近江八幡の旅 ~八幡山城跡 3.14~
この日近江八幡を訪れたきっかけは、続100名城の八幡山城を訪れるためでした。城に行くためにいろいろと調べている内にこの町がとても面白いという事を知り、城下町散策をしてみる事にしたのです。
八幡山城を築いたのは豊臣秀次、秀吉の甥にあたる人物ですね。子の無かった秀吉は秀次を跡継ぎと決め、関白職を譲って伏見城に隠居しました。しかし、実子の秀頼が生まれると秀次との関係が微妙になり、ついには謀叛の疑いをかけて高野山に追いやって、切腹へと追い込んだのでした。秀次にはその死後、殺生関白の汚名が着せられ、様々な悪評が流布されました。このため世間では秀次を無能で残虐な人物とみなす様になったのですが、実際の秀次は悪逆な愚か者ではなく、とても有能な人だった様です。
その最たる証拠はこの近江八幡の礎を築いた事で、城を築くと共に山の下に町割りを行って安土から商人を呼び寄せ、八幡堀を掘って水運を整え、楽市楽座によって町の繁栄の基礎を整えました。決して悪逆無能な人物に出来る事では無く、善政を敷いた名君として今でも地元の人に慕われています。
八幡山城は1585年に築かれた山城です。すぐ近くには安土城があったのですが、なぜか安土城を修復して使う事をせず、新たに八幡山の上に城を築いたのでした。理由ははっきり判りませんが、一説には信長の天下を奪った秀吉が、信長の威光の象徴であった安土城を消し去ろうとしたのではないかと言われています。
八幡山は安土山と違って険しい山で、山上には広いスペースがありません。このため、山上には純粋に軍事的な施設だけが築かれ、御殿など主要な建物は山麓に作られました。屋敷跡からは金箔瓦が出土しており、大坂城などと同じく豊臣政権の城らしい豪華なものであったと考えられています。
八幡山城は1595年に秀次が切腹して亡くなると廃城となり、秀吉によって徹底的に破却されました。聚楽第もそうでしたが、秀吉は秀次が生きていた痕跡を残したくなかった様ですね。現在山上には石垣だけが残り、城に代わって瑞龍寺が建っています。この瑞龍寺は秀吉の姉にして秀次の母である日秀尼が秀次の菩提寺として建てたもので、当初は嵯峨野、後に堀川今出川に移り、昭和36年に現在地に移されました。
八幡山城跡には麓からロープウェイが通じています。このためアクセスは極めて容易で、城跡の中は若干の上り下りがありますが、山城としては最も楽に登城出来る城の一つではないでしょうか。このロープウェイは近江鉄道が運営していますが、元はと言えば安土城跡に設置される予定のものでした。昭和33年に西武グループの堤康次郎氏が安土城の再建と周囲のリゾート地化を計画したのですが、安土城跡が史跡として指定されていたために国からの許可が下りずに頓挫、余ったロープウェイを八幡山に持ってきて設置し、現在に至っているのです。
まあ、城跡の保全という意味ではどうかとは思いますが、おかげでこの景色を手軽に楽しむ事が出来ます。現在では恋人の聖地とも言われ、結構賑わっている様ですね。実際、この日も平日でしたが上りのロープウェイは満員、下りたときも結構な人が乗り場で待っていました。そのうち半分以上がインバウンドの方だったのには少し驚きましたけどね。
八幡山城跡には石垣が良好に残っており、城好きの人も楽しめると思います。何より近江平野や比良山系を望む展望が素晴らしい。是非晴れた日を狙って登ってみて下さい。町巡りと絡めたら一日十分に楽しむ事が出来ますよ。
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