京都・洛中 京都紅葉事情2020 ~妙覚寺~
長らくお付き合い頂いた紅葉事情でしたが、大阪に外出自粛要請が出たため、前々週の週末から京都に行けてません。未だ気になる紅葉はあったのですが、フォローは出来ず、止むなく今回で終了とさせて頂きます。掉尾を飾るのは妙覚寺、知る人ぞ知る紅葉の名所です。
庭園の名は法姿園、もみじだけを植えたという潔の良い庭です。なるべく自然樹形を保つように整備され、あるがままは素晴らしいという日蓮宗の教えを説いているのだとか。人生山あり谷ありですが、すべてが大切なのですよという事だそうです。
いつもの年だとまだ葉が残っている時期だったのですが、今年は紅葉の終盤が異様に早く、半ば散ってしまっていました。でも、敷紅葉は素晴らしく綺麗で、晩秋の風情を堪能させて頂きました。
妙覚寺は斎藤道三縁の寺で、父が妙覚寺で修行をし、子が十九世住職になっています。その縁からいわゆる国譲り状が伝わっており、長良川の戦いの直前に書いた息子宛の手紙がそれですね。そこには道三が鷺山城で信長に美濃国を譲ると約束したと記されており、明日は五体不満足の成仏は必至だとも書かれていて、負け戦を承知で戦に臨む覚悟が垣間見え、開戦食前の緊迫感が伝わってきます。
妙覚寺は道三との縁から信長が定宿としていた寺で、20数回京都に来たうち18回は妙覚寺に宿泊しています。本能寺には3回しか宿泊しておらず、その3回目で光秀に襲撃されたのですね。本能寺は当時は京都の町外れにあり、襲撃するには絶好の場所でした。光秀ももし信長が妙覚寺に泊まっていたら、果たして謀反を起こしていたのか断念していたのか、歴史の織りなす不思議な綾を感じます。
その妙覚寺には、信長が起こした比叡山焼き討ちの遺構が残されています。日蓮聖人が比叡山で修行中に法華経を書写し、石塔に納めて日蓮宗の建立を祈願したという華芳宝塔がそれで、焼き討ちの後村人によって発見され、妙覚寺に納められました。この写真の奥に写っている石塔がそうですね。比叡山縁のものが信長の定宿にあったというのは、これも歴史の妙を思わずには居られません。信長はどんな思いでこの石塔を見ていたのでしょうね。様々な想像をさせてくれるのが妙覚寺です。
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