議を務め、夜は冥府で閻魔大王の下で補佐をしていたという伝説を持つ人物です。冥府に行くときに通ったとされるのが六原にある六道珍皇寺の井戸で、現世に帰って来る時に通ったのが福生寺の井戸だったと伝えられます。篁は地獄で亡者を救う地蔵菩薩の姿を目の当たりにし、その尊さに打たれて地蔵菩薩像を刻み福正寺にお祀りしました。このお地蔵様を生六道地蔵菩薩像と言い、今も薬師寺に伝わっているとの事です。

この福正寺がどこにあったのかと調べたのですが、清凉寺から大覚寺へと向かう道の途中、府道との交差点にありました。今は小さな公園として整備され、地蔵堂が建っていますね。以前から気になっていた場所で、何のことはないこの日も通ってきたのですが、それとは知らずに素通りしてしまいました。この次行くとき、たぶん彼岸花が咲く頃、じっくりと見てくる事にします。なお、井戸の跡は宅地化されていて、今は残っていないとのことです。

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(左:紫式部墓 右:小野篁墓)

ちなみにこの小野篁は紫式部とも縁があって、墓が隣同士なのですね。場所は紫野西御所田町水火天満宮の近くです。なぜ隣同士なのか不思議なのですが、篁が建てた千本ゑんま堂に式部の供養塔がある事が関係しているようです。式部はその死後、嘘の物語で世を惑わしたとされ、地獄に落ちたと言われた時期がありました。それを救うために供養塔が建てられたのですが、それだけで事は済まず、式部をさらに救うために篁の墓を式部の隣に移したのではないかと言われています。逆に式部の墓をここに移したという説もありまりますね。どこまで信憑性があるのかは判りませんが、源氏物語は色々なところに影響を残していますね。それだけ長く愛されて来た名作なのだという事なのでしょう。

2024年7月28日 (日)

京都・洛西 蓮2024 ~小倉池 7.19~

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常寂光寺の前を左に入り、小倉池に来ました。すると期待通り蓮が水面一杯に広がっていて、沢山の花が咲いていました。

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何の変哲も無かった池が蓮池に変身したのに気づいたのは2019年でした。当時はまだ水面の三分の一程度を埋める程度でしたが、年々広がりを見せ始め、とうとう池全体を覆い尽くす様になりました。今や嵯峨野の蓮の名所として知れ渡るようになりましたね。

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この池、なんでこんなところにあるのだろうと調べてみたのですが、ネット上では判らなかったです。どう見ても自然に出来た池には思えず、人工的に作った様に感じますね。池の南側は低くなっており、一部は堤の様にも見えます。ため池だったのか、あるいは寺院か別荘の庭園の池だったのか、正体はいまのところ不明です。ずっと以前は釣り堀だった頃もあったとか。色々と変遷を遂げてきたことは確かな様ですね。

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小倉池の北側の入り口です。青紅葉が綺麗だったので撮ってみました。この先には人形工房アイトワさんがあり、以前は木に作品を飾られていました。初めて見たときは暗がりの中に突然現れた人形を見て、何これと驚きましたけどね、最近は見ないけど展示は止めたのかな。一度カフェにも寄せて頂いた事もありますが、静かな良い店でしたね。もう10年以上前になるのかな。今度また立ち寄ってみようかしらん。

2024年7月27日 (土)

京都・洛西 新緑2024 ~落柿舎 7.19~

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野宮神社から次は小倉池を目指していたのですが、竹林の小道は外人さんでいっぱいそうだったので、回り道をして落柿舎の前に出ました。鳥居形を背景にした柿の木の緑はいつ見ても美しいものですね。

この前の空き地ですが、東半分は害獣除けなのでしょうか、フェンスが張り巡らされていました。でも、特に何かを栽培している様子でもなかったのですけどね。西半分は春先に耕されていましたが、ご覧の通り何もありません。てっきり以前の様な古代米の栽培を再開するのかと思っていたのですが、期待外れでしたね。

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ここで背後を振り向くと土佐四天王の像があります。2010年に設置されたもので、初めて見たときは唐突感がありましたね。ここに置かれた経緯を調べてみると、元は土佐稲荷・岬神社にあったのですが、何かの理由で近くのビルに移され、さらに再開発によってそのビルが取り壊されて居場所を失い、ここに引き取られてきたという事になる様です。何とも不自然な像なのですが、経緯を知るとまあ仕方がないのかなという気がしますね。

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落柿舎の主は向井去来、松尾芭蕉の門人です。落柿舎の背後に小さな墓地があるのですが、そこに去来の墓があります。いつもは素通りするだけだったのですが、この日は時間があったのでお参りする事にしました。小振りな石に去来とだけ彫った簡素な墓で、俳人に相応しい潔さという気がしますね。なお、去来の墓は真如堂にもあり、こちらはもしかしたら供養塔なのかも知れません。

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落柿舎から小倉池へと向かう事にします。いつもは逆に歩いてくるので、この景色はなんだか新鮮ですね。奥に見えているのは常寂光寺。まだ拝観開始前なので門は閉まっています。紅葉時分だと撮影目当ての人がこの時間から列を作っているのですが、この日は静かなものでした。青紅葉も綺麗なのですが、それはまた今度の機会とする事とします。

2024年7月26日 (金)

京都・洛西 源氏物語縁りの地 2024 ~野宮神社 7.19~

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天龍寺から野宮神社に来ました。途中の道は外国人の方達が沢山行き交っていたのですが、この神社は空いていましたね。ほとんどの人が竹林の小道に流れて行き、ここに来たのは数人だけでした。

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野宮とは伊勢神宮に奉仕する斎王が潔斎を行う場所の事を指します。飛鳥時代より存在し、天皇が代替わりする都度に斎王も代わることから、野宮もその都度場所を選んで作られていました。やがて都が平安京に移り、嵯峨天皇の代になると、現在の野宮神社の場所に作られるようになりました。斎王の制度は後醍醐天皇の代に南北朝の騒乱によって途絶えてしまいますが、野宮は天照大御神を祀る神社として残りました。しかし、その後も続く戦乱の中で次第に衰退してしまいます。

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その後、後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が出され、復興を遂げる事が出来たとの事です。でも疑問なのは後奈良天皇の頃は朝廷も衰退しきっており、大覚寺もまた応仁の乱で焼き払われ、その後も続く騒乱の中で放火されていて、野宮神社を助ける余裕なんてあったのかなあという事です。この辺りは調べた限りでは判らないですね。それはともかくとして、皇室との縁は深いことは確かで、今の天皇陛下、皇太子殿下ともに参拝されていますね。きっと当時は凄い騒ぎだった事でしょう。

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野宮神社は源氏物語の舞台としても描かれています。光源氏の正妻を生き霊となって殺した六条御息所が罪を悔い、斎王となった娘と共にここで暮らしていたという設定になっています。物語に描かれた野宮は小柴垣に囲われた簡素な造りながら、丸木の鳥居は神々しいとあり、今の神社のしつらえを彷彿とさせますね。ただ、建物は寝殿造りのように描かれていて、敷地も今よりずっと広かったのでしょう。光源氏が訪ねていったのは秋の夜、周囲は野原、虫の声とかすかな楽曲の音だけが聞こえる艶な趣と紫式部は書いていますね。昔の嵯峨野、歩いてみたい気がします。

写真はじゅうたん苔と呼ばれる庭です。嵐山、嵯峨野の風景を再現したものと言われ、小さな橋は渡月橋ですね。普段は大勢の人で賑わうので落ち着いて見る事が出来ませんが、この日はゆっくりと鑑賞する事が出来ました。まだ夏の日に焼けていないせいか、苔もとても美しかったです。

日中はインバウンドの団体だらけで源氏物語の世界感どころではありませんが、早朝なら静かに参拝する事が出来ます。きっと物語の一端に触れる事ができると思いますよ。

2024年7月25日 (木)

京都・洛北 御手洗祭2024 ~下鴨神社 7.25~

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令和6年7月25日、今日は下鴨神社の御手洗祭を訪れました。これは毎年土用の丑の日の前後に行われる神事で、今年は7月19日から28日までとなっています。

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御手洗祭は摂社の一つ井上社の神事で、御祭神の瀬織津比売命は罪、穢れを払う神である事から、土用の丑の日に井上社の下から流れ出る御手洗池に足を漬け、燈明を灯して御神水を頂くと、諸病に関わらず延命長寿の御利益があるとされています。

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御手洗祭は午前9時からですが、10時過ぎに行くと既に大勢の人で賑わっていました。夏休みという事もあるでしょうけど、平日の午前中でこれほどの参拝者があるとは思っていませんでした。糺の森の駐車場もほぼ満杯になっていましたしね。さらに人気のある夜になったら、どれほど混み合う事でしょうか。

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以前は朝の5時から開いており、もっぱら始発に乗って来ていたのですけどね、神社の方も対応が大変だったという事だったのでしょうか。でも最近は朝から暑くて、ここまで来るだけでも結構堪えます。以前の様に早朝に戻して貰えない事かしらん。まあ、暑いぶん冷たい御手洗池に入った時の清涼感は抜群ですけどね。

なお、奉納料は500円になっています。これも年々上がっているような。インフレの波はどこまでも押し寄せて来ますね。

2024年7月24日 (水)

京都・洛西 蓮2024 ~天龍寺 7.19~

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令和6年7月19日の天龍寺です。この日は放生池の蓮が見頃を迎えていました。

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この日訪れたのは8時過ぎ、まだ拝観開始前なので誰も居ないだろうと思っていたのですが、外国人の方が何人も来ていました。やっぱりこの蓮を見に来ていたのでしょうね。どこで情報を拾ってくるのかしらん。あの人達の情報収集能力はあなどれないものがあります。

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これまで天龍寺の蓮は何度も見に来ていますが、いつも早すぎたり遅すぎたりで、見頃の時期に間に合ったのは初めてですね。これだけ咲いているのを見ると嬉しくなってしまいます。

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ここの蓮は息が長くて、8月の中旬に入っても咲いていた事があります。この日も蕾が沢山上がっていてまだまだ見頃は続きそうでしたが、今年の暑さだとどこまで保つでしょうね。一気に咲いてあっという間に終了と言うこともあり得なくは無いです。

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北側の池に来ました。こちらの方は花が少ないですね。つぼみもあまり無かったし、これ以上増えるという事はなさそうでした。同じ環境なのにこれほど差が出るとは面白いですね。日照時間の関係?、うーん、良く判らないです。繁り方は一緒なんですけどね。花は人の思惑通りにはなかなか行かないのは確かな様です。

祗園祭・後祭 山鉾巡行 行けませんでした

今日は祇園祭・後祭の山鉾巡行の日。当然出かけるつもりだったのですが、前日までの天気予報では午前中は雨模様。仕方が無いので河原町通沿いのアーケード下で撮ろうかと思っていたのですが、朝起きてスマホで雨雲レーダーを見てみると京都の北西部で豪雨となっています。さらに時間を進めると丁度巡行が行われる頃に京都市内が豪雨になる予想となっていました。これではどうしようもないと行くのを諦めたのですが、実際に9時になってみると雨雲は消え、晴れていました。一体あの予報は何だったんだ、こんな事なら雨は覚悟の上で出かければ良かったと思っていました。

でも結局昼前になって大雨になってしまいましたね。まだ巡行中の山鉾もあったと言うのに、保存会の人たちは大変だった事でしょう。貴重な懸裝品は大丈夫だったのかな。被害が無ければ良いのですが。

降るかと思えば晴れ、晴れていたと思ったら俄かの大雨。梅雨は明けたと言うけれど、実はまだ梅雨末期じゃないのかしらん。何ともおかしな天気に振り回された山鉾巡行でした。

 

2024年7月23日 (火)

京都・洛中 祗園祭・後祭2024 ~宵々山 7.22~ 

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令和6年7月22日、祗園祭・後祭の宵々山を訪れてきました。この日は昼から強い雨が予報されており、実際隣の大津市では豪雨となったのですが、幸いな事に京都では雨を免れ、無事に祭りの宵を楽しむ事が出来ました。

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その代わりという事か、この日の京都は38度まで気温が上がり、夕方になっても暑さは収まりませんでした。まあ宵山が蒸し暑いのは毎年の事ですが、年々酷くなっているのを実感します。

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前祭の宵山にも来るつもりでしたが、雨の予報だったのと連休に重なったため人出が半端ないと思われたので、今年は敬遠しました。実際凄い混み方で、特に15日は豪雨にも見舞われ大変だった様ですね。後祭の宵山は屋台も無く、四条通の歩行者天国も無いのですが、人出はずっと少なく、宵山の風情を味わうにはこちらの方が向いています。

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中でも子供たちが歌ううそく売りの童歌は、宵山らしい情緒があって良いですね。ここ南観音山ではコロナ禍以降暫く途絶えていましたが、今年は可愛らしい歌声を聞くことが出来ました。以下動画出その様子をご覧下さい。

今年はいつにも増して幼い子達ばかりでしたね。暑い中、ずっと歌い続けるのはさぞかし大変だった事でしょう。でもこの歌を聴くと宵山に来たなあという気分になります。

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すこしあれっと思ったのは南観音山の拝観は日中だけのはずだったのてすが、この日は上っている人が居ましたね。ルールが変わったのかなと思ったのですが、ここには2年前に入っているので特に確認せず、スルーしました。

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2階にご神体が展示されているのが橋弁慶山。実はここのちまきを買う予定だったのですが、なんと既に売り切れていました。他の山でも売り切れているところがあり、宵々山で無くなるとは大した人気ですね。あるいは宵山用には別に取ってあるのかな。

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毎年見に来るのを楽しみにしているのが黒主山のご神体。大友黒主が桜を見上げているところなのですが、巡行中はあまり判らないのですよね。会所で見ると非常に格好良く、なかなか絵になるのが気に入っています。

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役行者山に来ましたが、ここは会所が新しくなっていましたね。調べてみると2年前にリニューアルしたようです。常設展示場とホームページにはあるのですが、祭りの期間以外でも見せて貰えるようになったのかな。触れると全身の凝りが消えるという行者石も置いてありました。 これも以前は無かったと思うのですが、どうだったかな。

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黒主山の近くには、今年も誉田屋源兵衛の上り鯉がありました。2008年に創業270年を記念して始められたイベントで、今年で16年目を迎えますね。毎年1匹ずつ書き加えられて行くというのが趣旨ですが、今年はどこに増えていたのかしらん。

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立身出世の御利益があるという鯉山です。リタイアした私には縁の無い山となってしまいましたが、息子達のためにと拝観してきました。ここで子供たちの歌に誘われて献灯をしたのですが、背後に居た女性が軽く頭を下げてくれました。その柔らかい所作を見て、ああこの人京女だなあとふと思ったのです。どこか雰囲気が似ていた小学校の同級生を思い出したのですね。その子は決しておしとやかでは無かったのですが、聡明で人の痛みの判る子でした。仲の良い女友達の一人で、京都の路地裏で他の友達と一緒にドッジボールをしたり、自転車で走り回ったりしたものです。男の子にも遠慮しないけど、決してがさつではなく、ちゃんと芯が通っていて、そのくせ思いやりも深く、私の中で京女と言えばその子です。中学校で別々になってから何十年と会っておらず、ずっと記憶の底に沈んでいたのですが、どういうものか急に蘇ったのですね。これも宵山という京情緒のなせる技かしらん。

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2022年に巡行に復帰し、今年で3年目を迎える鷹山。唯一宵山で乗った事の無い山ですが、今年も長蛇の列が出来ていたので見送りました。あまりの蒸し暑さで、行列に並ぶ気力が無かったです。来年は真っ先にこの山に来る事にしようかしらん。その祗園囃子を動画でお聞き下さい。

この祗園囃子を初めて聞いたのは2016年の事(復活したのは2014年)でした。当時はビルの一階を借りて演奏されていましたね。まだ復帰に向けた動きを知らず、あらぬ方角から祗園囃子が聞こえて来たのに驚いたのを覚えています。今は南観音山、北観音山に並ぶ三つの曳き山の一つとして堂々とした姿を誇っています。

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ご神体の方は居祭りの当時と変わらず、ビルの一階に祀られていました。でも復活以前はここに立ち寄る人はほとんど居なかったのですが、この日は短いながら行列が出来ていましたね。やっぱり山が出来ると注目の度合いが違ってくるという事でしょう。ちなみに今年のちまきはここで買いました。御利益は厄除け、来年に向けて無事で過ごせますようにという願いを込めました。

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最後に立ち寄ったのが鈴鹿山です。鉾町からぽつんと離れた烏丸通にあり、いつもは空いているのですが、この日は結構混んでいました。何でも売り子さんたちの交代で、立ち入りを制限していた様です。でも祗園祭一の美人と言われるこのご神体を見逃す訳にはいかないのでじっと待ち、無事に拝む事が出来ました。この仮面の下はどんなお顔かいつか拝見したいですが、それは無理なお願いというものでしょうね。

6時に着いた頃は空いていた鉾町でしたが、8時に近くなると結構混み出しました。仕事帰りの人がやって来たのでしょうか。後の祭りの語源と言われますが、なかなかどうして人気はありますよ。前祭が混みすぎなんですよね。祭り情緒を味わいたいのなら、後祭を訪れる事をお勧めします。

2024年7月22日 (月)

京都・洛中 京都御苑周辺の散策 光る君へ聖地巡礼など

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相国寺から清浄華院、廬山寺を訪れた間、京都御苑もぶらぶらと歩いて来ました。ここには毎年梅や桜を見に来ていますが、じっくり見て回るのは久しぶりの事です。

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京都御苑で中心的な施設は京都御所。周囲は長い土塀で囲われています。そんな中で特徴的なのが東北角のこの部分。わざとへこませた形に作られています。ここは御所の鬼門にあたる東北隅で、隅を欠く事で鬼門を無くすという意味があるそうです。

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そしてここには鬼門を守る神様、日吉神社の使いとされる神猿が祀られており、この猿が居る事から通称猿が辻と呼ばれます。幕末に姉小路公知卿が襲われた猿が辻の変の舞台としても知られますね。尊皇攘夷の急先鋒であった公知卿が開国派に転向したと疑われ、尊攘派の志士たちに狙われたと言われますが、真相は未だに不明です。

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猿が辻から東に歩いて行くと柵に囲われた一角があります。ここは明治天皇が生まれた中山邸跡です。京都御苑のほとんどの場所が公開されている中で、ここはずっと非公開ですね。明治天皇が神格化されていた事と関係あるのかしらん。春には柵の際で白梅が咲き、なかなか綺麗ですよ。

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中山邸跡からさらに東に歩いて行くと、左手奥にグランウンドがあります。ここが去年後期の直木賞受賞作となった万城目学氏作の「八月の御所グラウンド」の舞台です。作品では石薬師門を潜って暫く進んだ先にあるように描かれていますが、京都御苑の北辺にあるグラウンドはここしかありません。作品に出てきたのは創作上のグラウンドかも知れませんが、モデルとなった事は間違いないでしょう。主人公は不本意ながらここで早朝野球に参加する事になり、不思議な体験をする事になります。とても読みやすくて、読了後はほっこりした気分になる名作ですよ。

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そのグラウンドからすぐの場所にあるのが石薬師門。わざわざ裏側から撮ったのには意味があります。この外側一帯を真如堂前町と言い、安土桃山期から江戸時代の初期まで真如堂がありました。この門の前に石薬師堂があり、名前の由来となっています。当時はどんな景色だったのでしょうね。真如堂は東山天皇の勅命により現在地に移転しましたが、もしここにあったならば天明の大火で焼失していた事でしょう。何が幸いするかは判らないものです。

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京都御苑を出て寺町通を南に下り、清浄華院に来ました。ここに来たのはこの大きな石と大日如来を見るためです。この石は清浄華院のずっと南、世界救世教いづのめ京都跡地の工事現場から出土したもので、藤原道長が建てた法成寺の礎石ではないかと推定されているものです。

法成寺は北は廬山寺のあたりから南は荒神口通の辺りまで、西は寺町通りから東は鴨川堤までという広大な寺域を誇った寺で、寛仁3年(1019年)に開かれました。最初は九体阿弥陀堂に始まり、無量寿院と称していました。その後、経蔵、講堂、金堂などが次々に建てられ、法成寺と名を改めています。平等院のモデルになった寺とも言われ、鴨川から見た姿は宇治川から見た平等院の様であったと考えられています。京極御堂とも呼ばれ、道長の別称御堂関白はこの寺から来ているとの事です。道長はこの寺で亡くなっており、その死後も頼通に引き継がれて隆盛を極めるのですが、鎌倉期に入ると戦乱や火災によって次第に衰え、徒然草に寄れば南北朝期には無量寿院と阿弥陀堂だけが残るという荒涼としたありさまになっていました。

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法成寺は御堂関白記や権記、小右記といった一次資料、栄華物語や大鏡といった歴史物語に記されており、存在したことは確かで、場所や範囲も概ね特定されていますが、考古学的な痕跡がほとんど無いのですね。付近から井戸の跡や当時高価とされた緑釉瓦は大量に出土しており、おそらく法成寺のものだろうと推測されていますが、基壇や礎石といったものは見つかっていません。おそらく鴨川の畔にあった事から、相次ぐ氾濫により痕跡が消えてしまったのではないかと言われますが、皆無というのも不思議な気がします。

そんな中、令和3年に法成寺跡の範囲内で工事が行われ、巨石と石仏が見つかったのです。工事関係者の中に清浄華院に縁のある人が居て、供養のために寺で預かってくれないかと連絡が入り、寺の職員が確認したところ大日如来と礎石らしいと判りました。出土場所から見て法成寺のものではないかと考えた清浄華院は引き取って供養する事とし、後から見つかったもう一つの礎石と共に境内に安置して公開する事にしました。

無論、工事に先立って埋蔵文化財の発掘調査は行われたのですが、そこでは何も見つかっておらず、調査の範囲外で偶然掘り出されため出土時の状態などが記録されていない事から、残念ながら考古学的に法成寺のものとは確定出来ないそうです。しかし、出てきた場所と礎石に焼けた痕跡が見られることなどから法成寺縁のものという可能性は高く、貴重な資料である事には変わりないと考えられています。

清浄華院と法成寺跡は離れており、両者の間に直接の関係は無いのですが、幻の寺と言われる法成寺の痕跡が何時でも見られるというのは、とても有り難い事です。

なお、法成寺跡の石碑は鴨沂高校の校舎とグラウンドを隔つ荒神口通北側にあり、これより東北法成寺跡と記された石柱と、概要を記した案内板が建っています。

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法成寺跡から引き返し、清和院御門から京都御苑に戻りました。ここで見たかったのは土御門邸跡、道長の邸宅跡です。元は左大臣源雅信の屋敷で、娘の倫子と結婚した道長がここに入っています。この道長と倫子の結婚には雅信が難色を示し、それを妻の穆子が強引に進めたというのは光る君へで描かれたとおりで、栄華物語がその原典です。これには異説もあり、実は雅信と兼家が決めた政略結婚ではなかったかとする意見もあります。

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雅信の代には方一町の大臣としては標準的な広さだったのですが、道長の代になるとどんどん拡張を進め、倍以上の広さとなりました。法成寺跡に掲示されている説明板には上の図面が記されており、土御門邸と法成寺の位置関係と大きさが良く判ります。これからすると、土御門邸は現在の表示板があるのが北辺付近で、今の仙洞御所からこの少し北あたりまでの規模を持っていた事になりますね。土御門邸は長和5年(1016年)に一度焼けているのですが、再建のために全国の受領達がこぞって寄進し、元より立派な屋敷になったと栄華物語などに記されています。当時の道長の権勢の程が窺えるエピソードです。

こうしてみると、道長と紫式部は隣同士ともいえる程のご近所さんだった事が判ります。光る君へは無論創作ですが、尊卑分脈には紫式部は道長の妾とあり、もしかしたら二人の間になにがしかの関係があったのかも知れないという気にはなります。貴族としての格が違いすぎるし、学説としても否定されていますけどね。

御堂関白家の本拠として偉容を誇った土御門邸ですが、鎌倉時代以降は次第に荒廃し、南北朝時代には法成寺と同様に見る影も無い廃墟となったと兼好法師が徒然草に記しています。

調べた限りではこれまでほどんど発掘調査は行われておらず、わずかに北辺にあった池の跡が確認されている程度の様です。今後全容が明らかになる時は来るのでしょうかね。

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土御門邸跡からずっと西、閑院宮邸跡の前に宗像神社があります。ひっそりと佇む小さな神社ですが、その歴史は古く、平安京遷都の翌年、時の太政大臣藤原冬嗣が桓武天皇の命によって筑前の宗像神を勧請したものと伝わります。ここには冬嗣の屋敷である小一条殿があり、宗像社はその南西隅に祀られました。下って花山天皇の時、一時この地に内裏を移した事があり、以後小一条殿は花山院と呼ばれる様になります。花山天皇は藤原兼家の陰謀により出家してしまいすが、その後は延暦寺で灌頂授戒して法皇となり、西国三十三所を復興するなど諸国を遍歴し、最後はこの地に戻って亡くなったとされます。光る君へでは描かれないでしょうけど、花山法皇を偲ぶ場所として訪れてみてください。

さらに下って花山院家が開かれると宗像社はその守護神となり、東京奠都後も元の位置に止まって現在に至ります。京都御所の南西、裏鬼門の位置にある事から方除けの信仰があり、そのほか産業安全、交通安全、建築安全、安産など様々なご利益があるとされます。観光神社という他には無い面白い摂社もありますね。

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光る君へとは関係が無いのですが、京都御苑の近くに大久保利通邸跡があるのを思いだし、石薬師門まで戻りました。石薬師門を出て寺町通を右に曲がり、一筋目を左に入ったところに大久保利通邸跡があります。大久保は慶応2年(1866年)正月に藩邸を出てこの地で暮らし、同志達と倒幕のための密議を交わしたと言われます。周囲は全くの住宅街で当時の面影はありませんが、2019年にここにあった旧家が取り壊される時、密議に使用したと言われる茶室、有待庵が通行人によって発見されて破壊を免れ、移転保存される事となりました。そこまでは良いのですが、今どこにあるのかと調べてみたところ、岩倉具視幽棲旧宅に移転予定という発表があった以降、実際に再建されたという事実は無い様ですね。その後どうなっているのかしらん。なにがしかの情報発信はして欲しいところですね。

大久保はその後明治維新を成し遂げ、慶応4年6月までこの地で暮らしたとのことです。

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京都御苑からの帰り道、加茂大橋を渡りました。橋から眺めた出町デルタは、平日にも係わらず結構賑わっていましたね。飛び石も相変わらずの人気の様です。この出町デルタは8月の御所グラウンドのシリーズ、「3月の局さわぎ」(単行本「6月のぶりぶりぎっちょう」に収録)に登場します。ある人物がデルタの先端で叫ぶというシーンなのですが、現実と京都の持つ不思議さが重なるというシリーズに通徹したテーマが現れた場面です。光る君へにも若干関わるので、興味のある方は一読してみて下さい。よくまとまった短編で、なかなか面白いですよ。少々高い本なので、図書館で借りる事をお勧めします。

2024年7月21日 (日)

京都・洛中 桔梗2024 ~紫式部邸跡 廬山寺 7.8~

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清浄華院の隣にあるのが廬山寺、桔梗の咲く寺として知られ、この日も見頃となっていました。

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光る君へが放映されている今年は、紫式部の屋敷跡として注目されています。考証したのは歴史学者の角田文衛氏で、式部の曾祖父藤原兼輔の屋敷がこの地にあっと推測される事、源氏物語の注釈書の一つ「河海抄」に、「旧跡は正親町以南、京極西頬、今東北院向也」と記されており、概ね現在の廬山寺の境内に重なると推定されました。ただ、これには異説もあり、寺町通を挟んだ梨木神社の辺りとする意見もあります。と言うのは「西頬 (にしづら)」とは西側にあるという意味で、京極とは今の寺町通の事ですから、廬山寺の位置だとすると「東頬」になるはずなのです。堤中納言と呼ばれた曾祖父の兼輔の屋敷は正親町小路南、東京極大路東にあったとされ、廬山寺の地にあったのは確からしいのですが、孫の為時は向かいにあった舅の為信の屋敷に移っていたと推測され、その根拠の一つとして江戸時代に作成された古地図に京極通の西側の一角に清和院と並んで紫式部と記されている事が挙げられます。このあたり角田説に対して疑義があるのですが、異説もまた後世に作成された2次、3次資料に基づく推測である事から、ここでは紹介するに止め、以後は通説に従って行く事にします。

ちなみに東北院とは藤原道長が建てた法成寺の一院で、娘にして一条天皇の皇后であった彰子の発願で建てられました。その名の通り法成寺の東北に位置していたとされ、法成寺と共に一度全焼しており、再建にあたっては北側に位置を移したとされます。このことから、先に紹介した異説では、廬山寺は東北院の跡地ではないかとしていますね。東北院は今も存在し、真如堂の近くに移転して、彰子の子である後一条天皇の御陵の前にあります。

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廬山寺は天慶年間(983年~947年)に十八世天台座主の良源によって創建されました。良源と言うより元三大師の名の方が有名ですね。当時の寺名は興願金剛院と言い、船岡山の南にありました。その後荒廃してしまいますが、寛元3年(1245年)に法然の弟子であった覚瑜が再興し、中国の廬山にならって蓮社(浄土宗の信者による念仏結社)を作り、寺名を廬山天台講寺としました。この時は天台・浄土・密教・律宗の四宗兼学道場でした。

元亀3年(1571年)には比叡山の焼き討ちで手柄を上げ、恩賞としてその領地を与えられた明智光秀が、廬山寺も比叡山の末寺だとして領地を押収しようとしたのですが、廬山寺では比叡山とは無関係であると主張して正親町天皇に働きかけ、女房奉書を下して貰う事で辛くも逃れています。この縁があるからでしょうか、廬山寺には光秀の念持仏が伝わっており、これまで何度か公開された事があります。私も何回か見ていますが、洞窟を思わせる逗子の中に納められた小さな地蔵菩薩で、光秀が常に持ち歩いていたと思うと感慨深いものがありました。

明治になって天台宗の寺となりますが、戦後に天台圓浄宗として独立し、元の四宗兼学の寺となっています。

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廬山寺の庭は源氏の庭と呼ばれます。無論、紫式部の源氏物語にちなんだ名で、白砂と苔で州浜を象り、平安貴族の庭を彷彿とさせる作りになっています。寺では平安期の庭の感を表現していると言われていますね。桔梗が植えられているのも源氏物語に登場する朝顔にちなんだもので、当時の朝顔は桔梗の事だからなのだとか。

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庭の真ん中には昭和40年に据えられた紫式部邸跡と書いた石碑が置かれています。通説に従えばここは紫式部の曾祖父、藤原兼輔が屋敷を構え、雅正、為時と代々引き継がれて紫式部もここで生まれて育ち、源氏物語の大半はここで執筆されたと言われています。

兼輔は従三位、権中納言まで出世した人で、鴨川の堤防沿いに屋敷があった事から堤中納言と呼ばれました。和歌の名手として知られた人でもあり、勅撰和歌集に56首もの歌が選ばれています。兼輔は醍醐天皇の外戚であり、また妻の実家が右大臣家であった事によって高官になる事が出来ましたが、息子の雅正は従五位下、孫の為時も正五位の下という受領階級に止まっており、当時の出世争いには後ろ盾が如何に大事かという事を物語っているかのようです。

紫式部が暮らした頃には屋敷は100年近く経過しており、為時が散位だった頃には維持するのも大変だった事でしょうね。

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本堂の東に突きだしているのが御黒戸、通称御尊牌殿。皇室の菩提を弔うための施設で、江戸時代には皇室の葬儀は泉涌寺で行い、追善仏事は廬山寺で行われていました。ここには歴代天皇の御尊牌がありましたが、明治になって廃仏毀釈のあおりで維持管理に支障が生じたため、泉涌寺に移されています。今は光格天皇とその皇后である新清和院の御尊牌があるとのことです。

廬山寺では源氏物語関係の展示も行っており、源氏物語絵巻の複製や美しい絵が描かれた貝合せの貝などを見る事が出来ます。源氏物語をよくご存じの方にはきっと楽しいでしょうね。

光る君への影響はまずまずで、平日の昼間でも10人くらいが拝観していました。土日になるともっと混むでしょうね。桔梗は10月くらいまで咲き続けますが、盛りはそろそろ過ぎてくる頃で、花数が少なくなってくると思われます。私的には10月にリンドウ、11月に紅葉を見に来ようかと思っています。上手くタイミングが合うと良いのですけどね。

2024年7月20日 (土)

京都・洛中 浄土宗大本山 清浄華院

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京都御苑の東、寺町通に面して小さいながら立派な門を持った寺があります。浄土宗の大本山の一つで清浄華院(しょうじょうかいん)と呼ばれます。

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清浄華院には八年前に特別公開があった時に訪れた事があり今回で二度目ですね。特別公開の対象になったとは言っても普段から開放されており、無料で拝観する事が出来ます。

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清浄華院は狭い境内の中にいくつものお堂が建っています。二枚目の写真が大殿で、法然上人の像がお祀りされています。別名御影堂。法然上人像は知恩院、永観堂など幾つか見て来ていますが、ここの上人像は若々しい珍しいお姿ですね。もう一つ別にご開帳用の上人像もあり、こちらは少し御歳を召したお姿でした。二体も上人像がある御影堂は他には無いと思います。また安倍晴明が秘法を使った時、師の身代わりとなった若い僧を救ったという泣き不動も観る事が出来ます。以前は秘仏でしたが、十年前から開帳しているのだとか。そうすると八年前にお前立ちかと疑った時も、本物を見ていたのですね。

上の写真は大方丈。ここには阿弥陀三尊像が祀られています。小振りな仏様ですが、とても荘厳な感じを受けますね。中尊は平安時代後期の作で、恵心僧都の手に依るものとされます。素人目には優れた仏像のように見えますが、特に文化財の指定は受けていない様です。何故なんでしょうね。何か理由があるのでしょうか。

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前回来た時には無かった五輪塔が本堂前にありました。真新しい石碑には法然上人ご遺骨塔とあり、背面には平成30年に境内の整備工事を行った際にこの塔を解体したところ、中から法然上人御遺骨と書いた木札と人骨、仏像などが出てきたと記されていました。清浄華院には別に伝わる御遺骨があり、この五輪塔の事はすっかり忘れ去られていたのですね。そこで改めて御骨を五輪塔内に納め、大殿の前に据えなおして供養をしているとの事です。

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その横にも古い五輪塔があります。石塔には焼亡横死百五十人之墓とあり、天明の大火で亡くなった人たちの供養塔なのですね。天明の大火は天明8年(1788年)に起こった火災で、京都の八割が焼失し、死者は150人とも1800人とも言われます。清浄華院もこの時に被災していますが、その復興の際に供養塔を建てたものなのでしょうね。なお、ホームページの境内図には元治の火災も追記されており、幕末のどんどん焼けの被災者についても追悼しているのでしょう。天明の大火については蛤御門の逸話が有名ですが、ここにも痕跡が残っていたのでした。

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境内の東には墓地が広がっています。ここには姉小路公知、玉松操、立入宗継、山科言継など歴史上名を残した人物の墓があるのですが、玉松操以外は見つける事が出来ませんでした。数が多い上に古い墓石は字かかすれて読みづらく、案内無しでは探すのは難しそうですね。

河原町通に面してあるのが東門。今は寺町通より賑やかですが、こちらが裏門になります。宝永四年(1676年)と書いた棟札があり、境内最古の建造物です。

清浄華院は小さな寺ですが、知れば知るほど興味深い寺です。観光寺院ではありませんが、訪れてみる価値はありますよ。

2024年7月19日 (金)

京都・洛中 蓮2024 ~相国寺 7.8~

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三室戸寺から電車を乗り継いで相国寺に来ました。ここも蓮鉢が沢山置かれた蓮の名所の一つです。

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相国寺の蓮池は歴史が古いですね。正確には放生池でしょうけど、応仁の乱の時には既に蓮池と呼ばれる池がありました。その頃にはもっと南に位置していたそうですけどね。

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ここの蓮は全て鉢植えです。池の中にあるのも鉢ごと沈めてあります。たぶん地植えにすると池全体が蓮で覆われてしまい、管理が大変だからなのでしょうね。

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また種類は多彩ですが、ほとんどが小型の茶碗蓮。と言うより、全部がそうと言って良いのかな。理由は判りませんが、見た目が揃っていて綺麗なのは確かです。

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ただ、遠くにある花が小さくて、あまり映えないのが難点なのですよね。望遠レンズで拡大する分には良いのですが、肉眼で見るには少し物足りなく感じます。

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この日の時点でつぼみはまだ沢山ありましたが、まだ見頃は続いているでしょうか。例年なら8月に入っても咲いているのですけどね、異様に暑い今年はどうなるでしょう。早く終わってしまわないか気がかりです。

2024年7月18日 (木)

京都・洛南 蓮2024 ~三室戸寺 7.8~

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令和6年7月8日の三室戸寺です。6月14日に紫陽花を見に来たばかりですが、今回の目的は蓮です。期待していたほど一面に咲いているということは無かったですが、ぽつりぽつりと咲いていて、それなりに楽しめました。

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三室戸寺は今熊理観音寺と同じく西国三十三所の一つで、十番札所に位置づけられています。伝承に依ればこの寺の起原が川の上流で観音菩薩を見つけた事に始まっており、古くから観音霊場の一つとして認識されていた事が伺えます。

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三室戸寺の創建は770年の事とされます。当初は何宗だったのかは不明ですが、平安時代には園城寺と関係が深くなり天台宗寺門派となります。そして現在は本山修験宗の別格本山なんですね。どこでどうなったのか、このあたりの経緯については不明です。三室戸寺のホームページにも、本山修験宗の事は一言も触れられていません。なぜなんでしょうね。この寺で山伏の姿なんて見たことが無いのだけどな、ちょっと不思議な寺です。

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この寺にある蓮は250鉢、100種類なのだそうです。ずらっと鉢がなんだ光景はなかなか壮観ですよ。つぼみは沢山上がっていたので、まだ暫く見頃は続いている事でしょう。

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この日に三室戸寺を訪れたには訳があります。紫陽花園の開園が7日までだったので混雑を避けたかった事が一つ、もう一つは紫陽花園が終われば拝観料が安くなると思っていたのです。ところが行く前に念のため確認すると7月一杯は1000円のままなのですね。あれっと思ったのですが、8月まで待っていたのでは蓮の盛りが過ぎてしまいます。仕方が無いのでやって来ましたが、なんか足元を見られている気分だったなあ。

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この寺は源氏物語縁の寺ともされています。はっきりと三室戸寺の名が出てくる訳ではありませんが、宇治十帖に宇治山の阿闍梨と出てくる事、八の宮の山荘に山寺の鐘が聞こえて来るとあり、このあたりにある山寺は三室戸寺しかない事などから、古くから物語に描かれた寺と比定されてきました。江戸時代に鋳造された梵鐘に浮舟の文字があり、またかつては浮舟古社というお堂もあったそうです。今はその跡に浮舟古跡と書かれた石碑が建っており、浮舟古社にあった浮舟観音も現存しているそうです。今の聖地巡礼の様な事が江戸時代にも行われていたというのは興味深いですね。何百年経っても人のする事にはあまり変わりが無い様です。

2024年7月17日 (水)

京都・洛中 祗園祭・前祭2024 ~山鉾巡行 新町通にて 7.17~ 

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令和6年7月17日、祇園祭・前祭の山鉾巡行が行われました。今年の祇園祭は特に雨に祟られており、今日も予報ではにわか雨の心配もあると言われていましたが、結果としてまずまずの天候に恵まれ無事に挙行されました。

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今年は何年かぶりに新町通に来てみました。ここ数年雨や季節外れの超高温のせいで避けていたのですが、今日ぐらいの気温だと耐えられるだろうと思ったのです。しかし、来てみるとやっぱり暑かったです。

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どこで撮ろうかと迷ったのですが、背景が絵になる八竹庵の前にしました。ここは以前は紫織庵と言う名前でしたよね。大正時代に建てられた豪商の家で、和洋折衷の貴重な建築です。洋の部分は武田伍一が設計したと言いますから豪儀ですね。山鉾を見るための鉾見台を持つという特徴があり、この日も招待客なのでしょうか、幾人もの人が見ていました。この家、一時取り壊しという事になっていたそうですが、くろちくが文化財の喪失を惜しんで買い取り、八竹庵と名を変えて保存、公開を行っています。

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去年も書いていますが、山鉾巡行は祗園祭のメイン行事ではなく、今夜行われる神幸祭のための露払いです。神様が通る街中の穢れを払うのが目的で、穢れをまとった山鉾は巡行が終わるとすぐに解体されます。

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それにしても、新町通で見る山鉾巡行は、いつ来ても迫力がありますね。目の前を巨大な鉾が通り過ぎていくのですから、臨場感が違います。

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山鉾巡行には沢山の人が参加しますが、中でも一番元気なのが綾傘鉾の棒振り囃子を踊るこの人でしょうか。巡行中、要所要所で棒振り囃子を披露し、歩いている間も飛んだり跳ねたりと大活躍です。今日もとっても暑い中、大変お疲れ様でした。

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山の中で一番人気はこの蟷螂山です。鎌を振り上げたり、羽根を広げたりと動きがあるのが面白いですね。常に動いている訳ではありませんが、2階から見ている人から動かしてと声が掛かると羽根を動かすサービスぶりでした。

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山鉾の中でも一番巨大なのが月鉾です。重さが12トンもあるという巨体が動いてくる様は迫力がありますね。鉾の名の由来となっている鉾頭の月は、三日月ではなく新月です。学校では月が見えなくなるときを新月と習いますが、二日目の細い月を指して新月と呼ぶ事もあるのですね。宵山に月鉾に乗ると、鉾頭を指してこれは新月ですと説明してくれますよ。

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八竹庵の前で待っていた狙いどおり、鉾と町家の組み合わせは絵になりますね。新町通もどんどん町家が無くなり、こうしたポイントが少なくなっているのは残念です。次に月鉾が目の前を通り過ぎる動画をご覧下さい。

祗園囃子も良いですが、目の前を車体がぎちぎちと音を出して通り過ぎる様は、新町通ならではの体験です。この臨場感をぜひ現地でご覧になってください。

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気が付くと鉾見台に居た舞妓さんたちが下に下りてきていました。特等席で良いなと思っていたのですが、下で見た方が臨場感があって良いのかな。

巡行が二つに分かれる前には最後まで見届けて、北観音山が会所の前で締めを行うのを見るのが楽しみだったのですが、今は体力的に保ちません。特に今日は暑かったからですね。巡行はまだまだ続くのですが、ここで切り上げて帰る事にしました。その代わり、後祭の方は全部を見届けるつもりです。24日に行くのを楽しみにしているところです。

2024年7月16日 (火)

京都・洛東 一条天皇中宮定子 鳥辺野陵 道順~今熊野観音寺から東大路通まで~

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一条天皇の中宮であった定子は、教養が深く聡明な女性であったとされます。これは清少納言が枕草子に書き残した事が大きいと思いますが、実際一条天皇の寵愛は深く、仲睦まじい夫婦でした。「光る君へ」でも描かれたように、実家である中関白家の没落により後ろ盾を失い、また自ら髪を切った事から出家したと見なされて宮中での居場所を失ってしまいますが、天皇の寵愛は薄れることなく三人の子に恵まれます。しかし、25歳の時、三人目の子を産んだ際、後産が下りずに亡くなってしまいます。出産は今でも危険を伴いますが、医療というものがなかった当時は文字通り命懸けで、出産時に亡くなる事は珍しくありませんでした。

立ち会っていた兄の伊周はその亡骸を抱いて嘆き悲しんだと言われますが、さぞかし凄惨な状況だったのでしょうね。

定子は予感があったのか、時世の歌と共に死後は土葬する様にと書き残していました。亡くなったのは長保2年12月15日、葬儀が行われたのは27日でした。当日は大雪で、送葬の列が出発したのは夜でした。棺を乗せた黄金づくりの糸車(牛車)は、伊周や隆家らと共に鳥辺野に着きましたが、あらかじめしつらえられていた霊屋は雪に埋もれていました。人々は雪をかきのけ、棺を霊屋の中に納めたと伝えられます。中宮の葬儀にも関わらず立ち会ったのは一門のみでした。没落した中関白家の悲哀を表しているかのようです。

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鳥辺野陵は今熊野観音寺の北西にあり、歩いて行くことが出来ます。今熊野観音寺から行く場合、鳥居橋の手前、右下に下りていく道が入り口になります。ここは泉涌寺の墓地の入り口でもあり、御寺泉涌寺霊園と書いた石柱が立っています。

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坂を下りると今熊野川の畔に出ます。ちょっとした渓流になっており、こんなところがあったんだと少し驚きました。写真は鳥居橋を下から見たところ。こんなコンクリート橋だったのですね。ここから暫く歩くと泉涌寺の霊園が現れます。

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霊園を過ぎると道が狭くなり、木々に覆われて鬱蒼とした雰囲気になります。ここで良いのかなと心細くなりますが大丈夫、少し歩くとまた開けた場所に出ます。

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また歩いて行くと、右手に鳥辺野陵参道と書いた石柱が現れます。ここが鳥辺野陵への入り口で、結構きつそうな石段になっています。実際に登ってみるとそれ程でもないのですが、石段は平坦では無く凹凸があるので、ヒールが付いた靴では危ないですね。ぺったんこな靴を履いていく事をお勧めします。

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石段を登り切ったと思ったら、左手にまた石段がありました。まだ上があるのかと思ったのですが、ここまで来た以上引き返す訳には行かず、頑張って上ることにします。

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石段を登り切ると平坦な道になっていました。ここまで来るとあと一息です。

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ここが定子の眠る鳥辺野陵。一口に鳥辺野と言っても範囲は広く、北は清水寺、南は泉涌寺の辺りにまで広がっていました。北部は庶民、南部は貴族の墳墓が多かった様です。今は陵墓として整備されていますが、定子が葬られた頃はどんな光景だったのでしょうね。丘の上に霊屋だけがぽつんと建っているだけだったのでしょうか。そこに積もった一面の雪、侘しすぎる風景です。こんなところに定子一人だけを置いていくのは何とも忍びがたかった事でしょうね。

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扁額には定子のほか次の方々の名もあります。醍醐天皇皇后穏子、円融天皇女御尊称皇太后詮子、後朱雀天皇皇后禎子内親王、後冷泉天皇皇后歓子、白河天皇皇后賢子、堀河天皇女御贈皇太后苡子。しかし、この方々はここで荼毘に付されただけで、陵墓は別にある様ですね。例えば一条天皇の母、詮子の墓は木幡の宇治陵と定められています。ちなみに藤原道長もこの地で荼毘に付されており、詮子と同じく宇治陵に葬られたとされています。

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参拝を終えて振り向くと、京都タワーが見えました。ふーん、こんな位置関係になるんだとなんだか不思議でしたね。

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陵墓から出て少し歩くと、いきなり住宅地になりました。さっきまでの山道はなんだったんだと感覚が狂います。

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かと思うと急にまた道が狭くなり、こんな坂道になります。軽自動車ならぎりぎり通れる幅かな。でもここで車と出くわしたら逃げ場が無く、困った事になりそうですね。

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坂道を下りると橋になっており、その上に枝垂れ桜の枝が這うという不思議な光景がありました。結構大きな桜で、花の時分にはどんな景色になるのでしょうね。一度見てみたい気がします。

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その橋を渡って少し坂を上ると広い道と合流します。東大路通から鳥辺野陵を目指す場合は、ここが分岐点となるので見落とさない様にして下さい。東山トレイルと書いた木柱が目印です。

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もう一つ目印になるのが剣神社。このすぐ前が分岐点です。剣神社は泉涌寺の守り神と伝えられ、看板には子供の守り神とありました。また私は見落としてしまいましたが、トビウオを描いた絵馬があるそうです。興味のある方は少し寄り道をされては如何ですか。

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剣神社から先はまっすぐな道で、迷いようが無いですね。周囲は住宅街で、鳥辺野陵あたりの雰囲気とは全く違い、コントラストの強さに戸惑いました。

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道を下りきると東大路通に出ます。泉涌寺道から北へ、三本目の道ですね。こちらから入る場合は、角の花屋さんが目印となります。定子の葬儀が行われた頃にはこの道は無かったでしょうけど、剣神社前の分岐点から先は当時の面影がある様な気がします。雪の夜、粛々と松明に先導された牛車が通ったと思うと、送り人たちの悲しみが伝わってくる様な感じがします。

 

2024年7月15日 (月)

京都・洛東 青紅葉2024 ~西国三十三所第十五番霊場 泉涌寺塔頭 今熊野観音寺 7.3~

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来迎院を出て道なりに下っていくと、やがて今熊野観音寺に着きます。ここは泉涌寺の塔頭の一つにして、西国三十三所第十五番霊場として知られる寺です。

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今熊野観音寺の始まりは、寺に伝わる伝承としては、弘法大師が東寺で真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明が差し瑞雲がたなびいているのが見えました。不思議に思った大師は光明を頼りにこの地を訪れると白髪の老人が現れ、この山に一寸八分の観世音がましますが、衆生を救わんがために来現されたものである。この地に一堂を建てて観世音を祀り、末世の衆生を救済せよと語りかけました。あなたは何びとかと大師が尋ねると、老人は我は熊野権現である、長くこの地に止まり守護神となるであろうと言って姿を消しました。大師は熊野権現の言葉どおりお堂を建て、一尺八寸の観音像を自ら刻み、授かった一寸八分の観音像を胎内仏として納められました。これが今熊野観音寺の始まりとされます。

この事があったのは大同2年の事とされていますが、来迎院の訪問記で記したとおりこの年の大師は太宰府で足止めされており、京には入っていません。また東寺に入ったのは弘仁14年の事であり、大同2年の16年後の事です。まるでつじつまが合わないのですが、伝承というのはこういうもので、深く追求しても仕方が無いのでしょう。そのまま受け入れるのが信心というものなのかな。それにしても、ここでも出てくる大同2年というのは一体何なのでしょうね。

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その後は左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な寺域に諸堂の建設が進められました。緒嗣の死後も作事は続けられ、息子の春津によって完成を見ています。

写真は子護大師。子供や孫の健康、学業成就、交通安全などの功徳があるとされます。またこの像の下に四国八十八ヶ所霊場の砂が撒かれており、一周すると八十八カ所を廻ったのと同じ功徳があるとの事です。

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西国三十三所とは、近畿二府四県と岐阜県にある三十三の観音霊場及び三つの番外霊場を廻る巡礼です。全ての札所を廻ると現世での罪が浄化され、極楽往生出来るとされます。三十三という数字には意味があり、観音菩薩が衆生を救うときに三十三の姿に変化するという信仰に由来しています。

最初に始めたのは大和国にある長谷寺の開基とされる徳道上人で、上人が一度病で亡くなったとき、閻魔大王から三十三カ所の観音霊場を廻れば減罪の功徳があるので、巡礼によって衆生を救うようにと託宣を受け、三十三の宝印を授かり現世に戻されました。生き返った徳道上人は弟子と共に宝印に基づいて三十三の霊場を定めますが、残念な事に世間には受け入れられず、一度は封印されてしまいます。

これを復活させたのが「光る君へ」でも出てきた花山法皇です。法皇が那智山で参籠していたときに熊野権現が現れ、三十三の観音霊場を再興する様にと託宣を受けました。法皇は徳道上人が中山寺に封印していた宝印を見つけ出し、播磨国の性空上人の勧めにより、河内国の仏眼上人を先達として三十三の霊場を回りました。このことをきっかけに三十三所巡りは徐々に広まって行き、法皇は三十三所の御詠歌を作ったとされます。

もっともこの話には様々な矛盾点があり、現在では史実ではないと否定されています。資料として認められるのはもう少し時代が下がった院政期で、11世紀後半に一応の完成を見たのではないかと考えられています。その後も順番などを廻って変遷がありましたが、三十三所の霊場と順番が固定され、庶民の間にも普及するのは15世紀に入ってからではないかと考えられています。花山法皇の説話が広まったのは一番札所の那智山が触れ回ったためで、世間に知らしめる手段の一つだったと言われます。

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これは大師堂。中を見ることは出来ませんが、開山の弘法大師像のほか、不動明王像、愛染明王像、それに諸堂を整えた藤原緒嗣の像が祀られているとの事です。また、この大師堂の前にあるのがぼけ封じの観音様です。最近ではとみに人気があり、お引き受け御宝珠に名前と願い事を書き、この観音様の側に奉納する事が出来るそうです。またこれは知らなかったのですが、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場というものもあるそうですね。ここはその一番札所で、滋賀県、兵庫県と結構広い地域に散らばっていますが、いつか回ってみようかしらん。

今熊野観音寺は楓樹が多く、紅葉の名所の一つとされます。この大師堂周辺と本堂、丘の上に聳える多宝塔など背景が多彩で、写真を撮るのは楽しいですよ。

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入り口にあるのが鳥居橋。なぜこの名なのか不思議だったのですが、かつてここに熊野権現社があり、鳥居があったからなのですね。今は小さな祠が大師堂の南に稲荷社と並んで建っていますが、以前はもっと大きな社だったのでしょうか。次は中宮定子の墓、鳥辺野陵に向かうことにします。

2024年7月14日 (日)

京都・洛東 青紅葉2024 ~泉涌寺塔頭 来迎院 7.3~

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善能寺を出ると正面にあるのが来迎院。やはり弘法大師に縁のある寺で、開創されたのも同じ大同元年です。あまりにも偶然過ぎていますが、この年は弘法大師が唐から帰ってきた年で、20年の留学の約束を破りわずか2年で帰国した大師は京に入る事を許されず、大同4年まで太宰府に留め置かれています。ですので、この寺伝は史実では無く後付けの創作ですね。

大同年間(特に2年)を開創の年とする社寺は、東北を中心に各地に多数存在しています。常識的に考えて極めて不自然なのですが、その理由は弘法大師縁りの年(帰国の年、あるいは真言宗開宗の年)として高野聖が広めた、あるいは大同2年を開創の年としていた清水寺(現在は宝亀9年説)の開基、坂上田村麻呂の伝説が係わっているのではないかなど様々に論じられていますが、はっきりした事は判っていません。ちなみに三年坂、二年坂も大同3年と2年に作られたと言われていますね。これはもしかして田村麻呂伝説が関係しているのかな。

閑話休題、話を来迎院に戻します。写真は来迎院の門前。寺の前を今熊野川が流れ、それを渡る石橋とその奥にある山門が幽邃な雰囲気を醸し出しています。

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来迎院は弘法大師が唐の国で感得した三宝荒神像を安置した事が始まりとされます。三宝荒神とは日本独自の尊像で、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離する神仏です。俗信として竈の神様とされ、台所に祀られる事も多いですね。

伝承に依れば、この地が七日七夜光を放ち続け、これを見た弘法大師はここが聖地であるとして来迎院を興したと伝わります。当初の三宝荒神像は弘法大師が自ら彫ったと伝えられ、現存する像は鎌倉時代の作と推定されています。日本最初の三宝荒神であり、安産の御利益があるとされます。正面の階段を登った先にあるのが荒神堂で、ここに荒神様はお祀りされています。

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三宝荒神が祀られてからおよそ400年後、建保6年(1218年)に、泉涌寺の長老月翁律師が藤原信房の帰依を受けて諸堂を建立したと来迎院のホームページにはありますね。来迎院では月翁律師を開山としているとの事ですが、それまでは荒神堂だけがぽつんとあったという事でしょうか。

また藤原信房という人物も良く判らなくて、普通に検索して出てくる鷹司信房は安土桃山時代の人ですから違います。字の違う宣房という人は鎌倉前期に居たのですが、正四位下左大弁という中級貴族で、開基になる程の財力はあったのかしらん。なおWikipediaの来迎院の項目にも藤原信房の名は出てきますが、リンクをクリックすると鷹司信房の項目に飛ぶので間違ってますね。

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来迎院は応仁の乱で焼失してしまいますが、安土桃山期に織田信長、前田利家、徳川家康らの援助を受け再興を果たしました。江戸時代に入り、卓厳和尚が住職であった時、赤穂事件が発生します。浅野家の家老であった大石内蔵助は牢人となり、縁戚関係にあった卓厳和尚を頼って檀家となる事によって寺請証文(身分証明書)を受け、山科に籠居しました。内蔵助は来迎院を屡々訪れて含翠庭を築き、その中に含翠軒という茶室を建てて、茶会と称して同志たちと会合を開いたと伝えられます。現在の含翠軒は大正時代に再建されたものですが、扁額は内蔵助直筆のものとの事です。

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本堂は公開されていませんが、ご本尊の阿弥陀如来のほか、内蔵助の念持仏であった勝軍地蔵、霊元天皇の念持仏であった幻夢観音菩薩が祀られているとの事です。

明治に入ると来迎院は廃仏毀釈によって荒廃してしまいますが、大正時代に復興されて現在に至ります。

写真で判る様に楓樹が多く、紅葉の名所の一つとして知られます。山門を入ってすぐに三脚禁止と書かれており、そんなに多くのカメラマンが来るのかなと思っていたのてすが、20年近く通ってみて混み合ったという事は一度もありません。穴場の一つと言って良いでしょうね。青紅葉もとても美しく、静かで癒やされる空間です。

2024年7月13日 (土)

京都・洛東 重森三玲の庭 仙遊苑 ~泉涌寺塔頭 善能寺 7.3~

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御座所を出て大門に向かわずに右手の道を進むと、やがて右下に下りる階段が見つかります。初めて来た人だと判りにくいですけどね、そこを下りると二つの塔頭があります。まず左手にあるのが善能寺、正面に本堂があり右手に稲荷社があるというこじんまりとした寺です。創建は大同元年(806年)と古く、平城天皇の勅願で弘法大師が開いたとされます。荼枳尼天を祀った最初の寺で、その後本地仏である聖観音を本尊としました。元は東寺の東のあたりにあったのですが、天文24年(1545年)に後奈良天皇の勅命により泉涌寺山内に移されました。古くから観音霊場の一つとして崇敬され、現在も洛陽三十三観音霊場十八番札所となっています。

明治になって廃仏毀釈のあおりを受けて一度は廃絶しましたが、明治20年(1887年)に現在地で再興されています。今の本堂は昭和46年(1971年)に北海道で遭難した航空機「ばんだい号」の犠牲者の遺族が、慰霊と航空機事故の廃絶を願って寄進したもので、称空殿と呼ばれます。

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本堂の西にもみじの茂みがありますが、その下に枯山水の庭があります。一見して気づきにくいのですが、近くに行くと見事な石組みがあるのが判ります。

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これが仙遊苑と言われる庭で、昭和47年(1972年)に重森三玲氏によって作庭されました。庭の底がコンクリートで固められているのが何ともという感じなのですが、石を縦に使っているところが重森氏らしい庭だと思います。

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せっかくの庭なのですが、前述のとおりもみじで覆われているので全容が判りにくいのですよね。これって最初から意図されたものなのか、それとも想定以上にもみじが大きくなってしまったものなのか、どちらなのでしょう。もう一つ残念なのが、このもみじがあまり綺麗に紅葉しないのです。毎年今年はどうかと期待して来るのですが、これは見事だと思った事はあったけかな。ですので、当たり外れのない青紅葉の季節に来るのが良いかも、です。

2024年7月12日 (金)

京都・洛中 祗園祭2024 ~鉾建て・曳き初め 7.12~

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令和6年7月12日、今日は祇園祭の曳き初めと鉾建てを見に行ってきました。昨日から今日に掛けて雨模様だったのでどうなるかと思っていたのですが、遅れ気味ながらもなんとか間に合わせたようです。

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今日、曳き初めが行われたのは関谷鉾、鶏鉾、菊水鉾、月鉾、長刀鉾です。平日にも係わらず結構な人気で、一番手の関谷鉾には順番待ちの人が列を作っていました。

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こちらはまだ山建て中の岩戸山。悪天候の中頑張って、形が出来つつありました。ただここで渡している長い棒は何でしょうね。完成時にはこんな長い部材は無いと思うのですが良く判りません。

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こちらは未だ土台が出来たばかりの船鉾です。ずっと雨除けがしてあったのでしょう、この時は覆いを外しているところでした。

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こちらも土台が出来て、これから真木をつけるために寝かせるところだった思われる放下鉾です。飛び出した長い2本の棒は、土台を寝かせる時に使われる部材です。

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こちらは急ピッチで組み立てられていた月鉾です。3時から曳き初めの予定でしたが、2時前のこの時点でまだ車輪を取り付けている段階でした。一時間足らずで懸装品の取り付けまで出来たのかな。

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こちらは無事に曳き初めが出来た関谷鉾です。四条烏丸の交差点の真ん中までひっぱり、その間通行止めにしてしまうのですから、祗園祭の伝統の力は大きいですね。

以前は私も曳き初めに参加していたのですが、空いているところに子供が入って来るのですよね。そうすると歩幅が合わなくて、下手をすると転びそうになって危ないのです。なので、最近は曳くのは止めにして子供に譲り、もっぱら撮る方に回っています。

かく言う私もまだ小学校に上がる前、長刀鉾を曳かせてもらった記憶があります。その日たまたまた母に連れられて大丸に買い物に行ったのですが、外に出てくると何やら人だかりがして異様な雰囲気でした。すると保存会の人だったのでしょうね、子供だった私に曳いてみるかと声を掛けてきたのです。幼い私に曳き初めがどういうものなのか判るはずも無く、何を言われているのか理解出来ませんでした。しかし、母にも勧められて、言われるままに綱を握って懸命に曳きました。覚えているのは小さい私の目の高さに綱があり、鉾はよく見えてなかったという事です。思えばおおらかな時代でしたね。今は通りがかりの子に声を掛けたりするのかな。数十年前の懐かしい思い出です。

明日は放下鉾、船鉾、岩戸山の曳き初めが行われます。興味のある方はお出かけになっては如何ですか。

2024年7月11日 (木)

京都・洛東 青紅葉2024 ~伝・清少納言隠棲の地 泉涌寺 7.3~

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東福寺から泉涌寺に来ました。途中、日吉ヶ丘高校の裏の道を通って来たのですが、あの道は誰が管理しているのでしょうね。高校が出来た当時に作られたのかずっと以前からある道で、東福寺からのショートカットとして何度となく使っていますが、最近はあまり通る人は居なくなったのかな、落ち葉が溜まったままです。また木の根っこのせいで道があちこち盛り上がり、随分と荒れてしまっています。掃除して欲しい、あるいは補修して欲しいという声は出ないのかしらん。そもそもどこに話を持ち込んだら良いのか判らないですね。京都市?だったらお金が無いからまず無理か。いつもは学校の生徒達の声で賑やかなのに、期末テストの期間中だったのかな、静まりかえっていたのでどこか違う場所を通っているみたいでした。

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大門を潜るとまず目に飛び込んでくるのは、坂の下にある仏殿です。下り参道と呼ばれるあまり例を見ない形式ですが、そうだ京都行こうのブログには、盆地の底に本堂を建てるのは修行をするのに適しているからとありますね。そんなものかなあと思いますが、延暦寺の根本中堂も谷の底にある事を鑑みれば、そういう思想が仏教の中の一つの潮流としてあるのかも知れません。

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ここに来るとまず立ち寄るのが楊貴妃観音堂。寛喜2年(1230年)に湛海律師が宋から請来した聖観音を祀るお堂です。非常に美しいお顔をされた観音様で、玄宗皇帝が楊貴妃の面影を写させて作ったという伝承を生み、江戸時代から楊貴妃観音と呼ばれる様になりました。確かに仏様と言うより生身の人を彫った像のようであり、いつ来ても見とれてしまう綺麗な観音様です。

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泉涌寺は斉衡2年(855年)に時の左大臣藤原緒嗣が、僧・神修のために山荘を与え、仙遊寺としたのが始まりとされます。時代が下って建保6年(1218年)に月輪大師が宇都宮信房からこの地を拝領し、宋の様式を取り入れた伽藍を造営しました。その時、境内の一角から泉が涌き出した事から泉涌寺と寺名を改めています。その泉は今でも涌いており、2021年には水屋形の中の様子を見ることが出来ました。

その隣にあるのが清少納言の歌碑です。清少納言の晩年については不明なのですが、大納言公任集に清少納言が月の輪に帰り住む頃という詞書きがあり、また夫の棟世が月の輪の地に山荘を有していたとされる事から、現在月輪と呼ばれているこの地に暮らしていたのではないかと推定され、1974年に平安博物館館長であった角田文衛氏の発案で建立されました。すぐ近くには清少納言が仕えた中宮定子が葬られた鳥辺野陵があり、晩年は定子の菩提を弔いながら過ごしていたという良く出来たストーリーだったのですが、その後の研究でここが月輪と呼ばれる様になったのは1199年頃に、月輪殿と呼ばれていた九条兼実が別荘を築いてからだと判明し、現在では否定されています。

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泉涌寺は1242年に四条天皇の葬儀を行って以来、歴代天皇、皇后の葬儀を行うようになり、皇室の御香華院、いわゆる菩提寺となったため、特に御寺(みてら)と呼ばれます。その皇族が参拝される際の休息所が御座所であり、明治15年に京都御所から御里御殿が移設されたものです。天皇が座る玉座の間や勅使の間など六つの部屋からなり、現在でも皇室の方が見えられた時には使用されています。その御座所の前には見事なしつらえの庭園があり、もみじの名所として知られます。紅葉も素晴らしいですが、今の時期の青紅葉も素敵ですね。年によってむらのある紅葉よりも、当たり外れのない青紅葉の方が見応えがあるとも言えます。

ここに入るには通常の拝観料500円のほか特別拝観料として500円が必要です。去年の秋までは300円でしたが、いつの間にか値上がりしていますね。まあ、それだけの値打ちのある庭園ですから、是非拝観して行って下さい。

2024年7月10日 (水)

京都・洛東 藤原道長縁りの寺 ~東福寺塔頭 同聚院 7.3~

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平安時代に権勢を欲しいままにした藤原道長ですが、その生きた証は意外な程残っていません。御堂関白記や経筒などは貴重な歴史遺産ですが、生前に建てたいくつかの寺院はことごとく廃寺となっており、跡地に石碑が建っている程度です。平等院は道長の別荘跡とされますが、鳳凰堂をはじめ伽藍を整えたのは息子の頼通で、道長の痕跡はありません。またその墓すらも宇治陵ではないかと推定されていますが、現地は宅地化が進んでおり、どこにあったのかは確認されていません。これほど歴史上有名な人物にしては信じられない程ですが、確実に道長が残したと判るものが現存している寺が同聚院です。

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同聚院は東福寺の塔頭で、雲霊院の隣にあります。入り口に赤い幟が沢山立っており、歩いているとすぐに見つかりますよ。東福寺駅から歩いてくると、臥雲橋に続く道沿い右手にあり、前には明暗寺が建っています。

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同聚院は室町時代の文安年間(1444年~1448年)に創建された寺で、道長の時代よりずっと下がります。ですがその本尊は道長が藤原氏の氏寺であった法性寺に建てた五大堂(五大明王を祀った御堂)の中尊だった不動明王像で、今に残る貴重な遺構です。法性寺は藤原忠平によって建てられた寺で、九条通から伏見稲荷大社の近くまでという広大な寺域を持った大寺でした。今の東福寺はその法性寺の寺域の一部にあたります。五大堂は道長の四〇歳を賀して建てられたものてすが、この頃既に病を得ていた道長にとっては、病気平癒のためのための祈願に訪れる御堂となっていたようです。

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同聚院の不動明王像は、座像としては日本一の大きさを誇り、2m65㎝あります。以前拝観した事がありますが、大変な迫力を持ったお不動様ですね。ところが最近は拝観停止が続いており、観る事が出来なくなっているのが残念です。また、以前はお堂の前が開いており、薄暗い中にもご尊顔を拝する事が出来たのですが、今は閉じられてしまっており、中を伺い知る事は出来なくなっています。おそらくは、外から写真を撮られたくないという意思表示なのでしょうか。理由は判りませんが、早く拝観を再開してほしいところです。

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この御不動様は万の字の上に十を足した独特の印を持ちます。どりきふどう、じゅうまんふどう、じゅっぽうふどうなどと読まれ、どれが正しいのか決まっていないそうですが、火災、風難除け、子孫繁栄福徳円満の御利益があるとされています。

またこの御不動様は働く女性の守り本尊とされ、平安王朝の女御、更衣などから篤い信仰を受けていたとのことです。芸事が上達するとも言われ、時代が下ると芸舞妓の信心を集めるようになりました。

明治時代にはこのお不動様を信仰していた祗園の芸妓、雪香が、アメリカの大富豪モルガン家のジョージ・デ二ソン・モルガンに見初められ、当時のお金で4万円(現在なら8億円)という大金で身請けられるという事件が起こります。あまりの事に当時は大騒ぎとなりますが、雪香はジョージと結婚し、モルガンお雪と呼ばれる様になり、アメリカに渡りました。その後は夫婦でパリに移り住み、夫が急死した後は莫大な遺産を相続し、パリでの生活を続けます。そしてフランス人と再婚しますが、またしても先立たれてしまい、第二次世界大戦を機に日本に帰国しました。戦後はキリスト教に帰依し、財産のほどんどを衣笠の教会に寄付して、大徳寺の側でひっそりと暮らしたと伝えられます。彼女の死後、なぜかキリスト教ではなく同聚院に葬られ、今でも彼女の墓はこの寺にあるとの事です。

境内には白いバラが植えられていますが、これはモルガンお雪の縁でパリ市から京都市に贈られたもので、ユキサンという名が付けられています。訪れた日も沢山の花が咲いており、今でも大切にされている事が伺えます。

この寺にお参りし、バラを見つけたならば、数奇な運命を歩んだ女性の人生を偲んでみて下さい。小さなお寺ですが、道長から続く壮大な物語が詰まった古刹です。

2024年7月 9日 (火)

京都・洛東 桔梗を愛でる特別拝観2024 見頃 ~天得院 7.3~

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日下門を出て塔頭の天得院に来ました。ここでは桔梗を愛でる特別拝観が行われています。今年の開始日は6月28日だったのですが、悪天候続きだったのでこの日まで訪れるのを待っていました。

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天得院の創建ははっきり特定できませんが、南北朝時代の正平年間(1346年~1370年)に、東福寺第十三世無夢一清禅師によって開かれたとされます。その後は東福寺の五塔頭の一つとして位置づけられ、隆盛と衰退の時代を経て慶長十年(1614年)に東福寺第二二七世の文英清韓長老を住持として迎えます。

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清韓は豊臣秀吉の寵遇を受け、その死後も豊臣家とは近い関係を続けます。そして、秀頼から方広寺の鐘銘を書く様に依頼され、有名な「国家安康 君臣豊楽」の字句を入れた銘文を書きました。これが幕府の目に止まり、家康の名を分断して呪い、豊臣家の繁栄を願ったものだと咎められます。問い詰められた清韓は、家康の文字を入れたのは事実であるが呪ったのではなく、梵鐘に刻む事でむしろ祝意を表したものであり、君臣豊楽も豊臣をかくし題にしたもので、この様な例は昔からあると弁明しました。しかし、これが受け入れられる事は無く、結果として大坂の陣を引き起こし、豊臣家の滅亡に繋がってしまいます。天得院も無事で済むはずが無く、幕府によって取り壊されてしまいました。清韓自信も捕らえられ、駿府で幽閉されたまま亡くなってしまいます。

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天得院は天明九年(1789年)になってようやく再建が認められ、そのまま明治維新を迎えます。明治になると廃仏毀釈のあおりを受け、もう一つの塔頭本成寺と統合されて現在に至ります。

波乱に満ちた歴史を辿ってきた天得院ですが、この庭は桃山時代の作庭と伝えられており、大坂の陣の後に伽藍が取り壊された際も跡地に残されたものなのでしょうか。多くの庭石が配置された様からは、確かに桃山期の香りがしますね。今は一面に美しい苔が生え、300株と言われる桔梗が咲く様は、野の風情も感じさせてくれる素敵な庭です。

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拝観料は500円、別途800円を出せば茶菓子付きの抹茶を楽しめます。ただ、茶菓子が以前の様な桔梗をモチーフにしたものではないのですよね。桔梗の生菓子なら頼んでいたのですが、今回は遠慮しました。楽しみにしていただけに残念です。

特別拝観は7月17日まで行われます。期間はまだありますが、桔梗の盛りは案外短く、なるべく早く行かれる事をお勧めします。

2024年7月 8日 (月)

京都・洛東 青紅葉2024 ~東福寺 7.3~

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せっかく東福寺に来たので、庭園にも入っていく事にしました。ここに来るのは去年の秋以来、紅葉とはまた違う緑の海というのも良いですね。

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拝観開始から間もなくだったので通天橋には誰も居らず、この写真も難なく撮れました。通天橋は洗玉潤を渡るために架けられた橋で、1380年に建設されました。東福寺が完成したのが1255年の事ですから、125年の間は開山堂に行くためには、一々谷底まで下りていたのでしょうか。1597年に豊臣秀吉が修復していますが、1959年に豪雨のために落橋してしまい、二年後にコンクリート製の橋として再建されました。まだ新しい橋ですが、昨年国の登録有形文化財に指定されています。

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通天橋を渡って左側に見える赤いお堂が愛染堂。その名の通り愛染明王をお祀りしています。中を覗いてみましたが、ちょっと怖いお顔をした仏様ですね。元は万寿寺にあり、1934年の室戸台風で倒壊したのを機に、三年後に東福寺に移設されました。東福寺では少し異質な感じがしていたのですが、他所から来たというのであれば納得です。重要文化財に指定されています。

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さすがはもみじの名所だけあって、青紅葉も見事ですね。この季節らしく所々で紫陽花が咲いており、緑一色の中に青い色が鮮やかな点景を添えていました。

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この日は最高気温が35度に達するという猛暑日で、朝から汗が止まらないという状況だったのですが、時折緑の間を風が通り、涼しさを感じさせてくれたのが有り難かったです。

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帰り際、前撮りの一行とすれ違いました。少しの差で危なかったですね。何しろ一等地で長時間居座って動かないからかなわない。知らない人は新婚さんの記念写真だから仕方が無いと思うでしょうけど、本質は写真館の考え出した商売です。何で写真館の金儲けのために一般人が我慢しなければならないのか。本当に迷惑な商売が蔓延ったものです。

2024年7月 7日 (日)

京都・洛東 半夏生の咲く境内2024 ~東福寺 7.3~

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光明院から東福寺に来ました。ここでの目的は半夏生を見る事。特に名所と言うわけではありませんが、ご覧のようにちょっとした群落があり、毎年見に来る事を楽しみにしています。

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半夏生があるのは本堂の東、最勝金剛院への参道入り口の側溝です。この草を気に掛ける人はほぼ居なくて、写真を撮っているのは私ぐらいのものですが、なかなか工夫のし甲斐があって面白いですよ。

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ただ、毎年来るのが盛り過ぎになってしまうのですよね。理由はこの後行く天得院の特別拝観に合わせているためで、桔梗の盛りとは微妙にずれてしまうのです。

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この時点ですでに色あせ始めており、今頃はさらに白色が抜けてきている事でしょう。来年は効率は無視して半夏生だけを見に来る事にしようかしらん。

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半夏生と共に期待していた蓮ですが、まともに咲いていたのは一輪だけでした。そろそろ盛りを迎えても良い頃だと思うのですけどね、ちょっと寂しい景色でした。あまり蕾も上がっていなかったので、今年はぽつぽつと咲く程度なのかもしれません。

2024年7月 6日 (土)

京都・洛東 波心庭2024 ~虹の苔寺 光明院 7.3~

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令和6年7月3日、東福寺塔頭の光明院を訪れました。先日訪れた岸和田城で八陣庭を見て、重森三玲氏の庭を改めて鑑賞したいと思ったのです。

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この庭の名は波心庭。雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リという禅語から名付けられたと言います。75個の石が並び、三つの三尊石から放たれる光明を表しているのだとか。昭和14年の作庭で、東福寺本坊の庭と同時期に作られました。戦時色が強まる時代に、こうした庭が作られる余裕があったという事に驚きを感じます。

苔が美しい事から別名虹の苔寺とも呼ばれますが、数日来の雨を含んだ苔はとても素敵でした。ただ、一部で赤くなっていたのですが、あれはなんだったのでしょうね。枯れているという感じても無く、別の地衣類が繁殖していたのかしらん。

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石を縦に使うというのも重森三玲氏独特の作庭法で、この庭が作られた当時はさぞ驚かれた事でしょうね。この手法は後に制作された庭でも継承され、龍吟庵、松尾大社など多くの庭で観る事が出来ます。

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この庭は白砂で州浜が描かれ水を表していますが、雨が降ると本当に水が貯まり、池と化してしまいます。これって偶然の結果かと思っていたのですが、どうやら意図的にこうした様ですね。天候によって趣が変わるという面白い仕掛けです。

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この日は8時30分頃に訪れたのですが、他に拝観者はおらず、独り占め状態でした。紅葉の時期はそれなりに混み合う様になりましたが、まだまだ穴場的存在だと言えそうです。

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本堂前にある大刈り込みはツツジとサツキからなり、雲を表しています。完成までに24年を要したと言いますから、三玲氏はこの部分をとても重要視していた事が伺えますね。花の時分には一面の緑の中に色を添えて綺麗です。静かに庭を観賞した後は東福寺に向かうことにします。

2024年7月 5日 (金)

岸和田市探訪2024 ~だんじり会館・紀州街道 6.27~ 

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岸和田と言えばだんじり祭で有名ですが、同じ様な祭りは泉州一円で行われています。さらに目を広げれば近畿、中国、四国の各地方にもありますね。中でも岸和田が有名なのは、昭和47年にNHKの全国放送で紹介されたためで、一気に全国区になりました。岸和田の中でも地区によって三つの祭りがあり、9月に二カ所、10月に一カ所行われます。最も知られるのが北西部で行われるだんじり祭で、春木地区のだんじりと合わせて9月の敬老の日の前の日曜日を本宮とし、試験曳き、宵宮と合わせた三日間行われます。一般に岸和田だんじり祭として報道さけるのはこの祭りですね。

見物人はコロナ前は50万人を超えていましたが、二年間の中止の後は20万人台に止まっている様です。規制が緩和された今年は、また以前の様な活気が戻ってくるんじゃないかな。

岸和田だんじり祭の起原は城の三の丸にあった稲荷社に五穀豊穣を願って参拝したのが始まりで、当初はにわかや狂言を奉納していたそうですが、それがいつ今の形態になったのかは、調べた限りでは判りませんでした。

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岸和田城の近くには、だんじり祭を紹介するだんじり会館があります。だんじりの実物の展示や法被、旗などが展示されており、特に三階には大屋根が置かれていて、実際に乗る事が出来ます。どうぞと勧められるままに乗ってみましたが、丸くなっていて何とも不安定なものですね。屋根の上に乗る人を大工方と言い、疾走するだんじりの上で飛んだり跳ねたりしますが、とてもじゃないけど真似は出来ません。立っているだけでも無理ですね。大工方を務める人は本当に凄いと思います。

だんじりは総檜造りで、見事な細工が施されています。これを大勢の曳き手が全力で曳き回す訳ですが、ミニシアターでその様子を見る事が出来ます。狭い道をだんじりが疾走していくのですが、まあ凄い迫力ですね。人気が出るのもうなずけるというものです。

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岸和田が舞台となった連続テレビ小説がカーネーション。主人公は幼い頃からだんじりを見て育ち、いつかは大工方になりたいと夢を描きますが、大人の女性がだんじりに乗る事は許されず、夢は挫かれました。主人公はだんじりをミシンに変え、これを駆使して行く事でファツション界のリーダーとなり、後のコシノ三姉妹を育て上げます。主役を務めたのは尾野真千子さん、晩年は夏木マリさんでしたね。ミシンをだんじりに見立て、その上で大工方を務める尾野さんの姿が印象的でした。

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岸和田は早くから開発が進み、城下町の面影はあまり残っていません。唯一名残を止めているのが紀州街道沿いで、ここには江戸時代からの町家や寺院が残っています。こうした昔ながらの道が残っていたのは嬉しかったですね。だんじり祭りの時にはここもだんじりが疾走する訳ですが、城下町らしく真っ直ぐな道ではなくところどころで曲がっており、そこを通る様はさぞかし見応えがあるでしょうね。

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とにかく激しい祭りですから毎年のようにけが人が出ており、ニュースでよく流れます。それでも中止の声が出ないのは、それ程地元で愛されているという事でしょう。動画でしか見たことはありませんが、熱狂するのは良く判りますね。事故は無いに越したことはありせんが、末永く続いてほしい祭りだと思います。出来れば他の地域の祭りも取り上げてほしいですね。きっと岸和田に負けない熱気を持っている事でしょう。泉州の祭りが盛り上がるのはとても素敵なことだと思います。

2024年7月 4日 (木)

続100名城探訪2024 ~岸和田城 6.27~ 

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続百名城探訪、今回は岸和田城を訪れました。岸和田城のある岸和田市は大阪府の南西部、いわゆる泉州に属する街です。大阪湾から和泉山脈に至る細長い市域を持ち、臨海部に工業地帯がある一方、丘陵部では農業も盛んで、山間部には豊かな自然も有しています。交通は至便で、鉄道では南海本線、JR阪和線が通り、道路では阪和道路、第2阪和道路、外環環状線、阪神高速道路湾岸線などがあり、非常に都市化が進んでいますね。私的には長年大阪に住んでいますが、通過したことはあっても街中を探訪するのは初めてで、どんな町が楽しみにして来ました。

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岸和田の始まりについて少し調べたのですが、Wikipediaには、南北朝時代に存在した楠木正成配下の岸和田治氏という武将がこのあたりを開拓したのではないかとあります。ただし、この時には城は無く、15世紀後半に岸和田古城が築かれたと記されていますね。

一方で岸和田に伝わる伝承では、建武元年(1334年)に岸と呼ばれていたこの地に、やはり正茂の家臣和田髙家が代官として派遣されて照日山に要塞を築き、岸の和田、つまり岸和田と呼ばれる様になったとされます。

さらに別の説として、1378年頃にこの地の守護であった山名氏の家臣、信濃康義が岸和田城を築き、和田氏を名乗ったともあります。

諸説ありすぎてどれが正しいのか判りかねますが、平成18年に実施された発掘調査によれば、岸和田古城の築城は15世紀後半と判明したとの事ですから、Wikipediaの記述が正しいのかなという気はしますね。

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その後、戦国期には細川氏、三好氏、織田氏と城主は入れ替わり、信長亡き後は豊臣秀吉の支配するところとなって、紀州攻めの拠点として中村一氏を入れました。

この一氏の時代に根来衆、雑賀衆らの軍勢三万が襲来し、八千で守っていた一氏は苦戦しますが、蛸に乗った法師が現れて紀州勢をなぎ倒し、窮地を救いました。そして態勢を立て直した紀州勢が再度押し寄せると今度は海から無数の蛸が現れ、紀州勢を追い返したと伝えられます。その後一氏の夢枕に蛸法師が現れ、我は地蔵菩薩の化身であると告げたため、一氏は堀に埋まっていた地蔵菩薩像を掘りだし、天性寺に祀りました。これが蛸地蔵伝説で、岸和田では古くから伝わっている説話の様ですね。現在の南海電車にも蛸地蔵という駅があり、今も市民に親しまれている事が伺えます。

岸和田城を近代城郭にしたのは秀吉の伯父にあたる小出秀政で、五層の天守を持つ本格的な城に改築しました。そして大坂夏の陣の後、1619年に松平康重が城主となり、城と城下を拡幅し、三重の堀を持つ総構えの城として完成させます。ちなみにこの康重公、どこかで聞いたと思ったら、篠山城を築いた人でもあったのですね。

1631年になると高槻城から岡部宣勝が入り、以後岸和田藩六万石(後五万三千石)として明治維新まで続く事になります。

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明治以後、岸和田城は廃城となり、堀と石垣以外は全て破却されました。再建されたのは戦後の事で、まず昭和28年に重森三玲氏によって枯山水庭園、八陣の庭が整備されます。この庭は平面上で見ていると全容が判らないのですが、天守に登って上から見るとその独特の造形を見て取る事が出来るようになっています。この八陣とは諸葛孔明の八陣法をイメージしたものだそうで、平成26年に国の名勝に指定されました。

翌昭和29年には現在の天守が復興されていますが、なぜか本来の五層ではなく三層とされており、このあたりの経緯は謎ですね。昭和44年には多門櫓、櫓門などが復興され、平成4年には天守の屋根の葺き替え、外壁の塗り替えが行われて現在に至っています。

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今の天守は耐震基準を満たしていない事が判っており、令和12年度を目指してリニューアル計画が進められています。耐震化のほかバリアフリー化のためにエレベーターの設置が計画されていますが、天守の中は意外と狭く、展示スペースが少なくなります。このため、現在の展示品の多くは観光交流センターなどに移設する事を考えている様ですね。他にも石垣の保全など課題は多いようですが、未来への遺産の継承として是非実現して下さい。

なお拝観料は300円と格安で、だんじり会館、きしわだ自然資料館との3館共通券なら700円となります。

2024年7月 3日 (水)

京都・洛東 早朝の散歩道2024 ~八坂神社 6.20~

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ねねの道から下河原通に来ました。暫く来ないうちにここも随分と店が変わりましたね。浜作が閉まっていたのにまず驚き、美濃吉も閉まっていましたね。代わりに新しい店舗が増えており、どんどん知らない町になってきています。変わらないのは八坂神社の石の鳥居があるこの景色、これを見るとほっとした気分になります。

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八坂神社の参拝者はまだまばらなものでした。前回来た時は結構混んでいて落ち着いて写真も撮れなかったですからね、今日はゆっくりできるなと思っていました。ところが小さな貼り紙がしてあり、ここは信仰の場所、写真スポットではありませんと書いてあるのですね。

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えっ、いつの間に写真禁止になったのと思ったのですが、スナップ程度なら良いとの事。ただし、商業写真は無論の事、本殿を真正面から撮ったり、楼門前に立ち止まって通行の妨げになったりすると、最悪境内から追い出される事もある由。また神主さんや巫女さんも撮ってはいけないそうです。更には撮影目的だけで来るのも禁止だとか。まあ、神社に来たら参拝するのは当然の礼儀ですが、あちこち撮る私の場合はどうなるのと不安になって来ましたね。

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ずっと自由だった八坂神社がここまで言うからには、相当なトラブルがあったのでしょうね。インバウンドの方が巫女さんを追い回したり、前撮りで長時間居座ったりとか、そんなところでしょうか。何だかどんどんやり難くなるな。カルタ始め式とか節分、祗園祭の御神輿なんかはどうなるのだろう、原則禁止となっちゃうのかしらん。

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八坂神社ではないですが、撮影禁止のはずの石塀小路は5千円払えば前撮りOKだそうです。原則撮影禁止の石塀小路での撮影会なんていう参加募集広告もありますね。なんだ、一般人の撮影禁止はブランド化して金儲けをするためだったのかという感じで、印象はすこぶる良くないです。以前は撮影に来るのが楽しかった東山界隈も、何だか判らない規制だらけで面白くなくなってきました。昼間の酷い混雑も考えると、お勧めできない界隈になってしまいましたね。何とも残念な事です。

2024年7月 2日 (火)

京都・洛東 早朝の散歩道2024 ~ねねの道 6.20~

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清水寺からねねの道に来ました。ここは高台寺から円山公園まで続く、石畳の瀟洒な道です。以前はアスファルトの道でしたが、1998年に石畳が敷設され、2012年に無電柱化されました。本来は高台寺道という名称なのですが、この地に縁の深い北政所にちなんでこう呼ばれています。

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北政所は秀吉の死後、今の圓徳院の地に住み、この台所坂を登って日々高台寺に参拝し、秀吉の菩提を弔らいました。何気ない坂ですが、言われを知ると感慨深く感じます。

今年は北政所没後400年にあたり、昨年から様々な催しが行われて来ました。既に終了したものが多いですが、スタンプラリーはまだ継続中です。これは京都だけでなく全国的に行われているので、開催地に当たる方は参加されてみては如何ですか。

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北政所がここに住んだのは19年間、賑やかな事が好きだった彼女は芸達者な者たちを周囲に集め、日々楽しく暮らしたと伝わります。北政所の死後も芸人達は代々住み続け、下河原に花街を形成しました。ここの芸妓は気位が高く、芸だけを売ったと言われ、特に山根子芸者と呼ばれました。この花街は明治以後祗園甲部の繁栄に押されて消滅して行きましたが、今でも下河原の町並みが風情を保っているのは、この花街の名残だと言われます。

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明治になって高台寺の境内の多くは上地令によって取り上げられ、元の六分一程になりました。山門がぽつんと離れた場所に立っているのはこの為ですね。跡地の多くは料亭や旅館になりましたが、隣接する石塀小路の成り立ちは少し違っていて、圓徳院が経済的に立ち行かなくなり、民間に売り払った跡地が高級な貸し家街として開発されたのが今の町並みです。

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ねねの道を北側から見た景色です。土塀に挟まれた風情が良い感じですね。ただ、近くで見ると土塀は落書きだらけであり、何とも悲しい光景です。それも左側の土塀に集中しているのは不思議ですね。この落書きは今に始まった事では無く、何十年も前から問題になっているのですが、いつまで経っても収まる事はありません。外国人が多く集まる今となっては日本の恥だと思うのですが、どうにかならないものなのかな。コンプライアンスのうるささは昭和の比ではないのですが、落書きは無くならないというのは何とも残念な事です。

2024年7月 1日 (月)

京都・洛東 早朝の散歩道2024 ~清水寺 6.20~

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三年坂から清水寺まで来ました。ここも早朝からインバウンドの方たちが大勢来ていましたね。まあ混み合うという程ではなかったですが、以前よりずっと増えているのは確かです。

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ここは田村堂の北側にある弁天堂です。拝観者で一杯の時でも訪れる人の少ない穴場の一つですね。もみじが植わっているほか、池の周囲にドウダンツツジが植えられており、秋には紅葉を楽しむ事が出来ます。かつてはこの池でザリガニを釣る子供たちの姿がありましたが、このあたりに子供が居なくなり、そんな光景も見なくなりました。まあそれは数十年前の事で、今なら間違いなくたたき出される事でしょうね。

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本堂の手前、渡り廊下から見た景色です。すっかり色が深くなり、新緑の要素は無くなっていますが、この緑の海は圧倒的ですね。もし晴れていればもっと綺麗な青紅葉が見られた事でしょう。

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奥の院から続く道には紫陽花が咲いています。かつては紫陽花の名所と言われていましたが、今は随分と数が減っています。数を増やして、名所を復活させる予定は無いのでしょうか。それともここは崖崩れが起きて桜苑に変えたので、これ以上増やす余地は無いのかな。

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最近光る君への影響で御堂関白記や枕草子を読んでいるのですが、藤原道長や清少納言も清水寺に参籠していますね。参籠は数日掛けて行うものだったらしく、その間道長の下には貴族達がひっきりなしに訪れて差し入れを行っています。清水寺は何度も火災に遭っており、当時とはまるで造りが違っていますが、枕草子が書かれた頃には広い部屋を屏風や御簾で仕切って小部屋とし、大勢の人が一緒に参籠していた様です。中には子連れの人も居た様ですね。道長の様な権力者の場合も、同じようなしつらえだった様です。当時は本堂に続く長廊下があり、急な階段を登るのに苦労したようですが、どんな伽藍配置だったのでしょうか。音羽の滝側から入っていくのが正規のルートだったのかな。かつての清水寺を復原したものがあれば一度見てみたいものです。

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奥の院を覆う青紅葉です。鬱蒼としていて、重厚な雰囲気がありますね。下にある石塔は常夜灯。かつて音羽の滝で滝行をしていた人たちのためのものだったのでしょうか。ここに夜中、ぼんやりと灯りが点っている様子を見てみたいものですね。きっとさぞかし幻想的なものでしょう。それ以上に怖くて居られなくなってしまうかな。

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