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令和6年2月24日の北野天満宮です。この日は梅苑の梅が見頃となっていました。
今年の梅はどことも異様に進行が早いですね。北野天満宮も3月に入ってから見頃を迎える事が多いのですが、今年は梅花祭の前に満開を迎えてしまいました。
満開と言っても早咲きの梅は既に散っており、主役は中咲きの梅です。遅咲きの梅も一部咲いていましたね。
それに連日の雨続きのためかなりの花が地面に散っていました。見頃と言っても少し物足りない感じがしましたね。
なら何時来れば良かったかとなると、晴れた日が無かったのでタイミング的に無理だったとなります。今年は観梅にとっては受難の年でしたね。
まあ細かいところを気にしなければ全体としては華やかでした。花の庭を謳うだけの事はありますね。
三連休の唯一の晴れ間としいう事もあったのでしょう、拝観者は多かったです。この翌日は梅花祭でしたが、雨で大変だったことでしょうね。
本殿前の飛び梅はまだ三分咲き程度でした。こちらはまだこれからでも間に合いそうですね。ところで新しく梅苑にも飛び梅が植えられていました。枝垂れ梅だったので、本殿前の梅とは別系統の様ですね。飛び梅ってそんなに沢山あって良いものなのかしらん。ちょっとした謎です。
城南宮から地下鉄を乗り継ぎ二条城に来ました。ここも満開になっていると知り、訪れてみたのです。
梅林があるのは南中仕切門を抜けた先、内堀を隔てて天守台の向かい側になります。ここにはおよそ90本の梅があり、情報どおりほぼ満開となっていました。
ここは古い城らしく古木が多いですね。実際にいつから植えられていたのかは判りませんが、風雪を耐えてきた姿には風情があります。
紅梅と白梅は相半ばしているかな。中には一本で紅白の花が咲く源平咲きの木もあります。
それに数は少ないですが、枝垂れ梅もあります。城南宮で見て来たばかりですが、城の土蔵や石垣を背景にしてみるとまた違った趣があります。
二条城の梅もそろそろ終わりに近づいている頃かな。今年の梅は本当に進行が早いですね。次は桜ですが、早い木ではすでにつぼみが膨らんでいました。まだ梅巡りも済んでいないのに、もう桜を気にしなければならないとは、今年の春は訳が判りません。アンテナを高くして情報収集に努めなければいけませんね。
令和6年2月20日の城南宮です。ここを訪れるのは2回目、前回は数十年前の事で方除けの祈願のためでした。当時も庭園は整備されていたはずでが全く興味は無く、お札だけを頂いて帰ったのを覚えています。
城南宮の梅が素晴らしいと聞いたのは10数年前の事だったかな、以来一度は行って見たいと思いながら果たせずにいたのです。
今年こそはと思っていたのですが、今月半ばまではまだつぼみの情報でした。ところがこの数日前にいきなり満開になったという情報に変わったのです。あわてて訪れようとしたのですが、あいにくの雨続き。やっと晴れ間になったこの日来る事が出来たという次第です。今年の梅はいったいどうなっているのでしょうね。
城南宮の神苑は中根金作氏の手に依るもの。楽水苑と称する広大な区域に室町の庭、桃山の庭など五つの庭があります。枝垂れ梅が咲いているのはそのうちの春の山。およそ150本が植えられており、この日はほぼ満開となっていました。拝観料は1000円と普段より高くなっていましたが、この豪華さは一見の価値があると思いました。
春の山の一角には椿も植えられています。その落ち椿と枝垂れ梅のコラボが何とも素敵でした。これぞ雅と呼ぶに相応しい光景でしたね。
この日は平日で拝観開始時間に合わせて行ったのですが、すでに入り口には行列が出来ていました。入った後も続々と拝観者が続き、この庭の人気の高さを物語っています。
この日の後も雨続きでかなり花も散ってしまったかな。これから行かれる方は開花状況を確かめてからにされる事をお勧めします。
日本百名城を巡る旅、今回は大阪城を訪れました。大阪城、正しくは大坂城と書くべきなのかな、は言わずと知れた豊臣秀吉が築いた城。1583年に着工し、1598年に完工しています。現在の大阪城公園も広いですが、豊臣氏当時の大阪城は城下町を取り囲む総構えを備えた巨城でした。面積にして今の五倍はあったと言われますね。
大阪城は実戦を経験した城で、1614年から1615年にかけての大坂の陣で一度灰燼に帰しています。力攻めでは落ちず、一度和睦してから総構えを破壊し、堀を埋めるなどしてやっと落ちた事はよく知られています。この間の駆け引きが巧妙に過ぎ、徳川家康が狸親爺の汚名を着せられる事になったのも有名ですね。
現在の大阪城は徳川氏によって再建されたもので、豊臣氏時代の城の遺構は地下に埋まっています。豊臣氏の痕跡を跡形も無くしてしまうというのは徳川氏がよくやっている事で、例えば秀吉の神号を奪って豊国神社を破壊し、その墓を暴いて遺骸を晒しものにしたなど徹底しています。大坂城の再建もその一つですね。これだけの巨城を完全に埋めてしまい新たに建設するなど並大抵の事ではありませんが、それを可能にしたのがいわゆる天下普請で、主として西国の大名が駆り出されました。各大名は徳川氏への忠誠を示すために競って築城に参加し、また巨石を差し出しました。この蛸石が大名同士の競い合いの最たるもので、縦5.5m、横11.7m、総重量108トンという巨岩であり、池田氏によって据えられと言われます。
そうして築かれた大坂城は徳川氏直轄の城となり、大坂城代が置かれて西日本支配の拠点とされました。しかし、その歴史は災難続きで落雷などにより三度に渡って火災に遭っており、その都度再建されています。ただ天守は39年目に焼失してから再建される事は無く、江戸時代のほとんどは天守の無い城でした。そしてとどめを刺すように明治初年に失火があり、本丸御殿など主要な建物はことごとく焼け落ちてしまいました。
明治以後は陸軍の管理するところとなり、城内には大阪砲兵工廠が置かれました。このため太平洋戦争では空襲の標的となり砲兵工廠の多くは破壊されましたが、今でもレンガ造りの建物は部分的に残っていて当時の面影を偲ぶ事が出来ます。現在の天守は昭和天皇の即位記念事業として再建されたもので、大阪市民からの募金を基に昭和6年に復興しました。その設計にあたっては大阪の陣図屏風に描かれた天守を参考としており、徳川氏が消し去ろうとした秀吉の威光が蘇った事になりますね。ただ、秀吉時代の天守は黒板張りだったのに対し、今は白塗り籠めを基調としているなど様々な点で相違があります。そもそもコンクリート造だしね、最近流行の復元天守とは異なります。
徳川氏によって築かれた今の大阪城ですが、豊臣氏時代の痕跡はまだ見る事は出来ます。例えば山里曲輪に建てられた秀頼、淀殿ら自刃の跡地の碑がそうですね。平成9年に設置された新しいものですが、悲惨だった大坂の陣の結末を彷彿とさせる石碑です。またほとんど知られていませんが、秀吉以前の石山本願寺の痕跡として、蓮如上人袈裟懸けの松の碑というのもあります。今は松は無く、根だけが残っているそうですが、ちょっと見つける事は出来ませんでした。
さらに秀吉当時の遺構を求めて発掘調査が進められており、来年春には古い石垣を常時見る事が出来る様になるそうです。もっともその替わりとして、入城料が倍の1200円になるとの事ですけどね。いくら何でも高すぎると思うけどなあ。
それはともかく、大阪城の人気は凄いものがありました。天守に入るのに20分程度並ぶ必要があり、中に入ってもギューギュー詰めでしたね。この城には何度も来ていますが、ここまで混む事はなかったと思います。昨今の城ブームの影響かしらん。かく言う私も百名城巡りで再訪したのですけどね。暫くの間は値上げ前の駆け込みラッシュでさらに混み合う事になるかも、です。
令和6年2月17日の大阪城梅林です。この日は中咲きの梅を中心に五分咲きとなっていました。
大阪城の梅林は1200本以上の梅が植えられており、12月下旬から3月中旬まで楽しむ事が出来ます。この梅林を訪れるのは初めてですが、そのスケールの大きさには驚きました。これだけの梅が咲いていて、しかも無料だと言うのですから太っ腹ですね。
それにしても観梅者の多かった事。これだけの花を無料で楽しめるのですから、そりゃまあ集まりますわね。マスコミもこぞって報道するのもうなずけます。
園内の至る所から天守閣が見えるので、おのずと天守と梅を絡めた写真を撮りたくなります。反対を向くと京橋ビジネスパークの近代的なビル群が見え、それはそれで都会の中の梅林らしくて面白いですけどね。
その梅林を俯瞰したところです。ホームページには五分咲きとありましたが、満開と言って良い程華やかですね。まだ遅咲きの花は咲いておらず、200本以上がつぼみのままとの事でしたから、今から行っても楽しめると思いますよ。ここに行くには大阪環状線の大阪城公園駅が便利で、歩いて10分程のところにあります。
日本にある名城を100集めたのが日本百名城、それに続いて2017年に新たに選定されたのが続・日本百名城です。続と付くだけあってマイナーな城が多いですが、割と知られた城も含まれています。その一つが郡山城、奈良県の大和郡山市にある城です。
ここに来るのはおよそ半世紀ぶり、子供の頃に母に連れられて訪れた記憶があります。当時城好き少年だった私のために、母は色々な城に連れて行ってくれました。二条城、大阪城、姫路城、彦根城、岐阜城、名古屋城、犬山城など、郡山城はその最初の城だったかな。当時の郡山城は石垣と堀が残っているだけで、なぜか城とは関係の無いこの城址会館、当時は市民会館だったかな、があるという場所でした。でも初めて見る本格的な城跡はとても魅力的で、私の城好きに火を付ける事となったのてした。
今は公園として整備され、門や櫓、城壁、そしてこの極楽橋などが復原されています。桜の名所としても知られ、日本桜の名所100選の一つに選ばれています。桜が咲く頃にはお城祭りが開かれ、大勢の人で賑わう様ですね。実は桜の頃に合わせて来ようと考えていたのですが、あまりに混みすぎると知り、静かな今の時期を選んだのでした。
郡山城の歴史は10世紀の後半まで遡ります。地元の有力者、郡山衆によって環濠集落が築かれたのが最初とされ、その後戦乱に巻き込まれるなど変遷を辿りながら1580年に筒井順慶の手に渡り、明智光秀が城の修築に係わったとされます。さらに豊臣氏の天下になると秀吉の弟秀長の居城となり、秀長の手によって二重の堀を持つ本格的な城へと生まれ変わりました。築城が始まったのは1585年の事とされます。写真は天守台で、発掘により金箔瓦が出土しており、豊臣一族の城として相応しい豪奢な天守があったと推定されています。一時は崩落の危険もあったのですが近年修復され、展望台として整備されています。ここからの眺めは意外な程良く、城下は無論の事、遠く若草山や薬師寺、さらには奈良盆地を囲む山々まで見通す事が出来ます。
郡山城は近世の城らしく石垣を巡らしていますが、石材を調達するのに苦労したらしく、石仏などの転用石が数多く使われています。中でも有名なのが天守台の逆さ地蔵で、この写真で判るかな、お地蔵様が逆さまに積まれています。以前は供養塔があったのですが今は無く、代わりに卒塔婆が置かれていました。なお、お城祭りは今は花見の会の様になっていますが、本来はこうした転用石の供養をするためのお祭りだったそうです。
郡山城は大阪夏の陣の時に豊臣方が攻め落としその際に焼かれたと言われますが、城内にある柳沢文庫の年表には記述は無かったですね。もらった資料に依れば慶長の大地震で天守や櫓が破損し、関ヶ原の戦いの後は城番が居るだけになって荒れるに任され、大坂夏の陣後に水野勝成が入った頃には住む場所が無い程に荒廃していたとあります。あるいは関ヶ原の戦いの後、時の城主の増田長盛が西軍に属していたため戦後に廃され、建物は伏見城に移されたとも。城が旧に復したのは水野氏の二代後の本多氏の頃で、再建にはかなりの時間を要した様ですね。城主はさらに柳沢氏に代わり、明治維新まで続きます。しかし、幕末の頃に火災で多くの建物が失われ、さらに廃城令によって残っていた全ての施設は破却または移設されました。
郡山城は大阪や京都から一時間足らずで行ける場所にあり、古城の雰囲気を湛えた素敵な城です。前回訪れたのが半世紀前なので記憶が曖昧なのですが、この石垣は覚えていますね。市内も少し歩きましたが、昭和と平成が入り交じった様な雰囲気で、どこか懐かしい気がしました。城下町の面影はあまりありませんが、道の狭さが町の古さを物語っています。残念だったのは紺屋町で、以前訪れた時は道の真ん中に水路が流れている古い町並みが印象的だったのですが、今は紺屋という資料館が残るのみで空き地も目立ち、平凡な通りになっています。あのまま保存しておけば良い観光名所になっただろうにな。惜しい事だと思います。
駅から城までの道はまだ少年だった頃母と歩いた記憶が蘇り、懐かしい気分になりました。その母も既に亡く、孝行したい時には親はなしという言葉どおりになっています。考えれば随分と可愛がって貰ったのだし、もっと親孝行しておくんだったな。後悔先に立たす、そんな事を考えさせられた郡山城でした。
祇王寺を出て、奥嵯峨と呼ばれる地域に入ってきました。具体的には鳥居本、伝統的建造物保存地区に指定された地域です。
ここまで来ると昼近くになり、雪もどんどんと溶けてきました。まだ屋根が白いので、雪景色と判るのがやっとです。
鳥居本は普段でも風情がありますが、雪を被るとなおさら素敵ですね。道が白ければもっと雰囲気があったのでしょうけど、そこは言っても仕方がないでしょう。
鳥居本には茅葺きの家もあります。惜しい事に南側の屋根は雪が溶けるのが早く、地が出ていたのが残念でしたね。
さらに進んで一の鳥居付近まで来ました。このあたりも雪は溶けていたのですが、まだ残っている日陰の雪を取り入れて雪景色だと主張してみました。
そして最後の目的地、平野屋さんと一の鳥居です。この少し前までは鳥居の下に車があり、あまり絵にならないなと思っていたのですが、帰ろうとした時に車が動き出したので、慌てて取って戻して撮り直したのがこの写真です。その間20分くらいだったかな、鳥居の雪がばさりと落ちたりで、景観が少し損なわれたのは残念でした。
この後来た道を引き返して野宮神社まで行ったのですが、そこはインバウンドの団体でごった返していました。なぜみんな野宮神社に集中するのでしょうね。嵯峨野の入り口として第一の目標となっているのでしょうか。ここでは庭の雪景色を撮るつもりでしたが、残念ながらすっかり雪は溶けていました。なので参拝だけはしましたが、社殿や鳥居は人が多すぎて撮る事が出来ませんでした。野宮神社から駅までは平日とは思えない混雑ぶりでした。嵯峨野の奥はあんなに空いていたのにね、いったいどうなっているんだか。野宮神社だけを見て嵯峨野に来た気分になっているのかしらん。
雪は思っていたよりも少なく、物足りない部分もありましたが、今年初めての雪景色としては楽しめた方かな。あんまり多いと歩くのが大変ですからね。今年は暖冬だから次の機会は無いかも知れません。なのて数少ないチャンスを物に出来たのは良かったと思っています。
祇王寺はかつてこのあたりにあった往生院という大きな寺の名残の尼寺です。平家物語にある祇王が隠棲したのがこのあたりと伝わることから、いつしか祇王寺と呼ばれるようになりました。
雪はもみじの枝からはほとんど落ちていましたが、苔の上には沢山残っていました。ところどころ緑の苔が垣間見えるのが美しくかったです。
現在の本堂は明治28年に元京都府知事北垣国道が祇王の故事を聞き、自らの別荘の一部を寄付したもの。それまでは伝承の地として空き地だけがあったのでしょうか。
祇王寺もまた紅葉の名所。錦秋の彩りも綺麗ですが、雪景色もまた清浄な風情があって趣があります。
帰り際、出口に雪うさぎがありました。受付の人が戯れに作ったそうですが、あんまり可愛いのでぱちり。なんだか心が和む一時でした。
常寂光寺から二尊院に来ました。ここは平安時代の前期に嵯峨天皇の勅願で慈覚大師によって開かれた天台宗の寺です。
二尊院の名は二つの本尊を持つ事からそう呼ばれます。来世へと招く阿弥陀如来、来世へと送り出す釈迦如来が須弥壇の上から参拝者を見守ります。
二尊院も紅葉の名所。常寂光寺に劣らず、ハイシーズンには多くの拝観者で賑わいます。その頃にはこの角度の写真を撮るのは無理。人だらけで何を撮っているのか判らなくなります。
二尊院は今は天台宗ですが、明治以前は天台、真言、律、浄土の四宗兼学の道場だったのだとか。いくつかこういう寺はありますが、どんな運営をしていたのでしょうね。各宗派で教義も違えば儀式も異なっていたでしょうに、それぞれに先達が居て学生は好きな講学を聞いていたという事なのかしらん。ちょっとした謎ですね。
秋には紅葉で彩られる御園亭もモノトーンの中で静かに佇んでいました。春と秋には使える事があるそうなので、いつか入ってみたいですね。
ところでこの寺にも定家の小倉山荘跡はあります。かなり急な階段の上にあるのでまだ行った事が無いのですが、高台の上が平場に成っているようですね。常寂光寺と二尊院、それに厭離庵と三カ所ある小倉山荘の候補地、いったいどこが正解なのでしょうか。いまのところ決め手は無い様ですが、何時か明らかになる事があるのかな。
ちなみに境内には小倉あん発祥の地という碑もあります。小倉あんは平安時代初期に小倉の里で作られたのが始まりだそうですね。場所が特定された訳では無い様ですが、概ねこのあたりという事で二尊院の境内が選ばれた様です。二尊院には色々と見所かありますね。
二尊院にお参りした後は祇王寺を目指す事にします。
常寂光寺は慶長年間に建てられた日蓮宗の寺。紅葉の名所として知られ、シーズンになると大勢の人で賑わいます。
でも他の季節、特に冬には訪れる人はほとんど居ません。雪が降ってもご覧の通りがらんとしています。私の他にはカメラを持った人が2,3人居ただけでした。
本堂は伏見城の客殿を移築したものだとか。元は二階建てで、昭和7年の大修理の際に平屋に改築されたとの事です。
常寂光寺と言えば多宝塔を山側から見たこの景色が有名です。紅葉に彩られた姿で紹介される事が多いですが、雪をまとった佇まいも素敵ですね。ところで、この寺は藤原定家の小倉山荘があった場所ともされます。仁王門の北側にあったとされますが、その縁で定家を祀った歌仙祠がこの多宝塔の後ろの高台に建っています。
これまで知らなかったのですが、この坂には末吉坂という名があったのですね。庭園を造立した森田末吉という人の名に由来するのだとか。どういう人かは調べた限りでは判りませんでしたが、造園家だったのでしょうか。命名は昭和48年の事で、それ以前は女坂と呼ばれていた様です。ここも紅葉の見所ですが、雪景色もなかなかのものです。常寂光寺の雪景色を堪能した後は、さらに嵯峨野の奥へと歩を進めて行く事とします。
竹林の小径を抜けると小倉池から常寂光寺を経て落柿舎へと至ります。常寂光寺にも寄りますが、その前に雪が溶けてしまわない内にと落柿舎まで来ました。背後に見えているのは白の鳥居形。茅葺きの落柿舎とあいまって、昔の嵯峨野の風情を感じさせてくれます。
こちらは小倉池のほとりにある御髪神社。日本で唯一の理容に係わる神社です。理容関係者のほか髪の毛に感心のある人も訪れるとか。雪で白く染まった中に赤い垣根が綺麗でした。
落柿舎前のこの空き地は京都市所有の土地。以前は古代米の試験栽培が行われたりしていましたが、今は全くの更地です。せっかくだからまた試験栽培でもすれば良いのにと思いますが、予算や人手が付かないのかな。
落柿舎では雪の積もった柿を期待していましたが、残念ながら無くなっていました。鳥に食べられてしまったかな。少し残念でしたが、諦めて常寂光寺へと戻ることにします。
八坂神社から梅を求めて錦天満宮に来ました。ここに参拝するのは久しぶりの事ですね。
ここでも梅は満開になっていました。花数が少なく寂しい感じですが、まあここは毎年こんなものです。
梅は境内の奥でも咲いています。この木も花としては寂しいですが、あまり日当たりが良いとは言えない環境ですからね、よくぞ枯れずに育ってくれているといったとこでしょうか。
一番咲いていたのは鉢植えの梅でした。確か以前はもっと大きな盆梅が置かれていた事もあったと記憶していますが、この日は小さなこの一鉢だけでしたね。
錦の水が湛えられた手水鉢は流行の花手水となっていました。手水鉢はもう一つあり、梅の花とあいまって境内を華やかに彩っていました。平日の午前中というのに参拝者は一杯。同じ新京極にあっても蛸薬師や請願寺にはほとんど人はおらず、錦天満宮の人気ぶりが際立って見えた一時でした。
天龍寺の北口から竹林の小径に出ました。天龍寺を拝観しながら嵯峨野へとショートカット出来るのがこのルートの魅力です。
以前は雪の降った早朝に竹林の小径に来るのは私のような物好きだけだったのですが、今はインバウンドの方たちが居て、独り占めとは行かなくなりました。どこで情報を掴むのか、日本人より余程熱心ですね。
なので、写真を撮るには工夫と根気が必要となります。この向こうには外国の方たちが何人も居ましたが、何とか見えない様にしてパチリ。一見すると静かで誰も居ない様に見えるでしょう。
ここは滅多に車は通りませんが、この直前にゴミ収集車がやって来ました。おかげで奥に固まっていた人たちが避けてくれたので、人が少なくなった瞬間を狙う事が出来ました。二人映り込んでいますが、この程度なら仕方が無いでしょう。何とか竹林の小径をクリアしたので次へと向かいます。
祗園白川から八坂神社に来ました。ここでも白梅が咲いていると聞いたので来てみたのですが、確かに満開になっていましたね。
この梅は3月に入ってから咲き始める事も珍しくなく、2月半ばで満開とは意外でした。暖冬のせいか今年はどことも早咲きの梅の開花が早いですね。
その梅の前にあるのが美御前社。美容の神様として知られる社です。子供の頃、親に連れられて八坂神社には月1回は参拝していたのですが、この社には特に念入りにお参りしていました。なぜかって、誰に聞いたのか忘れてしまいましたが、足が速くなる神様だと思っていたのですよ。小学生にとって足が速いというのは重要なファクターですからね。とんだ勘違いですが、お願いされた神様もとまどっておられた事でしょう。
それほど昔からなじみのある八坂神社ですが、狛犬の台座に四神が彫られているのはこの間テレビで初めて知りました。西楼門を入って右側の狛犬の台座には青龍と玄武、左側には朱雀と白虎が彫られています。知っている様でまだまだ知らない事がある、八坂神社も奥が深いですね。
この日嵐山から嵯峨野への入り口として選んだのは天龍寺。この時間に来たのは拝観時間開始の8時30分に合わせたからでした。
境内に入る前に立ち寄ったのが東向き大黒天。天龍寺七福神の第一番で、開運福徳の御利益があるとされます。雪を被ったお堂が良い感じですね。
こちらは参道脇に立つ八幡社です。天龍寺の鎮守社で、八幡大菩薩を祀ります。朱色の社殿に雪が良く似合いますね。
曹源池庭園に来ました。ここでは嵐山と違って雪がよく残っており、白銀の世界を見せてくれました。拝観開始直後のため人も少なく、静寂の世界を楽しむ事が出来ました。
後醍醐天皇を祀る多宝殿です。そもそも天龍寺は足利尊氏が敵対していた後醍醐天皇を供養するために建てた寺。その意味では天龍寺で最も重要な建物と言えますね。一説には尊氏は後醍醐天皇の悪霊化を恐れてこの寺を建てたとも言われます。崇徳上皇の様に怨霊となられては堪りませんからね、尊氏は余程怖かったものと想像出来ます。
百花苑ではこの時期咲いている花は無かったですが、雪を被った南天の赤い実が綺麗でした。ここから嵯峨野へと続く竹林の小径へと抜けていく事とします。
令和6年2月14日の祗園白川です。今日は先日下鴨神社の梅が満開になっていたので、祗園界隈はどうかなと見に行ってきました。
祗園白川で梅があるのは旅館白梅さんの前。たぶんこの旅館で管理されているのかな。紅白の梅のほか枝垂れ梅などが植えられています。
今日咲いていたのはこの白梅だけ。枝垂れ梅はまだ蕾でした。でも白川に白梅の花は似合いますね。これぞ早春の祗園情緒かな。
今日は平日だから誰も居ないだろうと思っていたのですが、前撮りが3組も来ていました。冬の早朝からよくやるなと思いましたが、バレンタインデーという事もあったのかな。巽橋では前撮り組が二組も順番待ちをしていたので今日は撮らずに素通りしました。待っていたら何時になるか判らないものね。巽橋は桜が咲いたらまた撮りに来ることにします。
令和6年2月11日の下鴨神社です。上賀茂神社と同じくここでも紀元祭が行われますが、特に奉納行事とかはなく神事のみのようですね。例年上賀茂神社に行くのでこちらには来た事がないため、参列出来るのかどうかは判りません。ネットで調べても特に情報は無いので、神官だけで行われているのかも知れませんね。
この日下鴨神社を訪れたのは光琳の梅が満開になっているという情報を見たからです。まだ早すぎやしないかと半信半疑だったのですが、実際に来てみると確かに満開でしたね。
昨年は株の半分しか咲かないという不調の年だったのですが、今年は満遍なく全体に咲いています。ただ、絶好調の時に比べると花の密度が低いですね。当たり年だともっと枝に勢いがあります。期待していただけにちょっと残念でした。
ところでこの日の下鴨神社はすごい人出でした。辰の言社の前は門の外に出るほど行列が出来ていましたし、御朱印を貰う人の列も長くてまるで初詣の様でしたね。御手洗池も水みくじを浮かべる人でいっぱい。元々人気のある神社ではありますが、奉納行事も無いのにこれほど混んでいるとは意外でした。そう言えば糺の森も駐車場と化していましたね。最近は神社詣でをする人が増えているのかしらん。ちよっとした驚きでした。
涉成園の帰り道、東本願寺に寄りました。東本願寺の前の道路は二本に分かれており、その間は広場になっています。これはかつて市電を通すときに参拝者の安全を考慮した東本願寺が山門の前に電車が通る事を嫌ったためで、わざわざ土地を提供し新たに迂回路を作ったからです。市電が廃止された今でも烏丸通は曲がったままで、間の土地には木が生い茂っていたのですが、昨年広場として整備されました。写真は明治に設置された蓮の噴水で、武田五一が設計したものです。
東本願寺の御影堂御門は木造の門としては日本最大級で、高さでは一番を誇ります。幕末の蛤御門の変の時に焼失し、明治44年に再建されました。
この門は御影堂などと共に12年の歳月を掛けて補修され、2015年に完了しました。なので柱を飾る金具なども更新されており、9年経っても綺麗なものです。
東本願寺は西本願寺と同じ浄土真宗の寺。戦国期までは一つの教団でした。しかし、石山本願寺の戦いの時、信長と講和した顕如上人と徹底抗戦を主張した教如上人が対立、顕如上人の死後教如上人は豊臣秀吉の命により退隠させられ、弟の准如上人が後を継ぎます。しかし、1602年に徳川家康が教如上人に土地を与え、新たに寺を起こさせました。准如上人の本願寺に対して東に位置していたため東本願寺と呼ばれる様になり、准如上人の本願寺は西本願寺となります。これは強大な勢力を持っていた本願寺を二分する事で力を削ぎ、統治しやすくするための家康の深謀遠慮だったと言われます。
東本願寺は京都駅のすぐ近く。なので京都タワーもよく見えます。新旧のコントラストが面白いですが、目障りと思う人も少なからず居る事でしょうね。建築後60年が経つ京都タワーですが、未だに賛否が分かれている微妙な存在です。
今日2月11日は建国記念日、建国をしのび、国を愛する心を養う日と定められています。戦前は紀元節と言い、初代天皇の神武天皇が即位した日とされていました。紀元前660年の事と言い、その年から数える皇紀だと今年は2684年になるそうですね。この紀元節、はるかな昔かあったのかと思えばそうではなく、明治になってから定められたものです。天皇主権の国体を確立しようとした明治政府が考え出したものの様ですね。その紀元節を祝う神事が紀元祭、建国記念日に改められた今でも各地の神社で行われています。
ここ上賀茂神社でも神事のほか、剣道、空手、そして蹴鞠が紀元祭の行事として奉納されます。コロナ禍では自粛されていましたが、去年から復活しました。私も中止された年以外は毎年来ていますが、勇壮な空手、優美な蹴鞠を見るのは良いものですね。
今年例年と違っていたのは片岡社で、大河ドラマ「光る君へ」のパネルが飾ってありました。主人公の紫式部がこの社に参って詠んだ歌があるという縁で、主役の吉髙由里子さんが参拝したからでしょうか。吉髙さんは上賀茂神社でロケをさせて欲しいと頼んだそうですが、神社側もOKを出したそうです。実現するかどうかは判りませんが、もし本当にそうなったら是非撮影現場を見に来たいですね。
蹴鞠の奉納は11時頃から始まります。神事は9時開始ですから、蹴鞠保存会の人たちは2時間程お祓いや祈祷に参加していたのでしょう。その神事はホームページに参列可と書かれていますから、申し込めば見る事が出来る様です。ただし、初穂料として3000円が必要ですけどね。
それにしても今年は人が多かったですね。三連休の真ん中だったからなのかな。何となく話し声を聞いているとこの周囲を取り巻いている人たちの多くは、今日蹴鞠が行われる事を知らずに来ていた様です。
これが蹴鞠の実際の様子。すごく短いですが、これでも良く続いた方なのです。コロナ明けの去年は三回くらいしか続かなかったですからね、相当練習をされたのだと思います。蹴鞠には右足の付け根だけで蹴るという縛りがあり、手以外は使えるサッカーのリフティングの様には行かないのですね。もっとも平安時代には藤原成通という名人が居て、清水寺の舞台の欄干を鞠を蹴りながら往復して見せたという伝承が残されています。どんな道でも極めれば凄い事が出来るようになるのですね。
蹴鞠は仏教と共に伝来したとされており、飛鳥時代からの伝統があります。中大兄皇子が蹴鞠の靴を飛ばしてしまい、それを中臣鎌足が拾ったという故事はよく知られていますね。それくらい古くから貴族の嗜みとされ、やがて武士階級にも広まりました。今川氏真が蹴鞠の名手で、敵である織田信長の前で技を披露したというエピソードも有名です。しかし明治以降は廃れてしまい、今はこの蹴鞠保存会によって伝統が継承されています。その貴重な技を毎年見せて貰えるというのは幸せな事ですね。京都ではこの紀元祭の他に下鴨神社での蹴鞠始め、白峰神宮の春期大祭や精大明神例祭、京都御所の一般公開などで見る事が出来ます。次の蹴鞠は京都御所、宮廷文化の紹介として3月23日と24日に行われます。興味のある方は行かれてみては如何ですか。
京の冬の旅四カ所目は、渉成園内にある園林堂を訪れました。
涉成園は東本願寺の飛び地境内にある庭園です。この土地は徳川幕府第三代将軍の家光から下賜されたもので、作庭したのは石川丈山、詩仙堂の主だった人ですね。3.4ヘクタールもあるという広大な庭園で、印月池という大きな池の周囲に様々な建物が配されています。
さらに遡れば光源氏のモデルと言われる源融の六条河原院があったという伝承が伝わる場所(最近の研究に依れば違うらしいですが)で、融の供養塔もあります。河原院は奥州の塩竈の風景を模して作られたと言い、実際に塩竃を造り毎日大阪湾から海水を運んで塩焼きを楽しんだと言われています。渉成園には塩竃も再現されておりどんなものか見る事が出来ますよ。ちなみに写真の手前にあるのが塩竃の手水鉢、この型の手水鉢のオリジナルだそうです。
これが今回公開されている園林堂。渉成園の持仏堂で、内部には宗方志功画伯の44面の襖絵があります。一番の見所は杉の絵で、宗方氏らしい豪快な襖絵です。あらかじめ杉と聞いていなければそうとは判らないですね。
この特別公開は渉成園に入るのに500円、園林堂に入るのに500円掛かります。少々高いですが、渉成園も見所が多いですからまあ損は無いですね。本当なら桜の咲く頃まで続けてくれたなら綺麗な花も一緒に見られて良いのですけどね、まあそうも行かないか。
西本願寺の御影堂門を出て正面通を少し行くと洋館が見えてきます。ここまで数珠屋さんや仏壇屋さんといった日本家屋が立ち並んでいる中で、この建物の唐突感は半端ないです。これは西本願寺が所有する本願寺伝道館で、明治44年に建てられたものです。今でも現役で、布教、研修の道場として使用されています。
元は西本願寺を大株主とした真宗教徒生命保険株式会社の本館で、伊東忠太氏によって建てられました。以前はこの周囲に付属する建物があったのですが、現在は残っていません。なので余計に唐突感があるのでしょうね。
見れば見るほど不思議な建物で、一見するとイギリス風なのですが、屋根にはインド風のドームや日本の寺院風の破風や懸魚、裏に回ると六角塔、さらには中国風の高欄と様々な文化が入り交じっているのが判ります。西洋とアジアを融合させようとした意欲作と言いましょうか、伊東忠太氏の意気込みが感じられますね。
そしてさらに伊東氏らしいのが周囲の石柱に配された怪獣たちです。これは装飾と言うより伊東氏の趣味と言うべきでしょうか。
伝道院は普段は非公開ですが、時折開かれる講座に参加する事で中に入る事が出来ます。講座は仏教に直接関係無く、直近では2月20日に室内で出来る水耕栽培に関する講義があります。参加費は文化財保護費として2000円、興味のある方は申し込まれては如何ですか。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山、仏教系の宗教法人では最多の信者数を誇ります。鎌倉時代に親鸞聖人によって開かれた浄土真宗は様々な変遷を経て現在の地に落ち着きました。その歴史は戦乱の連続と言って良く、その最たるものは織田信長との確執です。石山本願寺に籠もった十年戦争は有名ですね。信長と和解した後は和歌山や泉州を点々としていたのですが、1591年に秀吉から現在地を与えられ、今に至っています。
こちらは阿弥陀堂。西本願寺の本堂に当たります。ご本尊の阿弥陀仏のほか中国、インドの高僧の像、法然聖人と聖徳太子の尊像が祀られています。なぜここに聖徳太子がと思うのですが、親鸞聖人は聖徳太子を崇敬しており、太子を日本のお釈迦様だと称えられていたからとの事です。
こちらは御影堂。読み方はごえいどうです。浄土宗ては同じ字をみえいどうと読みますが、何故違うかは誰にも判らないそうです。なんだか不思議ですね。
これは唐門。普段は閉じられており、特別な儀式の時に開けられる様です。非常に豪華な装飾が施されており、一日見ていても飽きないという意味で日暮らしの門とも呼ばれます。
一説には伏見城から移築されたものではないかと言われ、安土桃山期を代表する建造物の一つです。ちなみに扉に施された装飾は、どれも狛犬の様で、バラエティに富んでいるのが面白いですね。
西本願寺にはまだ見所が多く、京の冬では僧侶が案内する特別公開というコースもあります。費用は3000円、私的にはちょっと高すぎて躊躇しましたが、黒書院や庭園などを見る事が出来ます。興味のある方は如何ですか。
京の冬の旅、三カ所目は西本願寺の飛雲閣に行きました。ここも普段は非公開で、何度か特別公開は行われてきましたが、これまで訪れる機会はありませんでした。
ここに来なかった理由の一つは写真が禁止だった事もあります。でも最近解禁された事を知り、来てみようという気になったのです。
飛雲閣は金閣、銀閣と共に京都三名閣の一つとされます。以前は聚楽第の遺構と言われてきましたが、最近では同じく秀吉の建てた京都新城の遺構とする説が出てきています。また西本願寺は江戸時代の初期に一度焼失してしまっており、その後再建されたものではないかという説もあります。あるいは西本願寺が独自に建てたものだとも。このあたりはどの説も決め手が無く、良く判らないのが実情の様です。なお、背後の瓦屋根は隣の興正寺の伽藍で、飛雲閣とは関係ありません。
飛雲閣は滴翠園という池泉回遊式庭園の池の中にあります。興味深いのは以前はこの島に渡る橋は無く、船に乗って池を渡り、一階にある船入りの間から中に入る仕掛けになっていた事です。何とも面白い趣向なのですが、その割に池が小さいのですよね。せっかくの趣向なのに船遊びが出来る程の広さが無いのが不思議です。このあたりが移築説の根拠とされる事もある様です。
滴翠園の西側には茶室と待合があり、周囲は路地となっています。飛雲閣にも茶室があるのですが、このあたり使い分けはどのようにしていたのでしょうね。
今回の公開は外観だけで、中に入ることは出来ません。でも念願だった飛雲閣の写真を撮る事が出来て満足です。いつか内部も公開してくれると嬉しいのですけどね。期待しないで待つことにします。
節分会巡り、最後は須賀神社に来ました。聖護院からはすぐ斜め向かい、ここも参拝者で賑わいます。今年聖護院に来たのはこの須賀神社で懸想文売りを見たかったからです。この姿を見ると節分らしい気分になりますね。
懸想文とは要するに恋文の事。江戸時代に下級貴族の内職として恋文に似た文章を書き、正月に縁起物として売り歩いていた事が始まりだとか。今では須賀神社にだけ残っており、節分になると現れます。
なぜこんな妖しい格好をしているのかと言うと、下級とは言えそこは貴族、やはり体面というものがあります。そこで身元が判らないように変装して売り歩いていたのだとか。須賀神社の懸想文売りはけっこうな人気で、私のようにわざわざ見に来る人も多いです。今年は懸想文売りのストラップまで売っていましたね。どんな御利益があるのか判りませんが、なかなか可愛いストラップでしたよ。
懸想文の中にはありがたい文章が書かれた文が入っています。書かれている内容は毎年違うそうですが、だれが考えているのでしょうね。一つ1500円ですが、女性に大人気で、飛ぶように売れていました。以前は懸想文売りに直接代金を支払っていましたが、コロナ対策なのでしょう、引換券を売り場で買い、懸想文売りにそれを渡して文を受け取るという段取りに変わっていました。売り場で直接買う事も出来ますが、懸想文売りから受け取る人が多かったですね。その方が有り難い感じがするからなのかな。
今年の節分会巡りはここでお終い。夜に行事が行われる所も多いですが、さすがに疲れました。来年はこれまで行った事が無いところに行ってみようかと思っています。ちなみに来年の節分は2月2日、春分の日は毎年微妙に動くそうで、その前日の節分が長く2月3日で安定していた方が珍しいそうです。近年では2021年が2日でしたね。今後30年程は閏年の翌年は2日になるとの事です。間違えないように気をつけないといけませんね。
節分会めぐり、三カ所は聖護院を選びました。智積院の近くの法住寺と迷いましたが、以前見た鬼たちの暴れぷりが面白く、こちらを選びました。でも来てみると境内は既に人でいっぱい、空いた場所を見つけるのも一苦労でした。
聖護院も段取りが少し変わっていましたね。まず最初に年男、福女の名が呼ばれ、一人づつ現れます。この趣向は以前は無かった様に思いますね。始まりは午後1時、それから30分程は祈祷が行われます。この間は読経の声は聞こえますが、本堂の奥で行われているため、何が行われているかは判りません。
祈祷が終わり、年男たちが豆を持って準備が終わると三匹の鬼達が乱入してきます。ここから年男たちによる鬼退治が始まるのですが、今年の鬼は意外な程弱かったですね。以前の様な大暴れはせず、豆に打たれるとへなへなとなってしまいます。最後は法力で退治されるのは以前と同じですが、予想外の展開にあれっとなってしまいました。
こんなに簡単に片が付くのは正直あまり面白くないです。鬼の無茶苦茶な暴れっぷりがここの醍醐味だったのですけどね、なぜおとなしくしてしまったのかな。
追儺式が終わった後は、改心した鬼達も福男たちと一緒に豆まきをします。今年は後方の方だったので豆は諦めていたのですが、一つだけ上を向いていたカメラのレンズフードに飛び込んでくれました。なんとラッキーな。今年は良いことがあるかもです。最後は鬼の御加持も受け、ここの特徴である山伏さんも撮らせてもらって終わりにしました。待っていればお焚き上げの儀式もあるのですけどね、時間の関係で次へと回る事にしました。
伏見稲荷大社から智積院に来ました。これもこのところ恒例となっていますが、法要が11時開始と伏見稲荷から移動してくるには都合が良いと言うのが理由です。
智積院では早咲きの梅が早くも見頃を迎えていました。暖冬と言われる今年ですが、梅のように早く咲く植物とまだ咲かないセツブンソウの様に2極化している感じがします。理由は判らないですけどね。
節分会は明王殿で行われます。不動明王の前で護摩修法が行われ、その間大勢の僧侶による般若心経などの読経が堂内を包みます。その読経にあわせて太鼓の音が堂内に鳴り響き、堂内は宗教的荘厳の世界と変貌します。これは他の節分会には無い特徴で、この雰囲気を感じたいために来ていると言っても過言では無いですね。
一方で節分会の段取りは毎年少しずつ変わっており、以前は堂内で袋入りの豆を撒いていて、時には手渡してくれていたのですが、昨年は堂内では豆を蒔くだけで、参拝者にはお供え物のお下がりを袋に入れて帰りに配るという方法になっていました。今年もそうするのかと思っていたのですが、帰りに貰えるはずの豆が準備できておらず、ちょっとした混乱を起こしていました。写真の様に大勢の人が集まっているのはどこで豆を貰えるのか判らない人が溢れていたからです。
結局、急遽お札と一緒に渡す予定だった豆を配っていましたが、数は足りたのでしょうかね。智積院にしては珍しく段取りの悪い節分会でした。まあ、ちょっとした手違いはありましたが、有り難いお経は聞けたし、無事に厄払いはして頂けました。なお、ここは鬼は外とは言わず福は内とだけ言います。理由は何でしょう、ちょっと判りませんが、鬼も追い出さずに一緒に供養するという自信の表れなのかな。あちこち回っていると、福は内だけを言う社寺は意外と多いですよ。なんだか面白いですね。
今日、2月3日は節分の日。京都の寺社では趣向を凝らした様々な行事が行われます。その行事を追いかけてはしごをするのがこの季節の楽しみの一つ、今年もいくつか回ってきました。
まず訪れたのが伏見稲荷大社。毎年恒例になりつつあるのは、始まりが午前9時からと最初に訪れる場所として都合が良いからです。今年はコロナ明け、それに土曜日とあって相当混雑するだろうなと思っていたのですが、予想以上の人出でしたね。
神事が午前9時から始まり、豆まきが大体10時頃から始まるのですが、30分前には既に何重もの人垣が出来ていました。いつもなら余裕で最前列が取れるのですが今年は無理でしたね。
ここの特徴はとにかく撒き手が多く、盛大に撒かれる事。それにこの後11時30分と13時にも行われるので、豆をもらうだけならここで粘っていれば取りっぱぐれはまずありません。そこは商売繁盛の神様、けちけちした事はしないですね。
私は二つゲットした時点で人垣から離れ、撮影に回りました。福豆は数多くもらえば良いというものでもありませんからね、私と妻の二人分をもらえば十分です。まずは景気の良い豆まきで福を分けて頂けたので気分を良くし、次に回る事にします。
京都市の南西に位置する長岡京市に勝竜寺城という城があります。以前からずっと気になっていたのですが、今回訪ねてみる事にしました。
勝竜寺城は細川藤孝縁の城。また明智光秀が山崎の戦いの時に拠点とした城でもあります。ずっと以前、高校生の頃に司馬遼太郎さんの国盗り物語を読んで以来、一度は見ておきたいと思っていました。ですので数十年来の念願がかなった事になりますね。
勝竜寺城は小畑川と犬川の合流点に位置し、西国街道と久我畷が交わる交通の要衝にありました。この城の前身は室町時代中頃に築かれたと言われ、当時は郡代役所の役割を果たしていたと考えられています。そして、戦時には臨時の砦としても使われました。
この城を近世的な城郭に改築したのは細川藤孝で、命じたのは織田信長でした。1571年の事で、石垣を用いた当時としては最先端の城として生まれ変わりました。写真は発掘調査で出てきた当時の石垣で、北門で見る事が出来ます。
その近くには夥しい数の石仏が安置されていました。これは発掘で出てきたもので、転用石として石垣に使われたものだと考えられています。転用石は他の城でも見られますが、これだけまとまった数を見るのは始めてですね。
勝竜寺城には安土城に先駆けた天守があった事で知られます。ここが天守跡と推定されている場所で、意外と狭いなという印象です。この天守は軍事的施設であると共に連歌の会が開かれたという記録が残っており、御殿としての性格を持っていたのではないかと言われます。
これが天守跡から見た景色です。橋や塀、門などは近年に復原されたものですが、位置的にはほぼ正確と思われ、門を突破しようとする敵を横から狙い撃つ、いわゆる横矢掛かりの施設としての性格も天守が持っていた事が伺えます。
勝竜寺城は明智光秀の娘、後のガラシャが細川忠興に嫁いだ城としても知られます。後に確執を抱える事になる二人ですが、この城で暮らしていた頃は二人の子供に恵まれ、幸せな時を過ごしていたのではないかと言われています。
勝竜寺城は今は小さな公園になっていますが、当時は城下町を堀と土塁で囲んだ総構えの城でした。その痕跡は近くの神足神社に復原された空堀と土塁に見る事が出来ます。
写真は北門。山崎の戦いで敗れた光秀は一度この城に引き、最後の夜を過ごした後この北門から坂本城を目指して出て行ったと伝えられます。その後、山科の小栗栖で落ち武者狩りに遭って命を落としたのは周知のとおりです。
勝竜寺城の南、犬川を渡って暫く行くと恵解山古墳があります。乙訓地方最大の古墳で、発掘調査の結果夥しい鉄剣や鏃が出土した事で知られます。この古墳も高校生の時に存在を知り、ずっと見てみたいと思っていた古墳でした。また後になって知ったのですが、山崎の戦いの時に光秀が本陣を置いたのもこの古墳だったのですね。周囲は平らで、今は家が建ち並んでいてあまり見通しは利きませんが、当時は淀川沿いに攻め上ってくる羽柴軍も良く見えた事でしょう。
実際に来てみて驚いたのですが、後円部は墓地になっているのですね。なので発掘はされておらず、被葬者などは判っていません。まあ一部が破壊されて畑になったり、覆土が失われて石室だけが残っているという古墳も多い中で、全容が判る程度に保存されてきたのは墓地として触れざるべき場所とされてきた事が大きいのかも知れません。現在は公園として整備され、前方部には復原された埴輪が並んでおり、往時を偲ぶ事が出来ます。
勝竜寺城はJRの長岡京駅から歩いて10分程度、恵解山古墳はそこからさらに10分程度で着く事が出来ます。半日と掛からず古戦場と城、それに古墳を一度に見て回れるところはそうありませんよ。歴史好きの方にはお勧めの場所です。
建仁寺の北門を出るとそこは花見小路。ここも昼間は観光客でごった返しますが、この時間帯ならすっきりとしたものです。
ふと前を見ると舞妓さんらしき人が歩いていました。こんな時間に出歩いているなんて珍しいですね。何かお使いものでもあったのかしらん。
通り沿いにある丸ポストは健在です。舞妓さんは基本スマホは禁止のはずですから、ネットが主流となった今でも需要はあるのでしょうね。
祗園も私道部分は撮影禁止。何とも不自由になったものです。でも昼間の喧噪は凄いし、中には置屋さんの玄関にまで入って来る人も居たというのですから、ある程度は仕方がないのでしょう。
さて冬の早朝散策もここでお終い。何かと以前ほど快適ではなくなって来ましたが、昼間に出歩くよりは余程ましです。澄んだ空気も素敵ですしね。次は雪が降ったらまた来ます。
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